自分の死を考える集い開催スケジュール掲示板

「大往生したけりゃ医療とかかわるな」の著書である父中村仁一が皆様へ遺言としてお伝えしたかった内容を載せております

親としての役目

2024-02-21 22:32:17 | 日記

本日 某大学の大学院1年の次男坊の 就職内定が出ました。

息子は理工学部ですので 研究職の職に就きたいといっており その夢がかないそうです。

 通っている大学は 有名大学です。ですが 4年で卒業した場合の 研究職への門はほとんどなく

院卒まで行く必要があるという事で 普通のサラリーマンの私ですが 子供の夢をかなえるため 

通わせました。(ちなみに父の遺産相続は 訳アリまして 1銭ももらっておりません)

本日 息子の喜ぶ顔を見て 親としての 役目が終えた事を 実感いたしました。

そんな中 父の死の間際の事を 思い出しました。バカ息子の私は 父に育ててもらった事の

お礼は 亡くなる数日前に 伝えてます。ただその時は 耳も遠くなってましたので 聞こえて

いたかはわかりません。あとは 亡くなってから 再度伝えてますが その時は天井から見下ろして

聞いてくれていたかもしれませんが 元気な時に伝えておくべきだったなぁーと 自分が親として

役割を果たした本日思いました。

 しばらく更新してませんが 毎日来ていただいている方や なんらかの 出来事により来て

いただいているのか 昨日は すごい数の方が来てくれていたようです。

 ありがとうございました。


障害をある子を持つ親として(その2)

2023-08-08 13:42:18 | 日記

すいません 随分と ご無沙汰してました。

続きを書きました。

〇息子の心臓の手術について

前回 書きました通り カテーテルでの検査を 頑なに拒否してた私ですが

担当いただいていた 若い小児科の先生の熱心な説得と 嫁さんの この子が成長しても

ちゃんと生活できるようにするんだという思いに 私もカテーテル→手術をすることに

同意しました。

 その後 大きな大学病院へ もちろん その小児科の先生はここから 来られているので

事情なども 教授に話されており その後 手術に進む際 「教授会で 手術はできないと決定した

この病院だと90%の確率で失敗する」といわれ 違う大きな病院を 紹介されました。

 そこの先生に いきさつを話し 「大学病院で 90%失敗するといわれているんですが 大丈夫

でしょうか?」と 話をしたら 先生は 笑われて 「うちでは90%以上成功しますよ」と

言っていただき 手術をいたしました。

おかげ様で 息子は元気に 成長してくれてます。

 今 関西では 昼間に「白い巨塔」が再放送されていますが ああいう中 若い小児科の先生が

うちの子供の為に いろいろしていただいたと思います。ほんと今でも あの先生と 手術をして

いただいた先生には 感謝してます。(御意の世界wがホントなら 若い先生には

だいぶご迷惑をおかけしたと思っております。)

 拒否した病院に関して うちのオヤジは 医局に入らず 飛び出した人間ですし その孫の

 しかも 曰く付きの手術は したくないのはわかりますけどね。

 

〇人生初の 全身麻酔での手術

ここからは私事ですが 昨年年末と 今年の年初に 2回人生初の 全身麻酔での 内視鏡手術を

受けました。

 初の手術と 全身麻酔という事で かなりビビッていたのですが いざ受けてみると 酸素吸入器

みたいな物を 口に当てられ 先生苦しい・・・で 目が覚めたら 病室でした。

前回書きました 祖母は あの状態で そのまま 帰らぬ人となったわけなので 手術後

麻酔から覚めず苦しむ事も多分なく 旅立っていった 祖母はある意味幸せだったのかと

思うようになり 少し悲しみがなくなりました。

 まぁしかしながら 今まで ほとんど医療とかかわってこなかった分 今回の手術に至るまで

自身の判断や 行った診療科の選択を間違った事もあり 病院すごろく状態となり レントゲンやら

何枚撮ったか わからないぐらい撮り 正直 医療被曝しないか心配になりました。

 また 医療から 遠ざかりそうです。

 

 


障害のある子を持つ親として

2023-02-14 09:46:30 | 日記

(ちょっと長編になり 分けて書くかもしれません。また 急に削除するかもしれないような内容です)

 

〇長男が生まれてきた時の話。

「おーい 奇形の本 持ってきて!」と先生が看護婦さんに

言った時 私は 奇形という言葉が、この場に出てくる事と その本を見せられ

説明を受けている事のショックの衝撃は 今でも鮮明に覚えてます。

 私の長男坊は いわゆるダウン症の障害児です。なので 障害を持って

生まれてきた子でございます。

でも 最初に書いておきますと 今 私はこの子が生まれてきて24年経ちますが 凄く幸せです。

毎日 この子に 癒されて ほんと助かってますし 可愛くて仕方がございません。

もちろん次男坊も もともと 長男がそういう子でございましたので 手がかかるため 嫁は

長男の世話に手がかかるので 次男に寂しい思いをなるべくさせないようと 

私が 抱っこしたりしてましたのでとても可愛いです。

(といっても 今は 23歳の成人男性ですから 露骨にかわいがる事はできません。。)

 

こういった子も なんらかの目的があり生まれてきたのだと思います。現に私の癒しでもありますし

今はワークセンターで 月 数千円ぐらいの仕事をしてますが それも ワークセンターの方々の

支えもありますが そういった仕事を通じ 社会へ貢献してます。

ワークセンターのバス停まで 送るのが テレワークがメインの私の日課なので

手をつないでくれるので 一緒に手をつないで 歩いています。

見た目も 身長が150cmほどですし 幼く見えるのか 

ご近所さんから 学校大変やね!なんて言われており その際もちゃんと 

「おはようございます」と挨拶してくれてます。

また 小学校は 普通の学校の障害児学級へ行き 普通の子らと 生活してました。

今でも 近所の子らは XXちゃんとXXちゃんのお母さんって ニコニコしながら 

話してくれるらしいので その子たちの人生に何らかの形で 影響を与えたのだと

思います。

小学校卒業後は 近くの支援学校へ行きました。そこでも 先生達にかわいがっていただき

お友達もたくさんできたようです。

24歳の今 確かに 知能的には 小学校低学年程度かもしれませんが コミュニケーションは

ちゃんと取れますし 食事の際の 用意や 布団をひいてくれたり 家の手伝いを自分から

やってくれており大変助かっております。

こういう子の特殊能力かもしれませんが プラモデルなど 設計図を見ずに

作ったり 1000ピースもある ジグソーパズルなども絵を見ずに作ったりします。

また 関西で放送されている「そこまで言って委員会」を毎週好き好んでみており

そういう所で得た 世界各国の大統領の名前など 下手したら 次男坊より 知っているのでは

ないかと思います。

障害者(今は 害という字が害を及ぼすというイメージから 障がい者と書くのが正解かもしれません)

って 人間 五体満足に生まれてきても 年を取れば あちこちガタが来て 障害が出てくるものだと

思います。それが 生まれてきてすぐなのか 50過ぎか70過ぎてからなのかという事だけだと。

そういう事も この子から学びました。

なので 昔からこういう話を書こうかと思い このブログを使わせてもらいました。

 

 私ら夫婦は 当時の言葉で言えば Dinksぽい形で 結婚して4年ほどは 子供は別にいいかなぁー

程度でした。しかしながら30歳を過ぎて 家も購入し そろそろ子どもも 欲しいなぁーと

思っていた時にできたのが この子です。その際 お世話になったのは隣の府にある産婦人科専門の

医院でした。いろいろ妊婦のケアなど 行ってくれるという評判もあり ここにしようと言うことで

選んだ記憶がございます。当時 羊水検査も行い 陰性でしたしエコー写真で見えるわが子は

五体満足に見えました。

 出産は立ち合い出産を医院にも勧められましたので 立ち合いました。そして生まれてきた瞬間の

先生の とても嫌な表情は まだ覚えております。

そこからは その医院では ほんと腫物に触るような感じでした。

冒頭の 「奇形の本を持ってきて」の下りは 出産後 ご主人にお話ししたいことがありますと

言われ先生と面談した時の話です。

そして その奇形の本を見せながら言われたのは 「お子さんは ダウン症の可能性がある、

羊水検査は陰性でしたが・・・」と、たぶんいろいろ言われていたと思いますが

あまりその先は覚えてません。

ショックだったのと 羊水検査は陰性なのに なんで?ということが頭の中で繰り返し

思っていたような気がします。

あと 「そういう子は いろいろあるから ここは産婦人科なので 何かあった際 対応が

とれないので お子さんの為に すぐに転院の手続きいたします」とは言われました。

最後に 奥さんは 出産後 まだ身体が大変な時期だから ショックを起こす可能性があるので

絶対に言わないようにと言われその部屋を出ました。

その面談の後 嫁の部屋に行き すぐに嫁さんから言われたのは

「なんの話やったん?唇が真っ青やけど大丈夫?」でした。

人生で 後先 唇がショックで真っ青って あの時ぐらいですね。人間 ショックを受けると

唇が真っ青になるなんて 漫画とかでは 見た事ありましたけど 本当になるんです。

そこから直ぐに 大きな病院へ転院 その産婦人科の医院には 救急車が来て 

子供と嫁さんを乗せて大きな病院へ転院。

数年後 父に あの時 先生に嫁に言うなと言われたけど なんだったんだろ?というと

 「そりゃお前 そこでショックを受けて XXちゃん(嫁)が倒れでもしたら その医院内で

大変なことになるから 何事か起きないよう 早く追い出したかったんだろ(笑)」って言ってましたね。

 奇形の下りは 正直 医者の職業病みたいなものだと思ってます。父も そういう所ありましたが 

そこは 一般人の私らからすると いきなり 人の赤ちゃんの話をする際 奇形はないだろうと・・

もう少し お客(患者)への配慮あるべきだとは思いますけど まぁ 医者なんてそんなもんだと

思ってます。

また この医院が 何らかのミスをしたとかでも なく これは私たち夫婦の運命ですし

先生の言い方には 問題あるかと思いますが それは一種の職業病みたいな物だと思ってるので

なんら恨むとか そういう物はございません。むしろ この医院であったから 今この子が

いるのだからと思ってます。

 

ただ当時はショックでした。ダウン症の可能性があるといわれた その日から食事をとることができず

また心の中で あと何日か絶食すれば 間違いだったということになる

なんて思い その後5日ほど願掛けのような形で食事をとりませんでした。

そんな7月初旬ぐらいのある夜 一人で家のリビングにいると窓の網戸にビッシリと

羽アリのような虫が止まっているのを見たとき 私は呪われているのかさえ思いました。

(もしかしたら 食事をとらなかったので 幻覚だったのかもしれませんが・・)

結局 最終的な 判断は 染色体検査を行えば ハッキリとわかりますと言われたのですが

行いませんでした。行わなかった理由は ダウン症と分かった所で 治療法があるわけでも

なく(染色体異常を治療し正常な染色体にする方法) ダウン症かどうかなんか 追々わかることを

やる意味がないと思い行いませんでした。他の何らかの 臓器などの異変については 心臓の 内壁に

穴が開いていると 言われましたが 早急に何らかの治療が必要かどうかは もう少し

様子を見ましょうと 転院した大きな病院では言われました。

その心臓の手術を この子が3才になった際、行ったのですが ちょっと 手術に関連する

私の祖母の話を書きたいと思います。

〇最愛の祖母の死(30年前の話)

私の祖父は 少し大きな精神科病院の 専務理事をしているような人でした。

事務方から専務になったような人でしたので 医師ではありません。

そして74歳だった祖母は 喘息や アレルギー的な ものを持病に持ちはしてましたが

 普段の生活には問題はなく暮らしていたのですが 息切れが酷くなり 少し動いては

休むような形でしたので 市内で一番大きな病院で検査したところ 心臓の血管が詰まっているので

カテーテルで バルーン手術を行いましょうということで手術を受けました。

その時聞いていた話では 太ももを少し切って そこから血管にカテーテルを入れて 心臓まで

通して血管を膨らまして というそんな難しい手術ではないと聞いてました。

手術の前日 2日前がちょうど私の誕生日でしたので 祖父母に買ってもらった自転車を

入院している祖母に見せに行き 帰り際 祖母が 病院の入り口まで 買った自転車を

見るついでに 私を送ってくれたのが祖母が元気な姿の最後です。

 次の日 もうそろそろ 手術終わって 病室に帰ってくる頃だろうなぁーと思って病院に着いて

エレベーターを降りたら なんか看護婦さんや医者がドタバタしてて 祖母の病室の前が

慌ただしくなってました。

おばあちゃんが 手術の後 抗生物質を点滴で入れていたら ショック起こして 心肺停止して

今処置されていると。。

 父曰く 何度もこの病院にかかり アレルギーを持っている人ってわかっているんだから

抗生物質を打つ前 事前検査せず なんでいきなり投与したんや?と言っていたのを聞いて 

「それ 医療事故ちゃうん?」って言った覚えがあります。

一応 心臓は動きだしたのですが 停止していた時間が長く 脳死状態になるかもと言われ 祖母の

耳元で 「おばあちゃん!おばあちゃん!」って叫んだら 祖母が 「うるさいっ!」って言ったので

大丈夫だと思い その日は 一旦帰りました。

 次の日 病院が開くと同時に ICUのある所に行くと ガラス越しに 祖母が眠ってました。

その後 父が先生に呼ばれ 夜中に急変し 現在 脳死状態だと思う 今後 このまま治療を

続けるかどうかを聞かれ 祖父とも話をし 治療をやめてもらう事にしたと 聞かされました。

「いや まだおばあちゃん息しているし 生きている。絶対に治療を止めないでほしいと

何度も訴えましたが 父は 延命治療した所で おばあちゃんは良くならないし 苦しむだけだと

いわれました。」

当時 父は 50歳ぐらいだと思います。なので まだ 本は出していなかったと思います。

その当時から 延命治療に関しては そういう考えの人だったのだと思います。

 

祖父も現役の病院関係者 私は 訴えてほしいと何度もいいましたが 祖父も事務方ですし

医療者の家族が 他の医療者を仮に訴えるという事があっても それはできないといわれました。

私も 当時学生ですし 社会の構造なんてわかりませんし この病院自体 あちこちに

系列の病院があり また 大学病院とも関係のある大きな組織ですから 死んでしまった人が

生き返るわけもなく 祖父や父の仕事柄 訴えても何の利益はないことは今ではわかります。

ただ当時は 家族が医療関係であることを恨みました。

 祖母は 人工呼吸器を止めると ほんと眠るような感じで 動かなくなりました。。。。。

こんな事もあり 医者の息子である私なのですが 医療が苦手なのかもしれません。

あと 私が3歳の時に 府の大きな病院で 妹が生まれた際 母の産科の病室に入ろうとした際

 看護婦さんに「男の子がここには入ってはダメっ!」ってめちゃくちゃ怒られて 

泣いた事もはっきり覚えていて

もともと 助産師であり その病院にも努めていた祖母が 

「3歳の男の子に 男も女もあるわけないでしょ!!」って怒っていたらしく

これも 看護婦さんが苦手な私のトラウマかも(笑)

そういう事もありながらも この市内では 祖母が亡くなったこの病院しか大きな病院もなく

持回りで 系列の大学病院から 小児科の先生が来てくださり 息子の心臓を見てくださってました。

 2歳になった時 このままだと きれいな血液と汚い血液が心臓で混ざり 中学生ぐらいになると

肺が悪くなり 酸素不足に陥る可能性が高いので 心臓の手術をしなければならない 

その事前検査に カテーテル検査を行うと 祖母が死んだその病院で 聞かされた時は 私は

この病院での 祖母の死のいきさつを話し 拒否いたしました。

 

〇息子の心臓の手術について

その2へ続く(気が向いたら書きますね)

 


父の訪問医をしていただいた先生にお世話になりました。

2022-09-20 20:19:16 | 日記

 私事になるのですが 先週 出張先で 心臓がバクバクになり

倒れそうになりました。そして本日も 調子が悪い状態が続くため

循環器の医院に行ってきました。

この先生が実は 父のわがままに 最後までお付き合いいただき

看取っていただいた訪問医の先生です。

私は 同じ市内でありながら 診ていただいた事はございませんでした。

 私も 以前書きましたように 極力医療とは かかわらない生活を

しておりましたので少々の風邪や インフルエンザぐらいでは 

お医者さんに掛からないのですがさすがに 今回はちょっとヤバいなぁーと

思い診察を受ける事に致しました。

 その際 市内の医院で 循環器内科の先生を探していたら 父の訪問医を

していただいた先生を見つけました。

この先生は 評判通りの丁寧な 先生でした。診察後 仁一の息子ですと

 当時のお礼をお伝えし 先生からも 「いろいろ教えられました。」との

お言葉をいただき 「いろいろお話もしたいけど この場ではと。」

最後 死亡診断いただいた時にしか お会いしてませんが 

あの時感じた 「この先生 良い先生だなぁー」と思った通りの先生でした。

(許可を得てませんので お名前および医院名は伏せさせていただきます。)

診断結果としては 狭心症との事で 近々 大きな病院にて検査を受けることとなりました。

 

 私は 年より若く見えるらしいのですが すでに55歳です。

父が 以前 本に書いてました 私がバイク買ってという事らしい理由で

私との取っ組み合いになり心臓がバクバクになった年が 多分50歳前後なので

いつか心臓系の病気になるなとは覚悟してましたが +5年ほどは 父より遅いようです。

父の父(祖父)も 父が書いてた 胸を搔きむしり 息絶えたらしいので 心臓が弱い

遺伝子を持っているのかもしれません。父も ガンでなくなりましたが 正直

もっと若い時に心臓が先にやられるのではないかと思っていたほどです。

(ちなみに 以前も書きましたがバイク買っての理由ではなく 

もっとホンマしょうもない理由です。)

 私的には 近藤先生と 父の死に方のどちらを選ぶかといわれると 近藤先生の方が

理想なので 放置する手もあるのですが まだ父曰くの賞味期限切れの歳ではなく

頑張って勉強し 来年から 大学院まで行く息子が せめて大学院を卒業し 

就職をするまでは 見届けてやりたく あと3年は 生きねばと思ってますが 

万一 倒れて 救急車で運ばれるにしても心肺停止の状態からの 見込みのない蘇生だけは

避けたいので 何度か伝えてはいますがいざそういう場面になった際 その判断が

できるかです。

  

父の場合 病院でもなく 普段の生活をしながら 徐々に弱っていくのを

見せられたので こちらも覚悟が途中でできて 息を引き取った際は さほど悲しく

なく 理想的な死に方できてよかったね。と思っておりましたが 死に対する恐怖は

あったと思うので そこの部分 私は 多分耐えれないと思うので 

心臓停止=ポックリがやはり理想です。

なので それこそ 三途の川を渡っている最中に 引き戻されて 病院のベットの上で

目覚めるのは 勘弁願いたい所です。

 

 私の場合 父と違う所は コレクション的な物が多く 残された家族が

困ると思うので時間があるときに どういう物で どれぐらい価値があるかを

ノートに書いております。

また アナログ人間な父と違い デジタル遺産系もありますので ID PASSなども

わかるように紙に残しております。あとは これに家族が気づくかどうかが問題です。 

今 いうと 縁起でもないと いらぬ心配もかけたくないし 何か目印になるものでも

今回を機に つけておこうかと思ってます。

 

 

 


ご冥福をお祈りいたします。

2022-08-15 09:04:38 | 日記

朝一yahooニュースを見ていて 正直 びっくりいたしました。

父と 一緒に 本を出したり 父が亡くなったあと コメントくださっていた

近藤誠先生が お亡くなりになられたようです。

医師で菊池寛賞の近藤誠氏死去 「医者に殺されない47の心得」(共同通信) - Yahoo!ニュース

近藤誠先生の本が発売されております。 - 自分の死を考える集い開催スケジュール掲示板 (goo.ne.jp)

ご冥福をお祈りいたします。

今頃 父と 語り合っておられるのでしょうかね。