自分の死を考える集い開催スケジュール掲示板

「大往生したけりゃ医療とかかわるな」の著書である父中村仁一が皆様へ遺言としてお伝えしたかった内容を載せております

父 中村仁一が永眠いたしました。

2021-06-07 23:42:16 | 日記

いつかこのブログを立ち上げた時 最後はこのようなご報告を書くのが

私の役目だと思ってはいましたが 

2021年6月5日(土)19:30に

ガンで死にたいと皆様に伝えていた通り 肺ガンで 自宅にて

父が 永眠いたしました。81歳でした。

「遺言1」では去年の6月に自覚症状が出たと書いてありましたので

ちょうど1年でございました。訪問医として関わっていただいた先生に

診断していただいたのは9月3日で 自分でレントゲンを撮ってもらい

自身でわかったのはおそらく8月22日です。

 私が近況という事で21年5月4日に書かせてもらってから6月5日までの

様子ですが 最後まで持論を貫き もちろん点滴は最後まで 1回もせず、医学的な

ものは、酸素吸入器ぐらいでした。 5月の中旬ぐらいまでは、普段 過ごすリビングと

自分の寝室を自らの足で歩き過ごしていたのですが それ以降 息切れが激しくなり

、今まで周囲が用意し使っていなかった介護ベッドをリビングに移し 日中は

その横にあるソファーにて過ごし しんどくなったら ベッドに寝るという生活に

なってきました。

 そこから亡くなるまでの 2週間程 最後まで 特にQ.O.L(生活の中身)にこだわった

生き方でした。

 生前 父は 遺言5で「もう生きたくないと考えるのは 自力で食べられなくなった時」

と書いておりましたが 実は 亡くなる当日の朝まで 妹が作ってくれたトンカツを数切れ 

食べていたそうです。

私は、その2日前にお寿司を皆で取り 父は マグロの寿司2/3を4つにしてもらったものを

ベッドに座わって 自らの箸でネタとシャリを別々に醤油をつけて 美味しそうに食べて

いるのを見ております。

 また、小便に関しては 最後の方は 自力で立ち上げる事はできませんでしたが

私らに助けてもらい立ち上がり 介護ベッドをお尻の高さまで上げて それにもたれ掛かる

ような恰好で 尿瓶にではありますが補助無しでしておりました。なので最期まで 尿道に

管を入れて小便を貯めるような事もしておりません。

 そんな感じで 自分でできる事は精一杯自分でしておりました。

そしてできない事(自分で立ち上がる事など)をしてもらった時は 必ず

私達に対し「ありがとうすまんな」と言ってくれました。

私も コロナ禍でテレワーク状態となってましたので 昼間は実家に行き

そこで仕事をしていたりしてましたが 毎回「お前は 仕事が忙しく大変なんだから

無理しなくていい」と言ってくれてましたし 私の大学生の息子(孫)に対しても

「万一の場合 お前は学業を優先するように」と話してくれていたそうです。

なので7日(月)の告別式の日は ちょうど単位にかかわるテストと実験が重なり

息子(孫)もかなり悩んでいましたが 父の教え通り 学業を優先させ

お通夜のみ出させて 告別式には おじいちゃんも言ってくれていたからと

いう事で学校に行きました。

 

最後まで 父曰く ガンでの痛みは無いと言っておりました。

ただ最後の2週間は 骨と皮のような身体にもかかわらず ソファーに座り

ウトウトと過ごす状態ですので お尻の骨が長く座っていると痛くて

起きてしまい 動かしてくれと言っていました。またそのあとベットに

横たわる際は呼吸が苦しそうでした。こういった最終段階の状態になった場合

楽にする為 セデーション(鎮痛剤などを使い 意識レベルや痛みを低下させる処置)

を行うのも手だそうです。しかしながら父は やはり最後まで 我々に死というものは

こういう物だという事を見せたいのか 使いませんでした。

(1日前の4日10時52分ごろの父の様子)

 

〇最後の状態

私は 実家から車で5.6分の所に住んでますが 呼吸が変だから

すぐに来てと連絡が入りすぐに行きましたが 間にあいませんでした。

母ら曰く 少し苦しそうだったが おそらく持論通り 体内の炭酸ガスなどで

麻酔状態であったであろうとの事でした。その証拠に 穏やかな死に顔で

ございました。

私が到着し、父風に書くと「確実に息の根が止まっている」のを家族で確認し

訪問医の先生にご連絡をし 夜分20時頃に来ていただき 家族が看取った時間の

19:30に永眠した診断書を書いていただいております。

そんな感じの最後でした。

 

〇告別式、葬儀について

 告別式、葬儀については 家族葬という事で我々兄妹の家族10名のみで 

父の遺言通り お坊さんを呼ばずに エレクトーンにて生前好きであった音楽を

流してもらう音楽葬のような感じでした。

お坊さんを呼んでおりませんので 戒名もありませんし お経も読んでません。

お経に関しては 最後の遺言12で 書いておりました 般若心経をわかり易く日本語に

訳したものを 妹が読んで送りました。

 ちなみに父のファンの方であれば 気になっている方もおられるかと思いますが

例のダンボール棺桶(エコ棺桶)については 葬儀場は快くOKが出たのですが

その後 京都市の斎場からNGと言われました。その際 葬儀社の方も

いろいろ考えていただき

 ①.出棺前に入れ替える

 ②.ダンボール棺桶ごと入る大きな棺桶に入れる

とご提案いただきましたが 私と義理の弟とで ①の案にしていただきました。

母は 父の生前 ダンボールの棺桶なんて使いたくないと父に言っていたそうで

その際 父はダンボールでないと「化けてでてやるぞ!」なんて冗談交じりを

言っていたそうですが、父には申し訳ないですが、斎場NGでは ①か②に

せざるを得ません。ただ②案の場合値段が一桁違い エコ棺桶という事で

使用しようとしていたにもかかわらず 高価な物となってしまうので

それは父の意に反するという事で一番安い①のコースにさせてもらいました。

出棺前まではダンボール棺桶で行いましたので 化けて出てくるかどうかは

また母に聞いてみたいと思います。(母は望むところだと言っていましたけどね)

 

〇最後に

最後となりましたが 25年295回続いた「自分の死を考える集い」で

お世話になった方々や、参加して頂きました方々、また今まで父の活動の

お手伝いをしていただいた方々、出版関連の方々、最後父の考える死にっぷりに

お付き合いいただきました方々 皆様方に対し 父に代わりお礼申し上げます。

又、全国で父の意志や考えを基に ご活躍頂いている方々に対しても

「ありがたい事だ」と生前感謝しておりました。

 

このブログは3年前に父の活動を手伝う事となり、開催案内を当時手紙のみで

行っているのを 無理くりブログにも載せる形とし 会を終えたのちも

父の手書きの原稿を 遺言という形で載せさせていただきました。父も

亡くなりましたので このブログの更新は 一旦 ここまでとする事も

考えております。ただこのブログは父との思い出の場所なので 閉鎖せず

残させていただきます。

今回 2.3名の方を除き ほとんどの皆さまへのご報告は このブログに

なるかと思います。父の住所や 発送しておりました私の住所などもご存じの

方もおられ 何かしらの物をしたいと思っていただける方もおられるかと思いますが

これも父の意向により 全て申し訳ございませんが ご辞退申し上げますので

できましたら 心の中で お祈りいただければ 父も喜ぶと思います。

 

最後に今日の葬儀の際 妹が般若心経を日本語に訳した物を読んだと書きましたが

最後の 「蘇婆訶(そわか)」の日本語訳を妹が読んだ際 父の声に聞こえ私は

父らしい その言葉に 泣いてしまいました。

その日本語訳にて 最後しめさせていただきます。

めでたし めでたし