宮城県の小さく綺麗で穏やかな海辺に住む、はげたま(禿頭)おっさんの~ごまめの歯軋り~

子供や高齢者は国の宝、且つ障害者等社会的弱者の人権を尊重し守ってこその先進国。年々逆行する現実に抗し当り前の国にしよう!

★追悼の記 【我が同胞は儚き人生を歩んだのか?】

2009年11月24日 19時43分09秒 | 日記
【写真=MEITETSU(名鉄=名古屋鉄道)。おらは何度も利用した事があるけれど、駅員や乗務員は皆親切で、身障者サービスも行き届いていて快適ですよ。】



かみさんのホームページ 『うみねこが舞う、漁業と原発の町の議員活動』 

【我が同胞は儚き人生を歩んだのか?】
 今年になって、おらはかみさんと塩釜市に住むすぐ上の姉(この後は三姉と書く)に連れられて、三回も名古屋に行った。
宮城の片田舎に住んでいるおら達が仙台空港に着くまでの時間と、仙台空港から名古屋セントレア空港経由で目的地まで着く時間が、ほぼイコールと云うのはどうしても解せない。
しかし「これは政治の責任じゃ」と、声を大にして言うつもりでは全く無い。
片田舎は片田舎、片田舎に住んでいる良さも十分知っている。

 しかしおらが本当に驚いた事がある。
旅客機に乗る身体障害者に対する接遇が、地上要員・機内乗務員に関係なく行き届いていた事である。
〝おんぶ〞までしてくれたのには、本当に驚いたし感激した。
〝おんぶ〞されるのは、幼児以来だから当然おらの記憶には無い出来事だった。
おらが乗ったのはANAだが、他の航空会社も同様なのだろうか、寡聞にして知らないのが残念である。

 それは名古屋セントレアに着いてからでも同じであり、乗り換えた名古屋鉄道(名鉄)や近畿鉄道(近鉄)も同様であった。
鉄道の場合、プラットフォームで係員が列車とホームの段差にプレートを敷いてくれ、スムーズに車椅子で乗る事が出来た。
しかも目的地の駅におらが乗っている車両番号やドアの位置まで連絡してくれていたと想われる。
 その事により、正におらが降り様としているドア前で、着駅の駅員がプレートを小脇に挟んで待っていてくれたのである。
片田舎では考えられないし、経験した事もない。

※     ※     ※     ※     ※     ※

 唐突な話しになるが、おらには姉が三人いたが、二番目の姉は十三年前の春に亡くなっている。
千葉県木更津市で旦那と二人で暮らしていたが、旦那の入院中に自宅で突然死し、発見されたのは死後二週間も経ってからだ。
発見されたのは偶然で、市役所の人が小用で訪れて、施錠されていない玄関に入り見つけたのである。
従って死亡日時も確認できず、推定死亡日時だった。

 哀しく侘しい死だった。
急報を木更津市役所から知らされたおらは、名古屋に住む長姉と塩釜市に住む3姉に連絡を取り、木更津に急行した。
 次姉は死後二週間も経っていて、顔の色は変色していたが、まだ春浅い彼岸の時節だったのが幸いして、それほど酷くは無かった。
次姉を木更津で荼毘に付したが、立ち会ったのは長姉と三姉とおらの三人だけだった。

 その次姉を見送ったのは、残った姉二人とおら達夫婦とおらの子供達で、旦那は相変わらず木更津の病院に入院中だった。
 もうお解りだと想うが、次姉をおらは、姉の故郷である宮城の我が家に引き取り、姉妹(きょうだい)と我が家の家族だけでの質素な葬儀を行い、そして他家に嫁いだはずの次姉を、我が家の墓に葬ったのだ。
 我が家の菩提寺の住職は、おら達の話しにいたく同情し、残された旦那のために位牌は二つ作ってくれ、一つは我が家にもう一つを、木更津の旦那に送った。

 その姉の悲劇は続いた。
厳密に言えば、姉の旦那の事なのだが。
彼女の旦那も自宅で突然死し、発見されたのが運命の悪戯なのか、姉と同じく死後二週間も経ってからだったのだ。
 発見のきっかけは、近所の人が「○○さんちの水道の蛇口から流れ落ちる音が止まらない」と木更津市役所に連絡してくれたからだ。

 この時は、名古屋や塩釜の姉の両方とも拠所無い事情があり、おらが独りで木更津に向かったのだが、やはり独りで遺体を引き取りに行くのは、精神的にかなりしんどかった。
 しかし、木更津市役所の関係者達は、おらの姿を見ると深く頭を下げ「阿部さんみたいな人は稀ですよ。無縁仏になる方がこの木更津には多いんです」と、慰めとも励ましとも取れる言葉を言ってくれたが、今でもおらに対するその配慮に感謝している。
 旦那の出身地の北海道には彼の兄弟が数人住んでいるが、兄弟の血も縁も薄いものなのか、無しの礫で、おらは怒る思いよりも哀しい気分に陥った。

 木更津に着いたおらは義兄と無言の対面をしたが、変わり果てた姿を想像していた割りには、それほどでもなかった。
おらと木更津市役所の人三人とで荼毘に付した。
 その夜、おらが木更津に行くたび宿にしていて、既に顔馴染みになっている旅館で、白木の箱(骨箱)を枕元に置き、独りだけの通夜を営んだ。

 翌未明に、おらは疲れた躰を癒すため部屋の風呂に入った。
頭からザンブリ湯をかぶり、湯船に浸かっていたが、しばらくして驚いたのだ。
 湯面が異常に黒く見え、「なんだ、この旅館は風呂も満足に洗わないのか」と心で呟きながら良く見たら、何と、おらの髪の毛ではないか。

 一晩で髪の毛が真白になったという話しは聞いた事があるが、本当だったのだ。
おらの場合は、頭頂部から前頭部にかけて、それこそ『ごっそり』髪の毛が抜けたのだ。
 以来おらは坊主顔負けの、ツルツルの丸坊主で通している。
おらの事を、スキンヘッドと言う人もいるが、やはりおらはツルツル坊主とか蛸坊主と言われた方が、性に合っている。

 この義兄も我が家に引き取り、おら達夫婦と子供達に塩釜の姉とで、葬儀を行った。
次姉と二人、我が家の墓で静かな眠りに付いた筈だ。
 それともあの世とやらで顔を合わせた二人して、「苦労して生きて、最後には弟に世話をかけてしまったが、数奇な人生だったなぁ」とでも、語り合っているのだろうか?

ちょうど十年前の、師走の風が吹き始めた頃の出来事である。

※     ※     ※     ※     ※     ※ 
 【写真=暑い出迎えで、おら達を歓迎したセントレア】 

 「ひゃぁ、暑いっちゃねぇ、宮城の暑さと全然違うわ」と三姉が言い、「そうね、暑さが肌にべっとりまとわり付く感じで、凄いわね」と、かみさん。
七月末の名古屋セントレア空港は、おら達には経験の無い、独特の暑さで出迎えてくれた。
三月にも見舞いに来たが、その時はまだ宮城とさほど寒さが違っていなくて、違和感は感じなかったが今回は、宮城弁で言えば「たまげだな」であった。

 名鉄に乗り換え、長姉が入院している『名古屋がんセンター』に向かった。
おら達三人は、何も知らせていない長姉を驚かせ元気づけようと言う魂胆だ。
 名古屋駅で、久し振りにおらは娘と落ち合った。
おら達が名古屋に来ると聞いて、岐阜から仕事を休んで来てくれたのだが、我が娘ながらその心の暖かさにジンときた。

 一番上の姉(長姉)は、十数年前に『肺癌』に襲われたが、見事克服して生きてきたが、働きづめだった。
 その長姉が再び病魔に襲われたのは、今年になってから。
『食道癌』が発見された時には、すでにステージ4で転移もあった。
 「何でこんなになるまで病院に行かなかったのか?」と、おらと三姉は電話口で何度も話し合った。
そして、本人にも聞いたが、おら達が想像していた通りであった。

 事実は悲しい現実を浮き彫りにしたのだ。
とっくに色々な自覚症状があったにも関わらず、家計を優先して働いていたのだと言う。
 この事実は、母親の姿とだぶって見え、おらは涙が止まらなかった。
「何で妻のこの状態が判っていながら、黙って放っておいたのか?」と、批判の矛先は当然義兄に向かったが、もちろん直接言える言葉では無かった。

 「姉ちゃん、バァ~、四人で顔を見に来たよ」
病室に入り、うたた寝をしていた姉に、おどけた口調でおらは声をかけた。
 「ありゃぁまぁ、○〇〇(三姉の事)に○〇○ちゃん(おらの娘)、忙しいのに、りっちゃん(かみさん)も・・・・!」と、長姉は心底驚いた口調で、チャームポイントの大きな目を更に大きくして、おら達を見て言った。
 顔を一目見ただけでは、病魔が取り憑いている様には見えなかったが、薬の影響で顔が浮腫んでいたと言うか、張っていた言う方が正しいのかも知れない。
その証拠に、パジャマの下の彼女の躰は痩せきって、肋骨が浮き彫りになっていた。
 
 おら達は、長姉の疲れる事を心配しながらも話しはいろいろ弾み、そこは血を分けたはらからである。
三姉が心を込めて作った手料理を、本当に美味しそうに食する姿を見ながら、病気が悪い冗談に思えて来たが、看護師さんが部屋に入って来て現実に立ち返った。
 おらが受け入れ難い現実に直面した時、薄い笑いが出るのはどうしてだろうか?
仕方がないとの諦めの心がそうさせるのか、そんなもの克服出来る筈だと云う自信の表れなのだろうか?
長姉の顔を見つめながら、そんな事を考えていた自分が悲しかった。
 長姉と三姉やかみさん、娘の会話を聴いているのが、無性に愛おしかったし何時まで聞いていても飽きなかった。
このまま、時間が止まることを切に願った。

 一時の楽しい出会いと会話があっという間に過ぎ去り、予約していた飛行機のフライト時間が迫り、おら達四人は後ろ髪をひかれる思いで長姉に別れを告げた。
 彼女の顔は一瞬歪み、それでも気丈に次の瞬間おら達に笑顔で、「バイバイ、ありがとう」と言った。
タクシーに乗り込み病院から出たおら達を、見えなくなるまで手を振って見送った長姉の姿が、見納めになってしまった。

 不謹慎だが「あと何日生きていてくれるのだろうか?」と、心を過(よ)ぎるのはその事ばかり。
それは三姉も全く同じで、帰りの機中ではもっぱらその事が話題の中心だった。
七月二十八日の名古屋、暑さにうだる風景が、いまだに瞼に焼き付いている。

 おらの躰調は、わずか一日だけの名古屋往復で、すっかり参ってしまっていた。
通常なら回復までは、ゆうに二週間はかかるところだった。

※     ※     ※      ※      ※     ※        
  八月四日になった。

「今日は姉ちゃん(名古屋)の誕生日だなぁ、六十五歳か」と、ぼんやりそんな事を考えたりして過ぎて行った。

 翌五日の午後三時頃に、おらが可愛がっている名古屋の姪からメールが入った。
慌てて書いたらしく、誤字脱字が見受けられたが、そんな事はどうでもよい内容だった。
 『母さんが逝った。突然の大量吐血でそのまま。私も間に合わなかった。』と。
おらは大急ぎで、塩釜の三姉に電話した。
彼女は看護師をしていて夜勤もあり、たまたまその日は明け番で家にいた。
 急いでインターネットで三人分(三姉とおら達夫婦)の飛行機のチケットを取り、岐阜の娘にも連絡した。
                   【写真=ランディング直前のANA機】

 「見舞ってからわずか一週間、六十五歳になってからの年金を楽しみにしていたのに」三姉は鼻を詰まらせ呟く。
「そうだなぁ、何となく母ちゃんに似て、苦労ばかりの人生だったな」。

 おら達二人の会話を、かみさんは飛行機の窓から下界を見ながら静かに聴いていた。

「葬儀は明日だ、今夜の通夜は雑魚寝になるが大丈夫か?」と、おらは持病を抱えている三姉を気遣う。
「大丈夫だよ、姉ちゃんと最後の夜だもの。それよりおまはんの方が心配だよ」
「いや、車椅子の方が楽だから心配ないさ」
「それにしても一週間前に見舞って正解だったね」
「うん全くだ。姉ちゃんもあんなに歓んでくれたし、第一○○○姉の作ったものを喜んで喰ったしな」
「そうだね、もう二度と出来ないな」と言って、三姉はまた涙ぐんだ。

 葬儀会館は近年多く見られるような立派な建物で、斎場から棺を横滑りさせると遺族控え室になっていて、故人を偲ぶには遺族にも大変便利な作りになっていた。
 おらは文字通りの寝ずの番で、線香を絶やさず焚いた。
何度も長姉の顔を撫でながら、である。
長姉は穏やかな表情で、まるで寝息が聞こえてきそうだったが、いくら「姉ちゃん」と呼びかけても、応えてくれる筈はなかった。

 八月七日の名古屋(正確には名古屋に隣接している電車で五分の蟹江という人口三万の町)は、相変わらず暑かった。
しめやかな葬儀・告別式を終え、火葬場に向かった。

 ここで、おら達は度肝を抜かれた。
その立地場所が金属加工工場にじかに接していて、騒音の五月蠅いことと云ったらありゃしない。
しかも火葬場と待合室が、戦後すぐ建てられたような古くて狭い、少なくとも都会にある施設とは到底思えなかったのである。
 おらの住んでいるど田舎の女川町のそれが、十数倍も立派な物と、図らずも遠い地で確認できたのであるから、世の中は歩いて見ないと解らないものだ。

 長姉が生前大変お世話になった、共産党蟹江町議会議員の林さんと云う方が参列してくれていて、(この人は通夜の夜更けに訃報を聞いて駆け付けてくれた)火葬場の移設が問題になっているが、簡単な事業ではないと教えてくれた。

 真っ青な空に、薄く白い煙が上って行く。
「姉ちゃん、さようなら」と手を合せる額に、汗が滲む。
人との別れとは、かくも儚く簡単なものなのだろうか?

 十月二十六日、長姉が嫁いだ家があった山形市にある菩提寺で、四十九日の法要と納骨があった。
これで「姉ちゃん」と呼ぶ人がこの世から、完全に居なくなってしまった。
おらの姉三人の内二人が逝ってしまった。

 今の日本を考えた場合、次姉の五十歳での死は余りに早すぎるし、今回の長姉の六十五歳での死も、年金さえ受け取れなかった事を考えれば、やはり早すぎた死と言えるだろう。

 残された姉は、三姉一人になってしまった。
「○○○姉、これまで以上に体を大事にな、仲良く人生を全うしよう」。

祈る思いの、おらがいる。
【観音菩薩様】【不謹慎だが、おらの塩釜の姉が○○いる?】 
 

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