【写真=万石浦(まんごくうら)という内海。対岸に見えるのが、石巻市。海上に浮かぶのは、養殖カキの浮きイカダです】
かみさんのホームページ 『うみねこが舞う、漁業と原発の町の議員活動』
もう秋が深まったんだねぇ・・・今朝目覚めたら、おら自身の吐く息が白く見え、そんな事に気づいた。
ベッドから〝そろり〞と慎重に降り、寝室の窓のカーテンを開けて外を見ると、いつもの様に穏やかな海、万石浦が眼前に広がっていた。
水面からひんやりとした空気がわが身に迫ってきたような気がして、思わず身震いをした。
それから何気なく視線を移したらカレンダーが目に入り、思わず独り言が口を突いて出た。
「ありゃまぁ・・・10月も終わるんじゃないかえ、また一つ歳をとるのか?やだねぇ」と。
ぼんやり漫然として過ごす毎日が、季節の移ろいにも鈍感になり、こんなんじゃ老けこむのも友達連中より、大分早いかも知れないな、と思ったらにわかに不安になった。
おらは宮城県女川町の、この万石浦の真ん前に誕まれ育って、56年の歳月が流れた。
何とか人並みに育ち、働き、割り合い濃い恋愛時代を過ごして結婚をした。
かみさんの偉いところだったのは、おらの両親との同居を、少しも嫌がらず我が家に入ってくれた事だった。
しかし二男一女に恵まれはしたが、子どもたちが幼い頃の結婚生活は、なかなか普通以上の大変さだった。
当時(30年前)、おらの母親はずっと重病(副腎癌が全身転移)で、東北大学付属病院に3年もの長い期間入院していた。
あの頃は、家族の誰かが付き添わなければならなかった時代だった。
しかも現在みたいなペインコントロール(痛みの緩和)も、十分では無かったから、患者本人の苦痛は、それはもう悲惨と言う言葉がぴったりだった。
決してオーバーな表現ではなく、生き地獄そのものだった。
だからこそ、付き添う若かったかみさんの方も、生半可な精神的苦痛ではなかtった。
今でもあの当時の事を思い返すと、かみさんは本当に良く耐え最後までやってくれたと、感謝する心が蘇ってくる。。
やがて悲惨な闘病生活も最後の段になり、感動的な場面が訪れた。
〝いまわのきわ〟の母が、居並ぶおらの姉たちや亭主がいたにも関わらす、「りっちゃん、今まで苦労かけたね。本当にありがとう。」と、かみさんだけに言って息を引き取り逝ったのだ。
おらは母の死の悲しみよりも、直前の≪義母と嫁≫との間の闘病生活を共にした、言わば戦友同士の別れ方の美しさに、感動して涙したのだった。
ちなみに、若い母親だったかみさんが付き添いをしていた時のあの当時、我が幼な子たちは、一体どこに居たのか?
実はおらのすぐ上の姉が塩釜市に住んでいて旦那さん(おらの義兄)は船乗りだったが、ちょうどあの頃は長期休暇中だった。
それで、おら達の大事な幼な子を、心良く預かってくれたのだった。
大袈裟でなく実子以上に可愛がってくれ、我が幼な子たちは順調に育ってくれた。
しかしおらは病院(仙台市)へ母を見舞い、かみさんと話した帰りでも、決して寄らなかった。
何故なら、寄れば当然おらにすがり、別れ際に大泣きされるのが辛かったからだ。
おらが辛かったのだから、長女を生んだばかりのかみさんの辛さは、いかばかりだったかと、今思えばよくやったなぁ、と言う感慨が湧いてくる。
しかし時は流れ、あの優しかった義兄は、2006年3月に白血病に勝てず逝ってしまった・・・・・合掌。
かみさんは岩手県一関市の出身だ。
岩手県人は我慢強いのだろうか?と、何度も考えた事がある。
おらの友人にも、岩手県人を嫁にしている奴が2人いるが、やはりおらのかみさん同様、家族を非常に大事にしている。
その彼女たちを見て得たおらの結論は、かみさんのご両親の育て方が良かったのだ、と考えるに至ったのだが、間違いではないだろう。
今更ながらだが、かみさんのご両親に感謝だ。
もっとも既に義父は鬼籍に入ってはいるが、感謝の念は届くだろう。
さてもう、この話しはこれ位にして置こう。
いずれ機会をみて、おら達夫婦の回想をしてみようと思う。
今日の本題は『おらは、かみさんに追いつけるか・・?』だ。
実はちょうど一週間前の18日に、彼女がホームページを立ち上げたのだ。
彼女は現在、女川町議会議員を務めていて2期目だ。
「より多くの人に私の活動を知って欲しい」と言う事が、動機だったようだから、これにはおらも諸手を挙げて賛成したのだが・・・・?!
ところがそのホームページに、おらのスペースを若干残して置くと言い始めて、平静を装ったが困ってしまった。
そうなれば話しが違って、おらにもある種の責任が生じるのは自明の事で、おらは内心すっかり焦ってしまっていた。
だが「いや、おらは出来ません」では、この身が不自由(おらは身体障害者で無職。後日これも書くつもり)とは言え、男が廃る(すたる)。
古いですかね、この表現?。
しかしいずれにしても、「おらだって出来ない事はないだろう?ブログだったらホームページを作るより比較的手軽だと言うし」と舐めたのが大間違いだった。
実は、かみさんには内緒にして来たが、おらがブログに挑戦して既に4日も経っているのだ。
今になって「やっぱり、出来ませんでした。」とは言えるはずもない。
かみさんには「今、何をどう書くか構想中だ。」と大言壮語して誤魔化して来たが、もうそろそろ限界に近づいている。
と言う訳で、かみさんの居ぬ間に(鬼の居ぬ間に?)試行錯誤しながら、只今奮闘中といったところだ。
何とか、我が愛するかみさんに追いつきたい、これが素直な今の思いだ。
だが、思い通りにいかず焦るのみであるのが、実に情けないやら歯がゆいやら、なのだ。
「あっ、あぁ~・・・もう少しで・・・か、かみさんが帰って来る~・・・・・」・・・・時間は午後8時を過ぎている・・・・!
※女川町への誘い(いざない)
女川町はサンマ水揚げ本州一ですが、銀鮭の水揚げは日本一です。
写真の万石浦は養殖カキ発祥の海(石巻市側海域)で、女川町海域でも養殖が盛んです。
それに女川湾の小乗(このり)という地区が、養殖ワカメを国内で初めて成功させた所です。
これらの事は余り知られていませんが、この様に全国に誇れる物があるのですよ、我が女川町には。
季節季節に各種のイベントも開催されていますので、今後、ご紹介していきます。
また釣り人のファンも多く、岸壁釣り・磯釣り・船釣りと楽しめる、とても良い所ですよ。
それに人情味もありますから安心して、皆さま、どうぞ是非一度遊びにお越し下さい。
かみさんのホームページ 『うみねこが舞う、漁業と原発の町の議員活動』
もう秋が深まったんだねぇ・・・今朝目覚めたら、おら自身の吐く息が白く見え、そんな事に気づいた。
ベッドから〝そろり〞と慎重に降り、寝室の窓のカーテンを開けて外を見ると、いつもの様に穏やかな海、万石浦が眼前に広がっていた。
水面からひんやりとした空気がわが身に迫ってきたような気がして、思わず身震いをした。
それから何気なく視線を移したらカレンダーが目に入り、思わず独り言が口を突いて出た。
「ありゃまぁ・・・10月も終わるんじゃないかえ、また一つ歳をとるのか?やだねぇ」と。
ぼんやり漫然として過ごす毎日が、季節の移ろいにも鈍感になり、こんなんじゃ老けこむのも友達連中より、大分早いかも知れないな、と思ったらにわかに不安になった。
おらは宮城県女川町の、この万石浦の真ん前に誕まれ育って、56年の歳月が流れた。
何とか人並みに育ち、働き、割り合い濃い恋愛時代を過ごして結婚をした。
かみさんの偉いところだったのは、おらの両親との同居を、少しも嫌がらず我が家に入ってくれた事だった。
しかし二男一女に恵まれはしたが、子どもたちが幼い頃の結婚生活は、なかなか普通以上の大変さだった。
当時(30年前)、おらの母親はずっと重病(副腎癌が全身転移)で、東北大学付属病院に3年もの長い期間入院していた。
あの頃は、家族の誰かが付き添わなければならなかった時代だった。
しかも現在みたいなペインコントロール(痛みの緩和)も、十分では無かったから、患者本人の苦痛は、それはもう悲惨と言う言葉がぴったりだった。
決してオーバーな表現ではなく、生き地獄そのものだった。
だからこそ、付き添う若かったかみさんの方も、生半可な精神的苦痛ではなかtった。
今でもあの当時の事を思い返すと、かみさんは本当に良く耐え最後までやってくれたと、感謝する心が蘇ってくる。。
やがて悲惨な闘病生活も最後の段になり、感動的な場面が訪れた。
〝いまわのきわ〟の母が、居並ぶおらの姉たちや亭主がいたにも関わらす、「りっちゃん、今まで苦労かけたね。本当にありがとう。」と、かみさんだけに言って息を引き取り逝ったのだ。
おらは母の死の悲しみよりも、直前の≪義母と嫁≫との間の闘病生活を共にした、言わば戦友同士の別れ方の美しさに、感動して涙したのだった。
ちなみに、若い母親だったかみさんが付き添いをしていた時のあの当時、我が幼な子たちは、一体どこに居たのか?
実はおらのすぐ上の姉が塩釜市に住んでいて旦那さん(おらの義兄)は船乗りだったが、ちょうどあの頃は長期休暇中だった。
それで、おら達の大事な幼な子を、心良く預かってくれたのだった。
大袈裟でなく実子以上に可愛がってくれ、我が幼な子たちは順調に育ってくれた。
しかしおらは病院(仙台市)へ母を見舞い、かみさんと話した帰りでも、決して寄らなかった。
何故なら、寄れば当然おらにすがり、別れ際に大泣きされるのが辛かったからだ。
おらが辛かったのだから、長女を生んだばかりのかみさんの辛さは、いかばかりだったかと、今思えばよくやったなぁ、と言う感慨が湧いてくる。
しかし時は流れ、あの優しかった義兄は、2006年3月に白血病に勝てず逝ってしまった・・・・・合掌。
かみさんは岩手県一関市の出身だ。
岩手県人は我慢強いのだろうか?と、何度も考えた事がある。
おらの友人にも、岩手県人を嫁にしている奴が2人いるが、やはりおらのかみさん同様、家族を非常に大事にしている。
その彼女たちを見て得たおらの結論は、かみさんのご両親の育て方が良かったのだ、と考えるに至ったのだが、間違いではないだろう。
今更ながらだが、かみさんのご両親に感謝だ。
もっとも既に義父は鬼籍に入ってはいるが、感謝の念は届くだろう。
さてもう、この話しはこれ位にして置こう。
いずれ機会をみて、おら達夫婦の回想をしてみようと思う。
今日の本題は『おらは、かみさんに追いつけるか・・?』だ。
実はちょうど一週間前の18日に、彼女がホームページを立ち上げたのだ。
彼女は現在、女川町議会議員を務めていて2期目だ。
「より多くの人に私の活動を知って欲しい」と言う事が、動機だったようだから、これにはおらも諸手を挙げて賛成したのだが・・・・?!
ところがそのホームページに、おらのスペースを若干残して置くと言い始めて、平静を装ったが困ってしまった。
そうなれば話しが違って、おらにもある種の責任が生じるのは自明の事で、おらは内心すっかり焦ってしまっていた。
だが「いや、おらは出来ません」では、この身が不自由(おらは身体障害者で無職。後日これも書くつもり)とは言え、男が廃る(すたる)。
古いですかね、この表現?。
しかしいずれにしても、「おらだって出来ない事はないだろう?ブログだったらホームページを作るより比較的手軽だと言うし」と舐めたのが大間違いだった。
実は、かみさんには内緒にして来たが、おらがブログに挑戦して既に4日も経っているのだ。
今になって「やっぱり、出来ませんでした。」とは言えるはずもない。
かみさんには「今、何をどう書くか構想中だ。」と大言壮語して誤魔化して来たが、もうそろそろ限界に近づいている。
と言う訳で、かみさんの居ぬ間に(鬼の居ぬ間に?)試行錯誤しながら、只今奮闘中といったところだ。
何とか、我が愛するかみさんに追いつきたい、これが素直な今の思いだ。
だが、思い通りにいかず焦るのみであるのが、実に情けないやら歯がゆいやら、なのだ。
「あっ、あぁ~・・・もう少しで・・・か、かみさんが帰って来る~・・・・・」・・・・時間は午後8時を過ぎている・・・・!
※女川町への誘い(いざない)
女川町はサンマ水揚げ本州一ですが、銀鮭の水揚げは日本一です。
写真の万石浦は養殖カキ発祥の海(石巻市側海域)で、女川町海域でも養殖が盛んです。
それに女川湾の小乗(このり)という地区が、養殖ワカメを国内で初めて成功させた所です。
これらの事は余り知られていませんが、この様に全国に誇れる物があるのですよ、我が女川町には。
季節季節に各種のイベントも開催されていますので、今後、ご紹介していきます。
また釣り人のファンも多く、岸壁釣り・磯釣り・船釣りと楽しめる、とても良い所ですよ。
それに人情味もありますから安心して、皆さま、どうぞ是非一度遊びにお越し下さい。
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