宮城県の小さく綺麗で穏やかな海辺に住む、はげたま(禿頭)おっさんの~ごまめの歯軋り~

子供や高齢者は国の宝、且つ障害者等社会的弱者の人権を尊重し守ってこその先進国。年々逆行する現実に抗し当り前の国にしよう!

★原発稼働の是非は、国民投票が必要である。

2011年07月10日 19時09分43秒 | 女川原発 & 関連

【玄海原発から1キロしか離れていない至近距離にある、唐津市串崎から見える玄海原発】

かみさんのホームページ『阿部りつ子の女川町(おながわちょう)便り』

原発運転の是非決定権が、立地自治体だけにあるのは理不尽である。つまり、国民投票にせよ、と、言いたいのである。

九州電力の傲慢で愚かでお粗末な墓穴掘り

 国(経済産業省)は、九州電力”玄海原発”について『佐賀県民の理解を得た』とする企画を練り、そしてシナリオを書いた。

たった7名の県民を相手にした『住民説明会』を開催してアリバイを作り、シナリオ通りに再稼働に持って行く目論見だった。

もちろん抜け目なく、その模様をインターネットなどで中継して完全な公開性を得、正当性があるとする作戦だった。

 ところが、想いも寄らぬ所から、奈落の底に落とされてしまった。

あろう事か九州電力が傲慢さを露骨に出し、下請け会社(子会社=九電出身者が多い)に、世論捏造の”やらせメール”を指示した事が明るみになり、『住民説明会』の正当性が、完全に吹き飛ばされてしまった。

それは、幾ら親会社である九州電力でも、やって良い事と悪い事の理解できる下請け会社の関係者が、日本共産党福岡県の事務所に告発した事で、九州電力自らと経産省の目論見は、ものの見事にぶち壊されてしまったのである。

九州電力の副社長からの指示で、文字通り組織的な”やらせメール”という自爆行為で墓穴を掘り、再稼働の可能性はスタートライン、いやもっと後退してしまったのである。

 しかし、ここで指摘して置かなければならない事がある。

立地自治体である玄海町の岸本町長は、原発再稼働容認の決定をしたが、彼は地元建設会社の大株主であり実弟が社長をしていて、九州電力から請け負う仕事が、その会社の大きな収入源なのである。

つまり、岸本町長は九州電力と”ずぶずぶ”の関係であり、公正な判断の下に再稼働を容認したとは思えない事は、見過ごす事のできない事実である。

その町長でさえ、今回の事態発覚を受け、さすがに再稼働容認を続ける事は無理であり、九州電力に再稼働容認の撤回を申し出ねばならなかった。

【静かに佇む”玄海原発”。願わくば、このまま静かに眠り廃炉へ】

 しかし今日は、それを論じるのが目的ではない。

福島第一原発の事故の収束どころか、本当の事故原因も定かでないこの時期に、全国に先駆けて再稼働容認の姿勢を玄海町が明確にしていたが、本当にそれで良いのだろうか?

そして、”やらせメール”事件が表沙汰にならずに県知事がOKを出していたなら、”玄海原発”は再稼働していただろう。

それは、国(菅内閣)の描いた既定路線であり、着々とタイムスケジュールをこなしていたのが明らかである。

そこで、このブログをお読みの皆さんに、是非真剣に考えてもらいたい事があるのである。

九州電力”玄海原発”の再稼働容認は、玄海町(県知事)だけの決定で正しいのだろうか?過酷事故があった場合に、被災者は広域に渡る。その人々の意見を聴かない現行の制度はおかしくはないか? 

 今回のように立地自治体である玄海町が承諾すれば、後は県知事の了承を取れば原発を運転できるという現行のやり方で良いのであろうか?

 福島第一原発の過酷事故の被災者は、何も立地自治体の福島県大熊町や双葉町の住民だけではないのである。

隣接する浪江町や南相馬市だけでなく、40kmも離れた飯舘村も汚染され、強制避難しなくてはならなかったのである。

 住民は、21世紀の現代日本にあってはならない『流浪の民』として化して県内外に散らばり、自治体機能そのものが逃げなければならず、自治体名が地図上から消える可能性もあるのである。

原発に賛成も反対もあったものでは無く、意見そのものが言えず被害だけは間違いなく被り、それまでの人生で培ったもの全てを棄てて、故郷を後にしなければならない人々の慟哭に、電力会社や国策と称してごり押しして来た政治家たちは、耳を閉ざして同じ過ちを繰り返そうとしている。

 「がんばれ」とか安易な言葉でそんな人々を、語り慰めるべきでないのは当然であるし、運命でないのも当然である。

何より、”人災”であるのが、余りにも明白であるからである。

放射線汚染という人の五感に触れない見えない恐怖に対峙せざるを得ない距離に住む人々に、原発運転の可否を認める事に、何の関与もできないというのは、あまりに理不尽ではないのではなかろうか?

【写真上=福島第一原発から飯舘村まで40キロ余り。写真下=玄海原発から40キロ圏内の自治体】

 玄海町周辺の自治体を良く見てもらいたい。

佐賀県唐津市は、玄海原発を取り巻くように位置し、串崎という半島部からは、わずか1キロの距離である。

何かあった場合の風向きにもよるが、玄海原発での福島県飯舘村に相当する距離にある自治体は、佐賀県では唐津市・伊万里市・有田町・多久市・武雄市等々である。

 長崎県も無事ではいられない。

もしかしたら、あの忌まわしい原爆の惨禍の二の舞になる可能性がないとは言い切れないのである。

平戸市・松浦市・佐世保市なども、そのエリアに入る。

そして悲しい事に、どんなに説得力のある考えを持っていても、玄海原発の運転に関しては、何の発言権もないのである。

被害は確実に被る可能性があるのに、それを予め止める手段がない。

これが、先進国・民主主義を標榜する我が日本の、原子力政策なのである。

【唐津市には玄海原発に関して何の発言も出来ない。こんなに至近距離にあるのにも関わらず】

二度と、被爆の惨禍を経験せぬ誓いを立てた戦後の原点を忘るべからず

 第二の福島県民を出さぬためにも、被爆する可能性のある40キロ以内の同心円地帯に住む住民には、原発の諾否権を与えるべきである。

いやいや、それでは駄目であろう。

ヨーロッパみたいに、国民投票が必要だと思う。

  

 女川原発と生きねばならないおらから、全ての原発立地自治体住民及び周辺自治体住民、そして全国の、特に電力の最大需要地である都市部の人々に訴える。

処理方法のない危険な使用済み核燃料を、際限なく産み続ける原発の撤廃を、真剣に考えてみて欲しい、と。

また偽りのデータを使った、電力不足の宣伝を恐れないでほしい。

もちろん、節電を心がけるのは、現代を生きるおら達には、必要な事だと思う。

余りにも電気に頼った利便性を追求しすぎて怠け者になっていないか、己自身を振り返る機会を、歴史に残る今回の「東日本大震災」が与えてくれたものと想う。

 おら達夫婦は、電気のない1ヶ月を過ごした。

日の出とともに起き、日の入り後間もなく就寝した日々は、まぎれもなく電気依存症だったおらの体質を変えた。

おらが子供だった時代は、紛れも無くそれが日常だった。

そんな暮らしも、一部でもいいから残しておかなければ、いずれかの時代に資源を喰い尽した人類は滅びるだろう、と、漠然と想う。

もし今後も、飽くなき利便性のみ追求し続ければ、おらの親類や友人・知人多数を含む数多くの犠牲者の人々や、数多の被災者の方々に申し訳が立たない。

 

 憲法25条の立場に立てば、そうするのがこの国に生きる我々のあり方であるとおらは思っている。

最後に余計なお世話だが、憲法25条を書いておく。

【憲法第25条=生存権、国の社会的使命

 1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

 2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。


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