仙台城跡に行くために仙台駅から観光バス「るーぷる仙台」に乗車しました。9時40分発1番バスは満席。乗客のほとんどが中国人観光客。瑞鳳殿、仙台市博物館、迂回路になっている東北大学青葉山キャンパスを経由して城跡に到着。
工学部キャンパスの東端から城跡入口までの曲がりくねった道路(東北大学植物園の南端に沿うように走っている道路)の両側にはモミジなどの広葉樹が生い茂っている。紅葉の見ごろは終わっているのだがまだ美しさを一部残している。ピーク時にはかなり見事な紅葉を楽しむことができるだろう。仙台市内紅葉の隠れた名所に数えていいと思いますな。
仙台城跡を目指した目的は巨大な鳶のブロンズ像を見るため。小学生か中学生の頃見た記憶があるが、はっきりとは覚えていない。このブロンズ像について明治の偉大な俳人、歌人、文筆家の正岡子規が言及しているので実物を確認したかった。
結核のため自宅で病床に臥していた子規は新聞『日本』に127回にわたって連載した『病床六尺』の第35回(明治35年6月15日)で次のように書いています。
〇 鳥づくしというわけではないが、昨今見聞した鳥の話をあげて見ると、
一、この頃東京美術学校で3間ほどの大きさの鳶を鋳たさうな、これは記念の碑として仙台に建てるそうながこれくらい大きなフキ物は珍しいと言ふ事である。(以下略)
このニュースを子規は『日本』の記事で知ったのでしょう。「3間ほどのおおきさの鳶」とありますが、メートルに換算すると約5.4mになります。東京美術学校(現在の東京芸術大学)が注文を受けて制作したものですが、子規のいうとおり今日実物を見て巨大な鳶像だということがわかりました。「なんだこれは、いぎなりおっきい」というのが実感。造形美術的にもたいへん優れていると思う。価値の高い鳶ブロンズ像だと確信する。
鳶像は西南戦争・日清戦争等戦没者慰霊碑「昭忠碑」の一部として明治35年に設置されたものでしたが、東日本大震災の時、鳶像は台から落下し破損しました。復元された像は安全を期して現在は石碑の基檀に設置されています。
子規は仙台に縁がある人でした。子規は、明治27年に芭蕉の奥州の旅をたどる文学紀行『はてしらずの記』を『日本』に連載しました。途中仙台の針生旅館に投宿し、7月31日から8月5日まで仙台に滞在しました。その間仙台城跡や伊達政宗霊廟瑞鳳殿などを訪問し、地元の歌人鮎貝槐園と交流しています。
『病床六尺』を書いていた頃子規は結核に罹り自宅で病床に臥していました。鳶の記事を見たとき、8年前に訪れた仙台のことを思い出したのでしょう。子規のこころでは仙台訪問の記憶と伊達政宗がつながっていました。病床に臥している部屋の隣の部屋に飾ってあった伊達政宗の額と牡丹のことを詠んだ俳句でそのことがわかります。
政宗の額の下なり牡丹鉢 子規 (明治32年5月9日)
「政宗の額」とはどんな額なのか気になります。推測ですが、仙台市博物館にある伊達政宗肖像画の複製をおさめた額かもしれません。これは江戸時代前期の画家狩野安信によって描かれた肖像画で、左上には政宗の有名な漢詩が書いてあります。
馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何 (馬上少年過ぐ 世平かにして白髪多し 残躯天の赦す所 楽しまずして是如何にせん)
昭忠碑の建立から33年後に設置された政宗の騎馬像は鳶像の近くにあります。騎馬像には多くの観光客が引き寄せられていきますが、鳶像を見る人は少ないようです。子規との関連を宣伝すべきだと思いますな。
仙台を見渡す鳶や百二十年 みちのく梵論師
災禍からまた羽ばたけり銅の鳶 みちのく梵論師
政宗の騎馬像、鳶像。どちらも材料は銅。最近銅製品の盗難が多いので盗難対策をしっかりやってもらいたいです。