慶長遣欧使節関連の研究書は多数ある。参考資料としては仙台市史特別編8「慶長遣欧使節」が大変有益である。研究者による説は一致しているところもあればそうでないところもある。信頼できる史料による歴史的事実を踏まえた上で、実際全体的に何が起こったのか、実際関係者は何を考えていたのかを正確に知ることは極めて難しい。それについては推測するしかない。遠藤周作の『侍』はまさにこのようなアプローチによって書かれた傑作長編小説である。
支倉六右衛門常長を政宗が遣欧使節大使に任命したのはなぜだろうか
伊達政宗とルイス・ソテロの野望について語る前に、そもそも支倉六右衛門常長がなぜ遣欧使節団の大使に抜擢されたのかということについて考えみたい。支倉六右衛門常長指名に関する史料は残っていないので、やはり推測するしかない。人選の基準は実績と人物だったことは間違いないだろう。家格は重要視されなかったかもしれない。六右衛門の実績として史料からわかることは、1591年21歳の時、政宗の上洛御供衆(じょうらくおともしゅう)を務めた。御供衆とは外部との連絡・接遇・警護にあたる家臣のこと。1592年22歳の時、秀吉の朝鮮出兵において伊達御手明衆(だておてあきしゅう)の役を務めた。伊達御手明衆とは伊達家臣から政宗が選んだ特別な命令を遂行する部隊のこと。1600年30歳までに、使番(つかいばん)の役を務めた。使番とは戦場において伝令や監察、敵軍への使者などを務めた役職のこと。どれも、強い忠義心、冷静な判断力、行動力、忍耐力、勇気、高い戦闘能力が求められる役職である。並の家臣にできるような役ではない。このような基準で重臣たちによって吟味され、推薦された候補者の中から政宗が選んだであろう。あるいは長年近くで仕事ぶりをみていた政宗が目をつけていた六右衛門を指名したのかもしれない。同乗する約140名の日本人乗組員を統率する力量と同行する宣教師ソテロや返礼使ビスカイノ、スペイン政府当局とうまくやっていけるかどうかも考慮されたであろう。この大役を遂行できる資質と能力をもつ者は支倉六右衛門常長しかいないと政宗は判断したと思う。
スペインでの常長にたいする人物評
スペイン側の史料によると、「大使は重責を担う人物であり、その交渉に能力がある。」、「支倉は尊敬に値し、沈着で知恵があり、談話巧みである。控え目でもある。」、「誠実で尊敬できる人物であり、人柄も称賛を受けるに値し、うまく自己管理できている。」とある。高い人物評価を得ている。スペイン人の評価では直接ふれられていないが、常長にはスペインとの交渉がうまくいかなくても長い間にわたって粘り強く交渉し続ける不撓不屈の精神があったことは間違いない。政宗が期待したように使命感の強い武士だった。常長がマドリードの修道院で洗礼を受けたのは、ソテロの強い助言(交渉をスムーズに運ぶためにはキリスト教徒になったほうがよい等)の影響もあったかもしれないが、やはり常長が本心からキリスト教徒になりたいと思ったからだと思う。主体的に決断したのだと考える。
伊達政宗がいだいていたかもしれない野望
1611年6月14日、政宗はビスカイノと江戸で出会った時、ビスカイノの兵士がデモンストレーションに発射した火縄銃に仰天した。その後何度かビスカイノと会って(ソテロの通訳で)熱心に話を聞くうちにスペインの技術力や軍事力に興味をもったかもしれない。ヌエバ・エスパニアと交易することで洋式帆船の操船術や航海術を知ることができるかもしれない。交易は伊達藩に富をもたらすかもしれない。さらに交易はスペイン製の火縄銃や大砲などの武器導入を可能にし伊達藩の軍事力強化に資するかもしれない。幕府に対抗できるほどの経済力と軍事力を得ることができれば、幕府を恐れる必要もなくなるのではないのか。そのためには商教一致方針をとるスペイン政府の言い分を聞き、イエズス会宣教師の派遣を要請し、領内での布教を認める。布教に必要な便宜もはかる。宣教師の派遣と交易条約の締結を実現するためにスペイン国王とローマ法皇に謁見し親書を手渡す。遣欧使節事業を実施するにあたって、政宗の片隅にこのような野心がなかったであろうか。結局、徳川幕府の禁教政策の強化と、その情報をつかんでいたスペイン政府の使節の目的への懐疑的な姿勢と使節団への慎重な対応により、使節の目的達成には至らなかった。国内・国際情勢の変化によって政宗の望みは断たれたのである。
使節団の帰還
支倉六右衛門とソテロ一行は日本出発から5年後の1618年8月、政宗が迎えに派遣した横沢将監や幕府船出奉行向井忠勝が派遣した船頭等を乗せたサン・ファン・バウティスタ号で、フィリピンのマニラに帰還した。これは、使節を帰還させるためにサン・ファン・バウティスタ号が再度ヌエバ・エスパニアに出航することを幕府が許可したことを意味する。2年間フィリピンに留め置かれた支倉常長らの日本人使節団は1620年8月マニラを出発し9月に仙台に着く。幕府から許可が出たので帰国できたのであろう。一方、ソテロは日本への渡航を許可されずマニラに留め置かれた。
ソテロがいだいていたかもしれない野望
ソテロはスペイン王国セビリア出身のフランシスコ会宣教師で、キリスト教の布教に極めて熱心であった。スペイン領フィリピンの日本人キリスト教徒から日本語を学んだ。マニラ総督の親書をもって徳川家康と秀忠にも謁見している。ビスカイノの通訳を務め伊達政宗とも知り合いだった。ビスカイノの通訳を務めただけでなく伊達領内でのキリスト教布教の必要性とそのために必要な条件のことなどを政宗に言葉巧みに語ったかもしれない。ソテロには、布教のためなら策を弄することも厭わないような人物(つまり策士)だったという評価もある。伊達領内にキリスト教圏をつくり、自分はローマ法王から司教に叙任され高位の指導者として活躍したい。そのためにはどうしてもローマ法王に謁見する必要がある。そういう世俗的な野心があったかもしれない。日本での布教を諦めきれないソテロは1622年日本に密航し薩摩で捕らえられる。時代は徳川幕府による厳しいキリスト教禁制下にあった。江戸をはじめ各地で多くの宣教師たちとキリスト教徒たちが殉教していった。ソテロもその例外ではなく、1624年8月長崎奉行により大村で火刑に処せられた。51年の生涯であった。日本がキリスト教禁制下であることを知っていたにもかかわらず密航までして、殉教することも覚悟のうえで、政宗の庇護を期待し、伊達藩で布教しようとしたソテロの夢と情熱は想像を絶する激しさだったと思わざるをえない。
帰国してからの支倉六右衛門常長
帰国した常長に政宗からどういう沙汰があったのかはっきりしない。キリスト教禁制下にあったとはいえ、キリスト教徒になって帰国した常長を処刑や切腹に処することはできなかったであろう。8年にもわたる困難な海外の旅を生き延び、政宗の使節として大役を務めた臣下に非情な処分をおこなうことはできなかったのではなかろうか。政宗が常長に棄教を迫ったのかどうか不明である。常長がキリスト教信仰を続けたのかそれとも棄教したのかどうかも不明である。支倉の領地で静かに余生を送るよう指示されたか。あるいは領内のどこか人の目につかない場所に蟄居させられたか。消息は闇の中である。遠藤周作の『侍』は常長がキリスト教を信仰し続けることを暗示する内容で結末を迎える。常長は帰国して1年後の1621年8月~9月頃病死したと伝えられる。享年52歳。常長の墓だと伝えられる墓は仙台市青葉区光明寺(伊達氏ゆかりの禅寺で北山五山の一つ)にある。他にも宮城県川崎町「円福寺」、宮城県大郷町「西光寺」、宮城県大和町吉岡、宮城県栗原市「洞仙院」に支倉常長の墓がある。どれが常長の本当の墓なのか不明である。これほどの大事業だったにもかかわらず慶長遣欧使節関連の史料はほとんど残っていない。強固な幕藩体制のもとで藩の存続を図るために、伊達藩が不都合な関連資料をすべて処分した可能性がある。
支倉六右衛門常長を称えるおずんつぁんの二句。
夢落つも気根残れり常長士 みちのく愚禿庵
無常なれど光みちたる六右衛門 みちのく愚禿庵
光明寺にある伝支倉六右衛門常長の墓
光明寺にあるルイス・ソテロの慰霊碑
光明寺入口。境内は広く本堂は立派である。