goo blog サービス終了のお知らせ 

おずんつぁんの徒然草

日常生活のよしなしごとをなんとなく。。水彩画やパステル画も。。。

サン・ファン・バウティスタ号に賭けた夢―—慶長遣欧使節に思う(3)

2024-09-07 20:22:18 | 歴史

慶長遣欧使節関連の研究書は多数ある。参考資料としては仙台市史特別編8「慶長遣欧使節」が大変有益である。研究者による説は一致しているところもあればそうでないところもある。信頼できる史料による歴史的事実を踏まえた上で、実際全体的に何が起こったのか、実際関係者は何を考えていたのかを正確に知ることは極めて難しい。それについては推測するしかない。遠藤周作の『侍』はまさにこのようなアプローチによって書かれた傑作長編小説である。

支倉六右衛門常長を政宗が遣欧使節大使に任命したのはなぜだろうか

伊達政宗とルイス・ソテロの野望について語る前に、そもそも支倉六右衛門常長がなぜ遣欧使節団の大使に抜擢されたのかということについて考えみたい。支倉六右衛門常長指名に関する史料は残っていないので、やはり推測するしかない。人選の基準は実績と人物だったことは間違いないだろう。家格は重要視されなかったかもしれない。六右衛門の実績として史料からわかることは、1591年21歳の時、政宗の上洛御供衆(じょうらくおともしゅう)を務めた。御供衆とは外部との連絡・接遇・警護にあたる家臣のこと。1592年22歳の時、秀吉の朝鮮出兵において伊達御手明衆(だておてあきしゅう)の役を務めた。伊達御手明衆とは伊達家臣から政宗が選んだ特別な命令を遂行する部隊のこと。1600年30歳までに、使番(つかいばん)の役を務めた。使番とは戦場において伝令や監察、敵軍への使者などを務めた役職のこと。どれも、強い忠義心、冷静な判断力、行動力、忍耐力、勇気、高い戦闘能力が求められる役職である。並の家臣にできるような役ではない。このような基準で重臣たちによって吟味され、推薦された候補者の中から政宗が選んだであろう。あるいは長年近くで仕事ぶりをみていた政宗が目をつけていた六右衛門を指名したのかもしれない。同乗する約140名の日本人乗組員を統率する力量と同行する宣教師ソテロや返礼使ビスカイノ、スペイン政府当局とうまくやっていけるかどうかも考慮されたであろう。この大役を遂行できる資質と能力をもつ者は支倉六右衛門常長しかいないと政宗は判断したと思う。

スペインでの常長にたいする人物評

スペイン側の史料によると、「大使は重責を担う人物であり、その交渉に能力がある。」、「支倉は尊敬に値し、沈着で知恵があり、談話巧みである。控え目でもある。」、「誠実で尊敬できる人物であり、人柄も称賛を受けるに値し、うまく自己管理できている。」とある。高い人物評価を得ている。スペイン人の評価では直接ふれられていないが、常長にはスペインとの交渉がうまくいかなくても長い間にわたって粘り強く交渉し続ける不撓不屈の精神があったことは間違いない。政宗が期待したように使命感の強い武士だった。常長がマドリードの修道院で洗礼を受けたのは、ソテロの強い助言(交渉をスムーズに運ぶためにはキリスト教徒になったほうがよい等)の影響もあったかもしれないが、やはり常長が本心からキリスト教徒になりたいと思ったからだと思う。主体的に決断したのだと考える。

伊達政宗がいだいていたかもしれない野望

1611年6月14日、政宗はビスカイノと江戸で出会った時、ビスカイノの兵士がデモンストレーションに発射した火縄銃に仰天した。その後何度かビスカイノと会って(ソテロの通訳で)熱心に話を聞くうちにスペインの技術力や軍事力に興味をもったかもしれない。ヌエバ・エスパニアと交易することで洋式帆船の操船術や航海術を知ることができるかもしれない。交易は伊達藩に富をもたらすかもしれない。さらに交易はスペイン製の火縄銃や大砲などの武器導入を可能にし伊達藩の軍事力強化に資するかもしれない。幕府に対抗できるほどの経済力と軍事力を得ることができれば、幕府を恐れる必要もなくなるのではないのか。そのためには商教一致方針をとるスペイン政府の言い分を聞き、イエズス会宣教師の派遣を要請し、領内での布教を認める。布教に必要な便宜もはかる。宣教師の派遣と交易条約の締結を実現するためにスペイン国王とローマ法皇に謁見し親書を手渡す。遣欧使節事業を実施するにあたって、政宗の片隅にこのような野心がなかったであろうか。結局、徳川幕府の禁教政策の強化と、その情報をつかんでいたスペイン政府の使節の目的への懐疑的な姿勢と使節団への慎重な対応により、使節の目的達成には至らなかった。国内・国際情勢の変化によって政宗の望みは断たれたのである。

使節団の帰還

支倉六右衛門とソテロ一行は日本出発から5年後の1618年8月、政宗が迎えに派遣した横沢将監や幕府船出奉行向井忠勝が派遣した船頭等を乗せたサン・ファン・バウティスタ号で、フィリピンのマニラに帰還した。これは、使節を帰還させるためにサン・ファン・バウティスタ号が再度ヌエバ・エスパニアに出航することを幕府が許可したことを意味する。2年間フィリピンに留め置かれた支倉常長らの日本人使節団は1620年8月マニラを出発し9月に仙台に着く。幕府から許可が出たので帰国できたのであろう。一方、ソテロは日本への渡航を許可されずマニラに留め置かれた。

ソテロがいだいていたかもしれない野望

ソテロはスペイン王国セビリア出身のフランシスコ会宣教師で、キリスト教の布教に極めて熱心であった。スペイン領フィリピンの日本人キリスト教徒から日本語を学んだ。マニラ総督の親書をもって徳川家康と秀忠にも謁見している。ビスカイノの通訳を務め伊達政宗とも知り合いだった。ビスカイノの通訳を務めただけでなく伊達領内でのキリスト教布教の必要性とそのために必要な条件のことなどを政宗に言葉巧みに語ったかもしれない。ソテロには、布教のためなら策を弄することも厭わないような人物(つまり策士)だったという評価もある。伊達領内にキリスト教圏をつくり、自分はローマ法王から司教に叙任され高位の指導者として活躍したい。そのためにはどうしてもローマ法王に謁見する必要がある。そういう世俗的な野心があったかもしれない。日本での布教を諦めきれないソテロは1622年日本に密航し薩摩で捕らえられる。時代は徳川幕府による厳しいキリスト教禁制下にあった。江戸をはじめ各地で多くの宣教師たちとキリスト教徒たちが殉教していった。ソテロもその例外ではなく、1624年8月長崎奉行により大村で火刑に処せられた。51年の生涯であった。日本がキリスト教禁制下であることを知っていたにもかかわらず密航までして、殉教することも覚悟のうえで、政宗の庇護を期待し、伊達藩で布教しようとしたソテロの夢と情熱は想像を絶する激しさだったと思わざるをえない。

帰国してからの支倉六右衛門常長

帰国した常長に政宗からどういう沙汰があったのかはっきりしない。キリスト教禁制下にあったとはいえ、キリスト教徒になって帰国した常長を処刑や切腹に処することはできなかったであろう。8年にもわたる困難な海外の旅を生き延び、政宗の使節として大役を務めた臣下に非情な処分をおこなうことはできなかったのではなかろうか。政宗が常長に棄教を迫ったのかどうか不明である。常長がキリスト教信仰を続けたのかそれとも棄教したのかどうかも不明である。支倉の領地で静かに余生を送るよう指示されたか。あるいは領内のどこか人の目につかない場所に蟄居させられたか。消息は闇の中である。遠藤周作の『侍』は常長がキリスト教を信仰し続けることを暗示する内容で結末を迎える。常長は帰国して1年後の1621年8月~9月頃病死したと伝えられる。享年52歳。常長の墓だと伝えられる墓は仙台市青葉区光明寺(伊達氏ゆかりの禅寺で北山五山の一つ)にある。他にも宮城県川崎町「円福寺」、宮城県大郷町「西光寺」、宮城県大和町吉岡、宮城県栗原市「洞仙院」に支倉常長の墓がある。どれが常長の本当の墓なのか不明である。これほどの大事業だったにもかかわらず慶長遣欧使節関連の史料はほとんど残っていない。強固な幕藩体制のもとで藩の存続を図るために、伊達藩が不都合な関連資料をすべて処分した可能性がある。

支倉六右衛門常長を称えるおずんつぁんの二句。

夢落つも気根残れり常長士      みちのく愚禿庵

無常なれど光みちたる六右衛門    みちのく愚禿庵

 

光明寺にある伝支倉六右衛門常長の墓

光明寺にあるルイス・ソテロの慰霊碑

光明寺入口。境内は広く本堂は立派である。

 

 

 

 

 


サン・ファン・バウティスタ号に賭けた夢——慶長遣欧使節に思う(2)

2024-09-05 15:02:14 | 歴史

支倉常長を大使とする慶長遣欧使節団(約140人)とビスカイノ、ソテロ、水夫等のスペイン人団(約40人)を乗せたサン・ファン・バウティスタ号は1613年10月28日伊達藩領内牡鹿郡月浦よりヌエバ・エスパニアに向け出帆し、1614年1月28日ヌエバ・エスパニアのアカプルコ港に到着した。3か月間の航海であった。出帆地については月浦が通説だが、雄勝浜だとする異説もあり、決着はついていない。

サン・ファン・バウティスタ号は500トン級のガレオン船と呼ばれる様式の船で、スペイン人船大工と幕府船手奉行向井将監が派遣した船大工(幕府はすでに洋式の船を3隻造していたので、様式帆船の造船技術を身につけた日本人船大工がいた)の共同作業によってつくられた。政宗は家康の許可がおりる前から洋船の建造を準備していたと思われる。資材の準備(特に木材の切り出し、運搬、乾燥)にはそれ相当の時間がかかる。人足と食料の確保や宿泊施設の準備にも相当前から取りかからなければならない。何よりも造船に必要な経費の財源を確保することが絶対必要であった。幕府は人手は提供するが金は出さない。62万石の大藩(仙台藩とほぼ同じ石高を有したのは尾張藩)だから必要な財源があったのだろう、と考えるしかない。しかし相当な出費だったはずだ。政宗は多額の支出に見合うリターンがあるとみて建造と派遣を決意したのであろう。そのリターンとは何か。

原寸大の復元船サン・ファン・バウティスタ号は1993年10月9日竣工し、石巻市渡波字大森の海岸に係留された。その後経年による船体の損傷が進み再建が断念され、4分の1の模型が作られた。模型を含む遣欧使節関連の展示は今年10月26日にリニューアルオープンする。

現在県庁18階展示室に、大崎市在住岡崎英幸氏が制作した精巧な50分の1模型が展示されている。たいへん見事なものだ。政宗の野望とソテロの野望については次回のブログで。

宮城県庁18階に展示されている模型。なお、「サン・ファン・バウティスタ」はスペイン人がつけた名称だった。日本人はこの船に固有名詞をつけなかった。「政宗の船」で通っていたと思われる。

 

 

 


サン・ファン・バウティスタ号に賭けた夢——慶長遣欧使節に思う(1)

2024-09-04 15:26:03 | 歴史

仙台城大手門跡脇櫓側の道路をはさんだ斜め向かいに支倉六右衛門常長のブロンズ像が建っている。支倉常長生誕400年を迎えその偉業を支倉常長顕彰会と河北新報社が宮城県出身の著名な彫刻家佐藤忠良に制作を依頼し、昭和47年(1972年)11月13日に建立した像である。52年前に姿を現した常長像は仙台城跡の方(南方)を向き今でも堂々とした存在感を放つ。

慶長遣欧使節と呼ばれる事業は徳川家康と伊達政宗の共同プロジェクトであった。事実家康は幕府船手奉行向井将監配下の船大工を政宗の船建造に送り込んで協力した。研究書によれば、この使節には次のような目的があった。

1.幕府がヌエバ・エスパニア(今のメキシコ。当時はスペインの植民地。)と直接通商交渉を開始するための外交交渉を行うこと。

2.仙台領内でのキリスト教布教に必要な宣教師の派遣を要請すること。

3.家康がヌエバ・エスパニアからの返礼使ビスカイノを日本の船で無事に本国に帰還させること。

仙台領内に宣教師派遣を要請する理由は、当時スペインは貿易と布教はセットでなければ認めないという方針をとっていたからである。家康はキリスト教布教禁止をフィリピン総督に通告していたが、貿易できるなら仙台領内での布教もやむなしと考えたのだろう。本国に帰還する途中日本に漂着して困っていた前フィリピン総督(フィリピンは当時スペインの植民地)を、家康が日本船でヌエバ・エスパニアまで送還させたことへの、ヌエバ・エスパニア副王からの返礼使がビスカイノであった。ところがビスカイノもヌエバ・エスパニアから乗船してきたスペイン船が難破破損し帰国できなくなっていた。政宗の船で帰還させることができれば好都合だと家康は思ったのだろう。

以上が使節派遣の目的についての通説であるが、政宗には幕府には知られたくない野望があったと言われる。野望を持っていた人物はもう一人いた。使節団の通訳およびスペインとの折衝係として同行した宣教師ソテロである。彼らの野望の内容については次回のブログで。