ヌチドゥタカラ「命こそ宝」

ヌチドゥタカラとは、沖縄の言葉で「命こそ宝」の意味。脱原発と反戦。命こそ守らなければならないもの。一番大切なもの。

沖縄メモリー

2015-05-20 13:38:46 | 日記
6月6日に東海村で三上智恵監督の「標的の村」の上映会https://twitter.com/hm_tokai が開催されるので、 PCに保存されている沖縄の旅の際の写真を見返していたら、 2010年に地元の常陽新聞に寄稿した拙い記事が出てきたので、UPさせてもらった。
2枚目の写真は謝花さん。 3枚目はオスプレイによる伊江島の低周波被害の記事。オスプレイの問題は事故の危険だけでは無いのだ。
4枚目は2012年にようやく辺野古のテント村を訪れることができた時のもの。5枚目は、フェンスに取り付けられた思い思いのアピール布に見入る仲間。他。
写真の上でクリックすると大きなサイズで見ることが出来ます。

常陽新聞 2010年4月14日掲載  沖縄「普天間基地移設」の地を行く 
        
 (上)普天間基地隣接の美術館で

 1月25日、友人と2人、那覇空港に降り立った。2度目の沖縄である。
 迎えに来てくれた玉城栄一さんの運転で、宜野湾市の佐喜眞美術館に向かった。館長の佐喜眞道夫氏は王家の子孫だそうで、接収されていた先祖の土地を取り戻した場所に自ら美術館を開館したのだが、その土地は米軍普天間基地の一部に食い込んだ形になっている。
 丸木位里・俊の「沖縄戦の図」を中心に据え、学習の場・ものを思う場を目指して作られたとのことで、戦争体験者の証言や朗読などの催しも開かれている。おりしもケーテ・コルヴィッツ展を開催中。彼女はドイツの女性芸術家で、平和への強い意思が貫かれた素描や版画・彫刻を残している。作品には苦しめられ、虐げられた人が描かれているが、美しさと魅力をたたえている。
 「沖縄戦の図」は特別室の壁全面を埋めて迫力をもって迫り、美術の持っている力を再認識させられる。佐喜眞氏からはまた、ケーテ・コルヴィッツから学んだ丸木氏の影響が、いわさきちひろへと受け継がれたと教えられた。
 美術館屋上に上がると普天間基地が一望でき、正面に滑走路が長々と広がって見える。昼夜を問わず離着陸訓練が行われているというが、雨のせいか離発着する機体は見えなかった。普天間は、現在および次の“戦場”を見据えた実践訓練が行われる米海兵隊基地。配備されている主な兵器はヘリコプターで、戦場に直接兵士を送り込む中・大型のヘリ、攻撃ヘリの「シーコブラ」など。
 約2700㍍の滑走路をドーナツ状に囲む宜野湾市の人たちは騒音に苦しみ、事故・事件と隣り合わせの生活を強いられてきた。2004年沖縄国際大学本館に米軍ヘリが墜落・炎上した事件は記憶に新しいが、一歩間違えば大惨事を引き起こしていた。住民にとって世界でも最も危険な軍用飛行場の一つといわれている。
 佐喜眞美術館から、重要文化財に指定されている北中城村にある歴史的建造物「中村家住宅」を経て、画家である玉城さんの自宅アトリエにお邪魔する。旧正月が近いので、奥様がそれにちなんだ郷土料理を用意して待っていてくださった。ここに居ると、「あー沖縄に着いた」という気持ちに浸ることができる。沖縄の人々の温かい心を表している「いちゃりば ちょーでー」という言葉を以前、教えてもらった。意味は「出会って、食事をともにすれば皆兄弟」とのこと。以来、妹気分で甘えさせてもらっている。
 前日24日に名護市長選で米軍新基地建設反対を掲げた稲嶺進氏が初当選したニュースは、どこに行っても人々を沸かせていたが、穏健派のTさん夫妻も心から喜んでいた。「政府が行ってきた振興策は本土の企業を太らせたばかりで、地元のためになんかちっともなっていないのよ」と奥様は言っていた。
 P 沖縄・北中城村の玉城さん夫妻と筆者㊨

(中)伊江島
「沖縄のガンジー」を受け継ぐ

 1月26日は本部港からフェリーで伊江島に渡り、「わびあいの里  ヌチドゥタカラの家」を訪れた。ヌチドゥのヌチは命、命あってこそとの意味で、阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)氏が自費で建設した反戦平和博物館である。
 集められた資料はガラスケースの中に収められる事無く床や棚に所狭しと置かれており、戦争によって失われた人々の生命、暮らしをじかに見ることができる。伊江島は東洋一と言われる飛行場があったため、「沖縄戦の縮図」とも言われた最激戦地。阿波根氏は戦後、強制的に土地を取り上げた米軍の暴力と蛮行に抗い、完全無抵抗非暴力で土地返還闘争の先頭に立って、「沖縄のガンジー」と呼ばれた人。氏が2002年に101歳で没するまで40年をともに歩んできて、「ヌチドゥタカラの家」をともに作りあげ、現在館長を務める謝花悦子さんが待っていてくださった。
 1月10日には普天間基地の移設先視察のため、平野官房長官を乗せた航空自衛隊のヘリコプターが伊江島上空を飛んだというニュースがあった。驚き、案じつつやって来たのだが謝花さんはやはり、どうしようもない憤りで突き動かされていた。
 昼食も脇に押しやってほぼ3時間、さまざまに話をして下さった。この旅に同行した中学からの友は学生時代に史学科を専攻していたのだが、その二人だけのために、時に手元のメモに目を落としながら。修学旅行の生徒や民泊の学生、一般の観光客を問わず、訪れた人に「平和は自分の手で作るもの」と、いつも渾身で語りかける謝花さんなのだ。
 ソーキ(豚の骨付きアバラ肉)を野菜・昆布と煮た物や大量の自家製野菜サラダなどの夕食を自ら作ってくださり、一緒においしく頂いた。食事をしながらの「この不況は、戦争準備だよ」という言葉が印象的だった。「本当に国民の幸せを思うなら、できること、やれることはまだたくさんある」―確かにそうだ。
 ちょうどその晩、謝花さんの談話が基地移設問題を取り上げたテレビ番組で放映されるというので、皆で見守ることになった。「沖縄は、伊江島は、もう充分我慢してきた。これ以上は無理」などと話されている。気持ちの伝わる話だった。伊江島のかつての戦争の被害や土地返還の闘いなど自分の語ったことが番組全体に反映され、まとまっていたと満足されていた。 
 宿泊は、わびあいの里の「やすらぎの家」。かつて生協を営んでいたしっかりしたコンクリート造りの3階建てで島の中心地にあり、整備されていて部屋もたくさんある。資料館の見学と学習が前提で、2食付いて4500円という安さ。今度はたくさんの仲間とここに泊まりたいと思った。
 この原稿を書いている最中の昨日3月27日、「県外移設は無理か」という最近の動きが心配で、謝花さんはどうしておられるかと電話をした。土地収用委員会の公開審理に行って、戻ってきたばかりという。「県内たらい回しのこの現状!政府は沖縄と国民を軽く見ているんだね。悔しい」「しかもあと10年の伊江島の基地使用延長まで出してきた」「4月25日に反対意志表明の県民大集会を開くことが決まり、今準備しているんだよ。ヤマトでも同時期に集会を開いて欲しい」。 
 カリエスの後遺症で松葉杖に頼り、歩くことも不自由なのに奮闘しておられる様子に、つい「頑張って下さい」と言ってしまった。「頑張って、という言葉は聞きたくない。ヤマトにとっても自分の問題でしょう。基地建設も維持費も全部税金だよ」と言われてしまう。返す言葉も無い。

P 「ヌチドゥタカラの家」で語る謝花悦子さん



 (下)辺野古
基地は要るのか?

 1月27日朝食の後、謝花さんに「今日は本島からの援農の皆さんが来られるのでお昼も食べていって」と誘われ、自給自足の暮らしの最高のご馳走、香草入りの「アヒル汁」を頂く。
 港まで送って下さり、固い握手で別れの挨拶を交わしながら謝花さんは「時間があったら、辺野古を見て行ってほしい」と言う。辺野古は普天間基地移設先、海を埋め立てての滑走路建設計画地で、反対住民が2000日以上座り込みを続けるテント小屋がある。ヘリ基地反対協議会の基本姿勢「完全非暴力の行動規範」は阿波根さんの精神から受け継がれたものだ。
 本部港で待っていてくれた玉城さん夫妻は快く請け負ってくださり、「大浦から見ないと、意味が分からないさあ」と名護岳側からぐるりと迂回してくれた。マングローブの林を横に見ながら大浦川河口を下り、大浦湾を廻って対岸に車を止めて、辺野古を見晴るかした。ひたすら碧く穏やかな海は、午後の陽光の中、人の姿も無く静まっていた。かつて潜って観たサンゴ礁海中の息を呑む美しさを思い出す。魚も極彩色だが、生きているサンゴもシャコ貝も先端を青や緑、橙色にネオンのように光り輝かせていて、その輝きは写真では伝わらない。絶滅危惧種のジュゴンさえ棲む、世界一美しいと言われる沖縄の海はどこであれ、このままの姿で未来に残していかなければ。
 時間の都合もありテント小屋に寄ることはできなかった。那覇に着いたころにはすっかり日も暮れ夜になっていた。道中いたるところに基地があり、基地とともに生きざるを得ない暮らしを実感させられた。
 国連の人種差別撤廃委員会は今年3月16日、日本政府に対し「沖縄における不均衡な軍事基地の集中が住民の経済・社会・文化的権利の享受を妨げる」と早急に改善するように勧告した。つまり沖縄に米軍基地が集中していることは、日本政府による沖縄県民に対しての「差別」であると国連が判断したのである。だが「国連の決議」という極めて重要なこのニュースは沖縄のメディアが報じただけで、中央のメディアは報じなかった。教科書検定に関する懸念や、使うことを禁じられた歴史もある琉球語を義務教育課程で教えることなども併せて、勧告されている。
 そもそも、「沖縄の基地は日本を守るために在る」というのは本当か?在沖米軍はベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、そしてイラク戦争に出撃し、多くのアジアの人々を殺傷してきた。沖縄の基地に無関心な私たちは戦争加担者なのだ。主権国として、きっぱりとした結論を出してよい時期を迎えているのではないだろうか。
 差別を受け続けて来たからこそ、戦火の中で「日本人の誉れ高くあるべし」と強く願って軍に協力してともに戦い、その協力のゆえに機密漏えいを恐れて自殺を強要され、見殺しにされ、あるいは処刑された沖縄の人々。
 実際に沖縄に行ってみて分かったこと、知ったことがたくさんあった。それを私たちに示してくれるのは、市井の人々の、戦争の無い世界を望む強い願いと祈りなのだ。「佐喜眞美術館」も「ヌチドゥタカラの家」もそして「ひめゆり平和祈念資料館」も、民間によって開設され大切に運営されていて、ヤマトンチュウ(本土の人)が訪れるのを、今も待っている。
 どこまでも青いきれいな海とやさしい人々に癒やされながら、「自分に何ができるのか」という大きな宿題を抱えて終えた3泊4日の旅だった。

P 沖縄の海



読谷村の9条をたたえる大看板。


知花さんにチビチリがまを案内してもらいました。

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