”スローライフ滋賀” 

【滋賀・近江の先人第334回】江州音頭の共同創作者・真鍮家好文(東近江市)

 真鍮家好文は「奥村久左衛門といい、1839年(天保10年)金屋村(現東近江市)に生まれ、1920年(大正9年)81歳没。
 
 
 金屋村(旧八日市。現東近江市)は中世から鋳物師村として、全盛期は近江の寺院の釣り鐘を多く生産していた。その関係で金物細工職人も多く、奥村家は代々真鍮細工を家業とし、「真鍮家」と称していた。
 
 「久左衛門」は近くに住む桜川大龍」から祭文を習い、二人で協力して江州音頭を作り上げて行った。
 「江州音頭」は、「屋台音頭(盆踊り用)」と「座敷音頭」の2つの流れがり、貝祭文は座敷音頭に引き継がれている。
江戸から明治初期に、大阪に貝祭文専門の寄席があり、祭文を改良し、物語風に変えた座敷音頭が近江から京都、大阪に広がった。
 「江州音頭」を取り入れた「河内音頭」が大成し、真鍮家好文の弟子「志賀淡海」が「淡海節」を生み出した。大阪の音頭取りには桜川性が多いがいずれも桜川大龍に由来している。
 
 「江州音頭」が全国的に広まるのは1897年(明治30年)以降で、明治24-25年頃になると屋外の盆踊りは座敷音頭として全盛を迎えた。大阪を始め近江商人がいるところ、全国に広まった。桜川大龍は全盛期に遭遇することなく1890年(明治23年)81歳に没している。
 
 「桜川大龍」の協力者「真鍮家好文」は大龍の没後も滋賀にいて、江州音頭の弟子を育成した。上方漫才の祖、玉子屋円辰は音頭を学ぶため八日市に来ていた。
明治末に大龍の門弟らは大阪千日前界隈の寄席にこぞって進出し、落語や音曲と並んで人気の演目となった。
 近江商人兼業の音頭取り達が東海道・京街道・清滝街道・伊賀街道など行商で各地の人々に江州音頭を伝えたことが基となり、各地で独自の改良を加えられ大阪の江州音頭が生まれ、「河内音頭」の成立にも多大な影響を及ぼした。
 大正年間、座敷音頭より「屋台音頭(盆踊り)」の方が盛んになり、屋台音頭を継承していた真鍮家の節が広まった。
 
 「江州音頭」には、家元の「桜川(座敷)」と「真鍮家(屋台)」の2つの流れがある。
祭文の要素を多く伝えているのが座敷であり、桜川雛山以来の桜川の性を名乗り、真鍮家好文は敢えて桜川を名乗らなかったのは祭文ではない、踊りにあった江州音頭を創り出した自負の表れとも言える。
 
【過去ログ】

【滋賀・近江の先人第32回】江州音頭の創始者・桜川大龍/西沢寅吉(東近江市)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/a2bfec37f02bfb473a0688fadf269840

【滋賀・近江の先人第106回】淡海節を作った喜劇王・志賀廼家 淡海(大津市)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/059f6edcf68e6c49177dfc73553e039b

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