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【滋賀・近江の先人第106回】淡海節を作った喜劇王・志賀廼家 淡海(大津市)

志賀廼家 淡海(しがのや たんかい、1883年(明治16年)12月13日 - 1956年(昭和31年)10月15日)は、劇団一座を結成、後に喜劇に転じた。「淡海節」は一世を風靡した。



 ヒストリー
1883年(明治16年)12月13日、滋賀県滋賀郡本堅田村(現滋賀県大津市本堅田)の割烹旅館の子として生まれ、本名田辺耕治と言う。しかし、父は出奔し、母は4歳の時、病死したため、太湖汽船堅田港の貨客取扱所兼旅人宿「二階屋」を営む祖母に育てられた。少年淡海は叔父と共に太湖汽船の発着業務を手伝った。

明治33年、郷土芸術振興江州音頭大会で第1席となり注目を浴び、桜川国丸とか真鍮家国丸と名乗り、随一の江州音頭取りであった。

18歳の時、役者を目指し地方廻りの時代を経て、1905年(明治38年)新派劇団堅国団を組織して座長となり、1908年(明治41年)喜劇に転じて、芸名を「志賀廼家淡海」と改め座名も八景団と変えて地方巡業で芸を磨いた。

一世を風靡した「淡海節」は地方巡業の途中、舞鶴の浜でヒントを得たと伝えられ、1917年(大正6年)熊本の舞台で発表し、天性の美声もあって世間から絶大な評判を得、1919年(大正8年)一座解散の後、喜劇界に進出し、曾我廼家五郎・十郎と人気を二分する喜劇界名優として知られた。

大正9年、淡海劇団は松竹と専属契約を結び、脚本・演出・主演を兼ねる関西の喜劇王として第1歩を踏み出している。

第2次世界大戦の敗戦は滋賀県虎姫で迎え、終戦後は宗教劇に転じ、東西本願寺の後援で蓮如劇、続いて親鸞劇で全国を巡演した。また、渋谷天外や曽我廼家十吾を育てた。1956年(昭和31年)10月15日、巡業先の鹿児島で急逝した。大津市湖西線堅田駅前に淡海顕彰碑が建てられている。


淡海節
淡海節は志賀廼家淡海が1917年(大正6年)、熊本の大和座の劇中で「ヨイショコショ節」を初めて唄い、それがファンによって「淡海節」と呼ばれるようになった。日本の庶民層、花柳界などでも大いに受けた劇中歌の一つである。現在では淡海生誕地の滋賀県大津市堅田で民謡化され、1984年(昭和59年)に淡海節保存会が結成された。

<Wikipediaより>

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