どさ

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落ち着きに欠けたものが多くなりますがそれしかありません。

月見そば(その1)

2019-12-31 20:07:15 | エサ日記

 

 

月見そば(その1)(令和元年1231日)

 

   新しい年を迎えますその刹那には、“年越しそば”をいただきます。温かきにしろ、清涼にしろ、ほのかな蕎麦の香りは、ひとつの流れである時を、今年と来年に分かち、それがまた、ひとつの自我であるわたしを、過去と未来に分かつのです。さらには、そのような儀式や意味づけは、日々の中には無限、かつ重層的に存するがゆえ、過去と未来は各々矛盾しつつもおめでたくもわたしとして在り続けていくのです。

さりながら、過去の、しかも幼い頃の私には、この“年越しそば”というものはちっともおめでたくない、どちらかといえば苦痛を伴う儀式でありました。なぜなら、そのときのわたしとそばを結ぶ関係には、基本的に選択というものはなかったわけです。

 

父は、ずいぶんとそばの好きな人でした。とくに老いてから体の自由がきくあいだ、齢を重ねるごとにそれは昂じ、訪れるたびに棚を占める干蕎麦の割合は増し(箱買いだったようです)、流しには常にザルやら猪口やら何らかのそばの痕跡が残っており、それはあたかもそば好きを通り越し、さながら“蕎麦憑き”のような状態を呈していたのです。そして、猪口が転がっているからには、父は“もりそば”、きりっと冷され、固くごつごつするそばが好きな人でした。わたしは、あの有り様を見て、ああ父というものは、子のためにはずいぶんと忍耐強いものであったのだなと感じております。というのも、父はわたしや弟が幼い頃には、ハンバーグやハウス・バーモンドカレー(りんごとはちみつ入り)、はたまたケチャップライスなど母が作る同じような料理をえんえんと食べ続け、たまにそばを茹でるにもそれは温かく柔らかいそば、時には鍋焼き蕎麦なるものに化けて供され、それをさらに延々と食べ続けていたわけですから。

かといって、母とて、父の好みを知らないというわけではありませんし、ハレとケはその世代のひとらしくきちんと分けて家事を進めておりました。つまり、新しい年を迎えるにはきちんと家族で“年越しそば”、それもお父さんの好きな“もりそば”というように心得ていたのです。師走も後半に入ってから母はさまざまな乾物を戻し煮て、家中をクリスマスから正月に急改宗させ、方々から物を買い、親類縁者のための準備をし、万端整えた総括が“年越しそば”でした、紅白を見ながらのおそばです。高度成長期の絵にかいたような家族像でもありました。しかし、母には、父よりいくぶん性質の悪いものが憑いておりまして、それがこういう刹那、必ず鎌首をもたげてくるのです。それは“卵憑き”というものでありました。いまだに、いくら諌めても改宗しないどころかより酷くなる卵憑きとは、できあいの料理をより格上にするには卵こそ答え、良く造られたものを月見にするとそれはより至高であるという妄想兼信仰であります。つまり、心をこめて作った料理の上には、無分別に生卵を落とすというそれはそれは嫌な性癖でした。

 その年も蕎麦はきちっと茹でられ、かちっと冷やされ、家族各々の簀の子の上に盛り付けられます。中央にはさらにおせちが据えられ、豪華とはいわないものの、充足に満ちた年越しです。揃えた母も充足に満ちた顔であります。幸せなわけですね。

“あっ、これがあぶねぇんだ”この予感は毎年必ずあたりました。

「あら良くできた・・そうだ卵いれなきゃ」

そう言うが母は、落ち着きに欠けたウサギすわ脱兎の如く席を離れ、次には落ち着きに欠けながらも器用に卵を5~6個もってきて食卓に置き、まず自分の蕎麦に卵を落としました。冷えて固い麺の上に。

次にその手は、「じゃ、マコトちゃんね」と母の隣にいる弟に向かいます。

母は両手で卵を持ったまま、小指を立てて弟の蕎麦の中央にぐいぐい穴を穿ち、そこに卵を放ちます。悲しい弟の表情。

「ミノルくんもね」忌々しい両手が近づきます。

「いいって、ぼくじぶんでやる!」わたしはその年越も諦めの心で手榴弾型の卵を受け取り、蕎麦の上で卵を割ります。しかしながら、母の丹精込めた蕎麦ですので、盛り付けもあいにく形よく中央が山状です。生卵は、蕎麦の頂上から簀の子の脇へずるずると流れていきました。

「あら、何やってるのミノルくん」そう言って母は素早く箸を蕎麦につっこみ、生卵と固く冷えた麺をぐちゃぐちゃに、まんべんなく引っ掻き回します。

そして、「お父さんも入れる?」と卵を持って両手を父の蕎麦の上に。

「ああ、おれはいいよ」といなす父。

「あ、そう」

(わたしは女性ではないので分かりませんが、もしエレクトラコンプレックス(娘が母へ抱く潜在的殺意だそうです)というものがあるのでしたら、きっとそのときに結んだことでしょう)

 そうして、私の少年時代の“年越しそば”とは、冷えて固くて黄色くてかつ幾つかの泡が立っているものでした。

その当時でも、わたしたちの親の世代、いくらかの戦前と戦後を知っている人たちに卵がどれだけ貴重だったという事は頭では分かっておりました。そして、それは時代の在り方、父母の過去の経験として理解しなくてはならないのだと思います。しかし、母のそれは、時代以上に偏執的なものを感じています。最近、それはどうも彼女の生まれ育った土地柄が関係していたのだという事が分かってきました。その土地は昔の物資集積地で、特に当時は石炭の集積地として重要な地方都市であったのです。しかも、それら石炭を産する炭鉱は、九州のように一カ所に巨大な埋蔵量を有するのものではなく、山の中の小さな炭鉱がネットワーク状に拡がり、その要として発展した都市とのこと。さらに、そのような土地ではちょっとした贅沢は卵である傾向があることなどが分かってきました。つまり、海辺でもなく、穀倉地帯でもない、自前の農業や漁業や商業といった歴史では、海の幸、山の幸などの御馳走という文化に届きえなかった、中東のある地域の住民が偏執的に卵を消費するのと似た構造があるのかと思い、同時にそういう人たちは永遠に卵以外の選択をする人々を理解できないのではないかと少し恐ろしくなりましました。

 

                 

 

さて、わたしは別に年越しそばから思い出された不条理を書きたくてこの文書を書いているわけではありません。本当は、年が移り変わるこの今に、時間と自己という、多少哲学的な思考ゲームを現してみたかったのです。それは、“あなたがレストランに入り、「月見そば、卵抜いてね」と注文してた際、何の違和感なくただのかけそばが提供されたなら、あなたかなり高い確率で、月見そば専門店にいるという”というもので、時の流れのなかにあって、時と同じ速さで存在する自己は、時の流れをいかにして知りえるかということを現してみたかったのです。が、年の瀬に何の手伝いもせず、このような文を書いていますわたしに対し、ほら今このときも、キッチンや茶の間から殺気だった空気が伝わってきます。あともう少しでそれは臨界に達するでしょうから、私は遅まきながらも年越しそばを茹でる作業に入りたいと思います。では、みなさま良いお年を。
 
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