どさ

詩を投稿しはじめました。
そのうち、紀行文も予定しています。
落ち着きに欠けたものが多くなりますがそれしかありません。

南十字星共和国

2020-02-11 15:42:31 | 猫と和解せよ日記

南十字星共和国

(令和二年2月11日)

 

    紙面・画面は、新型コロナウィルス感染で満ちている。そのせいで、巷もマスクで満ちている。たまたま花粉症が始まる時期と重なっていたので、薬局には、大量に在庫があり、望む人には十分いきわたっているだろう。もし、マスクが感染拡大防止に効果があるのなら、良かったねーニッポン、花粉症大国になっていて。

    ところで、私は、マスクのうち、黒マスクが少し苦手である。どうしても“カラス天狗”や“ハロウィン”に見えてしまい、この病気を茶化しているような、「疫病を正しく恐れているのか?」と聞きたい気分になる。皆さまも、巷でマスクをしている人が大量に倒れていて、トリアージ的に同じなら、何となくハロウィンくんの救助は後回しにするのではなかろうか。それゆえ、“猫と和解せよ書店”で、例によって

【がぶ】「痛てーぇ!」

と銀地の洗礼を受け、指に血を滲ませているハロウィンくんがいても「猫からの感染症に、黒マスクは効き目ないんだろうね~」と静かに眺めている。

                                                (17世紀、ペスト防止マスク)

 

    その“猫わか書店”で見つけた本に「南十字星共和国」(2016年 白水社)という短編集がある。作者のブレリィ・ブリューソフ(1873-1924年)はロシアの作家で、表題作「南十字星共和国」は、世界初のSF小説かもしれない。しかも、テーマがパンデミクスによる文明崩壊である。ストーリーは以下

    南極大陸の鉱山連合が独立を宣言し「南十字星共和国」が建国された。豊富な地下資源、最先端技術、高度な分業、それに円滑な官僚機構とそれを担保する民主的な政治システム。その人工国家は、争いさえも超克した、人類英知が結晶したユートピアであった。

   しかし、ある日そこに「自己撞着病」(=自己矛盾病)という病気が発生する。それは“自己の考える事と矛盾した行動を行ってしまう”という病である。

    最初はささいな症状であった。右へ行こうとしてなぜか左に曲がってしまう、帽子を脱ごうとして手が逆に深々と帽子をかぶる、料金を受け取る店員が、なぜか客に金を渡してしまうなど。しかし、強烈な伝染病であったその病気は、ほどなく深刻化する。警察が交通を遮断したり、看護婦が毒を盛ったり、機械や車のオペレーターは暴走しはじめる。誠実で利他的であればあるほど不実で利己的になり、また、生存の基本的な部分、つまり絶対に利己的でなければならない部分で不必要に利他的となり、意味なく死ぬ者が続出するなど。社会は縦の方向からも横の方向からも崩壊していく。

   健常者は、感染の拡大を防ごうと必死に努力し、英雄的に奮闘する。しかし、奮闘努力の甲斐もなく、感染は止められない。しまいに人々は流言飛語の中、安全地帯を探し求め、特定の地域に殺到する。当然、殺到するだけ感染は蔓延し、南十字星共和国は破壊と混乱と殺戮の中に音をたて崩れていく。

    最後は、外国の飛行機が上空から、崩壊した元南十字星共和国の取材を行っているシーンとなる。そして取材は、そんな状況下でもまだ生きている人があり、ゼロ以下の局面からの再建を始めているようだという簡潔な報告で終わる。

   はじめて「南十字星共和国」を読んだ時、ブリューソフは、パンデミクスを比喩にソビエトを揶揄した小説を書いたのかと思ったが、そんなことでは全くなく、むしろ真逆であった。まずこの小説の執筆時期は1904年であり、本物のパンデミクスの14年前である。

                  ・

     第一次世界大戦は1914年に人の手で始まり1918年に終った。終わらせたのは人の手ではない。“Spanish Flu”というある意味で神の手だ。ただ、この神の仲裁の凄まじきこと、高熱・衰弱・ショック・多臓器不全などの御業により、およそ一年あまりで約5000万~1億人の魂を天に召喚した。第一次大戦の死者数が2500万人であることから鑑みれば、この数値は「うわー!!戦争どころじゃないぞ」と交戦各国を強制的に和平テーブルに座らせたことは疑うべくもない。

    “Spanish Flu”は日本では”スペイン風邪“というわりと呑気な呼称だが、近・現代初のパンデミクスであり、人類史の最大の事件の一つである(実際、死者数で言えば、スペイン風邪は第二次大戦の死者数と互角かそれ以上である)。

    その特徴は、若く壮健な人間もコロリと死んでしまうところにある。このコロリの原因候補として、サイトカイン・ストームというものがあげられている。

    サイトカインは、免疫細胞から放出される生理活性物質の一種であり、色々な種類があるが、体に炎症を起こさせ病因と戦うもの、体の炎症を静めるものに大別され、サイトカイン・ストームとは、免疫機構が暴走し、サイトカインを大量放出し、病因だけでなく、自己も攻撃しはじめる現象である。概念は全く違うが、重症アレルギーやアナフィラキシーショックと似ている。つまり体内での強烈な自己矛盾で自己崩壊していくのである。

                  ・

    ブリューソフが描いた世界は、一見、完璧な体系であろうと、それが、閉じた系であるなら、自己矛盾すれば元の木阿弥ということを示唆していて興味深い。

    ところで、ブリューソフは、ロシア象徴主義の代表的作家だそうである。象徴主義とは、事実を単なる現実の一側面として捉えず、何かの象徴や暗喩や兆しとして捉え、事実の彼方の超越的な世界を求めていくということらしい。つまり、見たまま、聞いたまま、説明されたままじゃ、絶対に満足しないぞということなのだが、事実、ブリューソフは批評家でもなければ空想家でもなく、強烈な実践者であった。ロシアで1917年に2月革命がおこり、ケレンスキー内閣が成立した際、彼はその総花的で、理想的、付和雷同的な施策に断固反対し、矛盾は全て根本から破壊し尽くすべきだとして、ボルシェビキに参加し、1918年のソビエト連邦成立後は幹部にまでなっている。ばりばり革命人であった。そんな人の書いた小説だったなんて、なんかこえ~。

                  ・

 さて、今回の新型コロナで我々は、当面、二つの自己撞着病(自己矛盾病)を注視すべきなのだろう。

    一つ目はもちろん免疫・生理的な危機で、最も注視すべきは、サイトカイン・ストームである。現在、世界の研究者たちが必死に、その可能性を探り、誰がどれをどのくらい恐れるべきなのかを解明しようとしている。しかし、正しく恐れることは実は大変難しい。当然ながら、判断の正しさは、情報の確かさと比例する。

   そこで二つ目となるのは社会・管理的な危機である。いくら正確で精度の高い情報が発信されようが、社会の媒体・媒介たる官僚やメディアに自己撞着病(例えば忖度病)が蔓延していては何にもならない、というか危険である。もちろん、情報の受け手もうがった目で情報を受け取れば、正しい判断ができる可能性はすさまじく減る。

   そういった面では、黒マスクが似合う、カラス天狗のような宰相は、桜を見るだのなんだので、いたずらに社会の相互信用を低下させた。やらんでいいことをしたのだ。

    一方、隣国の宰相である大天狗さまは、やってはいけないことをやり、大しくじりを重ねている。米国、香港、台湾と立て続けに負け(一帯一路も早く負けろ)、今、国内では人民から強烈なしっぺ返しを受けている。

    カラス天狗は浅知恵の化身で、大天狗は大罪の化身であるという、伝説に見合った正体がどんどん露わになっていく。この流行が収まったなら、日頃から、お上に正しく文句をいう事は、実は自分の身を守ることに他ならないということに改めて肝に命じるべきだろう。

    他にも、国際水平分業が唯一の生き残る路だと唱えて、せっせと物流・商流を他所様に頼った産業界の方々、自己撞着病って怖いですね~、祟りってやつですね~。

    さて、では、この祟りの中でせめて救いに近いのは何だろうか?そうだな、この病気の下では、ナショナリズムによる喧嘩など起こりようがないという事ぐらいかもしれない。本当は、第一次世界大戦で学んでいるはずだったのだが・・


アラビア式恋愛治療法(その2)

2020-01-31 22:33:10 | 猫と和解せよ日記

アラビア式恋愛治療法(その2)

(令和二年1月31日)

   今年の札幌雪まつりに、中国チームは参加を見合わせるそうだ。すわ、新型コロナの影響を配慮しての措置かと思ったが、関係者によると、春節休暇に浮かれた中国側スタッフが訪日ビザを申請しそこない、全員来られなくなったとのこと。そうだった、相手は中国だった。長期赴任していたわたしも、しばしば思い違いをする。中国側が、日本で言う“世間様”を気にして行動を自主規制することはまずない。日本人感覚で批判したり賛同しても、結果的に的外れ、怒ったり心配しただけ損という場面によく出くわす。逆に、彼らは彼らの確固とした行動規範を持っているので、そこを理解しない日本人が、良かれと思ってわざわざ実行し、結果、彼らの逆鱗に触れるという場面にもよく出くわす。戦後の日本は、ある意味、他民族のココロの仕組みを把握する機会を大きく失っており、交渉を持つ際には、意識的に相手側の行動規範を推し量っていくことは重要である。

   行動規範を、直感的に把握するには、その民族の宗教の売りの部分を観察するのがお勧めである。すなわち、各々の宗教ですご~く大事にする教義は、それを信じる人々にすご~く欠けたものであると捉えておけば、当たらずとも遠からじ、色々な齟齬を防止できる。例えば、

・キリスト教は隣人への愛

・儒教では礼節

・イスラム教は寛容

   一方、この欠けた部分から学べることも多い。欠けた部分とは、要は不得手なことである。愛が過ぎて、右左に頬を出し続けていれば終いには殺されるだろうし、礼儀正しく、手出しを控えていれば喧嘩に負けるし、寛容すぎるカモは必ず喰われる。それゆえ、彼らは、その不得手を実行する際に、抱き合わせに安全装置を組み込むよう、工夫をしており、そこが大いに学べるところである。

(その1)で紹介した、恋愛治療で、神医とスルタンは、寛容を示すと同時に、カモになるのを防ぐ手立てを打った。この手法は、寛容を示す必要に迫られたとき、カモにならない仕組みである。

 だいぶ昔、職場研修で、受講した研修から一つを小レポートにまとめる作業があった。わたしに当たったのは管理マネジメントで題材は、

“娘が不良とつきあい、両親は強くこれを諫め続けた。すると、しまいには娘は不良とともに家出してしまった。両親はいかにすべきであったか”

   わたしは、このケースは、両親は事態に対し寛容であるべきと同時にカモになるのを防ぐ手立てをこうじる必要があったのだととらえ、以下にまとめた。

「アラビア式恋愛治療法」

(スルタンのお妃の症例と治療法を引用した上で)

 「この治療法を参考にすると、ここで最も重要なのは娘の心身問題である。放置しておけば娘は、非行化や扶養能力のない出産など、社会参加の機会を大きく制限されることになるだろう。また強制的な離別は、娘の心にトラウマを残し、人生上の適応に障害をきたすであろう。画期的な解決策がないのであれば、まず両親は娘と不良の交際事実をとりあえず容認し、両親・娘・不良と日常的な対話チャンネルを構築しておき、破滅的な事態を防ぐよう監視し続け、その後、チャンネルを通じて、不良に条件を付けていくのはどうであろう。怠け者なら勤勉を要すること、カッとくるなら忍耐を要すること、群れているなら離脱させること・・、こういった条件を、娘自身が発案・納得して不良に課すよう誘導する。当然、不良は不良ゆえ達成できない。不良が馬脚を現したところで、娘は愛想を尽かし交際をやめるだろう。しかし、もし不良が達成したなら、それはもう不良の要件を満たさないので、両親は交際を正式に認め祝福すれば良い。説得するならば、あらかじめ狭い出口を設定せず、説得者自身も変化して和解できる仕組みが重要かと思われる。」実に単純な回答をしたつもりだった。

   しかし、その後、人事から呼び出しがあり、提出したレポートについて、なにやら文句をたれやがる。その文句に曰く:

「これは興味深いが、引用部分は少々暴論めく。また、きみの主張自体、ここでの管理者に求められていることではない。つまり、説得者は忍耐力を持って徐々に説得を積み上げ、被説得者に世間様の存在を気づかせ、自発的に行動を規制するよう誘導するので充分なのだ。まかり間違えても、説得する側が変化するような仕組みを組み込んではいけない。そんなものはおえらい人に任せておけ。」

・・なんでこの野郎おえらそうに~、猫と人でさえ関係の中で相互に変化するもんだべや・・、あ、でも良いことを聞いたぞ。では、貴方様は、わたしが世間様に気がついて自主規制するまで忍耐を続けてくださるのですね、“إن شاء الله(インシャラー)”

(アラビア式恋愛治療法おわり)

 


アラビア式恋愛治療法(その1)

2020-01-28 23:50:19 | 猫と和解せよ日記

アラビア式恋愛治療法(その1)

(令和二年1月28日)

    わたしの暮らすS市のH大学前には、書店や古書店、喫茶店が多い。徘徊するたびに、なんらかの店に巡り会う。H大学の横に暮らして数年たつが、それでもいつも、何かを見つけるのは不思議なものだ。ただ、H大学も大きい。総敷地面積は6億㎡以上あり、山手線内より大きい。S市内のこのキャンパスはそのごく一部なのだが、それでも周囲は20km近くあり、考えなしに徘徊すると、川・沼・草原、子連れ鴨・狐・自転車、森・畑・研究施設など諸々がモザイク状に散らばっているため、まず迷って出られなくなる。この土地に寺社が加われば、それはもう間違いなく一つの地方都市だろう。

   そして、大学の外辺、西側には、これまた、学生街でも繁華街でも田舎町でもない、なんとも形容しがたいタウンが長さ6kmにわたって形成されている。

   先日、そんなタウンで、ある店舗の張り紙に目がとまった。

    猫と和解せよ

   なんだろうこれは? 店舗を見る。それは古書店で、古書店はガラス貼りで、ガラス越しの本棚では猫二匹、発酵中の生地のように丸く寝そべっている。わたしはためらいなく入店する。

 猫二匹は、文庫が敷き詰められた上に寝そべっている。なるほど、通りに面し、陽の当たるこの場所は、本には痛いが、猫には心地よい。一冊50円でまとめられたこの本棚は、まさに猫の発酵のため店側があつらえた場所だ。

   手前の猫は焦茶のトラで、ヨガ行者のように眼を閉じている。本を探すそぶりで頭をなでると、焦茶は眼を閉じたまま「いっつも、いっつも・・本当にめいわくなのよね~」というオーラをゆらゆらと内から発する。奥の一匹は銀地に黒い縞模様、ずいぶん高貴な感じだな、とやはり手をかざす。すると銀地は薄目をあけ“ふーぅー”と威嚇する。かまわずなでるとかまわず【がぶ】、わ、痛ぇ。あーぁ血がにじんでいるよ、うれしい、うれしい。

   その後店内を徘徊し、もう一回噛まれようと近づく。新宿の自称預言師シャンティーさんによれば、見知らぬ猫に噛まれる夢はライバルの出現を暗示するそうだが、夢でなくても、そこにはいた、ライバルが。

   ライバルは老夫妻とねぇちゃんで、本を探すそぶりで猫の前に行列している。ねぇちゃんに到っては相当な常連のようで厚手の手袋をつけている。

まず、老婦人が手をかざす。銀地も気前良く

【がぶ】 “痛い”

続いて、他の民も

【がぶ】【がぶ】 “痛い 痛い うれしい うれしい”

罪深き我らは、猫と和解する心などはなから持ち合わせてはいなかったのだ。

                 ・

 さて、銀地らの人気は高く、独占するわけにはいかないので、わたしは改めて店内を徘徊し始めた。文化人類学的なものに強い書店のようであり、きちんとコーナー化されている。「贈与論」「右手の優越」「野生の思考」「想像の共同体」・・等いずれも最初の数ページ読んだだけでぶん投げた本が並んでいる。うむ、わたしの青春の墓標のようだ。そして眺めていると、ひょっこりとあるタイトルが飛び込んできた。

「アラビアの医術」(昭和40年)

あ、知ってる。

これは少年時代、父の本棚にあった本であり、なんとも摩訶不思議なタイトルにひかれて、読んだことがある。アラビアの医学観念、さまざまな治療の臨床例が載っていたが中身はほとんど憶えていない。が、一つだけ強烈な印象をわたしに残したものがあった。それは精神療法で、特に恋愛に対する治療法であった。以下、記憶するところを紹介;

 

昔、アラビアのスルタン(王)の愛するお妃さまが病となった。お妃さまは、飯は食わなきゃ、熱は出る。目はうつろで耳おぼろ。日々衰え痩ほそり、どんな薬石とて通じない。血の涙を流し悲しんだスルタンは、ついに伝説の神医イブン・シーナを探しだし、すがる思いでお妃を診せた。すると神医の診断に曰く:

「スルタン、こりゃ恋の病ですな。どんな薬も草津の湯でも、こればっかりは治せません」

「何か方法はないのか?」

「一つありますが少々大胆ですぞ、実行してよろしいですかな?」

「なんでも良い、朕はこの世のなにより妃を愛する。妃は朕以上に朕なのだ、どんな方法をとっても良い」

それを聞いた神医は、お妃さまの恋い焦がれる相手(故郷サマルカンドのある男)を探し出し、男とお妃さまを一緒に住まわせた。もちろんお妃さまは間をおかずに回復し、その輝く美しさを取り戻した。さすれば神医は、頃合いを見計らって男に毒を盛り、見るもおぞましい醜男に変えた。すると、お妃さまの愛情は冷め、スルタンを愛し、スルタンとお妃さまは幸せに暮らしました。めでたし、めでたし。

ほう、アラビア式とはこういうものか。(それにしても、この医者は神なのか?)

   感嘆すると同時に、この内容はたいへん的確なものだと記憶に残った。それから十数年後、実際、ある研修の小レポートに応用したことがある。結果は、人事方面からの呼び出しとなったが、いまだわたしはあの暴論を気に入っている。

(その2へ続く)