どさ

詩を投稿しはじめました。
そのうち、紀行文も予定しています。
落ち着きに欠けたものが多くなりますがそれしかありません。

汝 その実に触れざり(その1)

2022-05-25 15:54:08 | エサ日記

「たとえ世界が明日滅びようとも、今日も私はリンゴを植える」 

                   by コンスタンチン・ビルジル・ゲオルギウス

 

 感動的な言葉です。生命について賛える歌であり、今という瞬間を生きることの肯定でもあります。これは、このながーい名前の詩人さんが有名にした言葉ですが、もともとは、ルターが残した言葉だそうです。

曰く:「死は人生の終末ではなく、生涯の完成であり、希望である。希望は、勇気であるがゆえに、新たな意思である。さあ、たとえ明日世界が滅びようとも、リンゴを植えよう」というもので、このような言葉を信じる人はたくさんいます。中には、これが生命の本質であるとまで言う人もいます。感動のあまり、そこまで言いいきるのでしょが、さすがに自分はそこまでは思えません。生命の本質と問われたなら、

「たとえ世界が明日滅びるようとも、今日もオイラはリンゴを食べる」 byさる

の方が本質に近い気がしますし、さらに、たまに食べるリンゴにしても、観念的ではなくきわめて惰性的に食べていた気がします。

 さて、そのリンゴですが、最近、自分はあたるようになりました。食べると咽頭がたいへん腫れ上がるのです。

医師:「リンゴ喰ったらノド腫れる~? あーそりゃアレルギーだよ。ほれ、この前、検査してシラカバ・アレルギーだってわかったしょ。」

自分:「なんでそんな焚き付けのアレルギーが関係あんですか?」

医師:「うん、つまりバラ科のアレルギーだね。シラカバも梨も桜桃もイチゴもダメよ」

自分;「もももすももも?)」

医師:「もももすもももぜんぶダメ。一生~喰えないんじゃないかな」

自分:「Oh Mo!」(くっだらねぇ~)

 

あっさりと、人生の幅がせばまったところで、リンゴについて改めて考察。

 

 まず消化器的に語れば、現代人は原始人より、原始人はチンパンジーより、チンパンジーはテナガザルよりリンゴが好きです。なぜならうんちにできる能力に差があるからで、腸内バクテリアの質により、我々は木の葉や木の実を生で食べても消化できず、半分うんちのようなリンゴ(果実)の方が楽に食べることができ、ゆえに好きなわけです。

しかし、うんちに近いからと言って、うんちそのものではありません。それなら、バナナや熟した柿の方がよっぽど近いと感じます。では、なぜ人間は古来よりリンゴを愛し、さらにあまたの抽象性まで与えるのでしょう?

自分が思うに、それはリンゴがある程度の硬さを持つからです。ある程度の永続性を有し、あたるとある程度痛いからです。

 

(例1)

 黄金のリンゴを巡る三美神の諍いにより、トロイア戦争は勃発し、ストーリー的に完結するオデッセイの帰還まで20年を要したわけです。

が!もし、女神に投げ与えられたものがリンゴではなく、豊満なバナナであったらどうしましょ。20年もたてばいくら神の関与したもうたとはいえ、そこはバナナ、熟れて腐ってぐっちゃぐちゃ、ゆえに果実に象徴される女神たちも老いて腐ってしわくちゃ。神話は語り継がれません。

 

(例2)

 また、ニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則に開眼したそうだ。

が!もしそれが熟した柿の実であったならどうしましょ。多分、ニュートンの観察は落ちるというプロセスではなく、落ちてぐっちゃぐっちゃという結果に向いたでしょう。すると、ニュートンは万有無情の観に開眼し、徳の高~いお坊さんになっていたかもしれない。

ならば、物理学とそれに続く人類の即物的幸せはしばらくお預け。

 

(例3)

 じゃ、リンゴより堅い椰子の実はどうよ!との指摘をいただくかもしれない。

が!が!神は創造の末に人間をこしらえたとき、同じところに知恵の木をも茂らせている。もし、それが椰子の木だったらどうしましょ。そう、おんなじガーデン・エデンにあるのなら、早晩、彼ら彼女らはその実をみつけ出し、さらには誘惑に駆られ、その実を得ようとする(なんて罰罪深いことする神!)。

しかしいかんせん、彼ら彼女らに知恵はないのだから、振るまいなんかこんな感じ

 

イ ブ「うぎ、うぎ(☆。☆)」

アダム「うぎ~、うぎ!😠」

イ ブ「うぎー、うぎーー、(プンスカ)」

アダム「うぎぃ・・」

(しぶしぶ素手で椰子の木に登るアダム)

アダム「うぎ?」

イ ブ「うぎ」

アダム「うぎ??」

イ ブ「うぎ、うぎ」

(さらに遠くへ手を伸ばすアダム。瞬間、持っていた椰子を取り落とし)

アダム「うぎぃーー・・・」

イ ブ 「うぎゃー」(初めて発する人らしき発声)

                                    劇終🍎

 

かくして、聖書は早々に終わり、人・猴ともに、無明からこれきし、これへサル。

 これを避けるには、聖書を8ページ以降も編集し続けるには、人が愛し・怖れ・敬う木の実はりんごでありなん。

 

 とまあ、リンゴについて、郷愁のような腹いせのような事を書いている。しかし、少し頭が冷えたところで、そのうち木の実の続きを書いてみよう。


たなあ(遠雷)

2022-05-20 14:15:01 | 

遠雷

それが今日のはじまり

遠い雲が真横にたたずみ

押しだされたひかりが 鈍く

後ろへ渡った

 

水槽の天を逆さまに

下から俯瞰する銀の鏡面

低い鼓に震えるように

鏡の色を帯びた

魚の背

ゆらゆら

 

窓枠 雷光 写真立て

水槽 置き場所 選択肢

前と後 と 後ろ前

 

音と光のずれ幅は

到達する距離にしたがい

音の再生と電波の強弱は

到達する場にしたがい

それが受信機の決まり

それがボリュームの決まり

それが予報によれば

今日はお昼前から雨

雨は朝まで続くでしょう

 

(かあかあ、鳥 )

 

    ・

あなたのかたちを逆さまに

自らを奇妙にたたみ

雲が風景へ降りていく

五月雨を集めてはやし

もそもそ眠る

すると そのぶん呼吸の幅は

欠けるあたりを補おうと

予報めいた配置に執着し

あれこれ置きなおすなど

手探りのことなど

下から俯瞰する

今なおのことなど

 

窓枠 鈍光 写真立て

水槽 置き場所 選択肢

前と後 と 後ろ前

あなた たなあ

言ってたなあ

写真の向こうに距離はない

その程度の永遠なら

わたしは別に悲しくないと

あなた たなあ

言ってたなあ

 

五月雨を集めてはやし

もそもそ眠る

雲の中の逝く鳥

かあかあ

か~か~

あ~

ぁぁ ぅぅ

 

ひとつずつ置いていくと

呼吸のひとつがまた外ずれ

それが水の天をまた映し

こころが再生とゆれる境

ゆらゆら背をみせ

ガガ 鳥 軌跡

また飛ぶ

 

今日はお昼前から雨、ガガ

雨は朝までガガ続くでしょう

雲は逆さまにガガなりますのでガガガ

急な雨とガ落雷にガガご注意ください

ご注意ください

 ガガ 鳥

 

   ・

予報によって

今は雨

瀟瀟と 雨

銀色の銀色の

それはそれは細々しい雨

 

 

かあかぁかあ

復活なれど

汝 触れるべからず

かあかあかぁ

汝 我に触れず

 


かわいい かわいい 魚屋さん

2022-05-20 14:15:01 | 

魚 長方形にも楕円にも似る形

今日は形のまま煮る

 

熱で変わったから

もとのままには

目はない

ありのままには

鱗はない

肉はない

命はない

だから骨まで

じきにない

 

すると、目と思った

この形は

見ていると思うが

見ていない

 

それが

毎日似たものを喰う

目を喰う

鱗を喰う

肉を喰う

骨を喰う

 

毎日喰う

毎日夕餉は夕暮れに

おろおろしたように

定め置かれ

喰うを行うと

喰らうを感じ喰いながら 目の場所は

日没を映しそれが観る

単なる 単じみた

白い内側

見よう見よう

さあ見よう

身体

鱗 肉

部署 骨格

内臓(煮えてる)

液体(ぜらちん)

煮汁 膜状に覆う

何か

ああ何か

「何かない?肴は」

頭蓋いっぱい

広がる白い

白い 白い

魚たちの

白い目

積み重なると

白い身

すんごい虚ろ

ひかりにさえ変われるわ

 

すると、目と思った

この形は

日日をやったら

引き延ばすわ

もう非対象や有りようや

長方形も楕円もどろどろも

ゲル状の身体もて これ魚

われ さかな

光が当たる

にぶき光通りたまう

いや 通してなりませぬ

いや どうしても通るんだよ

いや いや

どうしても煮るんだよ

どんより味がしみる

いやだ いやだ いやだ

それでも煮る 観る

まる むる める

ねる にる どろ

どろ どろ 虚ろな目の重層

川底 海底 社会の底から

こんばんは

さかなです

みんな魚の口

非線形に回る目

鰓動きます 鱗そります

煮汁の泡でくたくた動きます

人生の底まで そこ

そこそこ喰って

そろそろ寝るよ

寝るのだから

意識の識外の

底にさっき横たわって

鍋に横たわって

記号がつつかれ喰われ

白っぽい筋状の肉が

くっついて離れない

それをつつきまわす

おぞましさ

 

かわいい かわいい

魚屋さん

こんちはおさかないかがです?

今日は喰う

かわいい 魚 屋 さん

おぞましいのは

なんだ

そして ようやく

そうだ今日は形まま煮た


南十字星共和国

2020-02-11 15:42:31 | 猫と和解せよ日記

南十字星共和国

(令和二年2月11日)

 

    紙面・画面は、新型コロナウィルス感染で満ちている。そのせいで、巷もマスクで満ちている。たまたま花粉症が始まる時期と重なっていたので、薬局には、大量に在庫があり、望む人には十分いきわたっているだろう。もし、マスクが感染拡大防止に効果があるのなら、良かったねーニッポン、花粉症大国になっていて。

    ところで、私は、マスクのうち、黒マスクが少し苦手である。どうしても“カラス天狗”や“ハロウィン”に見えてしまい、この病気を茶化しているような、「疫病を正しく恐れているのか?」と聞きたい気分になる。皆さまも、巷でマスクをしている人が大量に倒れていて、トリアージ的に同じなら、何となくハロウィンくんの救助は後回しにするのではなかろうか。それゆえ、“猫と和解せよ書店”で、例によって

【がぶ】「痛てーぇ!」

と銀地の洗礼を受け、指に血を滲ませているハロウィンくんがいても「猫からの感染症に、黒マスクは効き目ないんだろうね~」と静かに眺めている。

                                                (17世紀、ペスト防止マスク)

 

    その“猫わか書店”で見つけた本に「南十字星共和国」(2016年 白水社)という短編集がある。作者のブレリィ・ブリューソフ(1873-1924年)はロシアの作家で、表題作「南十字星共和国」は、世界初のSF小説かもしれない。しかも、テーマがパンデミクスによる文明崩壊である。ストーリーは以下

    南極大陸の鉱山連合が独立を宣言し「南十字星共和国」が建国された。豊富な地下資源、最先端技術、高度な分業、それに円滑な官僚機構とそれを担保する民主的な政治システム。その人工国家は、争いさえも超克した、人類英知が結晶したユートピアであった。

   しかし、ある日そこに「自己撞着病」(=自己矛盾病)という病気が発生する。それは“自己の考える事と矛盾した行動を行ってしまう”という病である。

    最初はささいな症状であった。右へ行こうとしてなぜか左に曲がってしまう、帽子を脱ごうとして手が逆に深々と帽子をかぶる、料金を受け取る店員が、なぜか客に金を渡してしまうなど。しかし、強烈な伝染病であったその病気は、ほどなく深刻化する。警察が交通を遮断したり、看護婦が毒を盛ったり、機械や車のオペレーターは暴走しはじめる。誠実で利他的であればあるほど不実で利己的になり、また、生存の基本的な部分、つまり絶対に利己的でなければならない部分で不必要に利他的となり、意味なく死ぬ者が続出するなど。社会は縦の方向からも横の方向からも崩壊していく。

   健常者は、感染の拡大を防ごうと必死に努力し、英雄的に奮闘する。しかし、奮闘努力の甲斐もなく、感染は止められない。しまいに人々は流言飛語の中、安全地帯を探し求め、特定の地域に殺到する。当然、殺到するだけ感染は蔓延し、南十字星共和国は破壊と混乱と殺戮の中に音をたて崩れていく。

    最後は、外国の飛行機が上空から、崩壊した元南十字星共和国の取材を行っているシーンとなる。そして取材は、そんな状況下でもまだ生きている人があり、ゼロ以下の局面からの再建を始めているようだという簡潔な報告で終わる。

   はじめて「南十字星共和国」を読んだ時、ブリューソフは、パンデミクスを比喩にソビエトを揶揄した小説を書いたのかと思ったが、そんなことでは全くなく、むしろ真逆であった。まずこの小説の執筆時期は1904年であり、本物のパンデミクスの14年前である。

                  ・

     第一次世界大戦は1914年に人の手で始まり1918年に終った。終わらせたのは人の手ではない。“Spanish Flu”というある意味で神の手だ。ただ、この神の仲裁の凄まじきこと、高熱・衰弱・ショック・多臓器不全などの御業により、およそ一年あまりで約5000万~1億人の魂を天に召喚した。第一次大戦の死者数が2500万人であることから鑑みれば、この数値は「うわー!!戦争どころじゃないぞ」と交戦各国を強制的に和平テーブルに座らせたことは疑うべくもない。

    “Spanish Flu”は日本では”スペイン風邪“というわりと呑気な呼称だが、近・現代初のパンデミクスであり、人類史の最大の事件の一つである(実際、死者数で言えば、スペイン風邪は第二次大戦の死者数と互角かそれ以上である)。

    その特徴は、若く壮健な人間もコロリと死んでしまうところにある。このコロリの原因候補として、サイトカイン・ストームというものがあげられている。

    サイトカインは、免疫細胞から放出される生理活性物質の一種であり、色々な種類があるが、体に炎症を起こさせ病因と戦うもの、体の炎症を静めるものに大別され、サイトカイン・ストームとは、免疫機構が暴走し、サイトカインを大量放出し、病因だけでなく、自己も攻撃しはじめる現象である。概念は全く違うが、重症アレルギーやアナフィラキシーショックと似ている。つまり体内での強烈な自己矛盾で自己崩壊していくのである。

                  ・

    ブリューソフが描いた世界は、一見、完璧な体系であろうと、それが、閉じた系であるなら、自己矛盾すれば元の木阿弥ということを示唆していて興味深い。

    ところで、ブリューソフは、ロシア象徴主義の代表的作家だそうである。象徴主義とは、事実を単なる現実の一側面として捉えず、何かの象徴や暗喩や兆しとして捉え、事実の彼方の超越的な世界を求めていくということらしい。つまり、見たまま、聞いたまま、説明されたままじゃ、絶対に満足しないぞということなのだが、事実、ブリューソフは批評家でもなければ空想家でもなく、強烈な実践者であった。ロシアで1917年に2月革命がおこり、ケレンスキー内閣が成立した際、彼はその総花的で、理想的、付和雷同的な施策に断固反対し、矛盾は全て根本から破壊し尽くすべきだとして、ボルシェビキに参加し、1918年のソビエト連邦成立後は幹部にまでなっている。ばりばり革命人であった。そんな人の書いた小説だったなんて、なんかこえ~。

                  ・

 さて、今回の新型コロナで我々は、当面、二つの自己撞着病(自己矛盾病)を注視すべきなのだろう。

    一つ目はもちろん免疫・生理的な危機で、最も注視すべきは、サイトカイン・ストームである。現在、世界の研究者たちが必死に、その可能性を探り、誰がどれをどのくらい恐れるべきなのかを解明しようとしている。しかし、正しく恐れることは実は大変難しい。当然ながら、判断の正しさは、情報の確かさと比例する。

   そこで二つ目となるのは社会・管理的な危機である。いくら正確で精度の高い情報が発信されようが、社会の媒体・媒介たる官僚やメディアに自己撞着病(例えば忖度病)が蔓延していては何にもならない、というか危険である。もちろん、情報の受け手もうがった目で情報を受け取れば、正しい判断ができる可能性はすさまじく減る。

   そういった面では、黒マスクが似合う、カラス天狗のような宰相は、桜を見るだのなんだので、いたずらに社会の相互信用を低下させた。やらんでいいことをしたのだ。

    一方、隣国の宰相である大天狗さまは、やってはいけないことをやり、大しくじりを重ねている。米国、香港、台湾と立て続けに負け(一帯一路も早く負けろ)、今、国内では人民から強烈なしっぺ返しを受けている。

    カラス天狗は浅知恵の化身で、大天狗は大罪の化身であるという、伝説に見合った正体がどんどん露わになっていく。この流行が収まったなら、日頃から、お上に正しく文句をいう事は、実は自分の身を守ることに他ならないということに改めて肝に命じるべきだろう。

    他にも、国際水平分業が唯一の生き残る路だと唱えて、せっせと物流・商流を他所様に頼った産業界の方々、自己撞着病って怖いですね~、祟りってやつですね~。

    さて、では、この祟りの中でせめて救いに近いのは何だろうか?そうだな、この病気の下では、ナショナリズムによる喧嘩など起こりようがないという事ぐらいかもしれない。本当は、第一次世界大戦で学んでいるはずだったのだが・・


恵方巻(武漢vsジンバブエ)

2020-02-02 22:24:03 | エサ日記

恵方巻 (武漢vsジンバブエ)

(令和二年2月3日)

 

 今日は、冬の終わりの日ですね。

「冬」という漢字の成り立ちは、六書では、意外にも象形でした。金文や甲骨文字の古には下のように記されてあったようです。

これは、編み糸の結び目を表すということで“終わり”の意味だと解釈されております。

   そして、明日からは「春」が立ちます。“終わり”から“始まり”に転じるのです。事物や万気は立ちあがり、ほどなく天や地そして人のあいだに満ちていくでしょう。

    わたしたちは、昔より、この始まりの慶びを“節分”という行事で祝ってまいりました。立春前日、すなわち今日の夜、鬼のお面を被ったお父さんたちは、子供たちから「鬼はーそとー」「福はーうちー」と楽しく豆をぶつけられ逃げるのです。日本の原風景としても最も微笑ましい一つでありましょう。災いが来ませんように、どうか頑張ってぶつけてください、逃げてください。

   この日に行われる行事には、豆をまく以外にも、地域によりさまざまなものがあるようです。節分にはイワシをいただき、その頭と柊(ひいらぎ)の枝を戸外にさして鬼を防ぐならわしや、その年の福の方向(恵方)に向かい、長い太巻きを食べる“恵方巻き”の習慣など。探せば叙情豊かな風習はまだまだあるでしょう。

 元来、大阪の花街での習慣であったという恵方巻ですが、このわずか数年で、全国で流行るに至りました。大手のコンビニエンスストアが、お正月からバレンタインの間の消費低迷期に、ちょっとした流行りを作ろうと仕掛けたものですから、日本の原風景とは言えませんし、また、そのことに違和感を覚える方も多いでしょう。それでも行事としては、バレンタインのように、なんらかの強迫感を感じさせるものではありません。お買い上げになる方の裁量にまかされております。スーパーで「今年の恵方は西南西、おめでたい恵方巻各種450円」というチラシを持ちつつ、赤ワインと恵方巻を買い物かごに入れているお姉さんを見かけ、“おめでてぇのはおめぇだよ”と思われる方はお召し上がりにならなくともよいのです。広い心が福をよびよせる始めの一歩でありましょう。

   さて、広い心は広い方向に向かいます。今年の恵方、西南西からわたしどもはどのような福を招くのでしょう。わたしの住んでいる界隈から世界地図を西南西の線で追いますと、まず“ソウル”に着きました。そうですか・・・そのまま線を追っていきますと次は“武漢”に着きました。ああ、ばっちり線上ではないですか。そして、そのまま線を追っていきますと、旅はインド洋を越え、アフリカのジンバブエやナミビアあたりで終わりました。

   ジンバブエという国にはほとんど印象を持ち合わせておりません。ただ、10年ほど前に、人類史上で最大のハイパー・インフレを引き起こしました国ということでは、うっすら覚えておりました。確か、インフレ率1京数百兆%、失業率は95~99%、天文学的に価値が下げたジンバブエドルにより政府の国庫残高は200ドル強と、人類未踏の域に踏み込んでしまったそうです。いくつかの不運な要素が重なったこともありましょうが、基本の基本は巨額の財政赤字を、すべて中央銀行の信用供与で埋め合わせた結果ということでありましょう。

    “武漢”につきましても人類未踏の域へ踏み込まぬよう心から祈るものですが、さて、わたしどもはこのようなハイパー・トホホからどのような福を招きましょう。八百万の神さま、どうすればよろしいでしょうか・・

ああ、そういうことですね。今年の恵方の神意は、ソウル、武漢、ジンバブエと、“そうなるんじゃねぇよ”ということなのですね。