どさ

詩を投稿しはじめました。
そのうち、紀行文も予定しています。
落ち着きに欠けたものが多くなりますがそれしかありません。

汝 その実に触れざり(その1)

2022-05-25 15:54:08 | エサ日記

「たとえ世界が明日滅びようとも、今日も私はリンゴを植える」 

                   by コンスタンチン・ビルジル・ゲオルギウス

 

 感動的な言葉です。生命について賛える歌であり、今という瞬間を生きることの肯定でもあります。これは、このながーい名前の詩人さんが有名にした言葉ですが、もともとは、ルターが残した言葉だそうです。

曰く:「死は人生の終末ではなく、生涯の完成であり、希望である。希望は、勇気であるがゆえに、新たな意思である。さあ、たとえ明日世界が滅びようとも、リンゴを植えよう」というもので、このような言葉を信じる人はたくさんいます。中には、これが生命の本質であるとまで言う人もいます。感動のあまり、そこまで言いいきるのでしょが、さすがに自分はそこまでは思えません。生命の本質と問われたなら、

「たとえ世界が明日滅びるようとも、今日もオイラはリンゴを食べる」 byさる

の方が本質に近い気がしますし、さらに、たまに食べるリンゴにしても、観念的ではなくきわめて惰性的に食べていた気がします。

 さて、そのリンゴですが、最近、自分はあたるようになりました。食べると咽頭がたいへん腫れ上がるのです。

医師:「リンゴ喰ったらノド腫れる~? あーそりゃアレルギーだよ。ほれ、この前、検査してシラカバ・アレルギーだってわかったしょ。」

自分:「なんでそんな焚き付けのアレルギーが関係あんですか?」

医師:「うん、つまりバラ科のアレルギーだね。シラカバも梨も桜桃もイチゴもダメよ」

自分;「もももすももも?)」

医師:「もももすもももぜんぶダメ。一生~喰えないんじゃないかな」

自分:「Oh Mo!」(くっだらねぇ~)

 

あっさりと、人生の幅がせばまったところで、リンゴについて改めて考察。

 

 まず消化器的に語れば、現代人は原始人より、原始人はチンパンジーより、チンパンジーはテナガザルよりリンゴが好きです。なぜならうんちにできる能力に差があるからで、腸内バクテリアの質により、我々は木の葉や木の実を生で食べても消化できず、半分うんちのようなリンゴ(果実)の方が楽に食べることができ、ゆえに好きなわけです。

しかし、うんちに近いからと言って、うんちそのものではありません。それなら、バナナや熟した柿の方がよっぽど近いと感じます。では、なぜ人間は古来よりリンゴを愛し、さらにあまたの抽象性まで与えるのでしょう?

自分が思うに、それはリンゴがある程度の硬さを持つからです。ある程度の永続性を有し、あたるとある程度痛いからです。

 

(例1)

 黄金のリンゴを巡る三美神の諍いにより、トロイア戦争は勃発し、ストーリー的に完結するオデッセイの帰還まで20年を要したわけです。

が!もし、女神に投げ与えられたものがリンゴではなく、豊満なバナナであったらどうしましょ。20年もたてばいくら神の関与したもうたとはいえ、そこはバナナ、熟れて腐ってぐっちゃぐちゃ、ゆえに果実に象徴される女神たちも老いて腐ってしわくちゃ。神話は語り継がれません。

 

(例2)

 また、ニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則に開眼したそうだ。

が!もしそれが熟した柿の実であったならどうしましょ。多分、ニュートンの観察は落ちるというプロセスではなく、落ちてぐっちゃぐっちゃという結果に向いたでしょう。すると、ニュートンは万有無情の観に開眼し、徳の高~いお坊さんになっていたかもしれない。

ならば、物理学とそれに続く人類の即物的幸せはしばらくお預け。

 

(例3)

 じゃ、リンゴより堅い椰子の実はどうよ!との指摘をいただくかもしれない。

が!が!神は創造の末に人間をこしらえたとき、同じところに知恵の木をも茂らせている。もし、それが椰子の木だったらどうしましょ。そう、おんなじガーデン・エデンにあるのなら、早晩、彼ら彼女らはその実をみつけ出し、さらには誘惑に駆られ、その実を得ようとする(なんて罰罪深いことする神!)。

しかしいかんせん、彼ら彼女らに知恵はないのだから、振るまいなんかこんな感じ

 

イ ブ「うぎ、うぎ(☆。☆)」

アダム「うぎ~、うぎ!😠」

イ ブ「うぎー、うぎーー、(プンスカ)」

アダム「うぎぃ・・」

(しぶしぶ素手で椰子の木に登るアダム)

アダム「うぎ?」

イ ブ「うぎ」

アダム「うぎ??」

イ ブ「うぎ、うぎ」

(さらに遠くへ手を伸ばすアダム。瞬間、持っていた椰子を取り落とし)

アダム「うぎぃーー・・・」

イ ブ 「うぎゃー」(初めて発する人らしき発声)

                                    劇終🍎

 

かくして、聖書は早々に終わり、人・猴ともに、無明からこれきし、これへサル。

 これを避けるには、聖書を8ページ以降も編集し続けるには、人が愛し・怖れ・敬う木の実はりんごでありなん。

 

 とまあ、リンゴについて、郷愁のような腹いせのような事を書いている。しかし、少し頭が冷えたところで、そのうち木の実の続きを書いてみよう。


恵方巻(武漢vsジンバブエ)

2020-02-02 22:24:03 | エサ日記

恵方巻 (武漢vsジンバブエ)

(令和二年2月3日)

 

 今日は、冬の終わりの日ですね。

「冬」という漢字の成り立ちは、六書では、意外にも象形でした。金文や甲骨文字の古には下のように記されてあったようです。

これは、編み糸の結び目を表すということで“終わり”の意味だと解釈されております。

   そして、明日からは「春」が立ちます。“終わり”から“始まり”に転じるのです。事物や万気は立ちあがり、ほどなく天や地そして人のあいだに満ちていくでしょう。

    わたしたちは、昔より、この始まりの慶びを“節分”という行事で祝ってまいりました。立春前日、すなわち今日の夜、鬼のお面を被ったお父さんたちは、子供たちから「鬼はーそとー」「福はーうちー」と楽しく豆をぶつけられ逃げるのです。日本の原風景としても最も微笑ましい一つでありましょう。災いが来ませんように、どうか頑張ってぶつけてください、逃げてください。

   この日に行われる行事には、豆をまく以外にも、地域によりさまざまなものがあるようです。節分にはイワシをいただき、その頭と柊(ひいらぎ)の枝を戸外にさして鬼を防ぐならわしや、その年の福の方向(恵方)に向かい、長い太巻きを食べる“恵方巻き”の習慣など。探せば叙情豊かな風習はまだまだあるでしょう。

 元来、大阪の花街での習慣であったという恵方巻ですが、このわずか数年で、全国で流行るに至りました。大手のコンビニエンスストアが、お正月からバレンタインの間の消費低迷期に、ちょっとした流行りを作ろうと仕掛けたものですから、日本の原風景とは言えませんし、また、そのことに違和感を覚える方も多いでしょう。それでも行事としては、バレンタインのように、なんらかの強迫感を感じさせるものではありません。お買い上げになる方の裁量にまかされております。スーパーで「今年の恵方は西南西、おめでたい恵方巻各種450円」というチラシを持ちつつ、赤ワインと恵方巻を買い物かごに入れているお姉さんを見かけ、“おめでてぇのはおめぇだよ”と思われる方はお召し上がりにならなくともよいのです。広い心が福をよびよせる始めの一歩でありましょう。

   さて、広い心は広い方向に向かいます。今年の恵方、西南西からわたしどもはどのような福を招くのでしょう。わたしの住んでいる界隈から世界地図を西南西の線で追いますと、まず“ソウル”に着きました。そうですか・・・そのまま線を追っていきますと次は“武漢”に着きました。ああ、ばっちり線上ではないですか。そして、そのまま線を追っていきますと、旅はインド洋を越え、アフリカのジンバブエやナミビアあたりで終わりました。

   ジンバブエという国にはほとんど印象を持ち合わせておりません。ただ、10年ほど前に、人類史上で最大のハイパー・インフレを引き起こしました国ということでは、うっすら覚えておりました。確か、インフレ率1京数百兆%、失業率は95~99%、天文学的に価値が下げたジンバブエドルにより政府の国庫残高は200ドル強と、人類未踏の域に踏み込んでしまったそうです。いくつかの不運な要素が重なったこともありましょうが、基本の基本は巨額の財政赤字を、すべて中央銀行の信用供与で埋め合わせた結果ということでありましょう。

    “武漢”につきましても人類未踏の域へ踏み込まぬよう心から祈るものですが、さて、わたしどもはこのようなハイパー・トホホからどのような福を招きましょう。八百万の神さま、どうすればよろしいでしょうか・・

ああ、そういうことですね。今年の恵方の神意は、ソウル、武漢、ジンバブエと、“そうなるんじゃねぇよ”ということなのですね。


Hard Rock Sushi (鉄火)

2020-01-18 10:25:28 | エサ日記

Hard Rock Sushi   (鉄火)

(令和二年1月18日)

 "筆をとればなにか書きたくなるし、楽器をとれば音を奏でたくなる。盃をもてば酒を飲みたくなるし、骰子(サイコロ)をとれば賭けをしたいと思う。心は必ず、現実に触れて動機となる"      (徒然草 150段あたり)

 

  同僚に、Hard Rock CAFE(ハードロック・カフェ)ならぬ、Hard Rock Sushi(ハードロック・すし)という店に入った方がいます。イギリスだったかアメリカのどこかの都市で、ともかくエキセントリックなところへ行きたいとお願いしたところ案内されたそうです。

「エキセントリックだった?」

「うーん、というより、戸惑いすぎて、ひやーっとした感じがになりました。セックス・ピストルズなんかガンガン響いてたんですが、ああ遠いとこ来たな~という感じ」

「メニューは?」

「横文字ばっかりで読みにくいし、巻きものが多かったです。ローストビーフ巻きは美味かったんですが、なんか全体に食べた気がしませんでした」

 

 その気持ちはよくわかります。わたしたちはお寿司屋さんには予定調和的なものを期待していて、さほど冒険的なものは望んでいないのです。

 山形県Y市のあるお寿司屋さんに入り、メニューをみました。

"かたいあし"

?・・

(ここは内陸なので、ネタの呼び名が違うんだ、これはきっとイカゲソだ。)

続いて

"いきえさ"    ?

"ぱごら貝" "ろ貝びこ煮" ・・・(遠いとこ来たな~)

"新鉄河" "香火童" "巻巻巻" ??

・・新河、香童、巻巻 、あっ「鉄火巻き」だ。

 そのお寿司屋さんは、メニューの書き方がたいそう紛らわしく、まず下地にうっすら色のついた紙(恋文専科 虹の風)を使用し、字の間隔・配置も絶妙に拙く、横表記と縦表記の区分が曖昧模糊としたものでした。

記憶を頼りにメニューをデフォルメして再現すると下図となります。

 

 実際に件のお寿司屋さんメニューが意味しているのは下図2ではないかと推測します。

     このメニューにしてこの味ということになるのでしょうか?実際は不味くはなかったでしょうが、やはりこのお店での味は記憶に残りませんでした。

  また、メニューを見ているわたしがトホホなのですから、きっと作った当人たちが最もトホホかと思います。しかし、

"花火を上げる人"・"顔色にうなずく人"・"やっつけをやる人"

が揃った場合、最初にトホホを言った人が有罪ですので、あのメニューはしばらくあの店に、かって日本各地で猖獗を極めたユルキャラのように存在し続けたでしょう。

                                                  ・

   Hard Rock Sushiについては、その後、英米各地に展開したとか、日本に上陸したという話は聞きませんので、一介のキメラ(寄せ集め生物)として消えていったのでしょう。しかし、寄せ集めのタネとされたHard Rock CAFEは健在です。1970年代に小粋なハンバーガー屋からスタートし、今や本業は立派な鉄火場(IR)です。

  鉄火場で博奕打ちが食べるから鉄火巻きという名がついたそうです。骰子(サイコロ)振りながら片手でも食べられるということですね。片手、片手間で食べられるもの、いい加減な面にも潰しがきくものは、きっと賭博と相性がいいのです。

  もっとも、元気いっぱいのHard Rock CAFEさまですが、日本への本業面での進出は断念されたようです。ラスベガス・サンズは首都圏、MGMリゾーツは大阪、Hard Rock CAFEは北海道というように、IR大手は日本市場の縄張りで手打ちをしていたそうですから、Hard Rock CAFEの北海道進出断念により生じたカジノ大手の勢力空白は、いろいろな悲喜劇を生むでしょう。

   短期的なクライマックスはカラス退治とその後開かれる魔女裁判。鉄火の生臭い匂いに惹かれてやってきたカラスが一網打尽になり、その後、カラスは魔女の変身した姿であったとして一段昇格して裁判にかけられるのです。魔女は異教徒であればいいのですから、儒教でも仏教でも日本系でも中国系でもなんでもOK。はじめから火炙り。はじめにトホホになった者から焼かれるのです。

  火炙りするほうも凄いですよ、これは。魔女裁判をやる法廷は、必ず免罪符も売る法廷です。というより、免罪符を売りたい法廷は魔女裁判を必要とします。大罪が契約的に供給されませんと免罪符を売る根拠が得られないからです。カジノという日本人の心に許しがたい罪の免罪符を売るために、新設された某管理委員会はじめ、これを機に新たな権力拡張を求める勢力が、カラスを魔女にしたて、拷問と酷刑にせっせと励むでしょう。血だるまで悶えるカラスをさらに小突き廻すことでしょう。

  中期的にもいろいろな悲鳴が聞こえそうです。何も粘らず賭博市場の開放を許し、結果をつきつけられる中央、ゆるきゃら・ふるさと納税レベルで、楽して財源になるとしか受け取っていない地方、吸い上げられる弱者の希少な財産。

  トランプ友でもあるサンズの会長は、兆円単位で日本に投資すると言っておりますが、当たり前ながら、それ以上を日本から持っていくでしょう。相手はカラスではないのです。毛のないタカみたいなものです。

  そして、なにより長期的には人の心の荒み幅が増すのが嫌ですね。

  徒然草に「サイコロを持てば博奕を打ちたくなる」とありますように、賭けの場にいると賭博をしたくなるもの。また、愚かなことは、それが可能だという理由だけでできるものではなく、それが手軽でなくてはなりません。

  IRは、わたしにはどうにも両方の条件が揃っている気がしてなりません。Hard Rock Sushiのように笑えないのです。

 ところで、冒頭の

 "筆をとればなにか書きたくなるし、楽器をとれば・・骰子をとれば賭けをしたい。"

この最後の部分に今の日本人であるわたしたちが一行加えるとすればどういうものがいいでしょうか?わたしはこう加えたいです。

"銃をとれば撃ちたいと思う"

そして、銃を持てば長生きしないのです。

世界一長生きな日本が続きますように。吉田兼好さん、どうか見守ってください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


月見そば(その3)

2020-01-15 23:26:17 | エサ日記

月見そば(その3)

(令和二年1月15日)

 

 昨日は歳徳(どんど)焼き。年末から年始にかけてのおめでたい物々や気分は炎の中に昇華し、今日から日常。ずーっと日常ですね。

さて、“日常”と、一見、対極的な“ニュース”ですが、この半月ほどでも、ずいぶん多くのニュースがありました。米による爆殺・イランによる誤爆(さあどうする福音派vsシーア派)、台湾での国民党大敗北(さあどうする一国二制度)、鉄火場に群がるカラスの捕獲(さあどうする大型財源)。どれをみても出口ない感にあふれています。不謹慎なことこのうえないのですが、どうなっていくか知りたい気持ちがより大きくなります。

 

ところで、多くの個人にわき上がるこの心持ちはどういう仕組みで説明できるのでしょうか?よく聞きますところでは、日常とニュースは対極的なものではなく、ニュースは、あなたの現実と他者の現実を媒介する第3項であり、この三者の落ち着き具合は大変よろしい。ゆえに、その状態を維持することで、あなたはあなた自身であることを確認できるのだというものです。何か、もう一声という感じです。それでも、今年の初めは、この一声を聞いたような気分になれました。

 

場所は神社。初詣に出かけた際、若い女の子たちおよび男がおみくじをひいています。

 

「いやー大吉、大吉」 (なんでいやーなんだ?)

「末吉、まあいいか~」

「なによこれ、凶よ、凶」

「えー、見せて、見せて」

「なにこれー、信じられな~い」

 

信じられる・信じられない、当たる・当たらないもありません。占いなのですから、あなたがどう感じ、どうふるまうかだけです。このとき思い出しましたのは、一昔前、新宿で大人気の占い師さん。その方はご託宣のあと、

 

「でもどう生きようと、ひとは最後には死んでしまうのですよ」

 

という一言を付け加えるそうです。聞く方もなにやら神妙な面持ちとなり、結果、この新宿の占い屋は大繁盛、はは。

 

“そうだ、ニュースも、たんに聞いているだけでは、同じレベルの短絡さしか持たないのだ”

 

「○○司令官が爆殺されました」(でもあなたは生きています)

「○○議員が収賄の疑いで再逮捕されました」(でもあなたは生きています)

「新大河ドラマが1月19日に放映されます」(でもあなたは生きています)

 

これは、社会とつながりが消えても、テレビさえ見ていれば、かろうじて気は狂わないよといった程度のことでしょう。しかし、わたしは、これでは少し寂しい感じがします。いずれそうなるのでしょうが、今のところ意味付けにより日々をやりくり的に過ごします。

 

 

ニュースについて言えば、早晩、ニュースの中心はオリンピックになるのでしょう。野次馬、冷笑的なニュースが多い中、何か感動できるものがより多く混じればなと期待しています。

わたしは、2006年トリノ大会の女子フィギュア個人で荒川静香選手が金メダルを獲得した演技がいまだに記憶に残ります。荒川選手は、この金以前は万年三位。ずーっと銅メダリストでした。が、雨が降ろうが槍が降ろうが三位、ぶれることなく絶対に三位を維持し続けていたのです。そして、この実績の意味するところは、トリノ大会で世界の人々に知れ渡ることになったと思います。

 

この競技で金銀の本命は、アメリカとロシアの選手でしたが、両選手は金を争うがために、自然、難度の高い技にいどみ減点を重ねていきました。それに対して荒川選手は無暗に技に挑まず、得点よりも自分の実力を出し切ることで、結果、ノーミスで金メダルの栄冠に輝くこととなります。首位を争う二者が競合して消耗する中、確実に自己の資源を活用して機会を伺う。これは荒川静香戦略として、いろいろな競合モデルの実例として使えるのではないでしょうか。この戦略には発展性がないという方もおられますが、負けた人は消えていくので充分に発展的かと思いますし、発展、発展と唱える声の中には、発展したいなという気持ちの逆形成みたいな、占いみたいな響きが聞こえます。

 

もちろん、荒川静香戦略の重要なポイントはいかなる場でも実力を出し切ることができるということでしょう。武道の奥義では平常心というものを重視するそうです。すなわち、

“基本技が最も強い。そして基本技を出し切れるかどうかは平常心である”

というものです。度胸がいかに大事なものかと感じさせられます。また同時にこの域は、観念論では到達できない実践の域で、それゆえ、多くの物事には出口論が少ないのかなとも思いました。

今でも、荒川選手が平常心で挑んだ演技を思い出します。たとえ点数には加算されなくとも、通常の練習でやっていたからこそ通常通り実行したイナバウアー、例えは悪いのですが、五目うどんの薄切りかまぼこがしなるような端正なさま。月見そばのように、見た目は月ですけれど、いざ食べるときはぐっちゃぐちゃにならざる得ないのに比べ、実に美しいではないですか。

 

                  ・

 

 さて、食べるときにぐっちゃぐっちゃな月味そばについてですが、わたしはあの日空港で、

 

《月見そば-生卵=かけそば》

 

という恒常式の中の、どこに価格設定をし、どう合意を得るかについて悩み、悩みつつラウンジへあがるエスカレーターで、カルロスくん(仮名)を見かけたところまで書きました。

 

 カルロスくんは原色が混じったあげく灰色になったかのような表情で、銀と黒のリモアを曳き、それこそ強引に、リモアを前後してエスカレータに乗り込みます。

“わ、あぶねぇ”と思いましたが、案の定、銀リモア‐カルロスくん‐黒リモアの順に仲良くバランスを崩します。

「ウワォーッチ!」悲鳴をあげるカルロスくん。

次に、銀リモアはカルロスくんの上に、銀リモア及びカルロスくんは黒リモアの上に重なります。

「シュワーッチ!」

激しい苦悶の表情でエスカレーター上を回転するカルロスくんたち。まるで、ハムスターと積み木が同じ回転輪で回っているかのようです。しかし、エスカレーターは無表情に上がっていくわけですから、彼らもそのまま上っていき、すぐに天井のひさしに隠れて見えなくなりました。

その一二秒後でしょうか、いきなりエスカレータの上から我々の視界に、銀リモアが弾丸のように滑り落ちてきます。

“うわぁー”

しかし、流石は空港ですね。そんな方は多いと見えまして、エスカレーター乗り口手前には太くて頑丈なポール様が設置されています。憎悪めいた速度でポール地蔵に激突するリモア。その音こそまさに、

 

“ゴーン”(可笑!可笑!)

 

 わたしたちは、しばし呆然です(当たり前だ)。みな、激突したてのそれを眺め、次に、そういえば昇天したカルロスくんはどうなったのかと思い、みなエスカレーターの方を注目していたのです。

 しばらくして、カルロスくんは、黒リモアとともに、下りエスカレーターに乗って降臨してきました。さきほどの苦悶の表情など微塵もなく、あの灰色の顔つきです。そして、我々のフロアに降り立ったカルロスくんは、日本人なら見せるであろう、羞恥や斬鬼の振る舞いなど全く見せず、堂々としたままリモアを立て、エスカレーターには一瞥もくれず、堂々とエレベーターの方へ去って行きました。

“あれまー、ずいぶんとずいぶんだわ”

多分、あの場にいた日本人はほぼ同じ感想・呆れ顔をしていたのではないでしょうか。

 

                ・

 

その一件があったからでしょう。ラウンジで考え込んでいたわたしは、いきなり、ある聞いた話を思い出しました。“ハロー”しか喋れない日本人がニューヨークのスラムを歩いていてチンピラに因縁をつけられ、ぼっこぼこにされたそうです、しかし、彼に喋れる英語はハローのみ。殴られながら“ハロー、ハロー”と叫び続けていたら、チンピラたちは変な顔をして彼を解放したそうです。もし、彼が生半可に英語が喋れていたならどうなっていたでしょうか?多分、彼は刺されるか、撃たれるか、さらにひどい災難に見まわれていたのではないでしょうか。

 

“「出口論も考えて説明してきてね」って、出口論って何ですか?”

“つまり、ぼっこぼこ。喋ってぼっこぼこ、叫び続けてぼっこぼこ。前者を託されたわけね”

“いらねぇ、言い訳なんかしねぇ。そもそも俺はハローしか喋れないんだ。”

 

そう、どんどん腹が立ってきました。悩むより怒れ、自身よ、自心よ!

わたしたちの日常のほとんどは、この身と心の折り合いをつける、自身の存在の同一性を保つことに費やされています。さまざまな経験は間違いなく断片でできています。見たり聞こえたり、沸きあがる衝動などは各々ばらばらです。また断片ならまだしもわたしたちは自身の背中や、自身を包む普遍性(魚にしてみれば水)を見ることはできません。身体は知覚されるより先に、幻想されるのです。思惟とは身体の延長以外ではないとしたならば、悩みは本質ではなく幻想です。

 

“幻想だ。俺は何か勘違いしているんだ”

“普遍性?魚と水?・・・”

 

そしてわたしは気が付きました(開き直りました)。

 

“かけそば、ざるそば、天ぷらそば、そして月見そば、いずれも普遍性は蕎麦だ”

“ああそうか、蕎麦屋であることが幻想だ。生半可に蕎麦屋ですと言うから、蕎麦概念の端から端まで走り回るんだ”

“それならば初めから、月見そば以外の選択肢(品質、価格、ケア)がなければどうなるのだろう?”

“そうだ、そうだ。その世界ではかろうじて認められるオプションは、「生卵抜いてね」ではないか・・”

 

よし決めた。

 

「おおそうよ、俺は今日から月見そば専門店だ。他者が何と言おうと俺は月見そばだ。一生、月見そばを出し続け、言い張るのだ!!」

 

そして、この暗い情念にも似た決意を試すかのように、今、搭乗手続きは始まります。

今日の夜、任地では月がでているでしょうか。できれば満月が良いですね。これから、ずーっとお付き合いできるような満ち満ちた月が。

 

(月見そば終わり)


七草粥

2020-01-07 00:03:43 | エサ日記

七草粥

(令和二年1月7日)

 

 今朝は七草粥という方も多いでしょう。春を寿ぐ(ことほぐ)香気と鮮緑の妙には、やがて息吹く草木のすがすがしい瞳が、悪戯めいてこちらを伺うような、そんな淡いものを感じたりもします。よろこばしい新春の訪れです。

 かといいましても、わたしの生まれは厳しく北よりで、正月七日あたりの冬景は、それはそれは冷たく白く、毎日吹雪と吹雪とブリザードでありましたから、七草をお粥にいれる習慣は、西に住んでいた時分に身についたものです。それでも、はじめてこれをいただきましたとき

“せり、なずな、おぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ”

と七草の名が淀みなくでてきたことは少しばかり驚きました。そもそもわたしには、いまだ草の名と実体が完全に一つになってはおりません。“せり”は分かります。“なずな”も、わたしに捕えられたバッタが鬱々と噛んでいた“ぺんぺんぐさぐさ”であることは少し分かっておりました。しかし、ほかは見当もつかず、ともかくも、春の七草なる素朴にして優雅な名にあこがれを抱き、自然に名をそらんじていたのかと思います。

 もちろん、自然にそらんじていたのは、多分、数が7つを越していなかったからではないか(それ以上は、努力なしには自然消滅します)、また「すべて食べられるのですよ」と教わったからだと思われます。それが証拠に、秋の七草は、広く食に供せられる”葛”と”桔梗”しか名前がでてきません。たぶん、はじめから覚えていないのでしょう。 

 それにしても、春の七草の、その姿かたちがはっきりとしましたのは、毎春のこの慶びを覚えまして少し間をおいてからのことです。中でも尤も優雅な響きでありました“すずな”が蕪の葉、ついで“すずしろ”が大根葉であることが分かりましたときは、正直がっかりもいたしました。

「咲いているよ」

と“ほとけのざ”を、目の前に示されたときは、ロードスターのようだなと感じました。ロードスターは青く輝く花をいだき清らかで、こちらの花は淡紅に染まり、とても愛らしくありました。わたしはロードスターの和名である“おおいぬのふぐり”という名も知っております。「大きい犬の睾丸」という意味になります。専門家でもないわたしには”大きい”が、”犬”にかかっているのか”睾丸”にかかっているのかよく分かりません。しかし、名であるからには、ともに歩めるような気持ちを選りすぐっていきたいのです。

 もうすぐ春の芽が息吹き、里の庭先にはその年に生まれた仔犬が走り回るでしょう。オスの仔犬たちの後姿には、ほれ、それは愛らしくちいさないふぐりたちが。

 

(生卵、生卵とずっと書いていて、少々気持ち悪くなりましたので、別なお話をしてみたくなりました)