「たとえ世界が明日滅びようとも、今日も私はリンゴを植える」
by コンスタンチン・ビルジル・ゲオルギウス
感動的な言葉です。生命について賛える歌であり、今という瞬間を生きることの肯定でもあります。これは、このながーい名前の詩人さんが有名にした言葉ですが、もともとは、ルターが残した言葉だそうです。
曰く:「死は人生の終末ではなく、生涯の完成であり、希望である。希望は、勇気であるがゆえに、新たな意思である。さあ、たとえ明日世界が滅びようとも、リンゴを植えよう」というもので、このような言葉を信じる人はたくさんいます。中には、これが生命の本質であるとまで言う人もいます。感動のあまり、そこまで言いいきるのでしょが、さすがに自分はそこまでは思えません。生命の本質と問われたなら、
「たとえ世界が明日滅びるようとも、今日もオイラはリンゴを食べる」 byさる
の方が本質に近い気がしますし、さらに、たまに食べるリンゴにしても、観念的ではなくきわめて惰性的に食べていた気がします。
さて、そのリンゴですが、最近、自分はあたるようになりました。食べると咽頭がたいへん腫れ上がるのです。
医師:「リンゴ喰ったらノド腫れる~? あーそりゃアレルギーだよ。ほれ、この前、検査してシラカバ・アレルギーだってわかったしょ。」
自分:「なんでそんな焚き付けのアレルギーが関係あんですか?」
医師:「うん、つまりバラ科のアレルギーだね。シラカバも梨も桜桃もイチゴもダメよ」
自分;「もももすももも?)」
医師:「もももすもももぜんぶダメ。一生~喰えないんじゃないかな」
自分:「Oh Mo!」(くっだらねぇ~)
あっさりと、人生の幅がせばまったところで、リンゴについて改めて考察。
まず消化器的に語れば、現代人は原始人より、原始人はチンパンジーより、チンパンジーはテナガザルよりリンゴが好きです。なぜならうんちにできる能力に差があるからで、腸内バクテリアの質により、我々は木の葉や木の実を生で食べても消化できず、半分うんちのようなリンゴ(果実)の方が楽に食べることができ、ゆえに好きなわけです。
しかし、うんちに近いからと言って、うんちそのものではありません。それなら、バナナや熟した柿の方がよっぽど近いと感じます。では、なぜ人間は古来よりリンゴを愛し、さらにあまたの抽象性まで与えるのでしょう?
自分が思うに、それはリンゴがある程度の硬さを持つからです。ある程度の永続性を有し、あたるとある程度痛いからです。
(例1)
黄金のリンゴを巡る三美神の諍いにより、トロイア戦争は勃発し、ストーリー的に完結するオデッセイの帰還まで20年を要したわけです。
が!もし、女神に投げ与えられたものがリンゴではなく、豊満なバナナであったらどうしましょ。20年もたてばいくら神の関与したもうたとはいえ、そこはバナナ、熟れて腐ってぐっちゃぐちゃ、ゆえに果実に象徴される女神たちも老いて腐ってしわくちゃ。神話は語り継がれません。
(例2)
また、ニュートンはリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則に開眼したそうだ。
が!もしそれが熟した柿の実であったならどうしましょ。多分、ニュートンの観察は落ちるというプロセスではなく、落ちてぐっちゃぐっちゃという結果に向いたでしょう。すると、ニュートンは万有無情の観に開眼し、徳の高~いお坊さんになっていたかもしれない。
ならば、物理学とそれに続く人類の即物的幸せはしばらくお預け。
(例3)
じゃ、リンゴより堅い椰子の実はどうよ!との指摘をいただくかもしれない。
が!が!神は創造の末に人間をこしらえたとき、同じところに知恵の木をも茂らせている。もし、それが椰子の木だったらどうしましょ。そう、おんなじガーデン・エデンにあるのなら、早晩、彼ら彼女らはその実をみつけ出し、さらには誘惑に駆られ、その実を得ようとする(なんて罰罪深いことする神!)。
しかしいかんせん、彼ら彼女らに知恵はないのだから、振るまいなんかこんな感じ
イ ブ「うぎ、うぎ(☆。☆)」
アダム「うぎ~、うぎ!😠」
イ ブ「うぎー、うぎーー、(プンスカ)」
アダム「うぎぃ・・」
(しぶしぶ素手で椰子の木に登るアダム)
アダム「うぎ?」
イ ブ「うぎ」
アダム「うぎ??」
イ ブ「うぎ、うぎ」
(さらに遠くへ手を伸ばすアダム。瞬間、持っていた椰子を取り落とし)
アダム「うぎぃーー・・・」
イ ブ 「うぎゃー」(初めて発する人らしき発声)
劇終🍎
かくして、聖書は早々に終わり、人・猴ともに、無明からこれきし、これへサル。
これを避けるには、聖書を8ページ以降も編集し続けるには、人が愛し・怖れ・敬う木の実はりんごでありなん。
とまあ、リンゴについて、郷愁のような腹いせのような事を書いている。しかし、少し頭が冷えたところで、そのうち木の実の続きを書いてみよう。