え、杉田水脈を庇おうとした小川榮太郎がヘッポコ無知記事を書いて燃えたがために、杉田水脈が離党の危機なん?!やるなあ、小川榮太郎。https://t.co/TwaS3UqN64
— YOKO(玉城デニー🌈ちばりよー) (@granamoryoko18) 2018年9月25日
「私の文章は便所の落書きではない」。
きっと、この弁明、
歴史に残る、
彼にとっては最悪の告白、彼の批判者にとっては、ジョークとして。
小川榮太郎は、
信じられないことに彼の腐敗臭を知らないのだ。
彼は、
あろうことか、政権崩壊後も
評論家として一目置かれることを妄想している。
杉田水脈でさえ、
影が薄くなる小川ならでは醜悪さは、
伝説として
長く人々の記憶に留められよう。
しかし、その感情は、
小川への肯定のエネルギーにはなりえない。
「そんなにおかしいか『杉田水脈』論文」と題して
杉田水脈の放言の是非をめぐって
挑発的に問うことで、
人々にある
「良識あるまともな人間なら弱者を守る意思は当然持っている」
という厳粛な事実を呼び覚ました
(拙稿「杉田や小川榮太郎支持者はごく少数の変人と考えていい理由」参照)。
☆ 記事URL:https://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/1bb4bab56b9d6203584e9f9b89154a56
小川の役割は、
これで尽きたと言っていいだろう。
もっとも、
その余波は、
新聞等、世論調査では測りえない。
ただ、民衆の中の怒りに接して了解できる。
下の画像を見よ。
「雨の中これだけ多くの人が新潮社の前に抗議に集まっている」と、
yoshiyaさんがそのツイート〔19:39 - 2018年9月25日〕で教えてくれている。
これ等の声に呼応するように
新潮45が休刊となった。
出版界では、
「休刊」とは、つまり、「廃刊」だと理解するのが常識だ。
この雑誌、
もう二度と本屋に平積みされることはあるまい。
便所の落書未満の
卑劣な文章を書いたがために、
文筆の神様が怒ったのではないか。
庶民の間には、
まだまだ小川榮太郎という
反・良心の
無敵なアホの信奉者が汚らわしい文章を自社の雑誌に掲載した新潮社に対して
こんな批判が寄せられる。
発信者は、
Aila@Lailamioという方だ。
声なき庶民の声を代弁されていると思う。
――校閲をおろそかにしてきたので今回の記事が世に出てしまったと。言い訳も休み休みに。どこの国に、あれだけ差別色濃厚な論文をノーチェックで印刷に回す出版社があるのか。誰かが見ていた。そして止めなかった。休刊程度ではその責任を取ったことにはならない。〔20:36 - 2018年9月25日〕――
この声が大きなうねりとなって
官邸を襲いそうだ。
ある自民党関係者によると、
「次の総務会で、彼女の処分について議題に上がることが決まった。処分がどう出るかは会議の議論次第だが、『離党』や『除名』という処分を下すべきだという声は必ず出る。総裁選が終わり、党の結束を強めなければいけない時期だけに、本当に重い処分が下ることは十分あり得る」(FLASH記事「「新潮45」大騒動で「杉田水脈」に離党・除名処分の可能性」参照。*https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180925-00010001-flash-ent)
なぜ、こんな大事件になるのか。
民間の出版社の事件でありながら、この事案、安倍の思想性に関連する
総理案件だからだ。
放置しておけば、「あの人、若いから」と言って庇った
杉田水脈の非常識について、
官邸は、
自分の落ち度を招き寄せてしまうからだ。
すなわち、
安倍がこの雑誌を潰したともいえる。
これに関連して、
ネトウヨどもが「言論弾圧」だと言っている。
たとえば、実際、次のような反論がある。
新潮45の休刊について、ネトウヨが「言論弾圧だー」とか言っててほとほと呆れる。あれで言論弾圧なら、はだしのゲンを図書館から追放しようとしたり、朝日新聞の廃刊を主張したり、気に入らない左派系言論人に嫌がらせを繰り返して委縮させたりするのは言論弾圧じゃないの?https://t.co/4bw7UeUcIx
— 大神@肉球新党 (@ppsh41_1945) 2018年9月25日
しかし、新潮社は、
「休刊」としう選択肢を選んだのは、安倍を守るためだろうから、
検証をしないだろう。
そう、まさに、この事件、上掲に指摘した安倍案件だからなのだ。
masaya[09マニフェスト再び]@tomaruseiyaさんが
こんなツイート。
――なぜ休刊に追い込まれたのか、新潮社は自己検証する必要があると思うが、絶対やらないだろう。なにしろ、この問題の本質は「総理案件」なのだから。〔18:58 - 2018年9月25日〕――
言葉を変えて言えば、
新潮社は、
安倍晋三の私物になっていた。
検証するとなったらその事実を暴かねばならない、
そんなことできるかということだな。
なぜ、こんなことになってしまったのかについて、
望月衣塑子さんが
ある編集者のため息を引用して説明していた
(同氏のツイート〔18:19 - 2018年9月25日〕参照)。
いわく、
「出版不況で右寄り本しか売れず、
やむなくネトウヨ向けの本を作り、その稼ぎでまともな本を作ってる」云々。
こんな安易な権力寄りかかる商業主義は、
日本の国を壊す。
小川太郎が安倍政権を擁護するには、
雑誌の一つや二つ、
潰してしまうほどの駄文中の駄文と言ってよい乱暴な文を書いた上、
「俺の文章は、便所の落書きではない」と
言い募る厚かましさ、
滑稽さ、無神経ぶりにたくさんな庶民が仰天してしまった。
ここまで、
ナルシストでいられる悪徳に
世の中の人は、
我慢して立っていられなくなっている。
根底にある
評論家・小川が振るう暴力への怒りを述べた文献として
武田砂鉄さんの
過労自殺をしたまつりさんに関する論稿を紹介する
(下記〔資料〕参照)。
よく、小川榮太郎というおっさんの
図々しさが分かる。
LGBTの人も過労自殺した高橋まつりさんも
小川にとっては、
同じ範疇に属するのだろう。
すなわち、「彼らは、異常」であり、
それ以上の分析は
意味がない存在なのだ。
だったら、口を謹んでおればいいものを
「彼らの生きづらさは、後ろめたさ以上ではない」などと、
社会問題化しようとする。
過労死の問題を訴えたまつりさんの母親に
「死を社会的な値段になど還元せずに、自分の胸のなかだけで大切にし続けてやらねばならないのではないか」
と言い募る根性は、
「LGBT様が論壇の大通りを歩いている風景は私には死ぬほどショックだ、精神的苦痛の巨額の賠償金を払ってから口を利いてくれと言っておく」(拙稿「小川榮太郎 / 「痴漢の触る権利を社会は保障せよ」」参照)
という迷惑論に根底において通じてる。
☆ 記事URL:https://blog.goo.ne.jp/nrn54484/e/6ee9bd996997dc80a2717342c46f0acd
小川の主張は、
世の中、我慢している人は一杯いる。
要は、程度問題で、
わずかな不快感でも我慢できないものが自殺する。
一々、構っていられるかということだ。
しかし、ならば、
その不快感を自身でも体験して見ろと思う。
自分がよく知りもせず、味わっていない不快感を「それは程度問題」などと、
決めつけてはいけない。
批判され、追及されるや
「その問題について、よく知らないから教えてくれ」などと居直るなら、
端から沈黙を強いなければよい。
<追記>
何度か寄稿してきた雑誌だが「新潮45」の自爆的休刊は残念としかいいようが無い。昨年あたりから突然ぶっ壊れてきたと感じて距離を取った。最後の2冊は有り得ない内容だった。「雑誌は編集長のもの」と言われるが、今回の騒ぎで失ったのは雑誌だけではなく会社全体の信頼だ。
— 清水 潔 (@NOSUKE0607) 2018年9月25日
さよなら新潮45。
文筆家にとっては、
格別の思いがあるだろうな。
2018年9月26日早朝 記
〔資料〕
「精神論を振りかざし電通の過重労働を擁護、自殺した娘の母をバッシングする評論家の暴力」
WEZZY/論男時評、武田砂鉄さん・文(2017.02.15)
☆ 記事URL:https://wezz-y.com/archives/41908
本サイトを読まれる方が日頃手にすることがないであろうオヤジ雑誌群が、いかに「男のプライド」を増長し続けているかを、その時々の記事から引っ張り出して定点観測していく本連載。
広告代理店・電通の社員だった高橋まつりさんが2015年に過労自殺し、電通が労働基準法違反で書類送検された一件は、まつりさんの母親からの切なる訴えもあり、常態化している残業を中心に労働問題の再考へと繋がっている。母・幸美さんは、昨年12月25日、娘の命日に手記を発表した。「まつりの死によって、世の中が大きく動いています。まつりの死が、日本の働き方を変えることに影響を与えているとしたら、まつりの24年間の生涯が日本を揺るがしたとしたら、それは、まつり自身の力かもしれないと思います」としつつ、「生きて社会に貢献できることを目指していたのです。そう思うと悲しくて悔しくてなりません」と記した。電通は社長が引責辞任、午後10時に本社ビルの完全消灯と、いくつもの対応を余儀なくされている状況にある。先月20日には、遺族と電通側が、再発防止策や慰謝料の支払いなどを盛り込んだ合意書に調印している。
電通の4代目社長・吉田秀雄が1951年に記し、社員手帳に刻まれてきた「電通鬼十則」も話題となった。
「5・取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは…。」
「6・周囲を引きずり回せ、引きずるのと引きずられるのとでは、永い間に天地のひらきができる。」
といった、長時間労働を推奨しているとしか思えない「鬼十則」は、2017年度版の社員手帳には掲載されないことになった。電通労働環境改革本部は、すべての部門で有給休暇の取得率を50%以上にする目標を立てるなど、改善に向けて動き出している。
そんな最中に、「『電通鬼十則』どこが悪い!」とのタイトルの寄稿を目にして思わず動転してしまう。とはいえ、「こんな十則はあくまでも努力目標であり、掲げるくらいは問題ないのでは」程度の異議申し立てなのだろうと読み進めたら、あろうことか、娘の死を無駄にしてはならないと訴える母親へのバッシングも含む寄稿だったのである。
「ノイローゼで社員が自殺する度に大会社の社長が引責していてどうするのか」
小川榮太郎(『月刊HANADA』2017年3月号/飛鳥新社)
著作に『約束の日 安倍晋三試論』『「永遠の0」と日本人』などがある文藝評論家・社団法人日本平和学研究所理事長の小川榮太郎の寄稿は、一人の自殺が社会問題に派生していくことに対する違和感を述べ連ねていく。電通の石井直社長が辞任したことを受けて、「ノイローゼで社員が自殺する度に大会社の社長が引責していてどうするのか。ノイローゼ患者も自殺者も無数にいる。社会は理不尽であり、人間は弱い。制度の問題ではない、程度の問題なのだ。遥かに理不尽な中で非命に斃(たお)れる無数の人間が毎日いる事だろう」と書く。
丸ごと突っ込まなければならない文章というのは、どこから突っ込んでいいか分からなくなるものだが、過労死の事案が議論される度に、この手の「ぶっちゃけ」が必ず顔を出す。その「ぶっちゃけ」とは、要するに「もっと大変な奴いるぜ!」である。もっと大変な奴がいるから何だと言うのか。人は、残業時間が多い順に、プレッシャーが多い順に自死を選ぶのだろうか。「制度の問題ではない、程度の問題なのだ」と言う。いや、程度の問題ではなく、制度の問題である。驚くべき事にこの小川は「私はこの事件をよくは知らない。いまも、実はあまり詳しくは知らずにこれを書いている」と明かす。会社からの抑圧に踏み潰されるように自死を選んだ事件を前にして、「詳しくは知ら」ないにもかかわらず、冒頭から海音寺潮五郎『孫氏』の「由来自殺者の心理は異常である」なんて一節を引っこ抜く無神経。
「『この程度の残業で自殺を選ぶのは理解できない』という疑念には意味がない」と補足しているが、真っ先に「程度の問題なのだ」と言い切っているのはそちらなので困惑する。亡くなった高橋さんの自殺前1カ月間の残業時間は約105時間だったが、会社側から過少申告するように強いられていたという。「これは、たしかに厳密には電通の法令違反ということにはなる」と、なぜかオブラートに包もうとしているが、厳密には、ではなく、法令違反そのものである。「この残業時間も、この程度の過少申告も、日本社会の常識に反する極端なものではあるまい」と続けば、その無理解が露呈する。
この一件が浮上した際、電通に入ったんだからそれぐらい覚悟しなければならない、との意見を見かけたし、その後、マスコミ業界の人と話をしていると、時間が経つにつれて「電通もあれこれ言われてかわいそう」などとフォローする人たちが増えていることに驚いたのだが、上司から「髪ボサボサ、目が充血したまま出勤するな」「今の業務量で辛いのはキャパがなさすぎる」と言われ、「男性上司から女子力がないだのなんだのと言われるの、笑いを取るためのいじりだとしても我慢の限界である」などと繰り返しツイートしていた本人の苦悩は忘れ去られていく。その忘却を危惧したからこそ、遺族は立ち上がったはず。
「なぜこの人は、娘の死を社会問題などという下らないものに換算しようとするのか」
小川榮太郎(『月刊HANADA』2017年3月号/飛鳥新社)
小川は、電通という大きな組織で高給料の会社だからここまで話題になったのであって、もしも下請けの会社だったら社会問題にはならなかったはず、との推察を投じるが、納得できるはずがない。「その場合、今回の東大卒の可愛らしい女性の自殺のように、社会問題になるだろうか」と記す様に、書き手の偏見がしっかり滲む。大企業の労働者であろうとも、零細企業の労働者であろうとも、あるいはフリーランスの労働者であろうとも、強権に屈する形で死を選ばざるをえない環境に置かれていたのであれば、しっかり検証し改善されなければならない。
大きな会社に対抗するように母親という個人が声を挙げることは容易いものではない。しかし、その行為すら小川の理解では「死を利用して、日本の労働慣習を脅し上げるなど、見当違いも甚だしい。ところが残念なことに、その見当違いをよりによって自殺した女性の母親がしている」「なぜこの人は、娘の死を社会問題などという下らないものに換算しようとするのか」となる。自身の父が昨年に亡くなった事を挙げ、自分は父親を静かに送り出したが、自殺した彼女の死も「死を社会的な値段になど還元せずに、自分の胸のなかだけで大切にし続けてやらねばならないのではないか」と続けば、その神経を疑いたくなる。
事件についての議論がひとしきり出揃った後に、こういった精神論が再燃する。「週刊新潮」は1月12日号で「残業を絶対悪にした『過労自殺』 後始末の違和感」と題し、「何か彼女に特段の事情でもあったのではないか」との電通関係者の声を紹介、「母親との濃密な関係」「彼氏の存在」などの「複合的な要因が隠されていた」と書くことで、当人や母親への目線を再度揺さぶろうとした。
小川は「この程度のことを企業犯罪呼ばわりされて大会社の社長が引責していたら、総理大臣から会社の社長まで、責任ある立場の人間は毎日のように引責辞任しなければならなくなる」と書く。少しも「この程度」とは思わない。このような事案が生じれば、上長が責任を問われるのは当然である。もしも、どうしてもその違和感が消えないのであれば、母親を吊るし上げる前に、辞任を決めた電通側に「そんなことしなくていい」と申し立てるべきだろう。最も痛切な声を捕まえて、「私はこの事件をよくは知らない。いまも、実はあまり詳しくは知らずにこれを書いている」くせに、それってどうなの、と潰しにかかるのは、単なる暴力に思える。
(武田砂鉄)
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