のんきに介護

母親と一緒の生活で、考えたこと書きます。

コーランは、もう読んだ?

2015年12月07日 04時14分34秒 | 宗教
tomo san‏@cnvvltyさんのツイート。

――推奨:「コーランは岩波文庫から日本語訳(上中下3巻)が出ていると言っても、これを読んだことのある人はほとんどいないだろう。僕は読んだ。それも全巻。ウズベキスタンで勤務していた時、この社会を理解するため読まねばならないと思って。」 http://ow.ly/VxhjZ〔21:59 - 2015年12月6日 〕――

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〔資料〕

「コーラン 読みもされずに誤解されている経典」

   サイト「世界はこう変わる」(2013年3月 8日)

☆ 記事URL:http://www.japan-world-trends.com/ja/cat-1/post_1145.php?utm_source=hootsuite

コーランは岩波文庫から日本語訳(上中下3巻)が出ていると言っても、これを読んだことのある人はほとんどいないだろう。僕は読んだ。それも全巻。ウズベキスタンで勤務していた時、この社会を理解するため読まねばならないと思って。本当に・・・・かった。

このコーランというものは、書物として、しかも日本語訳で読んで有難さがわかるものではなく、あのオリエントの諸都市を1日5回、深遠な祈りの声で満たすアザーン、つまり朗読として聞いて初めてそのご利益がわかる。アザーンというのは本当に、体に浸みわたって麻痺させるような心地よさを持っている。だから、「コーラン」(Qur'an)とは読誦、「イスラム」とは絶対的な帰依を意味するのだそうだ。

読誦で無我の境地に入るというと、全世界に広がるシャーマニズムの風習を思い起こす。イスラムは西暦7世紀に成立した新しい宗教だから、それまでオリエントの各地に伝わってきた習俗や宗教を集大成したところがあって、シャーマニズム的要素があるのも不思議でない。

岩波文庫「コーラン」の下巻320頁によれば、アラブには元々「カーヒン」というシャーマンがおり、「聖石」崇拝が浸透していたそうだ。メッカのあの壮大な神殿の真ん中にある黒いお堂が「カーバ神殿」だが、そこの一角にはイスラム以前からここで崇められていた黒い石がはめてある。写真を見ると、黒く卵型のすべすべした、まるで隕石であるかのような不思議な石だ。

そしてこの神殿の近くには、旧約聖書に出てくるあのユダヤの族長アブラハムの妾が、本妻に虐げられて息子イシュマイル(アラブ人の祖とされる)と砂漠を放浪、死にそうになったところで天使に泉を示される、そのザムザムの泉が今でもある。そこの水はメッカで売られているし、イランではザムザム・コーラというのが販売されている――というのは今回、インターネットで知った。

これらの事実が示すように、このメッカの神殿はイスラム以前は多神教の本山だった。オリエントの諸民族(その中にはユダヤ人とアラブ人も入っている)の習俗や宗教をごった煮にして、アラーという神を信ずる一神教に仕立て直したのがイスラム教だ、とでも言おうか。

だからイスラムはユダヤ教やキリスト教の流れを引いており、仏教で言えば真宗のようなものだ。コーランは、旧約聖書からの引用で満ちている。アダムとイブの話し、ノアの洪水、族長アブラハムが息子を神への犠牲に捧げようとした話しなどはそのままそっくり出てくる。但し、そのすべては、ヤハヴェではなくアラーを讃えるものとして示される。名は違っていても、イスラム、ユダヤ、キリスト教の神は同一で、コーランでは、「キリスト教の神もアラーだ」と明言している箇所がある。キリストは預言者の一人で生身の人間なので、神聖視するのは適当でないとする(岩波文庫上巻160頁)。聖母マリア伝説の方はそのまま認めているのだが(中巻129頁)。

コーランは旧約聖書をわかりやすくかみくだいて説明している箇所が多い。そして説教の相手は大衆である。貧者のための一神教、という点でも、真宗に似ているとでも言おうか。だからコーランの叙述は時に通俗的と言ってもいいほど、下世話なものになる。聖書と同じ「最後の審判」も出てくるが、聖書を能とすればコーランは講談といったところ。コーランには天国もあるが、その天国たるや酒の泉やらホステスなみの女性やらほとんど永遠の悪徳とでも呼べるほど楽しいところで、現世的なのだ。そして大衆、貧者を対象とするコーランは社会主義的、つまり富者の富を分配する方向を強くにじませる。「喜捨」を呼びかける箇所も頻繁に出てくるのである。

イスラムについての今の通念はコーランと違う

イスラムというと、テロリストたちがそのイメージをすっかり落としてしまった。僕もウズベキスタンで勤務する前は、イスラム教徒が隣に座ると薄気味悪かったものだ。何をどのように考え、何にどう反応するかわからない、もしかすると――そういう感じを持っていたからだ。
しかしイスラム教の社会(と言っても、中央アジアのイスラム教はもともと穏健なスンニー系だし、ロシア帝国、次いでソ連に併合されていた時代にずいぶん通俗的になった)に暮らしてみると、イスラム教と言っても「人をだまさない」とか「ちゃんと働く」とか、ごく当たり前の生活規範を集めたようなもの、そして僧侶とつきあうのは葬式の時くらいのもの、という感じがわかってくる。結局、イスラム教徒と言っても、普通の人間なのだ。

コーランには「規を越さず」という言葉があり(上巻162頁)、これが狂信の宗教でないことを示している。偶像を崇拝せず、キリスト教などのように「奇蹟」を布教の手段とすることもない。
イスラム社会は一夫多妻制が認められ、男尊女卑だと言われているが、実際には一夫多妻はそれほど見られない(金持ちでないと無理)。コーランが一夫多妻を認めたのは、戦死した男性の未亡人に対する扶助措置としての面がある(戦死した兄の嫁は弟が面倒を見る等)。そしてコーランでは、相続の場合、女性にも(少な目ではあるが)相続権を認めている。男女間の愛情を愛情(対等の者同士)として前向きに評価した箇所もある(中巻269頁)。タリバン時代のアフガニスタンでは、不倫をはたらいた女性が石打の刑にあうようなこともあったが、コーランはそのような厳しいことは言っていない(上巻111頁)。但し泥棒の手を切り落とすことは、コーランでも言っている。

さて、イスラム教と言うと、「禁酒」ということになっているのだが、コーランに酒を飲むなとは書いていない。それどころか、コーランが叙述する天国では、酒が汲めども尽きず湧き出る泉がある。15世紀、ペルシャの詩人ナヴォイの詩はこれ数百篇、すべてが女性か葡萄酒を称えるもので、いったいいつイスラム教が酒を禁じたのかよくわからない。

最後に、これもまた現代のイスラムとコーランの違いなのだが、コーランは別に利子を取ることを禁じていない。「高利を取ってはいけない」とあるだけだ(上巻94頁)。多分、後世のイスラム法学者たちが、コーランの運用をどんどん厳しくしていって、それによって自分の権威と権益を大きくしようとしたのだろう。



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