九州神社紀行-ブログ

北九州近郊を中心に神社および周辺風景の撮影日記です。

橘樹神社(千葉県茂原市)

2009-07-02 11:56:08 | 神社参拝ー関東
 橘樹神社(千葉県茂原市)を掲載しました。

 橘樹神社(たちばなじんじゃ)
<通称>橘様(たちばなさま)
【鎮座地】〒299-4114 千葉県茂原市本納738 旧上総国 長柄郡
【御祭神】弟橘姫命 (配祀)日本武尊 忍山宿禰
【例祭】 10月10日 例祭
【旧社格等】県社
      上総國二の宮
      式内社 上総國長柄郡 橘神社
【御由緒】
 本納の地は、古くは上総国長柄郡本納村と称します。
その地に鎮座まします氏神「橘樹神社」(たちばなじんじゃ)と読みます。中世の文書には橘木社と記されているもの、また、江戸期には橘大明神とも言われて、土地の人たちには「橘さま」と親しみをもって呼ばれています。
 ご祭神は、「弟橘姫命」(おとたちばなひめのみこと)です。
相殿としては「日本武尊」(やまとたけるのみこと)と、弟橘姫命の父君である「忍山宿弥」(おしゃまのすくね)の二神が祀られています。

社伝の一説
 日本武尊(やまとたけるのみこと)は、古事記・日本書記にあらわれる人物で、第十二代景行天皇(けいこうてんのう)の皇子であり武人の誉れ高き皇子でありました。
 景行天皇二十八年(99)天皇の命を受け熊襲(くまそ)を征討し、四十年(111)には東夷(あずまえびす)の征討の命を受け出征し途中伊勢神宮に参拝し、天叢雲剣を授けられ幾多の苦難を切り開き、さらに前進して相模(さがみ)から、上総(かずさ)を平定し剣を止めての帰路伊吹山にて病にかかり世を去ったとの説が伝わっています。
 相模より上総に渡る際に海上にて暴風雨に遭遇し大変な苦難をした時に、尊の妃である弟橘姫が海中に身を投じ海神の怒りを鎮めた。尊はお陰で上総に上陸することができ、賊を平定して当本納の地にたどり着いて、姫を弔う墳墓を築いて橘の樹を植えて墓標にしたと伝えられています。
 この説話は、古事記に原形があり「弟橘姫命の入水から七日ありて後に姫の御櫛が海辺に依りきたり、その櫛を取りて御墓を造り納めた。」とある。
 本殿の後方がその御陵になっています。
(「橘樹神社の由来と郷土の歴史」より)

 千葉県のほぼ中央東部に位置する茂原市にあります。JR外房線本納駅から北に1km、本納中学校の北西100mに鎮座しています。

  参道の鳥居
 木々に囲まれた平坦な参道には、3基の鳥居が並んでいます。

  参道から拝殿
 鳥居をくぐると綺麗に整備された境内、左に手水舎、平成5年10月皇太子殿下御成婚記念の奉納です。右は社務所、ここで早朝(8:20)でしたがご朱印をいただきました。

 拝殿 
拝殿の前には「姫を弔う墳墓を築いて橘の樹を植えて墓標にした」との社伝に因んだ橘が左右に植えられています。その内側には歴史を感じさせる狛犬が大小二対ならんでいます。
 
 拝殿の扁額「橘木神社 伯爵東郷平八郎 書」とあります。

 本殿 
 本殿は拝殿から赤い屋根の細長い廊下、幣殿?で接続されています。
創始は日本武尊東征の際、走水に身を投じた妃弟橘姫命を弔う御陵を作り、橘樹2株を植えて祭祀したことと伝えられています。
 御祭神は弟橘姫命、元慶8年(884年)、正五位上の神階が授けられ、日本武尊(夫)、忍山宿禰(父君)が合祀されています。

本殿は寛政12年(1800年)に造営されたもので、それまでは本殿はなく拝殿から直接御陵を拝む形となっていました。

  本殿の彫刻 
 木鼻など随所にみごとな彫刻が施されて、匠の技が見られます。
 
 社殿全景本殿はコンクリートブロックの瑞垣に囲まれています。

  境内社社殿左にあります。
 写真左から、稲荷神社、子安神社、窟戸神社です。

 弟橘姫命御陵本殿後方が御陵になっています。
石碑には「弟橘比賣命御陵 海軍中将勲一等 ????(判読不能)謹書」とあります。

  拝殿から参道

 「吾妻の池」参道の鳥居をくぐって、左にあります。
 弟橘姫命の陵墓を築くために土を取った跡と云われています。

 参道から鳥居周囲は住宅地から田園地域です。
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