07/29(土)、ようやく梅雨明けとなり本格的な夏の始まりです。
夏はやはり海に行きたくなります、海の近くの神社といえば福岡市東区志賀島に鎮座されている「海神の総本社」志賀海神社です。
博多湾の入口に位置する志賀島から海の中道、和白、新宮と海岸沿いに北上するルートで参拝しました。
志賀海神社(しかうみじんじゃ)
式内社 筑前國糟屋郡 志加海神社3座(並名神大)
旧官幣小社
【鎮座地】〒811-0323 福岡県福岡市東区大字志賀島877
旧筑前国 糟屋郡
【御祭神】
・左殿 仲津綿津神(なかつわたつみのかみ)
(相殿、神功皇后・じんぐうこうごう)
・中殿 底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)
(相殿、玉依姫命・たまよりひめのみこと)
・右殿 表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)
(相殿、応神天皇・おうじんてんのう)
【御由緒】
古来、玄海灘に臨む交通の要衝として聖域視されていた志賀島に鎮座し、「龍の都」「海神の総本社」と称えられ、海の守護神として篤く信仰されている。
御祭神は伊邪那岐命が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原において禊祓(みそぎはらい)をされた際に、住吉三神と共に御出現された綿津見三神で、神裔阿曇族によって奉斎されている。
御祭神が、禊祓で御出現された神であることから不浄を特に嫌い、諸々の穢・厄・災・罪をはらい清め、また、海の主宰神であることから水と塩を支配し、私達の生活の豊凶をも左右する御神威を顕現されている。
当社の創建は明らかではないが、古来、勝馬の地に表津宮・中津宮・沖津宮の三社で奉斎されていた。2世紀(遅くとも4世紀)に表津宮(底津綿津見神)が当地勝山に遷座、併せて仲津綿津見神・表津綿津見神が奉祀されたと伝えられる。
往時の社殿は壮麗で、末社三七五社、社領五十石有し、奉仕する者も百数十名いたなど繁栄を極めた。社伝には神功皇后の伝説を多く残し、元冦の役(げんこうのえき)など国家の非常の際に嚇々(かくかく)たる御神威を顕示されたことから、社格も貞観元年(八五九年)従五位上、『延喜式』には明神大社、大正十五年(1927年)には官幣小社の処遇をうけている。
(境内志賀海神社略記より)
「ちはやぶる金之三崎を過ぎぬとも吾は忘れじ牝鹿の須売神」(万葉集巻七)
「名にし負ふ龍の都のあととめて波をわけゆく海の中道」 (細川幽斎)
当社は「漢倭奴国王」の金印で有名な志賀島に鎮座されています。
海水浴客で賑わう海ノ中道を過ぎ、志賀島橋を渡り右手に進むとすぐに
一の鳥居が見えてきます。狭い商店街?の突き当たりに参道入口があります。
一の鳥居
参道入口の鳥居の下に御潮井(清めの砂)が置いてあります。
緩やかな登坂の参道が続きます。
石造宝篋(ほうきょう)印塔
過去、現在、未来の幸福を願う仏典(宝篋印陀羅尼経を)納めた塔
貞和3年(1347年)の日付がある。
参道から楼門 楼門
拝殿 本殿
亀石
神功皇后の三韓征伐のおり、志賀大神が老翁の姿になって金色雌雄の亀にお立ちになって現れ皇后を擁護された。この金色雌雄の亀はのちに石になって寛文10年(1670年)当社に移された。
遥拝所
遥か東方の伊勢神宮を拝む
遥拝所からの景観(和白、新宮海岸の望む)
鹿角堂(ろっかくどう)
拝殿前の広場の隅にある建物。奉納された1万本以上鹿の角が建物を埋め尽くしている。
楼門から参道
夏はやはり海に行きたくなります、海の近くの神社といえば福岡市東区志賀島に鎮座されている「海神の総本社」志賀海神社です。
博多湾の入口に位置する志賀島から海の中道、和白、新宮と海岸沿いに北上するルートで参拝しました。
志賀海神社(しかうみじんじゃ)
式内社 筑前國糟屋郡 志加海神社3座(並名神大)
旧官幣小社
【鎮座地】〒811-0323 福岡県福岡市東区大字志賀島877
旧筑前国 糟屋郡
【御祭神】
・左殿 仲津綿津神(なかつわたつみのかみ)
(相殿、神功皇后・じんぐうこうごう)
・中殿 底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)
(相殿、玉依姫命・たまよりひめのみこと)
・右殿 表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)
(相殿、応神天皇・おうじんてんのう)
【御由緒】
古来、玄海灘に臨む交通の要衝として聖域視されていた志賀島に鎮座し、「龍の都」「海神の総本社」と称えられ、海の守護神として篤く信仰されている。
御祭神は伊邪那岐命が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原において禊祓(みそぎはらい)をされた際に、住吉三神と共に御出現された綿津見三神で、神裔阿曇族によって奉斎されている。
御祭神が、禊祓で御出現された神であることから不浄を特に嫌い、諸々の穢・厄・災・罪をはらい清め、また、海の主宰神であることから水と塩を支配し、私達の生活の豊凶をも左右する御神威を顕現されている。
当社の創建は明らかではないが、古来、勝馬の地に表津宮・中津宮・沖津宮の三社で奉斎されていた。2世紀(遅くとも4世紀)に表津宮(底津綿津見神)が当地勝山に遷座、併せて仲津綿津見神・表津綿津見神が奉祀されたと伝えられる。
往時の社殿は壮麗で、末社三七五社、社領五十石有し、奉仕する者も百数十名いたなど繁栄を極めた。社伝には神功皇后の伝説を多く残し、元冦の役(げんこうのえき)など国家の非常の際に嚇々(かくかく)たる御神威を顕示されたことから、社格も貞観元年(八五九年)従五位上、『延喜式』には明神大社、大正十五年(1927年)には官幣小社の処遇をうけている。
(境内志賀海神社略記より)
「ちはやぶる金之三崎を過ぎぬとも吾は忘れじ牝鹿の須売神」(万葉集巻七)
「名にし負ふ龍の都のあととめて波をわけゆく海の中道」 (細川幽斎)
当社は「漢倭奴国王」の金印で有名な志賀島に鎮座されています。
海水浴客で賑わう海ノ中道を過ぎ、志賀島橋を渡り右手に進むとすぐに
一の鳥居が見えてきます。狭い商店街?の突き当たりに参道入口があります。
一の鳥居
参道入口の鳥居の下に御潮井(清めの砂)が置いてあります。
緩やかな登坂の参道が続きます。
石造宝篋(ほうきょう)印塔
過去、現在、未来の幸福を願う仏典(宝篋印陀羅尼経を)納めた塔
貞和3年(1347年)の日付がある。
参道から楼門 楼門
拝殿 本殿
亀石
神功皇后の三韓征伐のおり、志賀大神が老翁の姿になって金色雌雄の亀にお立ちになって現れ皇后を擁護された。この金色雌雄の亀はのちに石になって寛文10年(1670年)当社に移された。
遥拝所
遥か東方の伊勢神宮を拝む
遥拝所からの景観(和白、新宮海岸の望む)
鹿角堂(ろっかくどう)
拝殿前の広場の隅にある建物。奉納された1万本以上鹿の角が建物を埋め尽くしている。
楼門から参道
ついたのが夕方でしたので、次回はもっと早い時間に参拝したいと思います。
発掘されたミイラの頭蓋骨から復元したCG写真があるとのことで興味があります。
参拝記録は近く掲載したいと準備しています。
なかなか思うようにいきませんですね。
神社境内の木陰で休んでいると松林を通しての海からの風が心地よくつい眠くなります。
猛暑が続きます熱中症に気をつけてください。