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ノート上のお話

ノートの上に子供が三人、笑顔でしゃべっている。母親はシチューを煮込みながら本を読み、父親は旅先の風景を写真に収めていた。

テリー・フォックス

2005-06-10 02:20:59 | 本やテレビなど
「奇跡体験アンビリバボー」(フジテレビ)6月9日
テリー・フォックスという人についてやってました。
すると、涙君が眼の辺りを襲ってきました。なんとかっこよい人かと。なんとすばらしい人かと。


 将来は体育の教師という夢を持っていた18歳の青年テリー・フォックスは、当時不治の病だった骨肉腫という骨の癌になり、右足を失った。その後絶望の中にいたテリーだが、病院で一人の少女に出会う。少女と話すうちにテリーは少しずつ元気になっていった。しかし、ある日突然その少女が癌で死んだことを告げられる。病院にはその子以外にも癌の子供がたくさんいた。そこでテリーは考えた。自分は右足を失ったが命はまだある、何か自分にできることはないか。
 テリーは義足をつけてマラソンを走った人の記事を読み、「これだ」と思った。そして浮かんできた計画が、カナダ横断マラソン。癌と戦う子供たちのために、癌の研究費を集めるための募金をしたいと思ったのだ。
 走り続けるうちにメディアで取り上げられ、多くの人々の心を打った。募金は次第に集まりだしたが、なんと肺に癌が転移しているのが見つかり、143日目、5,373キロを走破したところで横断マラソンは中断された。家族のもとに帰ったテリーは、翌年1981年6月28日、22歳の若さで亡くなった。
 彼の死後、テリーの遺志を受け継ぎ、毎年彼がマラソン中断を余儀なくされた9月にカナダ各地でテリーフォックス・ランが行われるようになった。そしてテリーの遺志はカナダのみならず世界各地に広がり、テリーフォックスランはガン撲滅のために多くの基金を集めるイベントとして、広く市民に親しまれている。


テリーフォックスランは日本でも1995年から行われていて、今年で11回目になるそうです。カナダの英雄、かっこ良すぎでした。

参考URL
テリー・フォクス -WikiCanada.jp-
テリー・フォックス・ラン・日本

「生きることは学ぶこと」感想(2) ―いい・悪い―

2005-05-25 04:33:31 | 本やテレビなど
「バリ島の人たちがいい人と悪い人とを対立する概念とはとらえず、いい人は必要だが、悪い人はいらないという考えを持っていなかった」(p.86)
「たとえば、会社も同じで、良い社員、良い管理職ばかりだと、会社そのものが全体主義に陥る危険性があります」(p.87)

 「こんな人いなくなればいいのに」とか、「なんでこの人はこういう考え方しかできないんだ」とか、昔はよく思っていました。今は少しだけあります。犯罪者や国から身近な人まで、様々な物事や人を対象としてこういうことを思うことはよくあることでしょう。
 絶対にいい人ばかりの方が望ましいのに、いい人ばかりだといい人はいなくなってしまう。なんだかいじわるする人の開き直りの文句になりそうですね。使わないようにね。「学級委員、俺が何か悪さをしないと、このクラスは全体主義に陥ってしまう。だから俺にはいたずらをする義務がある。注意するのはいいが止めるつもりはない」
 
「故・司馬遼太郎さんは、『坂の上の雲』のなかで、「精神主義と規律主義は、無能者にとって絶好の隠れ蓑である」と言っています。」(p.193)

 鋭いお言葉ですね。無能者にならないようにするのはそう簡単なことではないように思いますが。「現実を見ろ」と「自主的に考えよう」、という単純な言葉になるでしょうか。どちらもいいように見えるだけに、普通の人からはその人の中身が見えにくい。いや、どちらも悪いことではないと思いますけどね。有能者になりたい人は隠れ蓑にしないようにすればいいですし、俺は無能だっていう人には隠れていただいていいと思います。うん、ちなみに僕も結構隠れさせていただいてます。一度隠れてもすぐに出て行く癖を付けたいですね。ひょっこり。

「生きることは学ぶこと」福原義春著感想 ―理想と現実―

2005-05-16 23:16:49 | 本やテレビなど
 私は本を読むとき、深く感銘を受けたところや感動したところ、よく考えたところなどをノートに書いておいている。一気に読んでしまったという本以外は、基本的にそこから膨らまして感想を書こうと思う。

「あなたは理想のない現実と、理想に支えられた現実と、その違いがどれほど大きいものであるかということが判っておられますか」(p.46本文より抜粋)

 反対の意味を持つ言葉というものは、それぞれ単体では意味を持ちません。一方があって初めて一方が認められるというものなので、対極にあるものというよりはむしろ、密接に関わって支えあっているものとさえ云えるかもしれません。
 例えば戦争と平和。皮肉なようですが、戦争や紛争、争いごとと平和は対極にあり、戦争がなければ平和という言葉の概念は存在しないのです。戦争の惨さがなければ平和の大切さは伝えられません。当たり前のものとしてあるだけです。生と死、俊才と馬鹿、男と女、白と黒、あつっとさむっ。挙げればきりがないし、それについて書く気も今はないのでこれくらいにしておいて、理想と現実に入ります。
 理想と現実は密接に関わっています。私たちは現実の世界に存在していますが、現実と理想の入り混じった世界を生きています。ではなぜ現実に理想が乱入したのか。
 理想という言葉は普通いい意味で使います。ということは反対の現実はそれとは逆のもの。現実がつらいからそれとは逆の理想が生まれた。現実をうまく生きるために、現実を支えるために、必然的に生まれたのが理想というものだと思います。

 「現実を見ろ」というのは「理想を見ろ」とあまり変わりません。ただし、二つが密接に関わっていることを意識しながら見ている場合です。その場合、一方を意識することはもう一方を考えたり、違いを検討したりすることに近い行為です。理想を高く掲げて成功する人がいます。一方で理想ばかり見て成功しない人がいます。両者の違いは何かというと、二つの対立するものの関係性をよく理解しているかいないかであるとわたしは思います。