今日は、中越地震が起こった日。あれから10年が経ちました。
今日の長岡は、追悼式が行われていました。
あの日は第3回発表会のちょうど一週間前
その年に出来たばかりのウチのスタジオで、衣裳付きリハをして生徒が帰った後
18時半くらいでしたでしょうか、私一人でスタジオに居た時にあの地震が起こりました。
大きな揺れと同時に停電、私は外に逃げようとしたのですが、玄関のいつも出入りしている戸が開かない。
真っ暗のスタジオの中で、ガシャンガシャンと何かが落ちる音を聞きながら、その後の数度の余震に耐え
余震と余震のタイミングを見て再度、玄関へ行ったところ
運良く、4枚の玄関戸の1枚が開き、外へ出る事が出来ました。
辺りは真っ暗ながら、JRの線路を照す明かりだけ付いていて
その後の余震は、外の倒れそうな車を押さえるだけで精一杯
これから、しばらく来れないかも?っと、余震の合間をぬってスタジオに戻り
手探りでCDコンポなど高い所にある物を床に置き、鍵をかけ、スタジオをあとしました。
停電なので、信号機はあっても付いていません。
自宅マンションに着き、自宅の中を見たら、幸いにして家具も倒れてなく
食器棚の中の食器も割れずに、食器棚の戸は開いて戻った形跡
テレビ台、引き出し家具は、ウチは掃除しやすいようにキャスター付き家具が多かったので、
キャスターごと動いていたようで、大きな物はあまり落ちなかった様子
私のマンションは耐震構造になっていたのです。
上階の方は避難された方もいましたが、その後数日続いた余震も自宅で過ごせました。
市内、ライフラインが全滅状態の中、私のマンションは、点検の為、一時的にガスが止まっただけ
一番困ったのは、食料です。
コンビニ、スーパーはほとんど食料がありません。
マンションの管理会社ははミネラルウォーターやカップラーメンを配給してくれ
万が一の為に、外に簡易トイレも設置してくれました。
その頃、主人は単身赴任で上越に居た為、私一人での生活
地震の翌日、主人が被害の少なかった上越から道が寸断されてる所を回避しながら時間をかけて食料を持って来てくれました。
でも仕事の関係ですぐにとんぼ返り
さぁ、これからどうすれば…
迫っていた発表会
電話はほとんど繋がりません。
一人の生徒のお母様からメールが来ました。
「今、家の外のテントに居ます。食べ物も少ない…」
他の生徒もたぶん自宅には居ません。家の前の自分の車の中か、避難所(どこの避難所かもわからない)
これは、発表会どころではない!
会の延期を決定
ゲストやスタッフ、会館に連絡
問題は、ほどんどの生徒に連絡がつかない事
自宅に電話しても出ないお家が多く
お母様方の携帯も電池切れなのか?繋がらない。たぶんメールも見れないかも。
発表会延期を知らせるどころか、安否確認も出来ません。
考えたすえ、連絡を取れた僅かな生徒以外の生徒は、
一人一人、その生徒の家や家付近の避難所をまわる事にしました。
その頃の発表会参加者は30名以上いたと思いますが、これしか手段がなかったのです。
行く道すがら、電信柱は斜めに倒れ、道は盛り上がり、家は屋根しかない家がいくつも…
小千谷に近い生徒の一人の家に行ったら、家の中が空洞になっていました。
もう悲惨としか言い様がない状況
無事だった!発表会延期を伝えたら、出席簿に○つけて、次の生徒の家…
でも、みんな 「発表会を中止にはしないで下さい!」 と言われます。
「悲惨だけど、夢だけは残しておいてほしい」 と…
スタジオでみんな揃ってレッスンするまで、どのくらいかかったでしょうか
それでも、翌年の1月に発表会を実現出来ました。
それからしばらくして
文園社の方から取材を受け、このお話は*バレリーナへの道58号*という本に掲載されました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/db/0b79dc3d38b3f1c588fda1f7eda80049.jpg)
この地震で今でも辛い思いをされてる方もいらっしゃいます。
その前に起こった阪神淡路の地震、その後に起こった中越沖地震、そしてあの東北の地震の被害にあわれた方もそうです。
私は、幸いにも被害も少なく過ごせて来ましたが…
この日が来る度、被害にあわれた方が少しでもお元気になられるよう、お祈りせずにはいられません。
今日の長岡は、追悼式が行われていました。
あの日は第3回発表会のちょうど一週間前
その年に出来たばかりのウチのスタジオで、衣裳付きリハをして生徒が帰った後
18時半くらいでしたでしょうか、私一人でスタジオに居た時にあの地震が起こりました。
大きな揺れと同時に停電、私は外に逃げようとしたのですが、玄関のいつも出入りしている戸が開かない。
真っ暗のスタジオの中で、ガシャンガシャンと何かが落ちる音を聞きながら、その後の数度の余震に耐え
余震と余震のタイミングを見て再度、玄関へ行ったところ
運良く、4枚の玄関戸の1枚が開き、外へ出る事が出来ました。
辺りは真っ暗ながら、JRの線路を照す明かりだけ付いていて
その後の余震は、外の倒れそうな車を押さえるだけで精一杯
これから、しばらく来れないかも?っと、余震の合間をぬってスタジオに戻り
手探りでCDコンポなど高い所にある物を床に置き、鍵をかけ、スタジオをあとしました。
停電なので、信号機はあっても付いていません。
自宅マンションに着き、自宅の中を見たら、幸いにして家具も倒れてなく
食器棚の中の食器も割れずに、食器棚の戸は開いて戻った形跡
テレビ台、引き出し家具は、ウチは掃除しやすいようにキャスター付き家具が多かったので、
キャスターごと動いていたようで、大きな物はあまり落ちなかった様子
私のマンションは耐震構造になっていたのです。
上階の方は避難された方もいましたが、その後数日続いた余震も自宅で過ごせました。
市内、ライフラインが全滅状態の中、私のマンションは、点検の為、一時的にガスが止まっただけ
一番困ったのは、食料です。
コンビニ、スーパーはほとんど食料がありません。
マンションの管理会社ははミネラルウォーターやカップラーメンを配給してくれ
万が一の為に、外に簡易トイレも設置してくれました。
その頃、主人は単身赴任で上越に居た為、私一人での生活
地震の翌日、主人が被害の少なかった上越から道が寸断されてる所を回避しながら時間をかけて食料を持って来てくれました。
でも仕事の関係ですぐにとんぼ返り
さぁ、これからどうすれば…
迫っていた発表会
電話はほとんど繋がりません。
一人の生徒のお母様からメールが来ました。
「今、家の外のテントに居ます。食べ物も少ない…」
他の生徒もたぶん自宅には居ません。家の前の自分の車の中か、避難所(どこの避難所かもわからない)
これは、発表会どころではない!
会の延期を決定
ゲストやスタッフ、会館に連絡
問題は、ほどんどの生徒に連絡がつかない事
自宅に電話しても出ないお家が多く
お母様方の携帯も電池切れなのか?繋がらない。たぶんメールも見れないかも。
発表会延期を知らせるどころか、安否確認も出来ません。
考えたすえ、連絡を取れた僅かな生徒以外の生徒は、
一人一人、その生徒の家や家付近の避難所をまわる事にしました。
その頃の発表会参加者は30名以上いたと思いますが、これしか手段がなかったのです。
行く道すがら、電信柱は斜めに倒れ、道は盛り上がり、家は屋根しかない家がいくつも…
小千谷に近い生徒の一人の家に行ったら、家の中が空洞になっていました。
もう悲惨としか言い様がない状況
無事だった!発表会延期を伝えたら、出席簿に○つけて、次の生徒の家…
でも、みんな 「発表会を中止にはしないで下さい!」 と言われます。
「悲惨だけど、夢だけは残しておいてほしい」 と…
スタジオでみんな揃ってレッスンするまで、どのくらいかかったでしょうか
それでも、翌年の1月に発表会を実現出来ました。
それからしばらくして
文園社の方から取材を受け、このお話は*バレリーナへの道58号*という本に掲載されました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/db/0b79dc3d38b3f1c588fda1f7eda80049.jpg)
この地震で今でも辛い思いをされてる方もいらっしゃいます。
その前に起こった阪神淡路の地震、その後に起こった中越沖地震、そしてあの東北の地震の被害にあわれた方もそうです。
私は、幸いにも被害も少なく過ごせて来ましたが…
この日が来る度、被害にあわれた方が少しでもお元気になられるよう、お祈りせずにはいられません。
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