18日の勉強会で、お金にまつわる信念についても結構深くストレートに学び合いました。
それを信じて幻想世界にリアリティを与え、分離の信念と罪悪感を強化し温存するというはたらきが
こうやって繰り返されるんだな。という仕組みも、実感から理解されてゆく感じがしています。
お金というツールそのものの便利さと
自動車というツールそのものの便利さと
冷蔵庫というツールそのものの便利さには、まったく差がないわけですが
なぜか、お金というシステム・ツールは計り知れない偶像崇拝の対象となってきたわけですね。
しかし、私たちを本当に心底満たすものは目に見えたり数字で測れるようなモノではなく
何も除外しない、完全にすべてを包み込み無条件に延長し続ける全的な愛です。
その愛(心のレベル)と、お金(形のレベル)とは、関係がありません。
一方は、真理のレベルであり、もう一方は、幻想のレベルのものだからです。
お金は、悪でも善でもなく、幻想なんです。
幻想のレベルでは、便利なツールとしてあらわれています。
そのお金を使う時、
聖霊と一つの心であれば
一致・愛の反映としてそれを見て扱うでしょう。
自我と一つの心であれば
欠乏・分離・恐れの反映としてそれを見て扱うでしょう。
幻想の外から見たら、それは無・幻想として、
他のどんな幻想とも同じ無でニュートラルな幻影として見られるだけでしょう。
往々にして、お金は、権力やステータスなどと同じように
自分を大きく見せるためのモノとして、偶像として
自我に使われ続けてきました。
18日の勉強会で出てきたのは
「壮大さと尊大さ」という言葉です。
お金は、自分自身の無意識レベルの絶望を覆い隠すための(取り消しではなくすり替え)ツールとしても使われます。
自分=卑小な存在と思っているからこそ、尊大さを誇示することにより卑小さをどうにかしようとしています。
例え裸の王様だとしても、尊大さを誇示できればそれでよいんです。
実のところ、本当は、お金そのものではなくて
尊大さを維持することに躍起になっています。
奇跡講座テキスト編 248(中央アート出版社)
第9章 贖罪の受容
セクション8 壮大さと尊大さ
尊大さとは、常に絶望を隠すための覆いである。それは実在しないので、希望がない。
それは、卑小さは実在するという信念に基づいて、あなたの卑小さを打ち消そうとする試みである。
この信念がなければ尊大さには意味はなく、あなたがそれを望むとこはあり得ない。
尊大さの本質は競争心である。
T-9.8.2:1~5
お金に魅力を感じていること自体を見つめることが大切なのだと感じています。
ものすごく、お金を重要な何かと考えている自分自身、
お金にまつわる恐れの信念を手放したくない誘惑、
その姿こそが、「愛と助けを求め叫ぶ自分自身の姿」なんです。
その、自身の絶叫をなだめ、真に解決する方法は、助けを差し延べ愛を差し延べることしかありません。
すなわち、心のレベルで聖霊に助けを求め、あらゆる執着の想いを見つめ、その執着を手放すことです。
1週間や2週間、1年や2年では、その真の解決は起きないかも知れません。
しかし、必ず真に解決が生じてゆきます。
その解決の源泉は、「神からの分離は一度も起きなかった。」という真理です。
それのみです。

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それを信じて幻想世界にリアリティを与え、分離の信念と罪悪感を強化し温存するというはたらきが
こうやって繰り返されるんだな。という仕組みも、実感から理解されてゆく感じがしています。
お金というツールそのものの便利さと
自動車というツールそのものの便利さと
冷蔵庫というツールそのものの便利さには、まったく差がないわけですが
なぜか、お金というシステム・ツールは計り知れない偶像崇拝の対象となってきたわけですね。
しかし、私たちを本当に心底満たすものは目に見えたり数字で測れるようなモノではなく
何も除外しない、完全にすべてを包み込み無条件に延長し続ける全的な愛です。
その愛(心のレベル)と、お金(形のレベル)とは、関係がありません。
一方は、真理のレベルであり、もう一方は、幻想のレベルのものだからです。
お金は、悪でも善でもなく、幻想なんです。
幻想のレベルでは、便利なツールとしてあらわれています。
そのお金を使う時、
聖霊と一つの心であれば
一致・愛の反映としてそれを見て扱うでしょう。
自我と一つの心であれば
欠乏・分離・恐れの反映としてそれを見て扱うでしょう。
幻想の外から見たら、それは無・幻想として、
他のどんな幻想とも同じ無でニュートラルな幻影として見られるだけでしょう。
往々にして、お金は、権力やステータスなどと同じように
自分を大きく見せるためのモノとして、偶像として
自我に使われ続けてきました。
18日の勉強会で出てきたのは
「壮大さと尊大さ」という言葉です。
お金は、自分自身の無意識レベルの絶望を覆い隠すための(取り消しではなくすり替え)ツールとしても使われます。
自分=卑小な存在と思っているからこそ、尊大さを誇示することにより卑小さをどうにかしようとしています。
例え裸の王様だとしても、尊大さを誇示できればそれでよいんです。
実のところ、本当は、お金そのものではなくて
尊大さを維持することに躍起になっています。
奇跡講座テキスト編 248(中央アート出版社)
第9章 贖罪の受容
セクション8 壮大さと尊大さ
尊大さとは、常に絶望を隠すための覆いである。それは実在しないので、希望がない。
それは、卑小さは実在するという信念に基づいて、あなたの卑小さを打ち消そうとする試みである。
この信念がなければ尊大さには意味はなく、あなたがそれを望むとこはあり得ない。
尊大さの本質は競争心である。
T-9.8.2:1~5
お金に魅力を感じていること自体を見つめることが大切なのだと感じています。
ものすごく、お金を重要な何かと考えている自分自身、
お金にまつわる恐れの信念を手放したくない誘惑、
その姿こそが、「愛と助けを求め叫ぶ自分自身の姿」なんです。
その、自身の絶叫をなだめ、真に解決する方法は、助けを差し延べ愛を差し延べることしかありません。
すなわち、心のレベルで聖霊に助けを求め、あらゆる執着の想いを見つめ、その執着を手放すことです。
1週間や2週間、1年や2年では、その真の解決は起きないかも知れません。
しかし、必ず真に解決が生じてゆきます。
その解決の源泉は、「神からの分離は一度も起きなかった。」という真理です。
それのみです。

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