スリランカ津波災害への支援

津波によるスリランカへの災害に関する情報を記載し、支援の輪を広げる事が目的。

避難所 (1月18日)

2005-01-20 00:51:22 | Weblog

タンガッラ(マータラとハンバントタの間)の避難所を訪れた。
海軍、陸軍、警察からスタッフが送り込まれており、すごい警備である。
24家族が避難しているこの避難所では、オフィスや炊事場として学校が使われているが、
学校前の広場にテントを立てそこで寝泊りはしているとの事。

テントの前では子ども達がビー玉を使ったゲームをしている。
一見普通に楽しんでいるように見えるが、やはり子どもたちにもストレスがかかっているに違いない。

一つのテントに一家族という事で多少情況はいいのかもしれないが、全てのテントが一箇所に集中して立てられているので何かと気を使うであろう。
ただ、スリランカの文化としてたくさんの人が集まり暮らすのは当たり前(いい事)とされている。
おじいちゃん、おばあちゃん、息子の家族、娘の家族が一つ屋根の下なんていう家も珍しくはない。(現在少しずつ核家族化しているとは思うが)
そんな文化的背景もあり、日本人感じるほど『プライバシー』の問題は少ないのではないだろうか。

ただし、テントもそんなに広いわけではない。また、日が照るとテント内の気温は非常にあがる。
マットレスなどがないため夜は寒いし、体も痛くなる。当然快適な生活ではない。
彼らはみんなが置かれている情況を知っているので、そんなに直接的に文句を言うことはない。
ただ、避難生活が長期化すればするほど疲れもたまり、老人や妊婦、乳幼児たちが危険な状況にさらされる事になる。

そして、財産を全て失ってしまった人が多く、失望感の中にいる人々が多い。
まずは、家の再建。そして、漁業が少しでも早く再開できるようプランを作る必要がある。
前号にも書いたように、2次的被災者を救うためにも、漁業または別の仕事を再開する事は最重要課題である。

もう二度と海には出たくないと言う人も多い。海を見るのもいやだと言う人もいる。どうしたらいいのか・・・?
時間が解決する問題も多くある。しかし、今必要なのは、適切な将来像と確実な行動である。

<緊急支援・・・>1月16日

2005-01-20 00:50:13 | Weblog

朝5時半に出発、南部の都市マータラ・ハンバントタを目指した。
道路は一部未舗装部分があるが、走行が難しい道はなかった。
まず、マータラにあるNGOのオフィスに頼まれていた荷物を届け、何人かと話をした。

現在は「緊急支援」という事で、食料や日用品などの物資を提供しているのだが、
これにはきりがないとのこと。
被災者かそうでないかの区別も難しく(行政がしっかり動いていればそれほど難しい事ではないのだが)
本当に、必要な人の手元に届く前に支援物資が終わってしまう危険性があると彼らは指摘していた。

今後そのNGOは、本当に被害を受けて立ち直る事が難しい人々を選び、
彼らが自立するまでの長い支援を計画中との事だった。
「緊急支援」から「復興支援」へと、どこで移行させるのが非常に大きな課題である。

10時過ぎにマータラを離れハンバントタへと向かった。
被災地での瓦礫の撤去等も進んでいるようだ。
ハンバントタは人口約1万人。津波でやく4500人死亡と伝えられているので、
外部から来ていた人を計算に入れて考えても、人口の約1/3が亡くなったことになる。
当然、いまだ街の中はひっそりとしており、ひらいている店もほとんどない。
海沿いにあった市場が26日にひらかれておりそこに人が集中していたのが死者数が増加した原因である。
隣の村で休憩に立ち寄った際、そこのおばちゃんが少し話を聞かせてくれた。
「26日の朝、私も市場に行っていたんだよ。一回目の波が来て私は怖くなって山に向かって逃げたけど、
多くの人が海の水が引いていくのを見に行ったんだ。そして、直後に来た2回目の波にたくさんの人がさらわれたんだね・・・。
向かいの家の家族もあの日みんなで市場に来ていたんだよ。誰も帰ってこなかった・・・。ほら、あの家・・・」
と、ひっそりとたたずむ家を指差して教えてくれた。7人家族がいた家は今は空き家となっていた。

NGOの報告によると、この地域で両親を亡くした子どもは21人。
5人の子どもだけが取り残された家族もあった。
現在、子ども達(おとなも)の多くが親戚などの家に頼って生活をしている。
今の段階では、多方面から援助も入ってくるし、気持ち(かわいそうだと言う)も強くあるので、
何とかみんなが寄り添って生きている。ただ、今後支援が減っていったりすると、
被災していない人たちも生活が苦しいので、被災者を『追い出す』(言葉が悪いかもしれないが)という事が
広まってくるのではという事だった。

また、直接被災をしてなくとも、被災地で仕事をしていた人や、下請けなどの仕事をしていた人たちも、
仕事を失い、お金もなく困っている。2次的被災者への支援は現在行なわれていない。

笑顔

2005-01-16 19:53:36 | Weblog

ある避難所で出会った親子。不自由な生活が続いているが、
やはり親子が一緒にいられると言う事は何よりも幸せなんだと感じた。

それぞれの役割(1月14日)

2005-01-16 13:08:35 | Weblog
私が関わりを持っているNGOでは毎日のように様々な救援物資が被災地へと送られる。
この物品管理を担当しているのがキールティーさん。
災害翌日から、現在に至るまで彼はオフィス(オフィスの一部を倉庫代わりに使っている)に軟禁(?)状態である。
毎日のように現場から上がってくる要望をもとにリストを作り、購入担当者が検討して買ってくる。
荷物を運ぶトラックを手配し、大抵夜に荷物を積み込み被災地へと届ける。
被災地で働くスタッフは当然ながら様々な要望をあげる。いくつものサブオフィスがあるので、
それぞれの場所とのバランスなどを考えながら振り分ける必要がある。
もし、大規模な倉庫やトラックなどがあり、莫大な予算があれば
ひたすら送り続けるだけだからそれほど考える必要はないかもしれない。
それが、良いか悪いかは別として・・・。彼らのNGOはそんな設備や予算はない。

様々なことに気を配り正確に物を配っていくのは相当疲れる仕事であろうと思う。
ただ、いつもスポットがあたるのは被災地の『現場』で働く人々である。
先週彼と荷物の仕分けをしている時彼がボソッと「俺も現場を見たいんだけどな・・・
これが俺の担当だから・・・。」といっていた。

きっと、他のスタッフの話を聞いたり、写真を見たりしているので、被災地の事が気になる、
『現場に行きたい!』という思いがある。
私は、すくなからず彼の気持ちが分かる。
「あなたがいなければ救援物資は被災者の手に届かないよ、重要な仕事だよ・・・」と彼に言った。
ありきたりの言葉であったが、私の本心でもあった。裏方でがんばっている人がたくさんいる。
被災地だけが『現場』ではない。支援に関係する全ての人が『現場』にいる。
私も常に『現場』にいるのだろうか・・・。

1月14日

2005-01-16 13:05:36 | Weblog
今回は『被災地』を離れ、少し考えた事を書いてみたい。

日本のNGOのスタッフと会う機会があった。
第一次隊と入れ替わりで来て約一週間滞在する予定との事。
彼らの話を聞いていると、やはりNGOは「お金」の確保に苦労しているんだなと感じた。

スリランカに支部を持たないNGOがこの国で活動するには、
どうしてもスリランカの“大きな”NGOらと協力するしかない。
彼らの場合、大使館を通して聞いた所そのNGOを紹介されたらしいのだが、
大使館が何故そのNGOを紹介したのかはよく分からない。
そもそも大使館がNGOの情報に詳しいとは思えない。結果、“大きな”NGOが紹介されたようだ。

話を「お金」に戻す。
かれらはお金を集めるためには、『営業』活動をしなくてはいけない。
こんな事をやるのでこれだけのお金が必要だと言う事を訴え、
援助側の人々または企業などからお金を受け取る。
「援助側にうける援助 : 受益側にうける援助(援助側にはうけない)」=「7 : 3」?
何だそれは?と思う方も多いかも知れないが、
それが今全世界で繰り広げられている援助の現状かもしれない。
数字の信頼性はいまいち低いが、こんな事を考えながら活動を行なうNGOのスタッフも大変なものである。

例えば、『学校が壊れました』、それを直すのに『100万円必要』です。
『学校を直しました』→『~NGOによって直されたというボードを作り』→『テープカット』→『写真』
こうなると、非常に“分かりやすい”援助で、援助側に好まれるものである。

被害を受けた生徒に対して高等教育が終わるまでの一定の資金援助や
精神的ダメージを和らげるためのプログラムなどは、
援助側には“成果”が見えにくい=援助側にはうけない=お金が集まらない。
というような構図が出来ているのかもしれない。

そんな中、NGO(特に日本の)はどう活動していくのか?これは、非常に難しい課題であり、
NGO自体の問題だけではなく、それにかかわる(募金などをする)人々全てに関わる問題である。
本当に、良い方向へ進めたいなら“援助側の自己満足”は避けなくてはならない。


1月13日

2005-01-16 13:03:36 | Weblog
ある避難所を訪れた。
一見、「悲惨な状況」という風景は目に入ってこない。
みんなそれぞれ協力し合って生活をしていっていると言う感じだ。

我々が行った避難所は規模も小さく、それほど死者数が少ない地域という事もあり、
避難所内の空気もそれほど重たくはない。
子ども達は、無邪気に遊びまわり、我々に「ボールちょうだい」「バットちょうだい」と遊び道具を求めてくる。
大人達は子守をする人をのぞいて昼間は被災地に行き片付けなどをしている日が多いようだ。

空気が重たくなくとも、それぞれ抱えている問題は大きいのかもしれない。それが表面に出てこないのかもしれない。
同行した先輩隊員は、本当にショック状態の人は人前には出てこれない状況なのかもしれないと指摘してた。

避難所にいたある男性は、津波が押し寄せる中12歳と4歳の子どもを両脇に抱えて逃げていた。
力尽きたのか、なにかにひっかかったのか4歳の子どもが腕から抜けていった・・・。
それ以来一人娘は帰ってこない。母親は2歳半の息子を抱いて必死に逃げてきた。
二人の子どもは救われたが、尊い命が一つ奪われた。
お母さんはもう泣きつかれたという表情で当時の状況を語ってくれた。
お父さんは、自分が手を離してしまった事に対して責めても責めきれないという苦難の中にいる表情だった。
2歳半の子守を良くしてくれていたのが4歳の姉だった・・・
2歳半の弟は今でもお姉ちゃんの事を聞くそうだ。海の中にいるお姉ちゃんを探しにいこうと・・・。


10日からは普通の学校は再開。避難所として使われている学校も多く、
別な避難所へ移動する必要があったり、
可能であれば、避難所を出て欲しいとの要請があるようだ。
家の再建めどや仕事(漁師が多い)の再開めどがたっていない現在、
彼らが自立していくのは非常に難しいのかもしれない。
海から内陸100m以内は家を建ててはいけないと言う決まりを政府がつくっているとか・・・?
これまたはっきりしない情報であり、
少しずつ被災地に戻り何とかして自分達の家を再建したくとも出来ない状況だ。

政府のリストに載っていない避難所もいくつかあるようだ。
また、避難所になんらかの理由でいけない人、
親戚などの家に頼っている人達へどのように支援をしていくかも大きな課題だ。
家も壊れていないのに、避難所にまぎれこんで救援物資をもらう人もいる。
その町のことを良く知っている人が援助に関わらないと、公平な援助をするのは困難である。
政府関係でたくさんの機関がありスタッフがいるのに活用されていないのが非常に残念である。

1月13日

2005-01-16 13:02:16 | Weblog
様々なところか想像を超えるほどの救援物資・義援金等が送られてきている。
飛行場では、物資の仕分け作業等が追いついていないようである。
災害発生後17日間が過ぎた現在でもまだまだ物資は到着しているようである。
この通信でも以前触れたが、本当に必要なものが来ているのかが非常に疑問である。

日本の友人の話では、日本の報道の仕方では
「スリランカには何もなく、早く手を差し伸べないといけない」と
とらえてしまっても仕方ないとのこと。
個人的に色々なものを集め送ってくださる方も多いとは思うが、
現在この国において多くのものは豊富にある。
少なくとも、飛行場の倉庫と、関係機関の倉庫の中には。
ある記事では、諸外国からの援助を全てあわせると、
スリランカ全国民に10万ルピー(約10万円)渡せるほどだとか。

では、そのお金は一体どこにあるのか?どのように使われようとしているのか?
政府は何のプランも持っていない。
コロンボで山済みになっている救援物資がちゃんと配る事さえ出来ない政府が、
果たしてとてつもない額のお金をマネージメントする事が可能なのだろうか?
誰もが思う疑問である。それなのに政府は各国に更なる援助を要請している・・・。

被災地での選挙活動!?
NGOがある学校を掃除していると、ある政党のメンバーが来て、
「この学校を掃除するのはやめろ!」といったそうだ。
彼らがこれからやるから、彼らがやったという事人々に見せ付けたいから、『票』が欲しいから・・・。

緊急援助、誰が一番?
緊急援助はまさに一刻を争う判断と決断が求められる。
「これは、被災者のため?」なんてばかげた質問を以前の私だったらするわけはない。
当然、被災者のためであるべきはずだが、その真相はいまいち不明である。
私の感じるところでは、誰が一番に援助をするかというのは、
自国またはそれぞれの機関にとって今後のイニシアチブを握る上で、
また国際関係上非常に重要な事であるようだ。
ポリティカルゲームの何ものでもない・・・。
そのゲームのもと『忘れられた人々』が多くいる事を考えるべきである。
各機関や各国がもっと連携して事を進めるべきなのだが、『一番』が欲しいのでそれはなかなか難しい・・・。
有名なNGO、国連機関、国際機関、政府機関果たしてどこが『本当の援助』をしているのか?
じっくり見据える必要がある。
ユニセフだから、赤十字だからよい事をしているのだろうと思い込むのは少し危険かもしれない・・・。

1月11日

2005-01-16 13:01:22 | Weblog
4日ぶりに南の都市ゴールを訪れた。
道路の清掃はかなり進んでいるようであり、全く問題なく車は走れる。
ただ、道路の両脇を見るとそこには瓦礫の山が散乱している。
生ゴミなどのせいか結構な悪臭が漂っている。

ある、障害者施設を訪れた。以前協力隊員が活動をしていたというその施設も26日波をかぶっている。
60人以上の入所者が命を落としたとのこと。寝たきりの人や足に障がいをもった人などが逃げ遅れたらしい。
やはり、『弱い』人が犠牲になってしまったようだ。
現在、入所者達は近くのお寺などに避難中。施設をいち早く使えるようNGOのメンバーとボランティアが、
懸命に掃除をしているとこであった。

NGOが教育省の要請に答え14校の再建を一昨日引き受けていた。
まずは学校の現状調査をする必要ありと言う事で、いくつかの学校を我々が担当した。

いち早く学校を始めて少しでも子どもたちの精神的ストレスを解放したいという思いがある。
家もなく、だべるものも充分ではなく、家族などを亡くした子どもが果たして学校へ来るのか疑問ではあるが、
一人で悶々としているよりは、学校へ行き友人・先生らと会う事はやはり重要なことであろう。

学校が全壊のところは短期間で授業を再開するのは難しい。
また、あまりにも海に近い学校では、子ども達がおびえてしまい(トラウマ)逆にストレスを与えてしまう。
その辺の状況をチェックしながらゴールからコロンボへと戻ってきた。

全く無傷のだ学校もあれば、海から少し距離があるにもかかわらず、完全に破壊されている学校もあった。
その現場をみるといかに津波がすごかったのがわかる。
そして、津波がどのように押し寄せたのかは想像するのも難しい。
というのは、海側にある建物が残っているのにもかかわらず、その裏側にある建物が全壊であったり、
海から少し入った土地が急にえぐられてたりしているからだ。

何人かの話を聞くと、津波は普通の『波』としてきたのではなく、
竜巻のように回転が加わりながら来た様だ。
だから、それぞれ破壊度がちがうのであろう。

ひとまず、1月20日に学校を再開すると言う目標をたて活動をしている。
建物を完全になおすのは難しいと思うが、必要なものを揃え、掃除を行い、壁の色を塗り替え・・・
子ども達が学校へ戻れるようみんながんばっている。


1月9日

2005-01-16 12:59:47 | Weblog
時が過ぎるのは早いものである。
被災者の方にとっては時間はどんな風に流れているのだろうか。

今日は、モラトゥワ市(コロンボから車で40分くらい南)の被災地の片付けに参加した。
29日からはじめた作業であり、すっかり地域の人とも顔なじみである。
一応、今日でその活動も最後ということになっていた。
理由は、JICAスリランカオフィスの考えが、
一般的な学校が10日より再開することになっているし、一時の混乱はないので(特定のオフィスを除いて)
通常業務にもどったほうが良いということだから。

私も、2週間自分のオフィスに行っておらず、気にあることも色々あるのは確かである。
職場に戻ればそれなりにやることもあるであろう。ただ、被災地の事がもっと気になる。
もし、客観的に考えたとしても、今自分が役に立てるのは、アヌラーダプラのオフィスより、
被災地での手伝いや、NGOオフィス等での手伝いだと思っている。
その辺がいまだジレンマである。

26日からずっとアヌラーダプラにいて現場を見る機会がなければ、
これほどの思いはうまれなかったかもしれない。
そう考えると不思議でもあり、自然でもある自分自身の反応である。

東部では人身売買の売人が捕まった。もしかすると、すでに売られてしまった子どもがいるかもしれない。
一体政府は何をしているんだ!ユニセフはなにしているんだ!JICAは何しているんだ!日本政府は何しているんだ!
私には何が出来るんだ!

一体いくつの家が壊れたのか分からないが一面瓦礫の山である。
なんだか写真でしか見たことはないが、『戦争跡』である。
瓦礫を片付けながら、鉄くずを集める人々。1Kg=15ルピー(15円)で売れるそうだ。
みんなたくましく生きているものである。
ある男性は、「俺達に仕事をくれよ!何でもいいから!」と訴えてきた。
「市役所が今準備中だよ・・・」と歯切れの悪いことしかいえない自分が悲しい。


作業終わりに近づいてくると、みんなが挨拶がわりの質問をしてくる「明日も来るよね!?」と。
いつも「オウ、オウ(来る、来る)」と答えているのに今日は、
「多分来れないかも・・・」とこれまた歯切れの悪い答えをしてた。
ウソを言うわけにいかないので仕方ないのだが、あまりにも中途半端な状態である。

地域の人々にとっては当分『終わり』はない。
新しい土地の選定、家を作る、仕事を探す、(漁師達は当分仕事がないであろう)
やることは山ほどである。ずっと、手伝いをするのは不可能であるにしても、もう少し何かの役に立てる気はする。

最後に、ニハルさんと写真を撮った。「全てきれいになったらまたここに来てくれよ」と彼は言った。
気を使ってそう言ったのかよく分からないが、なんだか中途半端でその場を去る自分が嫌であった。

1月8日

2005-01-16 12:58:05 | Weblog
地元の新聞は連日津波被害の関係のことばかりだが、
インターネットで日本の新聞をのぞいて見ると、だんだん津波の報道は少なくなってきている。

新しい事件が次々起こるから、当然、ふるい情報は少なくなるのが普通かもしれない。

ただ、被災地の状況は『よい』とは言えないようだ。

今日、NGOの各サブオフィスの代表者が集まり会議がひらかれた。
それぞれの報告と今後必要となるものの確認がされた。
南部の方では、比較的状況がよくなっているとの事。街の清掃も順次進んでいるらしい。
ただ、人々の精神的な面は悪化しているようだ。ある街では、お化けが出るとみんなが思い込み、
家が壊れていない人までもが街を出て行くという状況が起こっている。

東部の方では、医療がちゃんと行き届いていないようだ。
LTTEの認めた医者はぜんぜん知識もなく、
全ての患者にパナドール(バファリンのような薬)を処方しているらしい。
LTTEが自分達で援助物資を横取りしたいため、
「東部では援助物資が不足している」と、ウソの発表をしていると、
BBCのニュースに載っていた。

だんだん何が本当で、何がウソなのか見極めるのが難しくなってくる。

夜は、トラックに援助物資を積み込むのを手伝った。
アンパーラ、ハンバントタ、マータラ等に送る物資を3台のトラックに積んだ。
結局、積み込みが終わり、トラックがスタッフを乗せ被災地へと出発したのは夜中の1時になった頃だった。