スリランカ津波災害への支援

津波によるスリランカへの災害に関する情報を記載し、支援の輪を広げる事が目的。

<100m圏内>

2005-02-27 09:09:50 | Weblog


テレビを見ていると時折政府からのお知らせが流れる。

「海から100m以内には家を建ててはいけません。
現在、家や土地がある人には別な場所を政府が用意します。
漁業関係者で船や網などを失くした人は政府が補償します・・・。」と。

毎週被災地域へと足を運んでいると少しずつではあるが確実に復興が進んでいると感じる。
海沿いにいる人の数も増えてきている。資金がある人は仮設住宅を100m以内に建てている。

大きなダメージを受けた大きな街でも次々と商店は再開されている。
先日ゴールの街でいくつか買い物をしたのだが、「商品が汚い」などと文句をつけると、「津波だから」という答え。
まあ、言い訳の好きなスリランカ人的には良い『言い訳』が見つかったわけである。
普段であれば、そんなの商売人として間違っていると文句をつける私だが、今回はどうも文句をつけにくい・・・。

話がそれてしまったが、とにかく政府は非常に大きな挑戦をしなくてはいけない。
100m以内に家屋建設禁止の件でも、すでにいくつかの被災地域で耳にしたのが
「政治家の力であそこの家は立ち退かなくてもいいだよ・・・」というような声である。
いかに平等に実行していくのか?一時的には100m圏内の人々を退去させたとしても、
時間が経つにつれて少しずつ人々が戻ってくる可能性が大きい。
コロンボ地域にあるいくつかのスラムは違法占拠状態のところが多い。いくら決まりがあってもそれをどう行使するのか。
政治家影響をいかに抑えるのか。課題は山積みである。

また復興が進むにつれて、貧困の格差が大きくなる事が懸念される。
色々な事が「政府がくれる、NGOがくれる、どこかの個人がくれる」だろうという事で進んでいく。
その狭間で忘れられていく人が生まれる可能性がある。

<配慮>

2005-02-27 09:08:30 | Weblog


多くのが学校が再開している。
避難所として使われている学校がまだ多くあるが、一時的に他の学校へ生徒を送っている。
完全に破壊された学校の建設はまだ始まっていないが、
仮設の学校・一時的な統合で対応するようである。

学用品、制服、靴など全てを失った子ども達が多数いるが、
その支援もスムーズに行なわれているとはいえない状況だ。
私が行った多くの避難所で聞かされたのが「学校へ行く靴がない」「ノートがないから学校へ行けない」等である。
被災後一ヶ月半もの時が過ぎているのにまだまだ末端の状況は変わらないままだ。

教育省は子ども達を通して被災状況の情報を集めようとしているらしい。
学校単位でそのような情報を集める事は今後の支援活動を考えると非常に重要なことかもしれない。
しかし、その情報の集め方に問題があるようだ。
NGO(グリーンムーブメント)のスタッフが、学用品の不足状況を調べにある学校へ行った時の事を話してくれた。

その地域では比較的被害も大きく、両親を亡くしたり、兄弟を亡くした子ども達が多数いた。
当然、どの子の親が亡くなっているかなどは分からない。
その情報を集めろと上からの命令を受けた先生は、子ども達を集め、
「お父さん、お母さんがいない子はこっち!」「お父さんだけいない子はこっち!」「お母さんがいない子はこっち!」・・・・。
と言ったそうだ。
全く信じられない事である。普通の人でもそんな言い方はしないと思うが、教育者がそんな事を言おうとは・・・。
要するに、簡単に情報を集めるやり方を先生達は選択したのであろう。
子どもへの配慮のかけらもない。

NGOスタッフの話では、子ども達は平然と先生の言う事にしたがって動き特に泣き出したりする子はいなかったらしい。
ただ、確実に子どもの心の中を乱した事であろう。
そして、周りの子どもから「あの子のはお父さんも、お母さんもいないんだよ」と差別的に見られる可能性もある。

全ての事に通じて思う事、『もう少し考えて欲しい被災者の立場になって』と・・・。

<Independence Day(独立記念日)>

2005-02-04 07:37:18 | Weblog


先日久しぶりにモラトゥワの被災地を訪れた。モラトゥワは被災直後われわれがボランティア活動を行なっていたところである。
すでに一ヶ月の時が経過していたのだが、なんだかつい最近まで通っていた錯覚におちいった。
次々と懐かしい顔を見つけた。中にはこちらが覚えていなくとも向こうから声をかけてくる人もいた。

以前と比べるととても活気が戻ってきているように感じる。その一つの理由は子どもにあるように思う。
だんぜんに子どもの数が多い。いたるところに子どもがいて、子どもの世話におわれる親達がいて・・・。
以前は完全に瓦礫の山だったため子どもや母親の多くは避難所にいたようである。
今少しずつ被災地域に戻ってきている家族が多い。掘っ立て小屋みたいな家、
半分残っている壁を利用してシートを屋根代わりにしている家などで暮らしている。

以前この通信に登場したニハルおじさんの家も壊れかけた以前の壁を利用して、
板切れを張り合わせた『小屋』だった。
奥さんと子ども二人がそこで生活している。「いつ崩れるか分からないから寝るときは外なんだ」と彼は言う。
なんだかとても大変な状況下にいるのに彼と話しているとそういう感じを受けない。

彼は漁師であると以前も書いた。もう漁も再開しているとのこと。
「今日はこんなでかいサメを捕まえたんだ」と大きく手を広げにこやかに語ってくれた。
仕事があるから収入もある。家はひどい状況だけど何とか食べていく事は出来る。
家族もいて、仕事もあることが彼の『やる気』を継続させているのだろうか?
それだけではないような気がする。彼の中にある『プライド』が大きいのではないだろうか。
同じ状況下にいても『モノ』をもらう事に懸命な人もいる。

家が無い、家族を失った・・・色々な状況があり、色々な理由がある。
被災者に向かって「強く生きろ!」なんて言えるわけがない・・・。

しかし、時間がかかるにせよいつか必ず自分の足で立ち上がるしかないと思う。
周りの人々(関係機関)は、被災者が立ち上がるための助けをするべきであり、
彼らのやる気を消すような援助は早く止めるべきである。

今日は2月4日。
スリランカのIndependence Dayである。

『Dependence』ではなく『Independence』への方向へ進む事を願いつつ

<予防>

2005-02-01 07:20:57 | Weblog

何人かのスリランカ人から、「お前は環境の事を教えているのに何で津波の事を教えてくれなかったんだ・・・?」
という質問を受けた。正直言って答えに困ったが
「もし、教えても信じなかったでしょう?」とちょっとふざけた答えをしてその場を切り抜けていた。
正直、スリランカ人に津波の話をしてもほとんどの人が信じなかったと思う。
200年近く前に一度津波があった記録があるそうだが、現在いる人々の記憶には当然無い。

ネットの記事でインドネシアのある島では、「海の水が引いたら波が来るということだから山に逃げろ」という言い伝えがあり、
津波に襲われたにも関わらずほとんどの人が助かった。とあった。

スリランカでは海の水が引いたあと、多くの人が珍しい現象を見に海へと行っている。
魚をつかまえに行った人も多かった。
そんなひとの多くがその後来た大津波に襲われた・・・。

もし、津波が来るという情報がちゃんと流されていたとしても、その経験をした事がない人にとっては、
「ばかげた話」の一つとして片付けられてしまったのではないだろうか?

今回の大災害では、「予防」の難しさと「予防」の大切さを本当に考えさせられる。
「予防」は「治療」より重要な事である。とよく言われるが、「予防」は地道な活動なしでは成功しないものである。
道路や橋を建設するのも大切なのだろうが、「評価」を出す事が難しい「予防活動」にもっと力を入れる必要がある。
どの分野においてもその事は言えるのではないだろうか?

先週、南のある街で津波が来るという噂に街中がパニックになった。
午前中で、多くの子どもは学校へ行っていた。親達が子どもの安全を心配して一斉に学校へ行った。
街の中には主要道路が走っており交通量も多い。そんな中、交通事故で二人の命が亡くなった・・・。
津波が来るというのはただの噂で結局何もなかった。
精神的外傷が癒されるにはまだまだ時間がかかる。


<12月26日>

2005-02-01 07:20:08 | Weblog


確か報告していなかったかと思うが、津波が起きた当時私も南西海岸沿いにいた。
10時前だっただろうか、周りの人が騒がしくなってきたので何かおかしいなと思い、近くにいたスリランカ人にどうしたのかと尋ねた。
その人は、当然『津波』なんて言葉を知らないので「海が来るらしい!」という返答をした。
私は意味がよく分からなかったが、その直後にJICAから携帯電話に来た『津波発生。安否確認をする』のメッセージで、
状況がわかった。しかしその時、スリランカ全土が津波に襲われている事なんて思いもしなかった・・・。

ゴール道路(南西海岸沿いを走る主要道路)をコロンボの方へと歩いた。
海から2,3百メートルは離れているゴール道路わきにも水が来ていた。
大きなリゾートホテルにいたと思われる外国人が何人も道路へと逃げてきていた。
水着のままの人もいれば、アーユルベーダの治療を受けていたのかバスタオルだけの人たちもいる。
はだしの人も多く、逃げる際怪我したのか出血している人もいた。
交通量はほとんどなく、時折バイクが通りすぎていった。救急車も何台か来ていた。

一キロほど歩いただろうか、反対車線にいたスリランカ人達が声をかけてきた。
私が携帯電話かなにかを売っている人かと思い声をかけたらしい。
こんな事態で商売なんかしないだろう??と思いつつ、私は日本人で、商売をしているのではないと言う事を説明した。
その中の一人が親切に、「どうせバスも無いからしばらく我が家で休んでいきな」というので、彼の家に行った。
その日は快晴であり本当に暑かった。その家で休ませてもらえたのは本当にラッキーだったと思う。
停電。電話もダウン。いまいち周りの状況がつかめない。
1時間でも待てばバスも動き出すだろうと思っていのが甘かった・・・。
そこから、なんと約6時間も彼の家にお世話になってしまった。バスが動かないどころか、ゴール道路が破壊されており、
コロンボへ向かうのは不可能だろうという情報が入ってきた。
周辺住民も小高い所へと避難をしはじめていると近所の家の人が伝えに来た。また、「海がくるらしい!」
「今度はもっと大きいのが来るらしい・・・」住民の不安は募るばかりである。
正確な情報ではない様々な情報が錯綜する。

かろうじてつながっていた携帯電話で色々と情報を集めてみると、
内陸部の道路には問題が無く、多分コロンボまで行く事が可能であろうと言う事になった。
すでに17時を過ぎており、帰るならいましかないなと判断をした。
スリランカ人は心配をしてくれて、「我が家に泊まって明日帰ればいいよ」と何度も言ってくれた。
彼らの車で近くの大きな街まで送ってもらった。その間、道路に打ち上げられた漁船などがあった。
街の中は閑散としており、数台のスリーウィーラー(三輪車)があるのみ。
普段、人でごったがえしているバス停にはバスも人も全くいない。
スリーウィーラーと交渉をして内陸部の街まで行く事にした。

その後、かなりバスのダイヤが乱れていたが何とか最終便に間に合い、22時過ぎにコロンボへと到着した。
普段であれば1時間半で行く所なのだが、車、スリーウィーラー、バス2台を乗り継いで5時間以上かかった。

とにかく、無事にコロンボへ着いたことにほっとしていた。そして、運がよかったなと・・・。

25日私は海で遊んでいた。もし、津波が一日早く来ていたら、巻き込まれた可能性が高い。
26日はコロンボへ帰る準備をしていたので、荷物もまとめて海にも行かずにいた。
もし、帰る前にひと泳ぎと海に行っていたら・・・。
『もし』という言葉を使ったら切がないのだが、本当に運が良かった。

運良く助かったのだから、何かをしたいと言う思いが今の活動の原動力の一つかもしれない。
まだまだ私の中での優先事項は「津波被災者支援」である。

避難生活

2005-01-26 04:40:21 | Weblog
土曜・日曜の二日間でタンガッラ方面の避難所2つと被災地域1つを訪れた。

はじめに行った避難所は約300人の人たちが50個くらいのテントにわかれて生活していた。
トイレなどは増設されていてそれほど不便はないようだが、水を浴びる所が避難所内に無いため少し歩いて行かないといけないとのことだった。
ご飯は、他の街からボランティアが来てみんなの分を料理しているようだ。
基本的には物は来ているが、やはり野菜類などが不足しており、ご飯のバリエーションもほとんど無いらしい。
確かに、贅沢を言える状況ではないが、約1ヶ月もいるとストレスがたまってきて当然である。

二つ目行った避難所は24家族、91名が住んでいる場所であった。学校の前のグランドに
家族分のテントがあり一応それぞれで生活が出来るようだ。ただ、料理する場所やトイレなどは共同である。
ここは被災者が交代で料理をしているようである。スリランカ料理に欠かせない香辛料の配給がなく困っているとのこと。
日本で言うなら味噌・醤油なしで料理をしろといわれているようなものである。
また、石鹸などのも不足しているようだ。この4週間の間で政府からの配給は2度だけ。
個人やNGOからの救援物資で何とか生活しているようである。
飛行場や倉庫には散々物があふれかえっているのに、お金もかなりの額が集まっているのに、
こういう小さな避難所には回ってこないというのが現実のようだ。

近々学校が再開するという事で、避難所を移動する方向で動いているようである。
それぞれの家から遠くなるので、被災者はあまり移動したくないようであった・・・。

最後に行った被災地域は、すでに避難所を解消したところであった。
完全に家が破壊された人たちはテント住まいまたは親戚の家に身を寄せているようだ。
今のところ、食料などには問題が無いようだが、学用品などの不足を住民が訴えていた。

避難所を出てそれぞれのあ場所で生活する事は色々と大変ではあるがいい事ではないかと私は思う。
避難所では多くの場合『巣の中のヒナ鳥』状態であり、口を開けていれば食べ物が来る状態であった。
少しずつ、被災者も現実と立ち向かう必要があり、それが復興への一歩なのだと思う。
ただ、今まで以上にきめ細かなバックアップが必要になってくるのも事実だ。
しっかりした観察予測のもと『後方支援』を進める事が重要であろう。
避難所を出る事で「忘れられた人々」が増える危険性がある。
政府関係者にしても、NGOにしても、被災者としっかり連携して、草の根の活動が今こそ必要である。

援助依存症候群・・・

2005-01-25 07:18:44 | Weblog


被災地の状況は刻一刻と変化している。
ゴールロード(南西海岸を走るメインの道路)沿いの景色も明らかに変わってきた。
以前は、ただ瓦礫の山であったが、少しずつ瓦礫は片付けられ、その場所にテントを張る人が増えてきた。
また小さな掘っ立て小屋も増えているようにみえた。
この掘っ立て小屋は不思議な事にとても小さく当然寝る事なんて出来ない、
一畳分もあるか分からない掘っ立て小屋を何故人々は作るのか?少し考えないと答えが出なかった・・・。
掘っ立て小屋には細長い椅子がありそこに何人かの人が座っている。
車が少し速度を落とそうものなら、すかさずそばによって来る。
要するに掘っ立て小屋は、『救援物資』が来ないかどうかの『見張り台』であったのだ。

マータラ(コロンボから160キロ南の街)を訪れてNGOのスタッフと少し話をした。
臨時のオフィスという事で、出してくれた紅茶もプラスチックのカップに入っている。
しょうが入りの紅茶を飲みながらスタッフの話に耳を傾けた。
その時3人のスタッフがいたのだが、みんなが次から次へと話をしてくる。
時には3人が同時に話をする。
この短期間の間に彼らは本当に様々な事を見聞きし、感じて、
それを誰かに伝えたいと言う思いが非常に感じられる。
当然私には語学の壁があるため、彼らの言っている言葉を全て理解するのは難しいが、
残りの部分は感覚で感じ取るしかない。
普段であれば、「その単語の意味は何?」という質問をするのだが、
彼らがあまりにも懸命に話すのでその迫力に押されてその質問は出来ないのが現状である。
そんな話の中で、本当に驚く事を聞いた。
ある被災地域に行ったとき、被災者の一人が彼らにあびせた言葉が「ある物おいて帰れ!」であったそうだ。
はじめ私は自分の耳を疑った。再度聞きなおしても同じ言葉であった。

帰り我々の前を一台のワゴンが走っていた。
時折彼らの車の窓から何かが投げられているのに気がついた。
投げていたものは小さなノート。子ども達を見つけてはそのノートを窓から投げているのである。
時には車の速度を落とし、近くにいる子どもたちにノートを見せて子どもを集めたからノートを投げる。
子どもたちにノートが必要か現段階では必要ないのか全く聞く事もなく、
一方的に与えているのである。
「動物に餌をやっているのではない・・・。」

3つばかり例を出させてもらったが、援助する方、される方双方に問題があるのであろう。
現場にほとんど行かない私にもこれだけの事が見えてくるのだから、
実際の現場ではこれよりはるかに多い『事実』があるのであろう・・・。
『援助依存症候群』に陥ったら一体どうやって復興なんてするのだろうか?

我々の支援が『援助依存症候群』患者を増やしているとしたら、我々はどうすべきなのか?
『援助中毒』になる前に何とか手を打たなくてはならない・・・。

希望

2005-01-21 02:18:20 | Weblog


アンパーラ県の避難所にて。
子どもの笑顔は明日への希望です。
子どもたちの笑顔が絶えないように・・・。

<被災地での活動>

2005-01-21 02:15:57 | Weblog
<被災地での活動>

コロンボより南に50キロほどの街バラピティヤへ向かった。
今回は、JOCV(協力隊)有志で避難所を訪問した。

最初に訪問した場所は海岸沿いより1キロほど入った小高い所にあるお寺だった。
50人ほどの人が避難している。今回の我々の目的は子ども達と遊び、彼らのストレスを少しでも解消しようというものだった。
子どもは30人弱いただろうか。はじめは少し控え気味だった子どもも,だんだんと我々との距離を縮めてきた。
まずは、いくつか振り付けのある歌を歌い、その後、人形劇(ペープサート)を行なった。
私は、人形劇には参加していなかったので、子どもたちの事をずっと見ていたのだが、
どの子も真剣な顔で劇を見ていた。何人かは口をぽかーんと開け、その口を閉めるのも忘れ見入っていた。
このひとこまだけを見ていると本当に幸せな時だなと感じた。
もしかしたら、この瞬間だけは子どもたちが別な世界に行っていたかもしれない。
もしそうであれば、我々の活動も無駄ではなかった事になる。


次に訪問した場所は、その地域では一番大きいと思われるお寺である。
避難している方の人数は忘れてしまったが子ども達だけで70人近くはいたと思う。
先に行ったところより、人数が多いせいか非常に元気なように感じる。
私も自分の活動で学校へ行く事がありこの国の子どもたちの雰囲気というものを少しは知っているが、
明らかに違う雰囲気がそこにはあった。通常とは違う状況だから違って当然なのだろうが、
子ども達は妙に興奮しているように感じられた。

いくつか遊びを行なったが途中あまりに子どもが元気すぎ怪我をするのではと心配をするほどだった。
ただ単に、元気な子どもの集まりと言ってしまえばそれだけかもしれない。
『津波』とは何の関係もないのかもしれない。

また、何人かの親と話をすると、子どもは津波そのものを見ていないから何も覚えていないし、
怖い経験もしていないから問題はないと言っていた。そういう子どももいるかもしれないが、
子どもは敏感に色々な事を感じ取っており、日常と違う生活にストレスを感じているのは確かであろう。
コントロールが出来ない分、直接そのストレスを吸収してしまう子どももいる事だろう。
長期的に彼らの精神的なサポートをする事が必要であろう。

避難所 (1月18日)

2005-01-20 00:51:22 | Weblog

タンガッラ(マータラとハンバントタの間)の避難所を訪れた。
海軍、陸軍、警察からスタッフが送り込まれており、すごい警備である。
24家族が避難しているこの避難所では、オフィスや炊事場として学校が使われているが、
学校前の広場にテントを立てそこで寝泊りはしているとの事。

テントの前では子ども達がビー玉を使ったゲームをしている。
一見普通に楽しんでいるように見えるが、やはり子どもたちにもストレスがかかっているに違いない。

一つのテントに一家族という事で多少情況はいいのかもしれないが、全てのテントが一箇所に集中して立てられているので何かと気を使うであろう。
ただ、スリランカの文化としてたくさんの人が集まり暮らすのは当たり前(いい事)とされている。
おじいちゃん、おばあちゃん、息子の家族、娘の家族が一つ屋根の下なんていう家も珍しくはない。(現在少しずつ核家族化しているとは思うが)
そんな文化的背景もあり、日本人感じるほど『プライバシー』の問題は少ないのではないだろうか。

ただし、テントもそんなに広いわけではない。また、日が照るとテント内の気温は非常にあがる。
マットレスなどがないため夜は寒いし、体も痛くなる。当然快適な生活ではない。
彼らはみんなが置かれている情況を知っているので、そんなに直接的に文句を言うことはない。
ただ、避難生活が長期化すればするほど疲れもたまり、老人や妊婦、乳幼児たちが危険な状況にさらされる事になる。

そして、財産を全て失ってしまった人が多く、失望感の中にいる人々が多い。
まずは、家の再建。そして、漁業が少しでも早く再開できるようプランを作る必要がある。
前号にも書いたように、2次的被災者を救うためにも、漁業または別の仕事を再開する事は最重要課題である。

もう二度と海には出たくないと言う人も多い。海を見るのもいやだと言う人もいる。どうしたらいいのか・・・?
時間が解決する問題も多くある。しかし、今必要なのは、適切な将来像と確実な行動である。

<緊急支援・・・>1月16日

2005-01-20 00:50:13 | Weblog

朝5時半に出発、南部の都市マータラ・ハンバントタを目指した。
道路は一部未舗装部分があるが、走行が難しい道はなかった。
まず、マータラにあるNGOのオフィスに頼まれていた荷物を届け、何人かと話をした。

現在は「緊急支援」という事で、食料や日用品などの物資を提供しているのだが、
これにはきりがないとのこと。
被災者かそうでないかの区別も難しく(行政がしっかり動いていればそれほど難しい事ではないのだが)
本当に、必要な人の手元に届く前に支援物資が終わってしまう危険性があると彼らは指摘していた。

今後そのNGOは、本当に被害を受けて立ち直る事が難しい人々を選び、
彼らが自立するまでの長い支援を計画中との事だった。
「緊急支援」から「復興支援」へと、どこで移行させるのが非常に大きな課題である。

10時過ぎにマータラを離れハンバントタへと向かった。
被災地での瓦礫の撤去等も進んでいるようだ。
ハンバントタは人口約1万人。津波でやく4500人死亡と伝えられているので、
外部から来ていた人を計算に入れて考えても、人口の約1/3が亡くなったことになる。
当然、いまだ街の中はひっそりとしており、ひらいている店もほとんどない。
海沿いにあった市場が26日にひらかれておりそこに人が集中していたのが死者数が増加した原因である。
隣の村で休憩に立ち寄った際、そこのおばちゃんが少し話を聞かせてくれた。
「26日の朝、私も市場に行っていたんだよ。一回目の波が来て私は怖くなって山に向かって逃げたけど、
多くの人が海の水が引いていくのを見に行ったんだ。そして、直後に来た2回目の波にたくさんの人がさらわれたんだね・・・。
向かいの家の家族もあの日みんなで市場に来ていたんだよ。誰も帰ってこなかった・・・。ほら、あの家・・・」
と、ひっそりとたたずむ家を指差して教えてくれた。7人家族がいた家は今は空き家となっていた。

NGOの報告によると、この地域で両親を亡くした子どもは21人。
5人の子どもだけが取り残された家族もあった。
現在、子ども達(おとなも)の多くが親戚などの家に頼って生活をしている。
今の段階では、多方面から援助も入ってくるし、気持ち(かわいそうだと言う)も強くあるので、
何とかみんなが寄り添って生きている。ただ、今後支援が減っていったりすると、
被災していない人たちも生活が苦しいので、被災者を『追い出す』(言葉が悪いかもしれないが)という事が
広まってくるのではという事だった。

また、直接被災をしてなくとも、被災地で仕事をしていた人や、下請けなどの仕事をしていた人たちも、
仕事を失い、お金もなく困っている。2次的被災者への支援は現在行なわれていない。

笑顔

2005-01-16 19:53:36 | Weblog

ある避難所で出会った親子。不自由な生活が続いているが、
やはり親子が一緒にいられると言う事は何よりも幸せなんだと感じた。

それぞれの役割(1月14日)

2005-01-16 13:08:35 | Weblog
私が関わりを持っているNGOでは毎日のように様々な救援物資が被災地へと送られる。
この物品管理を担当しているのがキールティーさん。
災害翌日から、現在に至るまで彼はオフィス(オフィスの一部を倉庫代わりに使っている)に軟禁(?)状態である。
毎日のように現場から上がってくる要望をもとにリストを作り、購入担当者が検討して買ってくる。
荷物を運ぶトラックを手配し、大抵夜に荷物を積み込み被災地へと届ける。
被災地で働くスタッフは当然ながら様々な要望をあげる。いくつものサブオフィスがあるので、
それぞれの場所とのバランスなどを考えながら振り分ける必要がある。
もし、大規模な倉庫やトラックなどがあり、莫大な予算があれば
ひたすら送り続けるだけだからそれほど考える必要はないかもしれない。
それが、良いか悪いかは別として・・・。彼らのNGOはそんな設備や予算はない。

様々なことに気を配り正確に物を配っていくのは相当疲れる仕事であろうと思う。
ただ、いつもスポットがあたるのは被災地の『現場』で働く人々である。
先週彼と荷物の仕分けをしている時彼がボソッと「俺も現場を見たいんだけどな・・・
これが俺の担当だから・・・。」といっていた。

きっと、他のスタッフの話を聞いたり、写真を見たりしているので、被災地の事が気になる、
『現場に行きたい!』という思いがある。
私は、すくなからず彼の気持ちが分かる。
「あなたがいなければ救援物資は被災者の手に届かないよ、重要な仕事だよ・・・」と彼に言った。
ありきたりの言葉であったが、私の本心でもあった。裏方でがんばっている人がたくさんいる。
被災地だけが『現場』ではない。支援に関係する全ての人が『現場』にいる。
私も常に『現場』にいるのだろうか・・・。

1月14日

2005-01-16 13:05:36 | Weblog
今回は『被災地』を離れ、少し考えた事を書いてみたい。

日本のNGOのスタッフと会う機会があった。
第一次隊と入れ替わりで来て約一週間滞在する予定との事。
彼らの話を聞いていると、やはりNGOは「お金」の確保に苦労しているんだなと感じた。

スリランカに支部を持たないNGOがこの国で活動するには、
どうしてもスリランカの“大きな”NGOらと協力するしかない。
彼らの場合、大使館を通して聞いた所そのNGOを紹介されたらしいのだが、
大使館が何故そのNGOを紹介したのかはよく分からない。
そもそも大使館がNGOの情報に詳しいとは思えない。結果、“大きな”NGOが紹介されたようだ。

話を「お金」に戻す。
かれらはお金を集めるためには、『営業』活動をしなくてはいけない。
こんな事をやるのでこれだけのお金が必要だと言う事を訴え、
援助側の人々または企業などからお金を受け取る。
「援助側にうける援助 : 受益側にうける援助(援助側にはうけない)」=「7 : 3」?
何だそれは?と思う方も多いかも知れないが、
それが今全世界で繰り広げられている援助の現状かもしれない。
数字の信頼性はいまいち低いが、こんな事を考えながら活動を行なうNGOのスタッフも大変なものである。

例えば、『学校が壊れました』、それを直すのに『100万円必要』です。
『学校を直しました』→『~NGOによって直されたというボードを作り』→『テープカット』→『写真』
こうなると、非常に“分かりやすい”援助で、援助側に好まれるものである。

被害を受けた生徒に対して高等教育が終わるまでの一定の資金援助や
精神的ダメージを和らげるためのプログラムなどは、
援助側には“成果”が見えにくい=援助側にはうけない=お金が集まらない。
というような構図が出来ているのかもしれない。

そんな中、NGO(特に日本の)はどう活動していくのか?これは、非常に難しい課題であり、
NGO自体の問題だけではなく、それにかかわる(募金などをする)人々全てに関わる問題である。
本当に、良い方向へ進めたいなら“援助側の自己満足”は避けなくてはならない。


1月13日

2005-01-16 13:03:36 | Weblog
ある避難所を訪れた。
一見、「悲惨な状況」という風景は目に入ってこない。
みんなそれぞれ協力し合って生活をしていっていると言う感じだ。

我々が行った避難所は規模も小さく、それほど死者数が少ない地域という事もあり、
避難所内の空気もそれほど重たくはない。
子ども達は、無邪気に遊びまわり、我々に「ボールちょうだい」「バットちょうだい」と遊び道具を求めてくる。
大人達は子守をする人をのぞいて昼間は被災地に行き片付けなどをしている日が多いようだ。

空気が重たくなくとも、それぞれ抱えている問題は大きいのかもしれない。それが表面に出てこないのかもしれない。
同行した先輩隊員は、本当にショック状態の人は人前には出てこれない状況なのかもしれないと指摘してた。

避難所にいたある男性は、津波が押し寄せる中12歳と4歳の子どもを両脇に抱えて逃げていた。
力尽きたのか、なにかにひっかかったのか4歳の子どもが腕から抜けていった・・・。
それ以来一人娘は帰ってこない。母親は2歳半の息子を抱いて必死に逃げてきた。
二人の子どもは救われたが、尊い命が一つ奪われた。
お母さんはもう泣きつかれたという表情で当時の状況を語ってくれた。
お父さんは、自分が手を離してしまった事に対して責めても責めきれないという苦難の中にいる表情だった。
2歳半の子守を良くしてくれていたのが4歳の姉だった・・・
2歳半の弟は今でもお姉ちゃんの事を聞くそうだ。海の中にいるお姉ちゃんを探しにいこうと・・・。


10日からは普通の学校は再開。避難所として使われている学校も多く、
別な避難所へ移動する必要があったり、
可能であれば、避難所を出て欲しいとの要請があるようだ。
家の再建めどや仕事(漁師が多い)の再開めどがたっていない現在、
彼らが自立していくのは非常に難しいのかもしれない。
海から内陸100m以内は家を建ててはいけないと言う決まりを政府がつくっているとか・・・?
これまたはっきりしない情報であり、
少しずつ被災地に戻り何とかして自分達の家を再建したくとも出来ない状況だ。

政府のリストに載っていない避難所もいくつかあるようだ。
また、避難所になんらかの理由でいけない人、
親戚などの家に頼っている人達へどのように支援をしていくかも大きな課題だ。
家も壊れていないのに、避難所にまぎれこんで救援物資をもらう人もいる。
その町のことを良く知っている人が援助に関わらないと、公平な援助をするのは困難である。
政府関係でたくさんの機関がありスタッフがいるのに活用されていないのが非常に残念である。