お母ちゃんの徒然 ときどき絵手紙

日々の事を自然体で綴ってみたい。

コスモスと夕暮れ かず子姉ちゃん

2015年09月21日 | 雑感


もう半世紀以上も昔、住んでいた小学生の頃を過ごした町
路地裏散策の好きな私は近くを通るとちょっと車を停めて歩きたくなる
近くには大隈重信さんの生家があり(現在は大隈記念館)そこは公園だった
ブランコ、鉄棒、滑り台がありました、遊び疲れて喉が渇けばその生家へ
「水飲ませて」と入り込んでいました、今だったらこんな事できませんよね
また近くには教会があって日曜日には教会に礼拝に行っていました
その当時日曜学校と言って小学時代は貧しいながらも良い環境だったわね
クリスマス、信者さんのお宅を聖歌隊と一緒に讃美歌を歌って回ったり
幼稚園も併設だったので運動会では走ったりと
自転車乗りの練習はその当時子供自転車なんてない時代
何度も何度もぶっ倒れて大人の自転車で乗れるようになった事
倒れて膝小僧怪我してやっとカサブタができたのに又ぶっ倒れてカサブタが剥がれて
痛かった、悲しかった、赤チンを塗ってたよ
3丁目の夕陽そのものご近所とお風呂も共同、皆貧しかった
路地裏のこの小学時代がいつも懐かしくつい車を停めて歩きたくなる
私の今の幸せはこの場所からのスタートではなかったかと

つい懐かしい表札に思わずコンニチワ○○ちゃんと恐る恐る玄関を入ってみた
出てみえたのは○○ちゃんの娘さんでした、○○ちゃんは亡くなったとのこと
消沈して玄関を出ようとしたら、叔母ならいますよと、叔母???かず子姉ちゃん?
かず子姉ちゃんが生きていた、手すりを伝って出て来てくれたかず子姉ちゃん
「T子です」と言ったら、「あら~あぁTちゃんね」と言葉が返ってきた、嬉しい覚えてくれていたんだ
「裏に住んでいてお世話になったわね」と言ったら「何ばいいよんねこちらこそ」なんて言葉が返ってくる
84歳、昔の事鮮明でいらっしゃいました、お元気でよかった
かず子姉ちゃんは苦労の人で肺結核のお母様を自宅で看病なさっていた(その当時は肺結核の人が多かった)
お母様が亡くなられ、その後自分も肺結核になり手術、病院生活
よもや大病なさってこれまでお元気でいらしたのが驚きと同時にその当時を知る同朋でもある

「また来るね」といったら泣き顔になられて「また来てね」と哀願


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