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箱根の関所 芦ノ湖

2010年05月04日 | 気になる場所、風景、デザイン
 箱根の関所から芦ノ湖を望んだ風景。とても美しかったのでぜひ描きたかった。細かいところが多いうえに建物が難しく、なかなか感じが出せなかったけどなんとか一枚完成した。水のある風景が好き。海でも川でも湖でも、水のあるところに行くとほっとする。どこにでも存在し見事に適応している水。ここの湖の水や海の水のように、水があるべきところがちゃんとあって、そこに美しい光を放ちながらたたずんでいるのも好きだし、川の水のようにあるところからあるところへと一定の方向に流れているのも好き。ただ川の水を描くのは難しい。昔油絵でうまく描いている後輩がいて、すごいなあと思い、あのように森林の中を流れる川の水を描けたら素敵だろうと思った記憶がある。いつか川の水が流れている絵が描けるようになりたい。
 昔は写生よりも想像画のほうが好きだったが、今は風景画や生物画のような写生が好きだ。風景画は写真に撮ってそれをもとに描いている。大人になるにつれて自分の二次元面での想像力や表現力の限界がだんだん分かってきたし、目に見えるものをじっくり観察していたら、観察している対象がいろいろと面白く見えだしてきたから。実物が限界を補ってくれるということもあるのだ。

 「西洋音楽史」という本を読んでいる。面白く勉強になりそうな本だ。
 この本は「音楽史」である以上に、「音楽の聴き方」についてのガイドであるとのことだ。筆者の岡田氏が言うところによると、どんな音楽にも「適切な聴き方」というのがあるとのこと。コンサートホールでの尺八、早朝のモダン・ジャズ、バーでのミサ曲、学校の視聴覚室でのグレゴリオ聖歌ではやっぱり共感は得られないだろうと。理由は「場違い」だから。しかしそのようなことを述べる理由は、道徳的な考えや、「本場が一番」的なスノビズムからでは決してないと筆者は断っている。「場違い」だと音楽から得られる歓びが減じられてしまうという、エキュピリアン(快楽主義)的な動機から、「場違い」というものがあると筆者は書いていた。そういう視点から見ると「いつどこでどう聴いてもいい音楽」などというものは存在せず、「音楽」と「音楽の聴き方」は常にセットだということになる。
 私は今まで、その音楽の聴き方について、「場違い」があるという見方そのものに対して鈍感だったような気がしている。もし「場違い」だとするのだとしたら、どういう理由でそういう結論になるのかがつかめていなかったのだ。面倒なことが嫌だという横着心もあったかも。しかし著者の「エキュピリアン(快楽主義)」という説明でよく納得できた。「○○の仕方」には縛られたくないとずっと思いながらも、そういうものはやっぱり文化として存在しているようだ。快楽からという極めて人間らしい理由に基づいた文化に。そして快楽のもととなる文化というものが背景にあるということも分かってきた。そうだとしたらそういうことを知っておくことは大切だし大いに意味がありそうだ。ほんと、こういうことに鈍感ではいけないなあ(汗)。
 ちなみにそれは音楽に限定されるのだろうか。確かに音楽は場への依存性が大変強い芸術のような気がするけど。

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