さて、青麻神社です。
「数霊ー臨界点 深田剛史・著」と言う本のサブタイトルに、「祝 瀬織津姫 封印解除」とあります。その封印解除の場が青麻神社との事です。
うーん、何故なんでしょ。私には分かりません。しょうがない、「数霊ー臨界点」なる本、買いましたよ。そしてページを開いてガーン。
これは何と言いますか、神様の声を聞きつつのトラベルミステリー調に書いてあるじゃないですか。
うーん、困りました。私は推理小説のドラマを見るのは好きですが、読むのは嫌いなんです。本は人一倍好きなのですが、推理小説はどうしても駄目です。読みきれたためしが有りません。
何と言いますか、問題を提起して頂ければ、その解答は私が考えたいのです。神様の考えは人それぞれです。人それぞれに解答があってしかるべきだと考えます。ぶっちゃけヒントを戴いて私なりの答えを出したいのです。
しかもストーリーはスピリチュアル系の様です。私は神様LOVEと言うより、神様に対し恐れおののく呪い系ですので、相容れないところが少なからずあります。これは譲れません。
勿論、スピリチュアル系が悪い訳ではありませんし、非難するつもりもありません。その考えで幸せになれるのであれば、それに越した事は無いと思いますし、素晴らしい事だと思います。
しかし、私は違うのです。私は呪われた家系を生きている為、その究明から神道を考えたいのです。
幸せになる前に、呪いを和らげたい。幸せは呪いを和らげてから考えたい。
自分なりの解答、それは私の怨念でもあります。それがタブーであっても私は本質が知りたい。先ずはそれが大事なんです。
多分、私の一生では全問正解までは行かないでしょうけど、それが私の人生の一つのテーマの様に思えます。
なーんて事、書いちゃいましたが、要はスピリチュアルまで頭が回らないんですね。そっち方面は、誰か奇特な方にお任せしたいと思います。
瀬織津姫の封印とその封印解除についても又の機会に書きます。誰が封印したかは検討は付いていますが、どうして封印が解除されたかは分かりません。分かったら書きたいと思います。今回は青麻神社と瀬織津姫の関連についてのみにしたいと思います。
さて、青麻神社に瀬織津姫が祭られているのでしょうか。
紫波姫=瀬織津姫と言われており、青麻神社には紫波姫が祭られている旨、某Y氏のブログには書いていますが、青麻神社の資料には紫波姫の名も瀬織津姫の名前も出て来ません。どうしてそんな話になるのか全然分かりません。
その為の「数霊ー臨界点」だったのですが、上記の理由で読む事は困難です。
しょうがない。青麻神社を全方面から考えてみるしかないですね、これ。
つづく。
僕もよく封印を解いたとか聞くのですが、その都度、???となります。
そもそも、人間に神を封印することなどできるのか?疑問です。
封印というのは、理による呪だと思います。
それは、神自体を縛るのではなく、
人の神に対する想いに壁を作るのだと思います。
これは、人と神とのラインを遮断することにもなると思います。
そして、解除とは、その衝立を壊すこと、ラインを再び繋げることだと理解します。
神は、神の意志で人間に関係なく行動しますよね。
ある人が封印を解いたというのなら、それは、その人の心がその神との壁を取り払ったことだと思っています。
スピとは、その各自の心の世界ですから、記述されることは、個人的な記録であり、それに触発された人が増えることが目的だと思っています。
だから、誰々がこう言ったからではなく、自分はどう思うのか、どう感じるのかが大切だと思います。
綱永井さんのいうように、1対1の関係であるべきだと僕も思います。
コメント、有難う御座います。
本の内容、チラッと見たのですが、封印解除は数霊から来ている様です。
何でも平成18(イワ)年10(ト)月8(ビラキ)日で、岩戸開きに成るようです。その考えから瀬織津姫の封印解除の解釈をしているのだと思います。
キリスト教も13日を忌み嫌い、666をサタンとし、エホバの証人では救われるのは144000人と数字に左右されていますが、神道では数字の概念は余り左右されてないと思います。
私も数霊の流れを汲む姓名判断をやっていますが、それは数字の意味合いから来ていますので、キリスト教と考え方が違います。
それに数字に左右される神もよく分かりません。
ただ、封印とは違う意味かも知れませんが、悪魔とされているマガツヒ神、つまり瀬織津姫を調伏する手法はあります。滝行もそうですし。神社の役割もその一つと言えます。
その点、難しくて中々考えが練れませんが、何れ又、書きたいと思います。