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にしのサラリーマン時代

にしがサラリーマンで幸福のときを書いている。当時の知り合いや、子や孫たちに読んでもらいたい。

船坂へハイキング

2013-09-09 23:51:54 | サラリーマン7年生
 ハイキング部に誘われて、バンド仲間とともに西宮北部の船坂へハイキング。1969(S44).9.7のこと。

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 ↑ ハイキング部が川原て飯ごう炊さんの準備をはじめた。ぼくは、ただ眺めるだけ。

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 ↑ 炊きあがるまで、ぼくたちハワイアン部は、ギターとウクレレでなにやら、演奏をはじめてた。

 このころ、歌謡界では、また、新人の女性が自作の詩を唄っていた。
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 ↑ あなたの心に/中山千夏
1969(昭和44)年9月1日発売のレコードを買って聴いていた。



とつぜんのこと

2013-08-28 23:56:39 | サラリーマン7年生
 8月25日のことだった。退社時刻間際にぼくあてに電話があった。家族からだと取り次がれたが、あの娘からだった。両親には旅行だといって、大阪へ出てきたのだ。1969(S44).8.25~26のこと。

 家出なら両親に黙っておくわけにいかない。連絡したいが電話番号を教えてもらえない。慕ってくれるのはうれしいが、こちらにも事情がある。このまま無断外泊の片棒を担ぐわけにいけない。後に響くような無責任な行動もとれない。

 汽車で送って行こうと持ちかけたが従ってくれない。喫茶店で長々と説得を続けるが、拉致があかずハタと困った。ふと思いついたのが親戚に泊めてもらうことだった。電話で了解を得、連れて行った。翌朝、一人で無事帰ってくれたので、ほっとした。

 後(のち)の手紙でわかったことだが、 両親が認めた旅行の帰りに、立ち寄ってくれただけだった。家出なんてとんでもない。ぼくの早合点だった。

 このころ、「あなた好みの・・・」のフレーズの曲が流行っていた。
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 ↑ 恋の奴隷
/奥村チヨ 昭和44年6月1日発売。



プログラマー増員研修

2013-08-23 23:49:07 | サラリーマン7年生
 オンライン・システムの構築には、社内のコンピュータ要員を増やす必要がある。コンピュータ・ベンダーからそう指摘されていたので、人事が動いた。

 正式な人事異動には、時間がかかる。そこで、内定の段階でコンピュータ・プログラムの研修に参加してもらうことになった。1969(S44)年8月のこと。

 ベンダーの研修所へ通う途中、何人かが、わたしがいる事務センターへ立ち寄ってくれた。みんな営業店の行員ばかり。コンピュータは未経験で、研修内容に面食らっている。そう言いながらやる気を見せていた。

 その何人かは、支店やクラブ活動で顔見知りで、上司へ紹介した人もいた。この3カ月後に、人事異動の辞令がでる。



オンライン端末が決まった

2013-08-12 23:49:43 | サラリーマン7年生
 オンラインのホストコンピュータがUNIVACと決まってから2ヶ月経つも、まだ、端末機が決まっていない。ホストのメーカーからすると、先発ユーザーと共同開発して、運用実績があるO社端末になると見込んでいたらしい。だが、そうならなかった。

 接続実績よりも、端末機の先進性とカスタマイズ面を強調するメーカーが現れたのだ。そしてF社の1530の採用となる。開発基本スケジュールではお盆までに決めるとなっていたので、間にあった。1969(S44).8.12ごろのこと。


 毎年、8月12日が来るとその時の決定に大きくかかわった人を思い出す。残念ながら、1985(S60).8.12に起きた日航機墜落事故機に乗り合わせて、この日が命日になってしまった。

 事故に遭う16年前。コンピュータ・システムを決める場でその人を見かけた。なんで、よその会社の人が出しゃばってくるのだろうか。ペーペーの私にはその人の存在を知らなかった。

 センターコンピュータと異なるメーカーの端末機をつなぐ、いわゆるマルチ・ベンダーなんて日本では前例がなかった。そんな時代に、マルベンダーという、一見リスキーな選択を薦めた一人であった。

 その人のこと、先輩に聞いて解かった。経営者一族の人だったのだ。

 このころ、この歌が流行りかけていた。
真夜中のギター/千賀かほる 昭和44年8月10日発売
 ↑ 真夜中のギター/千賀かほる
昭和44年8月10日発売



新舞子浜でキャンプ

2013-08-04 23:54:27 | サラリーマン7年生
 8月2日~3日は兵庫ブロックのキャンプがあった。先々週の日本海の若狭キャンプと違って、姫路の先の新舞子と近かったので、道中は楽だった。1969(S44)のこと。

 大阪からは、キャンプを盛り上げるキャンプリーダーとともにバンドのメンバーも参加した。

 18時30分にキャンプ場で夕食、19時30分にファイヤーの点火式が始まる。10日ほど前の米国アポロ11号の打ち上げを真似して、手作りロケットで点火式が行われた。

 秒読みでロケットが発射すると煙をまきちらしながら高く上がっていく。拍手喝采のなか夜空に消えると点火式が終わり、楽しいキャンプが始まった。

 キャンプリーダー演出のフラダンス、踊りで盛り上がる。そしてバンド演奏で一息入れるなど、日ごろの憂さを晴らしていた。

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 ↑ 新舞子浜(再現)、「南国の夜」
や、「サンゴ礁の彼方に」などを演奏

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 ↑ ハワイアン・メドレー/和田弘とマヒナスターズ



若狭でキャンプ

2013-07-19 23:56:52 | サラリーマン7年生
 大阪ブロックのキャンプが、今年も若狭海岸であった。昨年は、尼崎から参加して集合に数分遅刻したが、今年は、大阪勤務で集合場所が近いので、時間に余裕があった。1969(S44).7.19~20のこと。

 7月19日は土曜日なので勤務は14時まで。みんな仕事を終えてからバス7台に分乗、予定通り大阪を15時に出発した。

 大阪から日本海へは、高速道路はない。一般道で走るので4時間を越すかもしれない。道中、ゲームをしたり、歌を唄ったりして時間をつぶした。

 舞鶴で合流する娘も無事乗れて、キャンプ場に着いたら、19時を過ぎていた。民宿に荷物を置いて、キャンプ場の和田浜に集合する。

 みんなが揃った20時ごろ、大きな薪に火が点いた。そのキャンプファイヤーを囲んでみんなが見る中、リーダーのダンスが始まる。やがてみんなでマスゲーム。その合間に、ハワイアンバンドの演奏など、一晩をみんなで楽しんだ。


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 ↑ キャンプファイヤーが燃え盛る中で演奏。
  演奏に遅れて参加したので、わたしは写っていない。残念。

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 ↑ 翌朝、ゲーム・水泳の前に全員でラジオ体操。/若狭和田浜

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 ↑ 定番のスイカ割りゲームで爆笑。/若狭和田浜

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 ↑ 風船巻きつけミイラゲームででも爆笑。/若狭和田浜

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 ↑ 参加したセンターの若者/若狭和田浜

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 ↑ 参加したセンターの若者/和田浜の民宿前

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 ↑ 参加したセンターの若者/和田浜の民宿前

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 ↑ 和田浜

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 ↑ バスで帰らず、国鉄の汽車で帰った。

 この頃、会社近くの喫茶店では、この(↓)曲がよくかかっていた。
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 ↑ いいじゃないの幸せならば/佐良直美
 昭和44年7月15日発売。



アセンブラーの研修

2013-07-07 23:45:58 | サラリーマン7年生
 7月7日月曜日から、UNIVACコンピュータのアセンブラーの研修が始まった。1969(S44)年のこと。

 オンライン・リアルタイム・システムを実現するには、中央コンピュータにデータを処理させる業務プログラム(アプリケーション)が必要となる。全体構成をメーカーに作ってもらうにしても、業務プログラムは、業務を知る自社々員が分担しなければならない。これが当時のやり方だった。その一歩が、コンピュータ・プログラムの書き方(アセンブラー言語)を教わることだった。

 どんな内容だろうかと、K池部長も研修に参加した。初日の講義、部長も真剣に聴いている。休憩に入るや傍にきて、「おい、君たち、講義内容が分かるか?」と、心配そうにおっしゃる。「大体、分かります」とハッタリで返したら、「それなら良い。わしには難しい」と、ぼそぼそ言いながら、次の授業のときは居なかった。

 既に小型機を導入していたので、2~3名はNEACの小型機アセンブラーを知っていた。わたしもコンピュータ学校で学んだので、だいたいは分かってた。でも、大型コンピュータとなると、みんなは未経験。部長からしてみれば、未経験の素人集団だから心配だったのであろう。

 自前のシステムを導入するように社長に進言し、コンピュータ機種を決定した部長にしてみれば、是が非でも成功させたい。
米国で、アポロ計画に採用されたコンピュータと同じ機種。そのような触れ込みで決まったコンピュータの機種である。そんなものに、自分の部下がついて行けるのかとの心配が、拭えなかったかもしれない。

 ちなみに、そのとき習ったコンピュータの命令は、分厚い教則本に載っていたが、ポケットに入るカード(↓)も配られた。
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 ↑ reference_card Page1

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 ↑ reference_card Page2

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 ↑ reference_card 数値表



駅舎で一泊

2013-07-05 23:44:28 | サラリーマン7年生
 7月5日は土曜日なので勤務は2時まで。勤務終了後、キャンプの道中にある舞鶴へ行ってきた。1969(昭和44)年のこと。

 大阪を出るとき、煙の臭いはしていなかった国鉄の列車だが、途中から石炭煙の匂いがしてきた。舞鶴線に入り機関車が蒸気機関車に変わったのだ。なつかしい。修学旅行の列車を思い出した。

 降車駅に着くとすでに19時を過ぎていた。駅を出て見知らぬ土地をただ一人、市販の地図を頼りにてくてく歩いていく。市役所付近の交差点なら、大阪からくるバスを見つけやすい。そう聞いていたので、市役所付近のバスが停まれるところを探した。

 キャンプの日、大阪ブロックの社員や家族を乗せたバスが7台、つながって若狭湾和田浜キャンプ場へ向かう予定だ。そのバスに、去年世話なったあの娘が乗りたいと言ってきたので、いま下見している。その場所を発見。ここならバスから見通しがきくし、一時停車もできる。しっかりと場所の特徴を目に焼き付けて、帰ることにした。

 お腹が空いたので駅近くの食堂で食事を済ます。20時を過ぎていたが、終列車までは、まだ1時間もある。ならば、引っ越ししたあの娘の家を探してみようと思いつき、暗い夜道を歩きだした。

 予定外なので詳細な地図は持っていない。街路灯を頼りに町名をさがして歩いてみた。だが、はじめての町のこと、地名は見つからない。タクシーを探すも通っていない。とうとう、疲れた足を引きずりながら帰ることにした。

 駅に戻ると、終列車が出た後だった。しまった、どうしよう。近くに宿泊場所があるだろうか。再び駅を出て探してみる。だが見つからない。しかたなく駅舎へもどることにした。

 待合室のベンチで横になっていると、電灯を消されてしまった。小さな非常灯だけの待合室は、暗くなってしまったので、そのままベンチで寝ることにした。

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 ↑ こんな感じのベンチ(再現)だった。

 木製のベンチは固い。隙間があいているので、寝ころぶと背中がすぐ痛くなる。何度も何度も寝返りを打つ自分が、情けなく思いながらも、夜が明けるのを待ち続けた。

 夜が明けて帰るやいつもの、レコードショップへ立ち寄った。
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 ↑ 人形の家( 弘田三枝子 S44.7.1発売)
が店内に流れていたので、買って帰った。
 B面 → あなたがいなくても



十津川峡へ

2013-06-15 14:18:36 | サラリーマン7年生
 コンピュータ導入方針が決まり、ホストメーカーと機種もほぼ決まったので、十津川峡へ一泊旅行に出ることになった。1969(S44)年6月14~15日のこと。

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 ↑ 泊まった旅館には、裏に魚が釣れるため池があった。亭主が釣り道具を用意してくれたので、翌朝釣りができた。
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 ↑ 2階にあがったここから、釣り竿で糸を垂らした。朝、1時間ほどだったが、たくさん釣れた。
1人当たりにすると4~5尾になるか。たしか「あめの魚」と言っていた。短時間にこれだけ釣れたのははじめて。こどものころ、フナ釣りをしたことがあるが、それ以来で、楽しかった。女将に頼むと、焼いたり煮たりしてくれたので、みんなで美味しく頂いた。


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 ↑ お世話なった旅館を発つ時間が来た。ふざけることが好きなB場さん。

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 ↑ 見送りに出てくれた将来の若女将。ぼくも将来子供ができたら、こんな感じか? 冷やかされながらも写真を撮ってから、発った。


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 ↑ 十津川名所「谷瀬の大つり橋」に立ち寄った。橋の看板には、吊り橋の鉄線全長297.7mは日本一だと書かれている。
 早速、同期のT祢さんが渡り始めたので、後ろをついて行く。

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 ↑ そっと歩くだけでも橋は揺れる。これは肝試しになると、だれかが言い出したので、ぼくも渡りはじめた。

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 ↑ 後ろからB場さんが追い着いてきた。追い越しさせろとばかりに揺らし始めたので、先を譲った。

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 ↑ ぼくも負けじと、両手を広げてみせた。

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 ↑ それを見てたF瀬さんが、こんどは片足立ちで立って見せた。

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 ↑ 対岸へ渡り切ったところで、記念撮影。Y中さん、F瀬さんを撮ったらフィルムが終わりになった。残念。山奥ではフィルムを売るお店もなく、これ以降の撮影は無し。 みんな、釣りと橋に堪能して帰路に着いた。

 
 奈良の山奥は、道が舗装されていない。それもそのはず、これらの道は、山から切り出した大きな丸太を運ぶトラック道だと言う。たしかに、昨日すれ違ったほとんどの車は、大きな丸太を積んだ旭産業のトラックばかりだった。

 そんなトラックと右カーブの登り坂で、接触しそうになり、トラックの運ちゃんに怒鳴られた。幸いにも、事故にならず、そのまま走り過ぎてくれた。あぁッよかった。こちらは、日野コンテッサという乗用車。Y口先輩の車だが、交代してぼくが運転していたときのことだった。

 翌日、遠回りだが舗装された国道で帰った。昨日のような砂利道を避けて、違う景色を楽しみながら安全運転で帰るのだった。



UNIVACに決まる

2013-06-12 23:14:18 | サラリーマン7年生
 1969年6月、コンピュータ各社から提案を受けた結果、オンライン・リアルタイム・システムのホストコンピュータは、米国のUNIVAC社製に決まった。

 後に担当部長から聞いた話だが、社長に決断をせまったとき、「システム作りに失敗した場合、半年の純利益が飛ぶと思えばいいのだな」 とつぶやかれたのだという。そんな裏話はともかく、発注から1年も待たなければ、コンピュータは届かない。

 理由を尋ねたら、コアメモリーと呼ぶ部品の製造に期間がかかるらしい。この部品、1ミリ以下の小さなドーナツに、ワイヤー3本を、顕微鏡を見ながら人手で通す。ドーナツを何千万個もつないで記憶装置という大きな箱が完成する。半導体の記憶素子がまだ出来ていなかった時代のこと。

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 ↑ UNIVAC 418-III コンピュータシステム

 コンピュータはなくても、翌月からコンピュータを動かすためのコンピュータ言語の教育が始まろうとしていた。



京都案内

2013-05-05 23:59:15 | サラリーマン7年生
 5月3・4・5日の3連休、友達が京都へ出てきたので、京都の名所を案内した。1969(S44)年5月のこと。

 京都駅で出迎えて、足の向くまま気の向くまま、回った。さすがに京都は観るところが多い。小学校の修学旅行ではじめて来た京都。その後、何回、来たことだろうか。

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 ↑ 京都清水寺の仁王門まえで。
  こういう立ちかた、仁王立ちだったかな?
 
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 ↑ 仁王門をくぐらず右へ逸れたらこんな石碑があった。
  家族連れの人たちが撮っていたので、空いた後、真似して撮った。御利益がありますようにって。

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 ↑ 後ろに見えるのは三重塔。それを背景に撮ったつもりだが、上部が写っていない。
  当時のカメラは今と違って現像するまで様子が判らない。親指の爪ほどの大きさの穴を覘いて、被写体を確認する。レンズの筒を回してピントを合わせる。そしてシャッターボタンを押す。当時の一眼レフでは当たり前のこの操作。写真屋さんに頼んで現像・印刷してもらうまで上部が切れているのが判らなかった。

  これ以降もあちこち回ったはずだが、ネガフィルムには写っていなかった。

京都・神戸・銀座 昭和44年3月5日発売 370円
 ↑ ♪「京都・神戸・銀座」
唄:橋幸夫、昭和44年3月5日発売。
 この曲を聴くと、京都の思い出が蘇ってくる。歌詞がいい、メロディも。



バッチを止めてオンライン

2013-04-26 01:07:29 | サラリーマン7年生
 4月になって、コンピュータ会社の営業マンの出入りが激しくなってきた。プロポーザルがどうのこうの、I360、F230、H8000ではどうのこうのなどと、先輩や上役達がコンピュータの機種選択で騒いでいる。今まで外注に依存してきた集中データ処理を、内製化しようとコンピュータ会社に相談していたのだ。だが、その選定条件が急に変わったらしい。1969(昭和44)年4月のこと。

 昨年末から、基幹業務のデータ処理システムの提案を各コンピュータ会社に求めていた。その前提条件が急きょ、バッチ処理から、オンライン・リアルタイム処理に変えたらしい。一番下っ端のぼくらには関係ない話だったが、2カ月後、そうではなくなった。

 電算機学園で半年学んだからと言っても、それは超小型機のプログラミングだけ。基幹業務をさばく大型コンピュータのことは何も知らない。もっと知らなければと、本屋に寄っては、やさしい本をさがして求めていた。

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 ↑ そのころ読んだ本が物置から出てきた。

 ときには、仕事とは関係のない「人生の本」なんて衝動買いすることもあった。自分のために買って読んでいるうちに、プレゼントを思いつき、あの娘の分も買って送ってあげた。



転勤でお引っ越し

2013-03-31 18:49:48 | サラリーマン7年生
 3月31日、お父さんの転勤で、友達の一家が遠くへ引っ越しする。引っ越しのお手伝いで自宅へ行ったら、遅かった。荷物はすでに業者に頼んで運んでいたし、後片付けも昨日までにほとんど終わっていた。今日は、庭に落ちた松葉のゴミを集めて焼くだけと、お父さんが火の後始末をしていた。さみしくなるがあの娘も会社を辞めて、引っ越した。1969(昭和44)年3月のこと。
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 ↑ 落ち葉を焼いた後の灰が少し残っていた。

昭和44年2月1日発売 370円
 ↑ 「知らなかったの」唄:伊東ゆかり、昭和44年2月1日発売。

 当時、この曲を聴いて、見送った寂しさを紛らわしていた。



須磨離宮公園

2013-03-23 23:51:08 | サラリーマン7年生
 3月23日は日曜日、須磨離宮というきれいな公園が最近できたと聞いたので、観に行った。 六甲・須磨へは高校1年のときバスで行っいるが、電車での行き方はわからない。なので、友達と一緒に行った。1969(S44).3.23のこと。

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 ↑ 噴水が一斉に出てきたのでびっくりした。その先には、ユーロッパ調の建物が建っている。モニュメントなのか、それともレストハウスなのかがわからない。

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 ↑ 建物に近づいてみると、高台から段々に水が流れ落ちて、きれいな滝のように見える。彼岸の滝は、やや寒かった。

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 ↑ この建物はどこだろうか。「六甲山のおみやげ」とあるので、六甲山なのだろう。40数年も経つと記憶があやしくなっている。ネガフィルムをスキャンしたら出てきた。