10月11日歩こう会第229回は上月城跡を訪問した。
戦乱の世、東の織田、西の毛利のはざまで、半年間で2度落城。天正5(1577)年播磨をほぼ手中に収めた羽柴秀吉は未だ従わない佐用の地へと兵をすすめる。この時秀吉の残した文書で「播州佐用郡内に敵城三つ候」とあり、上月城と福原城、利神城が攻撃対象であった。
秀吉は、11月27日に福原城を攻略し、翌日に上月城を取り囲み、備前・宇喜多氏が援軍に来る散々打ち負かして撤退させた。そして、12月3日に城内に攻め入り、城兵の首を刎ね、城内の女子供約200人を磔りつけ串刺しにして国境にならべるなどした。この時の上月城主の妻は黒田官兵衛の妻・光の姉だったといわれている。官兵衛の心境はいかばかりだったか。次に上月城は尼子勝久を主とする山中鹿之助らが入城、1578年毛利方約3万の軍勢によって取り囲まれる。時を同じく播磨では三木の別所長治が突如織田氏にそむき毛利氏につきます。
これらの対応に苦慮した織田氏は上月城救援をあきらめ三木城別所氏攻略に集中する。孤立無援となった上月城は、ついに開城、尼子勝久は切腹し、山中鹿之助は備中松山城へ護送となった。(上月城資料パンフより)
上月歴史資料館
赤松政範の供養塔 三密防止で昼食
はるか向こうに利神城跡が見える。