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多文化社会とは何か‐日本とドイツの比較

2019-11-25 01:04:08 | 日記
都市文化研究 Studies in Urban Cultures
Vol.6,  pp.46-57,2005

多文化社会とは何
―ドイツと日本の比較
宮 崎   登
 ◇ シンポジウム ◇

要 旨
グローバル化された時代には,いかなる社会もモノカルチャーとして自己規定することは出来ない。ドイツでは1980年代になると,多文化社会についての論争が活発になった。しかし,元ドイツ首相のヘル-ムト・シュミットによるとドイツに多文化共存社会を根付ける試みは失敗に終わり,ドイツは現在,多文化並存社会にある,という。しかしこれは,多文化的な社会領域で活動している多くのものには同意できない主張であり,試みさえされていないことが失敗することなど出来ないとの反論がある。
日本でも,多文化社会への歩みは早まるばかりだ。伝統的な移民である中国人,韓国人はもとより,今日では世界のあらゆる国の人々に出会うことができる。それは日本にとってかつて受けたことのない挑戦であるとともに,文化的に発展する大きなチャンスでもある。
ルネッサンスは,古代バビロニアでアラビア語へ翻訳されたギリシャ文明がイタリアで再発見されたことによって初めて可能になったと和辻哲郎は指摘している。日本文化は,言うまでもなく,いにしえの時代から中国文化の活発な翻訳受容を通して発展してきた。
ただし,文化間にあっては決して1対1の翻訳はあり得ない。19世紀後半に広範囲に行われたヨーロッパにおける日本文化の受容の試みは,印象派やアール・ヌーヴォーに結実したが,そこには常に小さなズレと差異が見られる。このディスクレパンシーには大きな誤解につながる多くの要素が含まれているとともに,一方ではルネッサンスのように全く新しい文化を生むチャンスも含まれている。
文明の衝突を生産的に克服するためには何が必要か。二つの文化が出会い,豊かな実を結ぶプロセスは? 我々の社会が様々な文化の出会いによって規定されていく今日,それら諸関係の解明は益々必要不可欠となるだろう。その中で,80年代,90 年代のドイツにおける経験から一つだけ明らかなのは,移民は受け入れて貰う社会の言語を習得し,文化を受容することが新しい社会に受け入れられるための第一歩だということである。
キーワード:グローバリゼーション,多文化社会,文化の出会い,翻訳のズレ,言語習得
1
ドイツではここ数年来,多文化共存社会,即
ちmultikulturelle Gesellschaftか,並存社会,即ちParallelgesellschaftかを巡って激しい論
争が繰り広げられている1)。注意したいのは多文化だけでなくその共存社会か並存社会かである。日本人にはまだ耳慣れない概念かもしれないが,それと表裏一体をなすグローバリゼー

 
ションという言葉は1990年代になって日本でも一気に広まっており,遅かれ早かれ日本もこの論争に巻き込まれるのではないか2)。本論文ではドイツでの論争をふまえ,日本の現状と比較しつつ多文化社会の問題点と可能性ついて私見を述べたい。
その際,最初に混同を避けるため70年代から日本でも広がり始めた国際化という概念との違いを見ておく。
国際化とは国と国がそれぞれのスタンダードを維持しながら交流するインターナショナルなシステムであり,その概念は1970年代に日本の市民の間にも広がったのだが,歴史的発展過程としてはその時既にピークを迎えていた。 80年代になって多国籍企業の活動が活発化する中で,トランスナショナルな行動基準を求める声が大きくなり,世界はグローバル化の時代を迎えた。グローバル化された社会では一国のみの基準はその効力を失い,世界共通のスタンダードが行動基準となる。IMF,世界銀行, WTOがその推進主体であり,既にショーと化したG7サミットや毎年スイスのダヴォスで開かれる世界経済フォーラムはその体制派イデオローグの集まりとして,今なお経済のグローバル化こそ人類の福祉繁栄につながる唯一の道との主張を繰り返している。ただし,1997年タイ発のアジア通貨危機をきっかけにグローバリズムへの批判が活発となり,それは冷戦後の世界支配を進めるアメリカのディクタート,覇権主義でしかない,との認識から,1999年のシアトルで開かれた世界貿易機構の閣僚会議が反対派の抗議行動で開かれなかったというように,ATAACなど様々なNGO,NPOが脱グローバル化の動きを強めている。
しかし,グローバリゼーションが実のところアメリカナイゼイションでしかないとの認識がいかに正しくとも,世界の現実は変わらず,グローバル化,多文化社会化は止めようもなく日々拡大深化している。元シカゴ大学人文科学研究所長のアルジュン・アパデュライはグローバルな文化プロセスに早くから注目した論者として知られているが,グローバル化された世界を想像のランドスケイプと見なし,「新しいグローバルな文化経済は,複合的,重層的かつ乖離的な秩序である」と指摘。その乖離構造を探求するために,グロ-バルな文化フローの5 つの次元に視野を向けよと,1.エスノスケイプ(民族景),2.メディアスケイプ(メディア景), 3.テクノスケイプ(技術景),4.ファイナンススケイプ(金融景),5.イデオスケイプ(理念景)を挙げている。ここで,その詳細を論じる紙面はないが,それらが全体のランドスケイプとして,彼が想像の世界と呼ぶグローバル化された世界の基盤となっている。「想像の世界とは,グローバル化した個人や集団がもつ歴史的に状況づけられた想像力を構成要素とする多様な世界のことである」と定義。地球上の多くの者が,今やこうした想像の世界で生活を営んでおり,それはグローバル・ヴィレッジとでも呼ぶべき風景である3)。しかし,スケイプ間で乖離的に進むグローバル化の過程では,それぞれの国のスタンダードが全て一気に消滅するわけではなく,また,共通スタンダードが登場することで,かえってそのアンチとして自らを規定しようというドライブもかかることは想像に難くなかろう。そこに,例えば現在のドイツが直面している外国人排斥などの原因の一つがあると思われる。
1964年,ポルトガル人アルマンド・ロドリゲス・デ・サーがケルンの中央駅に着いた日は,彼にとって一生忘れられない日となった。それはまた,ドイツ経済界にとっても画期的な記念日であった。敗戦後の混乱を克服し奇跡的と呼ばれる経済復興を遂げ,驚異的な経済成長を続けるドイツ経済は深刻な人手不足に悩まされ,その当座の解決策として主に南ヨーロッパとトルコから出稼ぎ労働者を迎え入れ,事態に対処していたのだが,このロドリゲスで100万人となったのだった4)。当時の出稼ぎ労働者は誰しも4~5年で小銭を貯め祖国に帰って,何か商売でも始めるつもりでドイツ行きにサインをしていた。また,受け入れ企業でも当座の労働力不足を解消する苦肉の策であり,事態が落ち着けばドイツ人労働者で賄うつもりであった。ところが,ドイツの経済成長は60年代70年代を通じ高度成長が続き,生産工程の合理化,オートメーション化で対応するのだが,それでは凌ぎきれず,労働力不足は解消されないまま,むしろ受け入れ労働者は増えていった。すでに職場にあった出稼ぎ労働者は帰国の予定を変更,家族を呼び寄せ,ドイツにとりあえずは定年まで残ることにした。
ただし,そのような移民は今に始まったことではなく,ゲオルク・ジンメルはすでに20世紀初頭に「今日来て,明日とどまる客」と形容している5) 。その理由はロドリゲスのような祖国での失業あるいは貧困による経済移民,20 世紀後半に入ってからだけでも,ベトナム戦争からソ連のアフガン侵攻,中国のチベット侵略,イラン・イラク戦争から湾岸戦争,パレスチナ問題と後を絶たない戦争難民,イランでのムラーによるイスラム革命や70年代のチリでのピノチェトによる右翼反革命クーデターで弾圧を受け,国外追放された亡命者たち,あるいはアフリカの飢餓難民と移民問題は,その相対的比重に違いはあるにせよ,昔も今も変わることのない人類の歴史である。そして,1992年には全世界で1億人を突破,その後も増え続け,今日では人類史上類を見ない民族大移動の渦中にある。
現在のドイツではそんな無数のロドリゲスや,イタリア人ニッコ,トルコ人のムスタファたちが約730万人と全人口の8.9%を占め,その内訳は188万人(25.6%)がトルコ人,イタリア人60万人(8.2%),セルビア・モンテネグロから57万人(7.7%),ギリシャ人35万人(4.8%),ポーランド人32万人(4.2%)などとなっている6)。さらに,この中には入っていないドイツ国籍取得者が,1990年以降だけでも年間15万から20万人の間で移行,総計200万人近くになる。それが皆ドイツ社会の一員として社会生活を送っているのだが,そのアイデンティティは40年経った出稼ぎ第一世代の者でも,今なお祖国とドイツの間で揺れ動いている。例えばロドリゲスの同胞たちがドイツにとどまり形成したハンブルクのポルガル人街を調査したアンドレア・クリムトは,ドイツにとどまったロドリゲスの自己認識を代弁する発言として,「ドイツ人とはその人種的出自によって決まることであり,その生活環境が決定要因ではない。ただし,ポルトガル人としてハンブルク人であることはできる」ということを報告している7)。元出稼ぎ労働者の移民の現状を語る大変示唆に富んだ発言であり,これはアメリカに移せば,メルティング・ポットとしての社会モデルは失敗し,現在はサラダ・ボール社会こそ多民族国家アメリカを正確に表現しているのではないかという主張にもつながろう。
日本でもベトナム難民のボートピープルがまだ記憶に新しい人もいるだろうし,バブル経済に引き寄せられ不法滞在するイランやパキスタンの若者で代々木公園前があふれるという事態もあった。近いところでは,南米,特にブラジルからの出稼ぎ労働者が15万人弱,フィリピンからも6万人を超えているとか。更に不法滞在者が数十万人もいるといわれている。鎖国というトラウマを抱え,今なお難民受け入れや亡命者受け入れで,世界第2の経済大国としては恥ずかしいほどに貢献度の小さい日本も,規模は異なるにせよ,世界的な民族大移動を無視できない状況を迎えている。果たして,日本はその事態に対処する準備ができているのか。
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グローバリゼーションといえば,まず経済を思い起こし,ソニーやパナソニック,トヨタなどの多国籍企業がグローバル・プレーヤーとして世界市場を席巻する,トランスナショナルな企業活動が思い浮かぶが,マルクス経済学を引き出すまでもなく,ことはその下部構造から文化,政治,人々の意識と上部構造にまで及ぶ現象であることは言を待たない。
こと,一個人にとっても,例えば上のロドリゲスの物語にはグローバル化された社会の抱える諸問題の全ての端緒が含まれている。テクノロジーの発達によって,まず,未曾有の空間と時間の圧縮がおこなわれ,それはおそらくは当の本人にも無自覚なままアイデンティティの形成に影響を及ぼしている。こうしたことは,モータリゼーションが未発達であった時代には想像だにできなかった。国を何千キロも離れたところで,その距離を一気に克服し,日々の生活を営み,なおかつ既にロドリゲスがドイツに来た当時でも,まだ電話という限られたものではあったにせよ,理論上はその電子メディアを手段として家族との同時的なコミュニケーションを継続することができるようになっていた。インターネットが世界の隅々まで普及した現代はナショナルな空間,時間を超える,もう一つのヴァーチャル・スペースをグローバル規模で所有することが可能となった時代の到来を意味する。
しかし,そこにはまた,今も昔も変わらない人間の出会いの場,それが出稼ぎ労働者なら現実の労働現場がある。ポルトガル人のロドリゲスがドイツの企業で労働するということはその労働現場で不可欠のコミュニケーションの手段である言葉,ドイツ語の問題が出てくる。確かに,生産手段のオートメ化で労働行程が極度に単純記号化され,そのコード解読にはほとんど言語知識を必要としないという状況が生まれた。しかし,いったん職場を離れると日常生活には言語コミュニケーションが不可欠であり,ドイツにあってはドイツ語の習得は避けて通れない問題として,滞在が長引けば長引くほど意識されていった。ただし,外国人が働きながら,ほとんど語学学校にも通うことなく習得するドイツ語というものが,自己を正しく表現するにはあまりにも貧しすぎることは誰の目あるいは耳にも明らかだろう。それだけではない。例えばギリシャ語とラテン語で月といってもギリシャ語は時を「測定する」月の機能を示し,ラテン語はその明るさ,輝きを表すという。そのようなずれ,差異はロドリゲスが「わたしは仕事が好きだ」と言った時にも考えられる。仕事という言葉一つとっても,思うところはドイツ人の間でさえ,人それぞれだろう。ましてや,片言のドイツ語で表現したこととポルトガル語でしなやかに温かい語感を込めていったことでは,本人の気持ちに大きなずれ,開きがある。ロドリゲスは仕事を,12時からはシエスタを含めた3時間の休憩があり,同僚と冗談を言いながら,のどが渇けばコーヒー・ブレイクし,お腹がすけば持参したパンをかじるものと理解していたかもしれない。しかし,それはドイツ人の労働観からは大きくずれ,規律のない無責任な態度と映る。このような誤解は外国語で生活するもの全てにとって,日常茶飯事の宿命ではある。フェルディナンド・ド・ソシュールはそのような誤解は言語記号の持つ二重構造にあることを初めて指摘した8)。即ち,能記(記号表現,シニフィアン,signifiant)としての記号・仕事にはドイツ人だろうとポルトガル人だろうと何の違いもない。ロドリゲスも記号表現である能記としてのArbeitという言葉ぐらいは知っている。しかし,その所記(記号内容, シニフィエsignifié)には二人の間に上のラテン語とギリシャ語のような大きなずれがある。好きだという言葉の中にも能記上の同定性とは別に,所記上大きなずれ,差異があることは想像に難くないだろう。ロドリゲスには仕事という辞項の統辞上で好きというのは,同僚と冗談を交わしながら,あくせくしないでマイペースですることをさすが,ドイツ人にとっては目標に向かい集中して仕事に励むことをいう。だから,「わたしは仕事が好きだ」という言表にはドイツ人の同僚とロドリゲスの理解したところでは,状況次第では甚だ危険な誤解のもとにもなりかねない,文化上のずれとゆがみが生じてくる。話は少々飛躍するが,ハンチントンの言う「文明の衝突」も,突き詰めればこの記号上における文明間の所記のずれ,差異にその原因があるといえるだろう。
現代社会が前代未聞の規模とテンポで多文化化してきていることを疑うものはいないだろう。日本でも自動車はホンダだけでなく, BMWが走り,ベンツには強面の御仁がふんぞり返っている。女性のハンドバックは私など聞いたことのないようなフランス語,イタリア語の名前が五指にあまり,ラジオのFM放送でロック番組を聴けば,少なく見てもその50%は英語の語彙であり,日本語の文法で発音の悪い英語を聞いている感が拭えない。国民の意識を代表する国語を守るべき最後の砦とも言うべき学問の世界でも,笑うに笑えない事態がグローバリゼーションの名のもとに進行していると聞く。学術論文は英語か,外国語関係ならその専門の言語でなければ行政側は予算も出さないとか。母国語をそこまで卑下しなければならないものかと怒りより哀しみを禁じ得ないが,「くにのことば」を磨き,豊かなものにし,ひいては国民の意識を高める任務はいったい誰が引き受けるのか。
更に言わせていただくなら,そのような問題意識しかないところで,ますます多文化化する社会の現状を国民に明らかにすることなど誰に望めばいいのか。止めようのないグロ-バル化の中で,将来の社会的混乱を避けるべく,なすべき精神的・心理的準備,制度的整備などにも日本は未だ着手していないのではないか,というのが私の率直な印象である。だから,それらの現象を表現する語彙さえない。例えば,すでに80年代から多文化社会を現実として受けとめ,初めてフランクフルト市で多文化担当委員にパリ5月革命で名をはせたダニエル・コーン=ベンディットが選ばれたドイツでは,多文化社会についての様々な研究プロジェクトが組まれ,最近ではヴィルヘルム・ハイトマイヤーが「Gruppenbezogene Menschenfeindlichkeit(所属グループを対象にした人間敵視)」と日本語に訳せば意味不明のキーワードで,2002年から毎年ドイツ人の外国人に対する意識調査をし,「ドイツの現状(Deutsche Zustände)」というタイトルでズーアカンプ社から報告書を出している9)。2004年の報告には今後の日本の行政関係者にも参考にしていただきたい。非常に意外な調査結果が出ている。かいつまんで言うと,
  1. 外国人が多くなればなるほどその地区ではドイツ人の外国人排斥意識が低くなる。
  2. 収入が増えれば外国人排斥意識が低く,低賃金層ほど敵視の傾向が強い。
  3. 外国人の割合が人口の2%以下のところでは,実際の10倍以上の外国人がいるとそこの住民は想像しており,排斥意識も非常に高い。
  4. 外国人の多いところではドイツ人の彼らに対する親近感も高く,少ないところでは嫌悪感,差別意識が高い10)。
外国人敵視というのは多分に主観的な想像上のものであるがことがよく分かるだろう。
上のプロジェクトでも見られるように,多文化社会を解明するキーワードもドイツでは出揃い始めているが,それに対応する概念は日本語にはまだないようだ。アット・ランダムに挙げる次のようなキーワードもそれを叙述することから始めるほかなく,一言で日本語になおすすべを私は知らない。例えば, Migrationは他文化社会への同化,Integration は融和,homogene Gesellschaftは同種一元社会,heterogene Gesellschaftは異種多元社会,Assimilierungは受け入れてもらった他文化社会への順応,Akkulturationは文化順応, Interkulturationは国際,学際などの意味でのインターカルチャー即ち文化際とでも呼ぶべきもの,Eingliederungsprozessは受け入れてもらった他文化社会の一員になる過程, Zuwanderungsgesetzは(ドイツへの)移民法,Hybiridkulturは異種混淆文化というよりハイブリッド・カルチャーと横文字にした方が通りがいいかもしれない11) 。
これでは真理を求める科学的概念とはいえず,従ってその言葉をもって現象を分析することなど望みようもない。しかし,これらは多文化社会を分析する上で不可欠の概念と思えるが,日本語にどのように置き換えればよいのか。私の貧しい知見では十分に批判に耐えうる訳語はまだないようである。語彙のないところには当然その認識もなかろうし,問題意識も芽生えてはこないだろう。
ソシュールによれば,言語は記号間の関係における差異によってのみ存在する,優れて恣意的なものであるという。ということは,外国人排斥のキーワードにもなる国民のアイデンティティの本質とは,他国民に自身とは異なる,あくまで記号の本質からして恣意的でしかない想像上の他様性を投影することにおいてのみ維持可能なものであると言えよう。それは所与のものとして先験的にあるものでもなければ,それ自体で価値のあるものでもない。多文化社会で衝突が起きるということは,あくまで共時的で恣意的な差異の認識にその原因があるのであり,通時的領域では差異は様々な均等値を持つ記号内容としての所記の内実の一つでしかなく,またそれらが形成するパラダイムの一つとして相対化されたものとしてのみ存在しうるのであって,衝突を生むような絶対的なものではない。文明の衝突の言語記号論上の場は,従って,記号表現,すなわち能記としての記号がパロールとして共時的に表記されるところで起こるのであり,それは言語活動としては一時的・表面的・恣意的な場である,といえる。我々が多文化社会でそのような衝突を避けるためには,言語活動において,記号表現という制限された一時的な能記の背後のある記号内容,即ち自由な何の制限も受けない,サルトルが野性的言語とよぶ,所記の認識を広めるほかにないのではないか12)。しかし,個々人の間のコミュニケーション活動はあくまで能記のレベルでパロールとしてしかできないのであり,一時的で表面的であるほかなく,その言表を所記のレベルで理解するためには,これもサルトルの言葉を借りるなら,個々人の自由で平等な友愛心あふれる「太っ腹な」心にもとづき,様々なパラダイム・チェンジの可能性を思い起こすことで,己を相対化する術を身につけるしかないのではないかとわたしには思われる。
3
多文化共存社会か並存社会かという論争で,その中核をなすのは異文化交流が社会にもたらす功罪である。元ドイツ首相で知識人に対してもっとも影響力のある週刊新聞「ディ・ツァイト」の編集責任者を務めるヘルムート・シュミットはロドリゲスの同胞たちが来独して40 年,ハンブルク港の近くにポルトガル料理のレストランを開店,ハンブルク市民に親しまれるようになって20年経った今,職場で同僚だったトルコ人ムスタファを念頭に置きながらではあるが,出稼ぎ労働者を受け入れたことは間違いだったと言って,物議を醸した。彼の矛先はイスラム教徒のムスタファにあるのだが,ドイツ経済の高度成長を底辺で支えた出稼ぎ労働者たちは,国籍を問わず,自分たちの犠牲,努力が無駄だった,それならまだしも,有害だったと言われた気がして,一斉に異議を唱えた。 730万人の外国人だけでなく,1990年の35万人をピークにここ10年は15万から20万人の間で推移しているドイツ国籍を取得した元「外国人」たちも,お前たちは邪魔者だと言われたような気がして不快感を拭えない。ヘルムート・シュミットは多文化共存社会のモデルは失敗,並存社会こそ現実の姿で,特にイスラム文化とドイツ文化は並行して存在,文化間の生産的な交流はなく,イスラム文化はその中に閉じこもって原理主義の温床となり,ドイツ社会にとって脅威となっているという。しかし,翻って,ロドリゲスやムスタファがドイツに到着してから,ドイツ社会からの働きかけ,インテグレーションの努力はあったのか。その試みさえなかった事実を無視して,試みは失敗したなどと言っても,根拠のない主張で,外国人排斥を叫ぶネオ・ナチスを喜ばすだけだと,特に地域で外国人のドイツ社会への融和に努力している数々の
NGOグループからはげしい反論がでている13)。
果たして本当に出稼ぎ労働者たちはドイツ文化の発展に貢献していないのか,文化の発展とは何なのか,ここで確認しておく必要がある。
まず共存と並存の違いを明らかにしておく。共存文化とは同心円を描くそれぞれの文化がその一部で他文化と交錯し,共通の領域を持つ現象を言い,その交錯する部分を核として,例えばドイツ国内における文化の発展に貢献しているのであるが,この社会ではヘゲモニーや権力問題は生まれず,それぞれが平等の資格で文化の形成発展に携わっており,ドイツ文化というよりはドイツでの文化を形成し発展させている。一方,並存文化というのは様々な文化が交錯することなく独立平行してドイツ国内にある状態を言い,互いに反発しあったり,無視しあい,強権でも発動しない限り,ドイツ文化はいかなる影響力も発揮できない。従って,ヘゲモニー,権力問題が出てくるのだが,それは,おおむね,保守層の理解している現代ドイツ社会のイメージであり,先ほどのハンチントンの文明理解にもつながるところがある。そこではドイツ文化こそが並存する様々な文化を領導し,管理しなければならないといういわゆるリード・カルチャー,ドイツ語で言うLeitkulturの必要性が主張され,先般ドイツ・キリスト教民主同盟の選挙用スローガンの一つにもなった。
もちろん,これらは実に大まかな文化理解のモデルであり,現代社会の傾向を指示しているだけで,その細部における決定要因の分析,評価にはさらなるディスコース,論議を要するだろう。ただし,我々がドイツに限らずグローバル化する世界で,共存か並存か,いずれの文化理解のモデルをとるかという二者択一の前に立たされていることは確かである。
日本では鎖国の経験から文化の発展を考えるとき,多文化共存か並存かとは別に,多文化かモノカルチャーかという問いもある。特に,江戸文化の評価はグローバリゼーションが進む中で今後更に大きな比重を増すであろう。確かに江戸文化は行き詰まって,明治維新を迎え,西洋文化を取り入れることで日本はかろうじて,西洋列強の支配を逃れ独立を維持することができた。従って,鎖国は最終的には日本を袋小路に導き,ほとんど窒息寸前だったと言うこともできる。しかし他方では,浮世絵,歌舞伎,文楽と日本文化の神髄は鎖国の中でこそ生まれ,完成に至った。町人文化の爛熟は,世界に類を見ない豊かで高度なものであった,という評価もある。
本居宣長は日本の文化を中国との対峙の中で,独自のものとして根拠付けようとした最初の思想家だと思われるが,その中で日本人本来の心を取り戻すため,漢意即ちカラゴコロを捨てヤマトゴコロの古事記に帰れと言った14)。しかし,その古事記の描き出す日本人が果たして本当に日本人のあるべき純粋な心,姿を反映していたのか。国民国家という観念が生まれたのはアメリカの発見から,植民地争奪戦が始まり,その中で「他に対する自」という形で生まれてきたと言われているが,古事記の描く時代に自分たちは日本人であり,漢や隋,唐とは違うという意識はなかったのではないか。そこにはただ日本という国土に生まれ,他文化からも学ぶべきは学び,自文化については守るべきものは守るという自然な姿しかなかったのではなかろうか。それは,むしろ今以上にグローバルな時代だったともいえよう。事実,日本の古代は遣隋使,遣唐使はもとより,遣新羅使,遣渤海使など大陸,朝鮮半島との交流は,通常,我々が想像している以上に活発であったようだ。ちなみに,894年菅原道真の建議で遣唐使が廃止されるまでに,遣隋使6回,遣唐使15回の他,日本からの遣渤海使は13回,渤海からの渤海使は35回,渤海の前身高句麗時代には30回の使節の来貢があり,また日本とはしばしば険悪な関係にあった新羅とさえ69度も使節が往来している15)。
極東という地理的に限られた世界ではあったが,日本海を挟んだまことにグロ-バルな時代だったといえる。そういう異文化との活発な交流の中で生まれたのが日本文化であり,本居のように交流以前の文化にこそヤマトゴコロはあり,それを再現すべきだと言っても,今更無い物ねだりをするようなもので,その当の本居が己の思想を表現する手段として使用する日本語がすでに1000年を超えて大陸の影響を受け続けたものである。従って,その所記即ち記号内容にはそういう通時の遺産が全て含まれている。本居が日本独自の文化というのであれば,まず己の使用する言語の浄化から始めなければならないが,1000年を超えて蓄積され記号表示される観念即ち所記の内実からこれは日本独自,これは大陸の産物と腑分けし,あまつさえそれを摘出駆除することなど不可能ではないか。本居の同時代人上田秋成はそんな宣長を「尊大の親玉」と揶揄し,本居の見ている古代とは実は己の姿でしかないでしょうと言ったとか。実に小気味のいい江戸の知性,批判精神ではないか16)。
翻ってもう一度文化の発展ということを考える時,むしろ本居の求める純粋培養よりは,異文化が出会い,そこに矛盾と対立が出てきて初めて文化を革新し,発展させるダイナミズムが生れるというのが歴史的事実ではないのか。ハンブルク大学の総長を務め,ナチス時代にアメリカに亡命を余儀なくされた哲学者エルンスト・カッシーラーは,その著『人間』の中で,古代バビロニアの文化的発展が,異文化が交錯し,それを理解するために不可欠の抽象的シンボルを生み出す必要性に駆られた,想像力の産物だったと言っている。
「(バビロニア)文明は,特殊の条件のもとに発展した。それは二つの異なった人種― シュメール人とアッカド人―の遭遇と衝突の結果である。二つの人種は,異なった起源をもつものであって,何ら互いに類縁のない言語を語っていた。(中略)これら二つの人民が出会ったとき,彼らが,共通の政治的,社会的および文化的生活を共に行うようになったとき,解決すべき新たな問題に当面したのであるが,これらの問題に対して,彼らは新しい知的な力を発展させる必要を感じたのである。シュメール人本来の言語は了解されなかった。彼らが書いた文書をアッカド人が解釈するには,大きな困難を伴い,不断の精神的努力を要した。この努力によって初めて,バビロニア人は抽象的シンボリズムの意味と使用を了解するのを学んだのである」17) 
それがバビロニア人のシンボル的代数学の発見にもつながり,古代の科学を代表する天文学の隆盛を生んだ,という。
また,和辻哲郎は『鎖国』の中で,鎖国は日本の停滞を生んだ悲劇とし,ルネッサンスを例に取りながら,イベリア半島でキリスト教文化がイスラム教文化と出会い,すでにバビロニアでユダヤ人によってアラビア語に翻訳されていたギリシャ文化の再発見がなかったら,ヨーロッパはその中世の停滞,呪縛を拭うことができなかったと断言している18)。
逆に,日本文化が異文化との出会いを通して,他文化に生産的な影響を与えた例として,日本が初めて出展した1867年のパリ博覧会とその後の西洋美術界への影響がある。フィンセント・ファン・ゴッホは浮世絵を油絵に写し新しい構図と線,色彩感覚を学ぼうとし,ドイツの「ディ・ブリュッケ」というエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーを中心とした画家グループは広重の絵に多く描かれた橋のドイツ語訳をグループ名とした。また,アール・ヌーボーあるいはユーゲント・シュティールとドイツ語に置き換えた方がいいかもしれないが,それはジャポニズムの流行を受け日本風を装った建築から内装,家具などに至る表現スタイルであったことは周知の事実である。ここでも文化の出会いは,衝突と破壊というよりは融合と創造を生む機会だったといえよう。
本論の方法論の一つである構造主義言語学も,17世紀におけるイギリスのインド支配とその後のサンスクリット研究がなければ,ソシュールも思いつけたかどうか。いずれにしろ,この異文化との出会いとその理解への努力がきっかけであったことを疑う人はいない19)。ソシュールの言語学はしばらく時間を挟んでではあるが,レヴィ・ストロースの構造人類学からミシェル・フーコー,更にはジャック・デリダなどポスト・モダンの思想へと,その後の社会科学分野全域に方法論の改革を強いた画期的なものであったと言われている。まさに古代バビロニアの再現であり,文化の出会いは衝突と破壊を生むこともあるが,その本質は新しい発展のダイナミズムを生む核融合の場である,と言いたい。
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我々が現在,共存か並存かはひとまずおいても,未曾有の多文化社会に生きていることは疑う余地がなかろう。それをハンチントンの言うように危機と見るのか,文化発展のチャンスと見るのか。この10年ほど,ドイツではその答えが見いだせないまま,政治も社会も試行錯誤を繰り返し,そのたびに700万人近い人々が,一喜一憂するという事態が続いてきた。
そんな中で,多文化現象を事実と見なし,社会に積極的に取り込む試みで,顕著な成果を上げているモデルがある。それはスイスのバーゼル市が数年来取り組んでいるプロジェクトで,外国人融和の政策としてはヨーロッパ中から見学に訪れるというほどのものである。
このプロジェクトの本質をなす出発点は,移民は町にとって厄介者ではなく利用価値のあるものであり,彼らの欠点ではなく,その潜在的可能性にこそ注目すべきだという認識にある。それをモットーにバーゼルに来るものにはまず,スイス社会への同化順応を進めるプロジェクトの情報をカラフルな高画質のパンフレットで提供する。その中心には言語,即ちドイツ語の習得とスイス文化の受容があり,様々なコースが設けられているが,その授業料は1999年から年間220万ユーロ(約2億5千万円)を市が負担,更にその倍額を国と寄付で賄っている。現在人口19万人のバーゼル市には外国人が人口のほぼ3分の1の6万人住んでいる。日本では,いわゆる移民を受け入れない国としてのイメージが強いかもしれないが,今ではスイス全体でも全人口の20%近くが外国人である。外国人のスイス社会への融和,順応は安全で安定した市民社会を形成する上でも国全体の内政問題といえよう。スイスでもこれまで外国人排除も含め様々な試行錯誤があったが,グローバリゼーションの波はせき止めようもなく,国もバーゼルの試みを注視,スイス全国に適用していくほかないとの認識を深めているようである20)。
ドイツでも多文化社会を現実のものとして認識し,2005年1月から実施された(ドイツへの)移民法によって,法的に外国人融和の政策が定められた。それによれば,ドイツに住む意図のある外国人は年間500~600時間のドイツ語授業と30時間のドイツ文化・法律,歴史の授業を受けなければならないが,もちろんその費用は国が負担する。しかし,コース終了後のドイツ語能力テストに合格しなければ,滞在許可はもらえない21)。例えば,ハンブルクに住む私の知人の日本人の中国人妻は仕事をせず家庭にとどまるという条件で,1時間1ユーロという象徴的な授業料のみでドイツ語の授業を受けている。ドイツ社会への融和はまず言葉からということだろう。それは将来就職にもつながり,市にとっても生活保護支給の不要,年金や健康保険への加入で少しでも国庫負担を軽減するという効果もある。一番危険なのは,言葉ができず,己のコミュニティーに閉じこもり,そこでドイツ社会への怨恨を募らせ,原理主義の餌食となるということだろう。
先ほど述べたドイツ社会の多文化共存か並存かの論争の中で,特にイスラム教徒の社会を念頭に共存社会は失敗したとのシュミットの主張は何も根拠のない話ではなく,事実ドイツ人社会とは全く交渉のない閉鎖的なトルコ人社会が形成されつつある。これら出稼ぎ労働者はドイツ社会でも最下層を形成し,臭い,汚い,危険の伴う,ドイツ人が嫌う労働には,片言のドイツ語で十分であり,職場で発揮できない権威を家庭に閉じこめた妻や子供たちにぶつけ,家族のドイツ社会への融合を拒むという事実が指摘されている。もっとも,彼らに言わせれば,ドイツ人社会が彼らの存在に関心を持ったことはかつても今もなく,放っておかれた自分たちには,家庭を中心にトルコ人社会を作る以外に道はなかった。そして妻を呼び,家族が加わり 190万人となった今,同化順応などと言われても手遅れで,バスはもう出てしまったと反論するものもいる。事実トルコ人だけでなく,イタリア人,ギリシャ人など730万人に膨れあがった外国人を前に,社会の不安定要因とならず,ドイツ社会に生産的に貢献できる構造を作り出すことは容易なことではない。2004年に成立, 2005年から実施された(ドイツへの)移民法は問題解決への重要な一歩といえるだろう。
現在,日本には110万人近くの外国人が生活している。そのうち,在日韓国人,中国人が60%を占めるが,日本語を生まれながらの,むしろ第一母国語とし,日本文化の中で育った彼らでさえ十分に日本社会への融和に成功しているかは甚だ疑わしい。ましてや,南米,特にブラジルからの労働移民,フィリピンや東南アジアからの経済移民の日本社会への融和など,行政側には考えだに及ばないのではないか。しかし,外国人が730万人に膨れあがったドイツ社会では,過去の政策というより無為無策を反省し,私の知人の中国人妻の例に見られるように,バーゼルの成功を参考にした融和政策が始まっている。
日本では,現在,少子化が進み優秀な若年労働者,技術者,研究者は年々少なくなるばかりだと聞く。そんな中で女性の活用ということがまず考えられるが,しかし,それはまた少子化に拍車をかける危険をも内包している。職場で既婚女性を受け入れる基盤が整備できていない今,女性はキャリアを取れば子供が作れないというジレンマに立たされている。日本経済が現在のレベルで成長するなら,またそうでないときの失業増加や税収減少から国家財政の逼迫などの社会不安を考えるなら,そう望むほかないのだが,優秀な若年労働力の不足はますます深刻の度を増すものと思われる。そんななかで, 80年代に特にアジアから優秀な若い頭脳を受け入れ,訓練教育を施した後,母国に返し日本の影響力を強めるという少々安直な政策として留学生10万人計画というのが打ち上げられたことが思い出される。少子化の進む日本には,ドイツの現状を考えると,10万人などというのは焼け石に水という時代が近い将来必ず訪れるだろう。むしろ優秀な頭脳をどんどん受け入れ,訓練教育を施した後は日本に留まり,経済の担い手になってもらうという選択を迫られているのではないか。多文化社会はそういう意味で日本にとっても避けて通れない死活問題となりつつある。そんなとき,日本語教育は日本文化の受容と理解を深めるという点でも,外国人受け入れの中心に据えられなければならない。バーゼル市や(ドイツへの)移民法を見習えとは日本の現状では言うべくもないが,せめてその問題意識は行政,教育の場でもっていただき,鎖国のトラウマを今度こそ克服し,開かれた日本の整備に着手して欲しいものである。その意味で,日本での日本語教育の一層の充実を願ってやまない。
  1. 回教徒女性が学校や職場で頭をスカーフで覆うことを禁止するか否か,宗教というよりは文化論争がここ数年来続いていたが, 2003年9月23日連邦憲法裁判所は各州が独自に法的判断をするよう判決,2004年3月バーデン=ヴュルテンベルク州が学校などでの禁止処置法案を提出して以降,再度激しい文化論争に発展した。
  2. ちなみに世界有数と言っても過言ではない大阪市立大学学術情報総合センターの検索ではグローバルが660件のヒットを数えたのにたいし,多文化はまだ160件ほどのヒットしかなかった。
  3. Arjun Appadurai: „Disjunkture and Difference in the Global Cultural Economy“, in; Modernity at Language: Cultural Dimensions of Globalization, Univercity of Minesota Press 1996, アルジュン・アパデュライ(門田健一訳)「グローバル文化経済における乖離構造と差異」,『思想』2002年1月号。
  4. Petra Mies: „Man spricht Deutsch – und das schon ziemlich gut“(ペトラ・ミース「ドイツ語ができます,それもかなり上手に」), in www.fr-aktuell.de.
  5. Georg Simmel: „Exkurs über den 
Fremden“, in; Der Raum und räumlichen Ordnungen der Gesellschaft(ゲオルク・ジンメル「異人についての付論」,『空間及び社会の空間的秩序』所収)Berlin 1908. S.509-512. 6.  Der Fischer Weltalmanach 2005 (『フィッシャー世界年鑑 2005年版』), S.132, Frankfurt 
a. M. 2004.
  1. Andrea Klimt: „Transnationale Zugehörigkeit: 
Portugiesen in Hamburg“ (アンドレア・クリムト「トランスナショナルな所属性:ハンブルクのポルトガル人」), in; Angelika Eder 
(Hrsg.), unter Mitarbeit von Krista Vagt,
“Wir sind auch da!” Über das Leben von und mit Migranten in europäischen Großstädten(『“私たちもいますよ! ”,ヨーロッパの大都会における移民の生活及びその共生について』),
Hamburg 2003.
  1. Ferdinand de Saussure: Grundfragen der allgemeinen Sprachwissenschaft (フェルディナンド・ド・ソシュール『 一般言語学講義』), 
Berlin 1967, 参照。
  1. Wilhelm Heitmayer (Hrsg.), Deutsche Zustände, Folge 3 (ヴィルヘルム・ハイトマイヤー:『ドイツの現状』,シリーズ3), 
Frankfurt a. M. 2005.
  1. Carina Wolf, Ulich Wagner, Oliver Christ: „Die Belastungsgrenze ist nicht überschritten, Empirische Ergebnisse gegen die Behauptung 
vom >vollen Boot<“(カリナ・ヴォルフ,ウルリヒ・ヴァーグナー,オリヴァー・クリスト「負担の限界は超えていない,“ボートは一杯” 論に反する調査結果」),in Ddeutsche 
Zustände, S.73-91.
  1. Marita Krauss: „Migration, Assimilierung, Hybridität: Von individuellen Problemlösungsstrategien zu transnationalen Gesellschaftbeziehungen“( マリタ・クラウス「移民,順応,ハブリッド性――個人的問題解決戦略からトランスナショナルな社会関係へ――」), in; Eckart Conze, Ulrich 
Lappenküper, Guido Müller (Hrsg.): 
Geschichte der internationalen Beziehungen(エカート・コンゼ,ウルリヒ・ラッペンキューパー,ギド・ミュラー『国際関係の歴史』), Köln 
2004.
  1. Jean-Paul Sartre: Was ist Literatur (ジャン・ポール・サルトル『 文学とは何か』), 
Hamburg 1950, S.11.
  1. Michael Wendt(ハンブルク市アルトナ地区コミュニケーションセンター “Motte” 所長)とのインタヴュー。
  2. 桂島宣弘「宣長の“外部”―― 一八世紀の自他認識――」,『思想』2001年1月号所収,参照。
  3. 浅見和彦「説話文学に見る日本海――藤原利仁像を追う――」,『国文学 解釈と鑑賞』
2004年11月号所収,65頁。
  1. 宮川康子「“内なる言語”の再生――小林秀雄『本居宣長』をめぐって――」,『思想』
2001年1月号所収,参照。
  1. エルンスト・カッシーラー(宮城音弥訳) 
『人間――シンボルを操るもの』,岩波書店
1997,109-110頁。
  1. 和辻哲郎「鎖国 日本の悲劇」,『和辻哲郎集』,角川書店 1954  所収,参照。
  2. J. カラー(川本茂雄訳)『ソシュール』,岩波書店 1992,参照。
  3. Anna Aussserer: „Richitig kompostieren 
―― für Migranten“( アンナ・アウセラー
「正しく堆肥を作れ――移民のために」), 
Frankfurter Rundschau 紙,2005年1月19 日付け記事。
  1. Zuwanderungsgesetz, verkündet in BGBl I 2004 Nr.41 vom 5.8.2004. (Langtitel: Gesetz zur Steuerung und Begrenzung der Zuwanderung und zur Regelung des Aufenthalts und der Integration von Unionsbürgern und Ausländern) 2004年8 月5日に布告された,(ドイツへの)移民法(正確には,ヨーロッパ共同体市民及び外国人のための滞在及び融和のための取り決めと[ドイツへの]移民の規制と制限に関する法律,
2005年1月より実施)。

 
What Is the Multi-Cultural Society ?: 
A Comparison between German and Japan
Noboru MIYAZAKI
In the time of globalization, no society can be defined as a monoculture. In Germany, people have talked about multiculturalism since the 1980s. According to former Chancellor Helmut Schmidt, an attempt to establish a multi-cultural society in Germany has already failed and Germany has now a parallelsociety. Still many, especially those who are active in the multi-cultural area, believe nothing can fail before it is tried.  In Japan, a multi-cultural society is developing. In addition to traditional immigrants from Korea and China, you meet there people from all corners of the world.
For Japan this does not mean just an old challenge but also an opportunity to develop further culturally. Watsuji Tetsuro said the Renaissance was born as the Italians discovered the Greek civilisation through the translation in to Arabic in ancient Babylon. Japanese culture has always been influenced by the Chinese and especially through translating Chinese documents. 
But a culture has never been translated one to one. The attempt in the late 19th century to introduce Japanese culture into Europe bore fruit in the form of impressionism and art-nouveau. You can see in them how Japanese things were changed and distorted as Europeans accepted them. There are elements in such discrepancies that can lead to complete misunderstanding. But they are also a source that can bring a new culture, as was the case in the Renaissance.
What are the elements that make a crash of civilisation productive? How can you turn an encounter of two cultures into enrichment? In view of the fact that there are more and more encounters of different cultures in our society, it is necessary to reveal these relationships more clearly than ever before. From the viewpoint of German experience in 1980s and 90s, one thing is obviously essential for immigrants that mastering the language and accepting the culture of their new society mean the first step for their integration. 
Keywords: globalization, multi-cultural society, encounter of cultures, distortion of translation, mastery of language