雷こわい。
散歩の準備してたのに、いけないじゃないか。
tenki.jpのうそつき。
一時間半あとに散歩した。
自分のいのちが、「具体的他者」の「犠牲」によって成立している事を今日改めて数字で確認してしまった。
換言すれば、その犠牲がなければ、自分はこの世に「確実」に「存在」しなかったのだ。
村上春樹の「海辺のカフカ」は15才の少年が父親からかけられた「呪い」を発端にして物語が始まる。
別にそうしたことを否定している訳でも、引き受けないつもりもないが、もし言葉で表すなら上述のことはボクの事実としての「呪い」だ。
大江健三郎は「人生の親戚」という小説を書いた。スペインだったかどこかの国で「人生の親戚」とは「苦難」を意味するそうだ。もともと「苦難」や「呪い」を担うのは人間のひとつのあるべき姿なのかもしれない。
冷酷で大切なことは、「苦難」や「呪い」を人間は引き受ける自由はあっても、その運命事態を選択する自由は全くないということだ。 まるで「自由意志説」と「奴隷意志説」のような話だが。
以前、仕事やプライベートでも親しくしていた人が亡くなったというメールがきた。
けっこう遠い場所でもあるし、病気の状態もよくなっていないので、とても葬儀にいけない。行ったらいろんな人に会って現状報告をすることになり、それでまたストレスを大きくしてしまうだろう。
東京に戻ってきてから調子を大きく崩し(自殺未遂などもして)、入院・病状などのため引っ越す前の地域で親しかった人の何人かの葬儀にやはり列席できなかった。
今回亡くなった方もそうだが、みんなボクの病気(当時はうつ病診断)を心配してくれていた。
亡くなったIさんもそうだが「bowbowさんどう?元気?」「あんまり無理しないでね」とよく言われた。だから今回もやはり無理をするのはやめようと思う。病状からしても無理なのだし。
若い頃、長い入院生活で苦労したIさんだから、たぶん葬儀に行ったら「無理しないでって言ったじゃない!」と上の方から怒られそうな気もする。
内閣不信任案が否決された。
民主でも自民でもいいから、ちゃんとやってくれ。社民・共産は欠席かよ。
ドラッカーでも(もう死んじゃってるか)、サンデルでも(生きてる)、ニーバー(とっくに死んでる)でもいいから、だれか連れてきて欲しくなってしまう(スーパーマン・シンドローム?スーパーバイザー・シンドローム?)。
でも結局は自分たちで背負ってくしかないんだよなぁ~。
政府、政治家、官僚、被災した人たち、サラリーマン、商店主、主婦、定年の人、こども、障がい者、結局それぞれがそれぞれのやるべきことをやるしかないのも、みんなたぶんよくわかっている。
でもちょっと愚痴りたくなる。