bowbowのゆううつ~Returns

双極性障害Ⅱ型(躁うつ病)サバイバー&共生模索中のbowbowの日常。

俳優・山本太郎さんのドラマ降板で思うこと。

2011-05-30 11:43:52 | 日記

昨夜は台風(温帯低気圧)通過のせいか、9時すぎにサイレース・ヒルナミン等を飲んだのにもかかわらず、11時を過ぎても目がさえて眠れなかった。結局とんぷくの眠剤をのみ、寝坊をしたうえ眠剤がいまだ残っている。

まあ、それを覚悟してとんぷくを飲んだのだから仕方ない。

午後近くになって、Ubuntu(Linux)を立ち上げてネットニュースを観ていると、肉体派俳優・山本太郎さんが反原発(特に子供への放射能基準)デモ等に参加したことが元になって「決まっていたドラマが降板になった」とTwitterでつぶやいていたことが報道されていた(その後、引き留められつつも所属事務所を辞めた)

音楽の世界では4月初めにミュージシャン斎藤和義氏が自分のヒット曲をあえてネット配信で替え歌にして原子力政策を批難した。Youtubeで観ることができる。

原発事故前には「でん子ちゃん」のCMはいろんな番組CMで出ていたわけで、大口CMオーナーである東京電力にテレビ局上層部がたぶん反応したのだろう。

たしか戦後50年の頃に、朝日新聞記者が「戦前の新聞は軍部に強制されたというより、結果的に自ら進んで事実を伝えず、記事を歪曲して戦争に迎合していった」との趣旨の記事を書いていた。

日本人はよくいえば「相手の立場を慮(おもんぱか)る」し、わるくいえば「相手を慮って、結果的に適切な"決断や行動"」ができない。第二次世界大戦でも、早めの敗戦決定ができなかった。日本経済史でいえばすでに開戦から数年、東南アジアからの補給路を断たれた時点で勝敗は決していた。

山本太郎さんの降板でも思うのだが、たぶん東電からの「圧力」というよりそうしたテレビ局側の「配慮」によって彼はつぶやくことになったのではないかと想像する。

ボクは原発維持論者ではない。半減期を考えても放射能は人間の手に負えない存在だと思う。けれどかといって、都会人の自分にも原発恩恵の責任はあると思う。また原子力保安院・研究者・政府・東電が対応に一生懸命になっていないなどと露も思わない。特に現場の東電職員・関連会社の人たち、自衛隊・消防署職員は命をかけて働いていると信じている。

東電や原子力保安院や政府の、二転・三転する発表、外からは「隠蔽」に見えるような体質も、結局はそうした相互依存的な「配慮」と「組織維持」によって行われ、結果的に決断が遅れたり、意思疎通がこんがらがったりしているのではないか?

故・河合隼雄先生の「中空構造日本の深層(中公文庫)」で触れられているように、よくも悪くも日本人は「間」によって組織を作り「空気」を読む(女子高生でさえ「空気を読め」という)。「責任」を「空」において「あいまい」にする構造がある。よくいえば「空」は「緩衝材」であるし、わるくいえば「責任所在の不明」になる。

こうした日本人の特性がまったくなくなってしまった方が、たとえばアメリカのような「善・悪」「勝・負」のみの世界、「自己責任」のみの世界になればいいとはボクは思わない。

ただこうした緊急時には「間」的な組織優先ではなく、何よりも被災者・子供たちを第一優先するような変化が必要とされているのではないかと思う(ちょっとバーナードやドラッカーを彷彿とする)


野村総一郎監修「双極性障害(躁うつ病)のことがよくわかる本」(講談社)。

2011-05-27 19:02:22 | 双極性障害・躁うつ病

 

「双極性障害(躁うつ病)のことがよくわかる本」画像

このあいだ、久しぶりに本屋へ行った。

このブログを見ている人たちもそうだと思うが、ネット通販に慣れてしまうと現実の本屋へいく機会が減ってしまう。本は仕事上でも趣味でもかなり読む。若いときに最初にアルバイトしたのは本屋だったが、検索の便利さやあと捜している本が専門書等のレアものだったりすると、結局いまどきはアマゾンとか楽天ブックスとかになってしまう。

だいたい本屋に行くと、心理と哲学と宗教の専門書棚のところと(今回は絵本も)、PC雑誌と文芸と文庫・新書を眺めて帰るというのがボクのパターンである。

帰りにふと生活・健康の雑誌系の書棚を見ると、「双極性障害(躁うつ病)のことがよくわかる本」(講談社)があった。

うつ病学会大物研究者、野村総一郎氏監修のこの長いタイトル「双極性障害(躁うつ病)のことがよくわかる本」がなかなか良くできている本だと思い買って帰った。

イラストをふんだんに使い、項目も多すぎることもなく少なすぎることもなく、非常に初心者にわかりやすい内容にまとめられている。たぶん野村氏のお弟子さんや講談社編集者も協力して、こうしたわかりやすい本が制作されたのだろう。

双極性障害(Ⅰ型・Ⅱ型)の症状、スペクトラム(グラデーション)理論の説明、本人・家族・職場関係者への助言や対応も十分に書かれている。病人当事者がいうのもなんであるが家族や周囲に「自分の説明書」として使えるのではないかと思う。

また抗うつ剤での躁転の可能性、遺伝・ストレスなど病因仮説も正直にまた判らないことは「判らない」と書かれていることにも好印象を持つ。

ちょっと個人的なことでいえば「躁にも鬱にもその背後に”依存心”が隠されている」と書かれていた。それが間違いとは思わないのだが、自分自身の感覚でいうと「自分にOKをだせない(周囲も不十分と思っているのでは?)」という方がぴったりくる(それに病的かはともかく人間自体「相互依存的」だと思う)。これは臨床心理でよく取り上げられる「自尊感情」あるいは幼年期に根拠なく家族等に肯定・愛されることで発達する「根拠なき自信」の問題に近いと思っている。妻に対しては兎も角、ボクの場合は周囲に助けを求めることをせず、自分自身ですべて引き受けて病気を悪くしていった印象がある。認知療法でいう「100%」を求める生き方だ(その意味では内海健氏の「うつ病新時代」の中の患者感情分析の方がぴったりくる)

ボクの場合にはトラウマ、特にそれは幼いボクをいちばん間近で可愛がってくれていた人が自殺するという経験がある。通夜に幼いボクは大人に「なんで死んじゃったの?」と来る人構わず訊ねるが誰一人として説明してくれなかった。川に身を投げたので、たぶんすでに荼毘に附されていて身体的お別れもなかった。二十歳近くになってからこの記憶を思い出すのだが、いまでもその風景を思い出すと何とも表現できない存在の不安感に駆られる(専門用語で「対象喪失」とか呼ぶ)。

にしても、この「双極性障害(躁うつ病)のことがよくわかる本」はタイトルの通り、現時点で判っていることを「わかりやすく」書かれている本だと思う。


精神科医と臨床心理士(カウンセラー)の微妙な関係。

2011-05-24 11:57:55 | 双極性障害・躁うつ病

カウンセリングが一般に受け入れられるようになったのは、不登校等で各学校にカウンセラーが配置されるようになってからだと思う。

以前の記事で特殊法人資格で準国家資格といっていいと思う臨床心理士(≒カウンセラー)によるカウンセリングや認知行動療法には健保適応がなされないことを書いた。

本来ならば双極性障害等の精神障害に対して医者と臨床心理士が協働して、医者が診断と投薬をし、認知行動療法や心理的葛藤への対処のためのカウンセリングを臨床心理士が行うというのが理想である。

けれど精神科専門の大型病院でさえ、臨床心理士は心理テスト等しか関わらないケースが多い。

入院時の認知療法的なことにしても本来は大学院卒有資格者である臨床心理士が受け持つべきところを、福祉学科や専門学校卒の作業療法士や精神保健福祉士、あるいは看護師が受け持つケースがある(きっちりと臨床心理士がカウンセリングや認知行動療法をしている場合、クライアント合意の上での健保適応外の自由診療である)。

早い話、保健点数が臨床心理士の場合、現段階では心理テスト位しかつかず、精神科大病院でも心理療法的カウンセリングは健保適応外になる。それで入院時でも点数の付く作業療法や集団療法、精神科ソーシャルワーカー(精神保健福祉士)に臨床心理士的な領域の仕事も任せることになる。コストの問題でもある。

また臨床心理士はクライアントの心理的側面からアプローチするので、しばしば理系の科学的薬物的方向から特に近年アプローチする医者と立場がぶつかることがある。医者の立場からするとカウンセリングは何か「あいまい」な感じがするのだろう。だから臨床心理の領域でも「実験心理学」や「行動科学」を基にした「認知行動療法」は医者からすると受け入れやすい(例えば精神科医で認知療法大家・大野裕氏の存在など)。けれど健保点数は付きにくい。

「甘えの構造」で有名な精神科医・土居健郎先生はかつて精神科医・臨床心理士の垣根なしに研究会を行っていた。その中で薫陶を受けたのが精神科医の中井久夫先生であり、臨床心理士会の村瀬嘉代子先生だった。

河合隼雄先生がもう少し元気で生きておられれば、臨床心理士の仕事領域や医師との協働する現場ももしかしたら広がっていたのかもしれない。

イギリスやその他の国のように、心の病の初期の段階から臨床心理士が医者と協働してクライアントに関わることができたならば、たとえば双極性Ⅱ型障害の発見ももうちょっと早くなるのではないかとも思う。


加藤忠史「双極性障害双極性障害―躁うつ病への対処と治療」 (ちくま新書) 。

2011-05-22 17:44:43 | 双極性障害・躁うつ病

「双極性障害双極性障害―躁うつ病への対処と治療」画像

前回の診察日にあまりにも待ち時間があった。それで持っていた双極性障害研究者・加藤忠史氏の「双極性障害―躁うつ病への対処と治療」(ちくま新書)を読み直した。

この本は新書であるから基本的に一般向け(患者・患者家族・職場関係)に書かれてはいる。けれど、もともと理系である精神科医であり現在は理化学研究所の脳科学研究の加藤氏文章は、前半は兎も角、一番最後の方の双極性障害の脳科学や原因仮説の説明については理系のセンスのない人にはたぶん全くといっていいほど理解不能だろう。

だからといってこの著作を否定している訳ではない。

精神医学や臨床心理の世界ではすでによく知られている脳内物質系の抗うつ剤(SSRI等)の臨床データが製薬会社による都合のいいデータが使われていたこと、アメリカで推進研究者に多額のお金が渡っていたこと等、正直に記されていることは誠実さを感じる。

大まかには、「双極性障害(躁うつ病)とは何か」 「気分障害内にうつ病・双極性障害に分類される」 「うつ病と双極性障害はまったく異なった病であり治療方針も薬も異なる」 「しかし一見して双極性障害は”うつ症状”時に精神科にかかるため、時間をかけた観察を行わないと双極性障害とは診断されない」 「繰り返しうつ病を再発している人の中に、双極性障害の人が何割か含まれている」 「第一世代、第二世代の抗うつ剤をこうした発覚していない双極性障害の人に投与すると躁転する」 「躁状態の時に人間関係を壊しやすいので、双極性障害は薬でコントロールできる病であるにも関わらず、放置すればその患者の社会生活を破綻させる恐ろしい病である」 「双極性障害は脳科学から観れば脳の機能的病であり糖尿病や高血圧に例えられる」「症例」等々(テキトー大雑把ですみません)。

文章や話をする商売をしていた人間から言うと、書かれていることは至極まっとうで判るのではあるが、それじゃあそれで「双極性障害が診断できるのは受診からアメリカで平均8.3年。日本では10年前後はざら」と言われて患者側から「それじゃあ、うつ病として10年治療されても仕方ないですね(^o^)」なんて感じられるかといえばまったくそうではない。

癌患者に「あなたの余命はあと△ヶ月。生存率??%」と医学的統計学的情報をそのまま何の配慮もなく伝える医者がいる。なんかそれと似ている。

気分障害である双極性障害は「気分・気持ち」に変調をきたす病だ。客観的データの必要性は判るのだが、もう少し表現の仕方や伝え方を工夫できないのだろうか?

もちろん、以上はこの加藤氏の新書が無益だとか間違っているとか言っているのではない。冷静に引き受けられる状況の患者や家族には十分有益だと思う。

確かに彼自身が葛藤しているように、例えば血液検査をすれば「あなたは双極性障害」と診断がつき、初期から適切な治療薬、またその治療薬が物理的脳モニタ等できちんと効いているか確認できれば一番いいのだ。

なにより現段階での双極性障害、とくに軽躁である双極性2型障害の場合、いまの診断技術だと「うつ病」という誤診が10年近く続く可能性がある。

その意味では加藤氏の様な基礎研究がきちんと進むこと、一方で現場の精神科医、心療内科医の双極性障害への診断技術向上が望まれる。

やっぱり「診断に10年かかる」はいくらなんでも長いと思う。


柳美里さんの番組で思ったこと。

2011-05-18 17:23:57 | 双極性障害・躁うつ病

15日の日曜日にNHKで柳美里さんの児童虐待のドキュメンタリーが放送されていた。

彼女はボクとほぼ同世代であり、彼女の通っていた女子校に友人もいたから、以前からなんとなく注目していた。随分前のNews23のスペシャル番組である高校生が「どうして人を殺してはいけないのか」との問いに筑紫哲也氏と共に同席していたのが柳美里さんだった。たしかその問いに呼応する形で書かれたのが小説「ゴールドラッシュ」だったと思う。

彼女は在日朝鮮韓国人の家庭に生まれた。ボクの住んでいた地域にもそうした家庭が沢山あったし、高校に進学してからもやはり在日の朝鮮人の友人や華僑の友人が沢山いた。感性的には全くの日本文化の中で、しかし一方で日本人ではないという事柄は現実にも心の深層でも多くの重荷があることをそうした友人を傍らで見ていても感じた。

例えば作曲家マーラーの育ったユダヤ人家庭が非常に歪んだ部分があったのと同じように、柳美里さんの育った家庭にも歪みが顕われたのだろう。

そして柳美里さん自身の人生も非常に起伏に富んだジェットコースターの様な軌跡を描いている(ちょっと双極性障害に似ている)。

NHKスペシャル「虐待カウンセリング~作家 柳美里・500日の記録~」は見始めてしばらくしたら家族にチャンネルを回されてしまった。自分自身、双極性障害が酷いときには非常に感情的になるし、暴力も振るったことがある。家族としては当然の反応だろう。

ただ柳美里さんが番組の最初に表現していた感情の留めることのできない爆発は、非常に自分と似ていると思った。

柳美里さんの場合には子供への暴力が、自分の幼い頃受けていた暴力、忘れていた(解離した)記憶を再起させていく過程を番組では描いているようである。あたかもトラウマの教科書「心的外傷からの回復」のようだ。

自分にも明らかにトラウマと思われる出来事がある。

最近の脳研究では脳発達で重要な時期、3才位までにトラウマ的事象がある子供の脳幹は発達に変化を起こすことが知られてきている。残念なことにこの研究が明らかになってきたのは虐待児研究による。

虐待にしろ精神障害にしろ、トラウマや遺伝的特質その他によるもので、その条件のひとつがあるからといって誰しも必ず発現するわけではない。

ただいくつかの要因(家族・社会・ストレス・遺伝)が重なっていくと、ボクや柳美里さんの様にそれを心の病として成熟させてしまうのだろう。

彼女を見ていてもそう思うが、もっと幸せな生き方はいくらでもあり、しかも彼女自身それを十分に得ることのできる能力があるにも関わらず、結果的に自分にとって安寧ではない道を選んでしまう。

また大抵はもともと育った家庭が歪んでいるのだから、どうしても歪んだ方向を選びがちである。だってそれが自分が知っている「家族」なのだから。

ある種自分の中に爆発物を持っているのと同じ状況で、もちろん柳美里さんのようにカウンセリングで、それこそ「心的外傷からの回復」の様にそれと対面して昇華するという方法も一つであると思う。

ただ爆発物が自分の中からなくなるわけではない。それが検査で判定できるかは兎も角、脳科学的にいえば脳幹自体が歪んでいるのかもしれないし、脳機能的に感情抑制が効かなくなっている可能性もある。ある意味で幼児期のトラウマとは、あるいは脳から観た双極性障害とは身体的障害でもあるのだ。

他の双極性障害の人が同じであるかは判らないが、そうした「爆発物」を自分の中に捨てがたく持ちつつ、それを如何にコントロールするかがたぶん勝負なのだろう。またそれが暴走したときに如何にして最小限に制御できるかということを考えておくことも大事だろう。