昨夜は台風(温帯低気圧)通過のせいか、9時すぎにサイレース・ヒルナミン等を飲んだのにもかかわらず、11時を過ぎても目がさえて眠れなかった。結局とんぷくの眠剤をのみ、寝坊をしたうえ眠剤がいまだ残っている。
まあ、それを覚悟してとんぷくを飲んだのだから仕方ない。
午後近くになって、Ubuntu(Linux)を立ち上げてネットニュースを観ていると、肉体派俳優・山本太郎さんが反原発(特に子供への放射能基準)デモ等に参加したことが元になって「決まっていたドラマが降板になった」とTwitterでつぶやいていたことが報道されていた(その後、引き留められつつも所属事務所を辞めた)。
音楽の世界では4月初めにミュージシャン斎藤和義氏が自分のヒット曲をあえてネット配信で替え歌にして原子力政策を批難した。Youtubeで観ることができる。
原発事故前には「でん子ちゃん」のCMはいろんな番組CMで出ていたわけで、大口CMオーナーである東京電力にテレビ局上層部がたぶん反応したのだろう。
たしか戦後50年の頃に、朝日新聞記者が「戦前の新聞は軍部に強制されたというより、結果的に自ら進んで事実を伝えず、記事を歪曲して戦争に迎合していった」との趣旨の記事を書いていた。
日本人はよくいえば「相手の立場を慮(おもんぱか)る」し、わるくいえば「相手を慮って、結果的に適切な"決断や行動"」ができない。第二次世界大戦でも、早めの敗戦決定ができなかった。日本経済史でいえばすでに開戦から数年、東南アジアからの補給路を断たれた時点で勝敗は決していた。
山本太郎さんの降板でも思うのだが、たぶん東電からの「圧力」というよりそうしたテレビ局側の「配慮」によって彼はつぶやくことになったのではないかと想像する。
ボクは原発維持論者ではない。半減期を考えても放射能は人間の手に負えない存在だと思う。けれどかといって、都会人の自分にも原発恩恵の責任はあると思う。また原子力保安院・研究者・政府・東電が対応に一生懸命になっていないなどと露も思わない。特に現場の東電職員・関連会社の人たち、自衛隊・消防署職員は命をかけて働いていると信じている。
東電や原子力保安院や政府の、二転・三転する発表、外からは「隠蔽」に見えるような体質も、結局はそうした相互依存的な「配慮」と「組織維持」によって行われ、結果的に決断が遅れたり、意思疎通がこんがらがったりしているのではないか?
故・河合隼雄先生の「中空構造日本の深層(中公文庫)」で触れられているように、よくも悪くも日本人は「間」によって組織を作り「空気」を読む(女子高生でさえ「空気を読め」という)。「責任」を「空」において「あいまい」にする構造がある。よくいえば「空」は「緩衝材」であるし、わるくいえば「責任所在の不明」になる。
こうした日本人の特性がまったくなくなってしまった方が、たとえばアメリカのような「善・悪」「勝・負」のみの世界、「自己責任」のみの世界になればいいとはボクは思わない。
ただこうした緊急時には「間」的な組織優先ではなく、何よりも被災者・子供たちを第一優先するような変化が必要とされているのではないかと思う(ちょっとバーナードやドラッカーを彷彿とする)。