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日々触れる情報から様々なことを考え、その共有・一般化を図る

【エッセイ第3回】 日光東照宮的発想

2005-04-30 21:28:01 | エッセイ
(タイトルについて(*注1))

4/26のブログの最後に、【書き終えた今思いついたテーマがあるが、それはエッセイとして別項で。】と書いたが、その「思いついたテーマ」について。

4/26のブログでは、「甚だアヤしい薬に飛びついてしまった人達の問題」を述べた。江戸時代ならいざ知らず、何故科学の発達した今、傍から見てあれ程信用の置きづらい薬・健康食品が売買されたのか。買う側の常識レベルの問題があるだろうと4/26のブログではまとめたが、更にその背景を考えると、「科学のオカルト化」(*注2)という問題が浮上してくるし、それをもっと敷衍して考えると、メディア・教育の問題、情報や知のあり方の問題にまで話は広がる。

要するに、「何を信じ何を知れば・知っていればいいのか」の基準(一般常識だとか社会通念だとか世論だとかコンセンサスだとかパラダイムだとかで表現されるもの全て含む)が個の中で揺らいでいる、って話で、「その原因は?」でなく、その現象に対して個がどう対処すればいいかってことをここでは考えようと思う。

結論から言えば、「常に自分の世界観や価値観など、又それらの基になる知識や認識や経験が覆されるかもしれない"構え"(心理学で言う「構え」とはちょっと意味合いが異なるだろうが)を持っておくこと」という悲観的なものになってしまうのだが、基本的にはそれが最も有効な手立てである。覆されるのがイヤなら、完全に開き直るか、或いはカルト宗教のような閉じたコミュニティに入って出ないか、しかない。

仏教用語である「無常」やヘラクレイトスの「万物流転」、或いは養老孟司氏の言う「バカの壁」にも通ずることだが、変わらないもの、絶対的な真理などは「人為的に決められた、ごく限られた領域」以外では存在しないのである。
科学もそうした誤解を受け易いのだが、科学が揺ぎ無い客観的事実であり得るのは、「繰り返し起こる、同一と見なされる現象において」でしかない。その同一性にしたって、100%にはそう簡単にならない。人間の脳がそもそも「微小な差異を無視して"大体同じ"で一括りにしてしまう癖」を持っているからだ。(だから科学そのものや「科学的思考」も無意味だということにはならないけれども)

つまり、その意味において、「完全に開き直る」は、「ガンコ親父のように自分の頭の中を硬直化させて、変化や差異を全くシカトして生きる」であり、「閉じたコミュニティに入って出ない」は、「変化や差異が少ない社会の中で受ける刺激も少なくすれば、同一性や絶対性を信じ込んでいられる」だ。自分の内面からか、外の環境からかの違いであるが、まぁそうしてしまえば楽であるには違いない。天災が降りかからなければ、の話ではあるが。

ただ、100%確定的なことはまずないと認識を新たにしても、それだけでは「構え」はまだ不十分だろう。「言葉」の本質に関わる問題がある。

動物も幾つかの種が、その種固有の言語を持っているであろうことは最近の研究では一般的になっていると思うが、新しい言葉を次々に生み出し、それを文字として記して蓄積できるのはとりあえず地球上では人間だけである。
それによって人類は地球上の覇者として60億もの同胞を存在させている訳で、いくら実際の人同士のコミュニケーションでは非言語によるものの影響の方が格段に大きいとか文字を持たない言語もまだ数多く存在するとは言っても、ペンは剣よりも強しと言うように言葉・文字は人にとって最強の道具、ではある。

言葉・文字は脳に呪をかける最強の道具であるがゆえに、身近ではあっても扱いがデリケートなものでも同時にある。映像や映像による視覚的効果は、確かに脳に対する影響力では大きいものかもしれないが、その影響力は言葉によって左右され得るものでもある。言葉は「意味」を支配しているからだ。
例えば、公園にダンボールが置いてあって、そのダンボールの中に犬が一匹いて無邪気に飛び跳ねている映像があるとしよう。「最近増えている無責任な飼い主が捨てた犬の映像です」と言えば、その映像は社会問題を提起するドキュメンタリーになろう。しかし、「なかなか飼い主の言うことをきかない犬の訓練をしています(ダンボールに入れるのが訓練になるかどうかは別にして)」とか「このワンちゃんは不思議なことにダンボールの中が大好きなんです」と言えば、ほのぼのとしたバラエティ番組の映像になってしまう。何も言われなければ映像の情報をどう処理するかは個人の恣意的な判断になるが、ちょっと言葉を外から付け加えるだけで、情報の意味合いが180度変わってしまうことだってあるのだ。

そして、情報化社会たる現在は、「自分で体感・経験でき語られる言葉の裏付けができる範囲」を遥かに超えて言葉・文字の情報が飛び交っている時代である。だからこそ均等な基礎教育はしっかりなされなければならないし、「マス」なメディアも避けられない偏りを分かった上で悪意のない情報を提供しなければならないのだが、「国家や大企業などの巨大なシステムが個人を教化することで社会の安定を図る」になると話が又ややこしくなるので、情報の送り手の問題は置いといて。

受け手が言葉の洪水にどう対応したら良いか、それは頭の中に入ってくる情報を整理整頓する・し続けるしか方法はないかもしれない。分類のしかたは、例えば「客観的事実に類するもの」「そう決められて・定められているもの」「理論であるもの」など情報の性質によって分類したり、送り手(発信者)の質によって(今は単純にステータスだけで量るのは危険もあるが)分類したり、後は、同じテーマについての理論・見解であれば、質の良さそうなものを大量に集めて、その中の共通部分の多寡から「共有されているものなのか単に一個人のものなのか」を量り分類する方法もある。

しかし、分類してそれで終わり、ではなく、分類した後は必ず「だから自分はこう考えよう・こうしよう」という意味付けの処理は必ずあるから、そこで『100%確定的なことはまずない』という認識、容易に「信じてしまおう」にならない心が必要になってくる。処理の最後でそのフィルターをかけることで、「こう考えておけば・こうしておけばいい(正しい)」という断定形にならずに、「こう考えておけば・こうしておけば、"大体"・"とりあえず"大丈夫だろう」という推量形に収めることができる。

断定形で終わればそれはもう動きようのないことになってしまうが、推量形に留めておけば、推量の精度を上げたいという気持ちにもなるから、視野もその分広がることにもなる。「先ず疑ってみる」は学問の基本ではあるが、疑い出すとキリがなくなるってこともあるので、最後の段階で「大体・とりあえず」と結論を固めないやり方を中心に据える方が余計なストレスはかかりにくいだろう。

人間関係においても、というより言葉は人間が生み出すものであり人間が世界を切り取った断片なのだから、自分が関わる相手自体に対して「疑う・結論を固めない」も当然必要なことである。それは、自分に対する意図や気持ちを疑うってことではなく(疑った方がいいケースもあるが)、「あいつは彼はこういう人だ」というイメージを固めないってことだ。あいつが彼が信用に足る人物だとしても、そのあいつや彼の発する言葉が全て自分にとって齟齬のないものである保証などどこにもない。あいつや彼は、あいつなりの彼なりの考え方や世界観や価値観があるんだから。

まぁ、疑うにせよ結論を保留するにせよ、どっちも面倒で大変なことには違いない。それを訓練しておけば、自分の選択に後悔することは少なくなるし、理不尽に逆ギレしなければいけないことも少なくなる。面倒だ~!ってそれを放棄すれば、ラクではあっても予想もつかない災いが自分の身に降りかかるかもしれない。ただ、信じきれているものがあれば、それでも幸せなのかもしれない。どっちを選択するかは自分次第だ。
私はイヤだけど、もしかしたら、4/26のニュースで「よく分からん薬(健康食品)を病気を治すために摂り続けて逆に悪化して亡くなられた方」も、本当に「この薬はいいものだけど私の病状には対抗しきれなかった(或いは他に原因があった)」と今際の時まで思われていた可能性は否定はし得ない。

どうも当たり前のことをわざわざ遠回りして難しく考えた感はあるが、私の考えること・考えて表現したエッセイは「大体」こういうものである。


*注:
(1)
「日光東照宮的」とはどういうことかと言うと、日光東照宮には、陽明門を始めとして幾つか模様(グリ紋)の向きが他のものと逆になっている柱がある。これは、向きを逆にして「完成させない」ことにより「完成してないんだから崩壊もしない」ことを念じている呪術と言われている。
このエッセイの文脈上、頭の中で「結論を固めない(完成させない)」ことを主旨にしているので、なぞらえた訳である。

(2)
「科学のオカルト化」は、正確に言えば「科学の"再"オカルト化」である。非常に大まかに説明すると、「科学」は元々は錬金術であり、ごく一部の人間にしか理解・継承され得なかった「オカルト=隠された」だった。時代が下り、ヨーロッパでは封建的な身分制が崩れ学問が大衆化し始め、産業革命によって技術に公共性が求められるようになり、オカルトだった科学は、「再現可能で客観的な」理論を提示し新技術を生み出すことで宗教にとって代わった。
ところが、現在に至り、科学はどんどん高度になり、科学の進歩が逆に新技術(道具)に負うようになり(3年前ノーベル物理学賞を受賞した小柴氏の『スーパーカミオカンデ』という巨大な装置の映像をTVで見たことがあれば例として分かり易いだろうか)、科学に対する幻想も薄れるようになって、再び科学が「一部の専門家にしか分からないオカルト」になるつつある、ということである。