猫面冠者Ⅱ

主に東洋大学を中心に野球・駅伝などの記録・歴史・エピソードなどなど…。

続・一部最下位&二部優勝回数:“入替戦回避記録”=東洋大野球部の歴史ー資料編(23)

2009-03-07 11:00:00 | インポート
神宮球場が人工芝に変わった昭和57年春のリーグ戦開幕前に、朝日新聞には“神宮に球春の訪れ”と題して六大学と東都の特集記事が掲載されている。この企画は昭和62年まで続いていたが、残念ながらそれ以降は無くなってしまった。
内容は両リーグ各六校の主要メンバーと主将の抱負・新入部員と両リーグの話題だが、一回目の昭和57年の東都に関する話題は下記の通り。
入れ替え戦にピリピリ まずは最下位脱出争い
東都の監督に、今シーズンの目標を聞くと、「まず入れ替え戦を避けるために、最下位脱出の条件である勝ち点2が欲しい。優勝をねらうのは、その安全保障を得てからだ」との答えが返ってくる。
東都の監督が、苦渋に満ちた表情で口にする「入れ替え戦」は東京六大学にはない、東都のシステムだ。昭和14年から始まり、現在は一‐四部のリーグ戦終了ごとに、上位リーグの最下位と下位リーグの優勝校が下克上にも似た戦いをしている。
大相撲では、番付一枚下がったら虫けら同然、と身分の違いの厳しさを表すことばがあるが、東都も一部と二部では置かれた環境にかなりの差がある。二部校は人工芝の神宮が使えず、各校持ち回りか、せいぜい神宮第二球場。緑が映える“じゅうたん”上でプレーするのとは大違いだ。「かっこ悪い」と現代っ子にソッポを向かれ、入学、入部希望にも影響してくる。
今季十シーズンぶりに一部復帰の日大・石井監督は「これまでは、系列校の有望選手が他大へかなり行ったが、今年は違ってきている。やはり一部にいなければダメですよ」と実感をこめて語る。
こんな状況だから、各校の監督は、入れ替え戦に神経過敏。しかも、東都は五十年代に入ってから、現在の一部六校に二部の国士舘大、青学大を加えた八校の実力が伯仲して、東洋大を除く七校すべてが入れ替え戦を経験している。この東洋大・佐藤監督も「そろそろ、うちの番かと心配です」。
五十三年に、入れ替え戦を体験した駒大・太田監督は「あの試合の怖さと苦しい心理状態は口では言い表せない」と、もうこりごりの様子。逆に復帰したチームの経験は大きい。昨秋の入れ替え戦で日大は国士大を一回戦0-6からひっくり返し、二回戦は延長十二回の末、1-0で下した。劇的な決定に石井監督は「生涯の喜びだ」と語った。
今季も激しい順位争いとなりそうなだけに、シーズン後半には安全圏の勝ち点「2」をめぐって、“最下位脱出争い”が展開されそうだ。(『朝日新聞』昭和57年4月3日付朝刊)

この記事にあるように東洋大は昭和五十年代は入替戦を経験しなかった唯一のチームだったのである。

筆者が調べてみた“連続入れ替え戦回避”の主な記録は以下のとおりである。(昭和25年秋以降、平成21年春まで)

S53秋~H9秋 駒沢大 47
S47春~S63春 東洋大 33
S54春~H6春 亜細亜大 31
S25秋~S39秋 日本大 29
S36秋~S50春 中央大 28
S32春~S45春 駒沢大 27
S39秋~S51春 亜細亜大 24
S25秋~S36春 専修大 22
H10秋~(継続中) 青学大 21
S45秋~S53春 駒沢大 14
S46春~S52秋 駒沢大 14


昭和40年代の展望記事を見ると、「優勝は○○を中心とした上位三校に限られよう」とか「××と△△は上位校との実力には開きがある」と云ったような表現が目につく。“戦国東都”と云う言い方が定着するのは昭和50年代からのようだ。(今では「六校すべてに優勝のチャンスがある」と書いておけばまず間違いないのだから、記者さん達は楽をしているのではなかろうか)

今年の“戦国東都”開幕まであと一か月。五連覇を目指すのはもちろんだが、先ずは“勝ち点2”をゲットして欲しいものである。
但し、東洋大が最下位になった昭和44年秋のリーグ戦は、四位:亜細亜大・6勝7敗1分、五位:中央大・5勝6敗、六位:東洋大・4勝7敗で勝ち点は三校ともに2。“勝ち点2”ですら必ずしも“安全保障”とはならないのである・・・・。
(下が詰まれば必然的に上も詰まる!。この時の上位三校の成績は優勝:日本大・8勝5敗、二位:駒沢大・7勝5敗、三位:芝工大・6勝6敗で勝ち点は三校とも3である。)


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明日(3月4日)の東京は雪ですが・・・雪に泣かされた25年前

2009-03-03 23:33:00 | インポート
東京のはずれ、埼玉県まで徒歩五分圏内の筆者自宅付近ではすでに雪が降り始め、未だ積もってはいないものの、明日までに3~5㎝の積雪が予想されるとか。さらに予報では木曜は晴れるものの金~日曜は雨。キャンプを終えてオープン戦も始まろうかと云うこの時期、悪天候がどのように影響するのやら・・・。

東京に記録的な大雪が降ったのは今から25年前の昭和59年。この年は1月19日に22㎝の積雪を記録し、この冬の東京の降雪日数は29日を数えた。
当然戦国東都の開幕を控えた各校にも影響があり、当時の新聞には次のように報じられている。

雪に泣いた練習-調整不足で本番-
雪、雪、雪・・・・。黒土が消え、グラウンド一面の雪化粧。打ち込みや内、外野の進塁、サインプレーなどの重要な練習時間が雪につぶされた。六大学より開幕が一週間早い東都では、各校監督が口をそろえて「去年に比べ三週間は仕上がりが遅れた」と嘆いた。
各校は、自校グラウンドや、キャンプ地に移動して練習をした。去年に続き四国の松山でキャンプを張ったのは亜大と国士大。国士大は二月下旬に松山入りしたとたん、初日から雪の“歓迎”を受け、太田監督は「二週間のうち四日間ほど影響を受けた」と大ぼやき。
春のキャンプを張らず、本拠地で腰を落ち着けたのは日大と東洋大。「二月いっぱい練習ができなかった」と日大の石井監督。近くの陸上競技場を使って走ったり、ウェートトレーニングに明け暮れた。和田主将は「陸上部員になったみたい。でも、足腰が強くなったかも・・・」。東洋大はグラウンドの雪かきをしてやっとできるようになると、また雪、の繰り返しに泣かされた。「何回雪かきをしたやら」とは山口主将。
一方、三月上旬まで静岡・掛川でキャンプをした駒大と、国士大の前に松山へ出掛けた亜大は雪の被害を受けず、予定通りの練習ができた。ところが、自校に引き揚げ、オープン戦という矢先に雪に見舞われ、中止が相次いだ。駒大の小椋コーチは「投手の調整もなにもあったものじゃない。予定が狂ってしまった」と頭を抱えた。
中大は打撃練習ができず、三月中旬から淡路島で十数年ぶりという春のキャンプをやった。淡路島では練習の八割を打撃に費やし、打ち込み不足の解消にやっきだった。
雪雪は六大学も同じ。だが、スタートの早い東都は各校ともちょっぴり不安を抱えてのリーグ戦となった。
(『朝日新聞』昭和五十九年四月六日付朝刊-神宮の森 球音間近-より)

このシーズンの順位は

勝点
一位亜  大
二位東洋大
三位駒沢大
四位日本大
五位国士大
六位中央大

先に全日程を終了していた東洋大は亜大の結果次第で優勝が転がり込む立場にあったが、亜大の最終戦・対国士大三回戦は2-0で亜大が勝ち、勝率の差で優勝を逃した。

首位打者を獲得したのは打ち込み不足に泣いた最下位・中央大の西原忠善だったが、その中央大は入替戦で斎藤学・小川博両投手を擁した青学大の敗れ、不祥事による出場停止で二部陥落した昭和34年春以来、二度目の二部落ちとなってしまった。

昨日、4月7日の東洋-青学戦で開幕との発表があった今年の東都。今後の天候がどのような影響を及ぼすだろうか。雪に泣いた昭和59年も開幕日は4月7日である・・・・。(但しこの時は土日開催)

*この時の開幕戦で東洋大・内藤雅人選手は一試合12打点の“世界記録”を作った。
一試合12打点:内藤雅人選手=東洋大学野球部の歴史-記録②

昭和59年1月:池袋・西武百貨店屋上の雪
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