これまでの東都大学野球の監督で、筆者が見てちょっと毛色の変わった監督をまとめてみました。
(経歴はウィキペディア・『プロ野球人名事典』・『甲子園・高校野球人名事典』・『東都大学野球連盟70年史』・『神宮球場ガイドブック』などを参考にいたしました)
(H31年1月15日更新、有馬頼義の「青春賛歌」追記いたしました)
①プロ出身
野本喜一郎(東洋大)
大正11年(1922)生まれ。
埼玉の旧制不動岡中(現不動岡高)時代から投手として活躍。戦後は日本コロンビアでプレー。昭和25年(1950)西日本に入団。昭和28年(1953)には近鉄に移籍し、プロ在籍は4年。通算成績は登板122試合、18勝27敗、16完投、2完封、奪三振150、投球回494 2/3、防御率3・62。
引退後は上尾市で風呂屋を経営していたが、昭和33年(1958)に新設された上尾高校の野球部創部に際して監督に就任。昭和38年(1963)春に甲子園初出場を果たす。その後昭和41年から46年まで東洋大学監督。一部リーグ定着の基礎を固めた。高橋昭雄現監督も野本監督の下でプレーをした一人である。
その後、上尾高校監督に復帰し通算6回の甲子園出場を果たす。昭和59年(1984)からは浦和学院高の監督を務め、三年目には甲子園出場を果たすが、体調を崩し初戦の二日前に死去。初出場でベスト4まで勝ち上がった浦和学院のベンチには野本監督の遺影が飾られていた。
加藤正二(中央大)
大正3年(1914)生まれ。旧制高松中から昭和9年中央大に入学すると春のリーグ開幕戦で前シーズンに8戦全勝で優勝している日本大をいきなり完封でデビュー。打撃でも33打数13安打、打率・394で首位打者も獲得。その後打撃に専念すると、昭和11年(1936)秋から3シーズン連続で首位打者。なかでも昭和12年(1937)秋の26打数15安打、打率・577は東都大学野球の最高打率で現在でも破られていない。
昭和14年(1939)名古屋軍に入団。昭和18年には本塁打王(4本)を獲得。戦時中のブランクを挟みプロ実働10年で799試合出場、2773打数752安打57本塁打364打点、通算打率・271(投手として昭和19年に2試合2回2/3)。
昭和31年(1956)1月から中央大監督に就任し、昭和33年春のリーグ戦で母校に10シーズンぶりの優勝をもたらす。大学選手権では決勝で立教大に3対4で敗れ惜しくも準優勝に終わったが、その年の8月17日に肝臓癌のため死去。
近藤正雄(青山学院大)
大正11年(1922)生まれ。和歌山商業からノンプロの華中鉄道、今泉産業、小口工作所などを経て昭和25年(1950)に外野手として大洋に入団、一年間在籍した。プロでの通算成績は出場60試合、87打数24安打8打点、盗塁3、打率・276。
昭和35年に青山学院大監督に就任。昭和47年に入替戦で芝工大を下し、六回目の挑戦で青山学院大の一部初昇格を果たした。自身の下でコーチをしていた河原井正雄現監督に引き継ぐ昭和62年春まで27年間青山学院大を指揮した。
田部輝男(芝浦工大)
大正5年(1916)生まれ。旧制広陵中(現広陵高)から立教大、ノンプロの山藤クラブ、古沢でプレー。戦後、昭和25年(1950)西日本に入団。外野手として5年間プレーした。プロ通算で出場449試合、1271打数319安打、35本塁打、179打点、21盗塁、打率・251。
昭和31年(1956)に当時二部の芝浦工大監督となり、翌年秋には一部初昇格。昭和36年(1961)秋に初優勝を果たした。
大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)結成時のメンバー・田部武雄はいとこ。
前川八郎(國學院大)
大正元年(1912)生まれ。旧制私立神港中(現神港学園)ではエースで四番。立教大に進む予定で上京し立教の合宿所で試験日直前まで受験勉強をしていたが、選手強化を進めていた國學院大がひと回り年上の長兄を説得し、「日本人なら神道の学校で学べ」と命じられ昭和5年(1930)國學院大へ。翌年から始まる五大学リーグ戦(今の東都大学野球)では開幕前に早大・戸塚球場で行われた記念試合にも五番・投手で出場するなど草創期の東都で投打に活躍。
卒業後、東京鉄道管理局を経て、昭和11年(1936)巨人に入団し三年間在籍。退団後國學院大、滝川中、兵庫工、富士鉄広畑などで監督。滝川中では別所毅彦や青田昇を指導した。戦後の昭和21年(1946)には一年間だけ阪急でプレー。プロ通算成績は投手として登板81試合、21勝23敗、16完投、4完封、奪三振143、投球回401 2/3、防御率3・34.打者としては159試合、391打数94安打43打点、打率・240。後巨人のスカウト部長なども務めた。
大沢伸夫(清)(國學院大)
大正5年(1916)生まれ。“親分”こと故大沢啓二の長兄。神奈川商工から國學院大へ進学。前川八郎の後を受けて主戦投手となったが、打撃でも活躍し昭和10年(1935)春のリーグ戦では打率・429で打撃二位となった。
昭和12年(1937)名古屋(後の中日)に投手として入団。5勝を挙げたが三年で一塁手に転向。以後、昭和27年に広島で現役を終えるまで東急・大洋などで活躍。プロ通算成績は投手として登板33試合、5勝11敗、6完投、1完封、奪三振43、投球回168、防御率3・81。打撃では1461試合、5316打数1439安打、46本塁打、669打点、111盗塁、打率・271。昭和25年(1950)には大洋で1シーズン45二塁打(当時日本記録)をマークした。
引退後は東京ガスの補強選手として都市対抗出場。昭和35年から國學院大の監督を務めた。
*昭和26年(1951)旧名の清から伸夫に改名。
大沢紀三男(君夫)(東京農大)
大正15年(1926)生まれ。大沢伸夫の弟で大沢啓二の次兄。藤沢商業(現藤沢翔陵)出身。昭和19年(1944)プロ野球の産業に外野手として入団。戦後昭和22年に東急、23年には投手として中日でプレー。プロでの成績は投手として登板13試合、1勝1敗、奪三振16、投球回42 1/3、防御率3・35。打者としては40試合、56打数6安打、1打点、打率・107。
退団後はいすゞ自動車でプレーし、その後社会人チームでの監督を経て昭和54年(1979)から63年(1988)まで東京農大監督。昭和61年秋に37年春以来49シーズンぶりの一部復帰を果たした。
綱島新八(新哉)(拓殖大)
大正8年生まれ。高崎商業から立教大をへて、戦前は社会人でプレー。昭和24年(1949)大映入団。翌年から昭和28年まで松竹。ポジションは外野手。プロ通算339試合、718打数157安打、5本塁打、59打点、打率・219。
昭和41年(1966)拓殖大学監督となり新哉に改名。
高橋良昌(善正)(中央大)
昭和19年(1944)生まれ。高知商で二年春に選抜出場。中央大では一年から登板し、通算35勝15敗(現在歴代四位)
昭和42年第二次ドラフトの一位で東映入団。15勝11敗で新人王。昭和46年8月21日の対西鉄戦で完全試合達成。昭和48年から52年までは巨人に在籍。プロ通算で登板384試合、60勝81敗7セーブ、32完投、8完封、奪三振625、投球回1324 2/3、防御率3・34。
引退後巨人、中日などでコーチをつとめたが、平成20年(2008)中央大学の監督に就任し、平成23年(2011)まで指揮を執った。
秋田秀幸(中央大)
昭和30年(1955)生まれ。静岡商で昭和48年春の選抜に出場。翌年、中央大に進学すると一年春からレギュラーとなり四年間全試合・全イニング出場を果たす。大学通算103試合380打数95安打42打点6本塁打、打率・250。ドラフト5位で中日に入団し、昭和57年まで在籍。プロでは通算35試合36打数5安打、打率・139。引退後は一般企業に勤めていたが、平成24年(2012)、高橋義昌の後を受けて中央大監督に就任。
②甲子園から神宮
宮井勝成(中央大)
大正15年(1926)生まれ。早稲田実業から昭和21年(1946)中央大学へ進学し外野手としてプレー。卒業後は証券会社に勤めていたが、昭和30年(1958)早稲田実の監督に就任。翌31年夏から春夏四季連続甲子園出場を果たし、32年(1960)春の選抜では二年生エースの王貞治を擁して選抜史上初めて東日本勢としての優勝を飾り、“紫紺の大旗の箱根越え”を実現させた。
昭和34年(1959)秋、中央大学監督に転じ平成6年(1994)“総監督”に退くまで二十五年間采配を振るった。この間、高橋良昌をはじめ、武上四郎、末次利光、藤波行雄、高木豊ら多くのプロ野球選手を育て上げ、全日本大学野球選手権では昭和42年の第16回大会で初優勝、更に昭和48年・第22回大会と昭和54年・第28回の計三回大学日本一に導いた。
矢野祐弘(亜細亜大)
昭和6年(1931)生まれ。愛媛県の西条高から立教大に進学するも二年で中退。昭和30年(1955)に二十三歳で母校の西条高監督に就任すると翌年には春・夏甲子園出場を果たし、夏はベスト4に進出。昭和34年夏の甲子園では決勝で延長十五回の末に宇都宮工を降し初優勝。
昭和40年(1965)に亜細亜大監督に招聘されると、ここでも翌年秋のリーグ戦で開幕から八連勝し10勝1敗勝点5の成績で亜細亜大に初のリーグ優勝をもたらした。昭和46年春には三度目のリーグ優勝を飾ると初出場の全日本大学野球選手権でも決勝で法政大学を破り大学日本一。亜細亜大監督を13年務め昭和53年(1978)に総監督に退く。
望月教治(専修大)
昭和10年(1935)生まれ。昭和27年(1952)選抜に静岡商の遊撃手として出場し優勝。専修大では一年春から出場し四年春には最高殊勲選手に選ばれた。卒業後、熊谷組でプレーした後昭和39年(1964)から六シーズン専修大監督に。昭和40年(1965)には大学選手権初優勝を果たす。その後、静岡商監督として春夏三回甲子園出場、更に昭和57年には創部二年目のヤマハ発動機を都市対抗初出場に導く。昭和59年(1984)専修大監督に復帰し、平成元年(1989)春に優勝、専修大を“平成の初代東都覇者”に仕立てた。
竹田利秋(國學院大)
昭和16年(1941)生まれ。和歌山工で昭和33年(1958)春に三塁手として甲子園出場。國學院大に進学し、卒業後は金融機関に勤務していたが、國學院大OBで当時東北高校監督だった松尾勝栄に誘われ昭和40年(1965)同校コーチに。昭和43年(1968)から監督となる。春九回、夏八回の甲子園出場を果たすが、昭和60年(1985)同じ仙台市内のライバル校である仙台育英の監督に転じる。仙台育英でも春四回、夏六回の甲子園出場に出場し、平成元年(1989)夏には決勝戦まで勝ち上がったが、帝京に敗れ準優勝に終わる。
平成8年(1996)、当時二部の母校國學院大監督に。十年かけて一部復帰を果たしたが、平成22年秋のリーグ戦を前に勇退を表明。
橘由巳(東洋大)
昭和26年春の選抜で優勝した鳴門高校ではコーチ、その後昭和34年の甲子園に天理高校監督として春夏連続出場。昭和36年3月、東洋大監督に就任し前年秋に完成していた川越グラウンドの合宿所で選手と起居を共にする。同年春の東都二部で早速青学大と同率首位となるも、優勝決定戦で敗れ二位。続く秋のリーグ戦では東洋大初の二部優勝を遂げ、入替戦でも専修大を破り念願の一部昇格に導いた。
*生年・経歴等は不明につき引き続き調査中。当初、塙由巳と記載しましたが春の甲子園出場時の『毎日新聞』記事をはじめ他の甲子園関連書籍でも橘姓で記載されており、『東都大学野球七十年史』の東洋大学の項のみ“塙由巳”となっているので、本稿では“塙”姓は誤記と判断し橘由巳に改めました。
③神宮から甲子園
香椎瑞穂(日本大)
明治45年、長崎県生まれ。官吏だった父の転勤で京都の平安中学に進む。当初テニス部に入部したが三年の三学期に野球部に入部しすぐにレギュラーとなる。昭和3年と4年にそれぞれ春夏連続で甲子園に内野手として出場。
卒業後は日本大に進学し一年からレギュラーとなり、昭和6年4月29日に早大・戸塚球場で行われた五大学野球(現在の東都大学野球)発会式では記念試合で前記・前川八郎が登板した國學院大戦に二番・二塁手で出場。昭和8年日本大のリーグ戦初優勝時のメンバーでもある。中学・大学とも最上級生時には主将。
卒業後は台湾総督府に勤めながらプレーを続け、戦後は法務局に勤務していたが昭和23年に関係者から請われて日本大監督に就任。以後、昭和39年に退任するまでに11回のリーグ優勝。昭和36年には第10回全日本大学野球選手権決勝で関西大を10-2で破り、東都代表として初の大学日本一を達成した。
退任後の昭和40年に日大桜丘高校監督に就任。昭和47年、春の選抜に仲根政裕投手を擁して初出場。決勝で兄弟校・日大三を5-0で破り優勝し大学日本一に続き高校でも全国制覇を遂げた。
④その他
小林昭仁(駒沢大・専修大・拓殖大)
旧姓藤沢。松本商業(現松商学園)一年の昭和17年に行われた「大日本学徒体育振興大会」の中等野球(所謂幻の甲子園)に控え選手として出場。その後専修大へ。卒業後は松商学園・専修大・馬淵建設などで監督・コーチを務め、昭和31年(1956)、当時まだ弱体だった駒沢大の監督に就任。昭和37年春、リーグ初優勝に導く。昭和39年には初めて大学選手権を制し、その年行われた東京オリンピックのエキジビション・ゲームでも日本学生代表チームの監督を務める。昭和45年まで15年間、駒沢大の監督として采配を振るった後、昭和49年(1974)秋には専修大監督に復帰、昭和53年春にリーグ優勝を果たし駒沢大と専修大の二校で一部リーグ優勝監督となった。さらに昭和58年(1983)には二部の拓殖大で采配を振るった。
小林(旧姓藤沢)監督就任を伝える『駒澤大学新聞』昭和31年2月1日号
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1964年の東京オリンピック・デモンストレーション・ゲーム
内田俊雄(亜細亜大・拓殖大)
昭和21年(1946)生まれ。広島商から亜細亜大に進学し、昭和41年秋の初優勝時の二塁手。四年時の43年春のリーグ戦では打率・349(打撃ベストテン五位)で二塁手のベストナインに選ばれる。卒業後は三協精機でプレーを続けた後、昭和52年(1977)に亜細亜大コーチ、更に翌年から同校監督に就任。以後、平成16年(2004)に教え子の生田勉に譲るまで26年間亜細亜大で采配を振るう。
平成18年(2006)、当時三部リーグの拓殖大監督に就任し、平成25年(2013)春のリーグ戦で二部優勝、入替戦でも専修大を下し、拓殖大にとって初めての一部昇格を果たす。
生原昭宏=アイク生原(亜細亜大)
昭和12年(1937)生まれ。田川高校から早稲田大。卒業後、昭和36年(1961)に当時三部リーグの亜細亜大監督に就任。三年後の昭和39年(1964)には一部昇格を果たすと、翌年には退いて渡米。ドジャースでクラブハウス係として用具の手入れなどの下働きをこなし、徐々にフロントの信頼を得て、やがてオーナー補佐・国際担当の要職に着く。巨人や中日のキャンプの世話やマイナーリーグへ派遣される若手選手の面倒をみるなど、日米球界の橋渡し役となり、日米大学野球の実現にも米国側で尽力し、平成14年(2002)野球殿堂入りを果たした。
有馬頼義(成蹊大)
大正7年(1918)生まれ。社会派推理作家。旧筑後国久留米藩主・有馬家の16代当主で父は伯爵有馬頼寧。
旧制成蹊高校(現成蹊大)に進むが野球と小説に熱中して中退。昭和29年(1954)、『終身未決囚』で直木賞を受賞。
昭和39年(1964)から44年まで成蹊大の監督を務め、44年春には三部リーグ優勝を果たし勇退の花道を飾った。
*父頼寧は昭和10年、東京セネタースを創立し、西武鉄道と提携して上井草球場を建設した功績などにより、昭和44年に野球殿堂入り。競馬の有馬記念も頼寧の発案でプロ野球のオールスター戦にヒントを得たとも言われている。
青春賛歌ー有馬頼義
青春は、僕にとって既に遠いものになってしまったが、夏になると、甲子園大会が、僕の年齢を三十年も四十年もひき戻してくれる。それは、人類が未来を築いてゆくことを意味する。戦争をはさんでいるが、和歌山中学時代の小川正太郎から、昨年の新浦まで、僕の心の中には、さまざまな選手の姿が焼きついている。これだけ過去があったのだから、未来もまたずいぶんと長いに違いない。多分、僕が死んでも、あの暑いグラウンドの青春は、ずっと長く続くにちがいない。
僕はかつてプロ野球にも関係し、今は母校成蹊大学の監督をしているけれども、しかし、本当に一番やりたいのは高校野球の監督なのではないかと、思うことがある。
プロや大学のリーグ戦と違って、甲子園大会は、地区予選からトーナメントで、甲子園の土を踏むまでに、多い地区では、七、八試合もやっているわけである。近年とくに、野球の技術が高まり、複雑化してきて、僕自身がサインを出し間違えるようなことさえ起ってきた。しかし、甲子園の高校野球は、そういう技術面ではなくて、別所が腕を骨折しても投げつづけたり、吉田が二十五回戦を一人で投げきったり、精神面の高揚とか忍耐力とかガンバリが、今日まで、高校野球をささえて来ているのである。
僕は、この春のシーズンで、大学にとっても、僕自身にとっても初めての優勝をなしとげたが、感激もなく、涙ひとつ出やしなかった。しかし、これがもし甲子園の高校大会の優勝だったら、泣き虫の僕は、三日間くらい涙がとまらないだろうと思う。
昔の中等野球から今の高校野球まで、無数の彼ら若者は、賭け、そして夢みてきたに相違ない。これは、彼らが社会人になっても、国家のために優秀な人材を育てることにもなるだろう。青い空と喚声とよごれたユニホームは、若者の、いや人類の象徴である。
(『朝日新聞』昭和44年8月8日付朝刊・全国高校野球明あす開幕より)
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