猫面冠者Ⅱ

主に東洋大学を中心に野球・駅伝などの記録・歴史・エピソードなどなど…。

東洋大・大野奨太選手動画2編

2008-09-29 21:29:00 | インポート
'08'春のリーグ戦:対日大一回戦(4月29日)
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二回表無死一塁で遊ゴロ併殺。ファーストは際どいタイミング・・・。

上のプレーをスロー再生
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'08'秋のリーグ戦:対青学大一回戦(9月6日)
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五回表二死無走者。空振り三振の判定にちょっとだけ抗議。

スロー再生
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連勝、連続勝ち点とも途切れてしまった東洋の主将・大野。
気を取り直して四連覇を目指せ!



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東洋大学野球部の歴史-戦後編⑦昭和35年追記:グラウンドについて

2008-09-28 09:19:00 | インポート
先にエントリーした東洋大学野球部の歴史-戦後編⑥昭和35年の“昭和35年の出来事”に記したように、この年の9月に川越の総合グラウンドが完成し、今日に至るまで野球部、陸上部などの拠点となっている訳だが、それ以前の運動部はどこで活動していたのかが、本ブログを始めて以来疑問としてあった。

先日、白山に行く機会があったので東洋大図書館に立ち寄り、校友会報のバックナンバーにいくつか目を通してみたところ、各年代の方々の投稿や座談会などからいくらか情報が得られたので、野球と陸上について簡単にまとめてみたい。

校友会報116号に『五十年前の野球部』と言う一文が昭和6年卒業の野球部員の方から寄せられている。それによると
球場は、都心から遠く離れた埼玉県の東大泉村にあった。どこかの会社の持物とか。だから練習にでかけるにしても、巣鴨から池袋、池袋から西武線に乗り換えて東大泉で下車、そこから駅前のタクシーを駆って球場へやっと辿りつくといったあんばいであった」
とある。東大泉駅は現在の大泉学園駅で昭和八年に改称されるまではこの駅名であった。但し当時も東京である。駅からタクシーで行くほどの距離であればグラウンドの所在地は埼玉だったのかもしれない。
当時は監督もコーチもおらず自主的に練習していたそうだ。大学からは公認され予算も付いていたので部長の先生はいたが練習には一度も顔を出さず、先生とはご自宅で一度お会いしただけとの事だ。
ただ、この投稿者の方は卒業後教職に就かれ、教材の中にその先生の作品があって驚いたそうだ。当時の野球部長は田部重治先生だったとの事である。

野球部のグラウンドについては111号の座談会『東洋大学スポーツの現状を語る』の中で兼頼米太郎氏(昭和10年卒、箱根駅伝初出場の時の一区走者)が
野球部は新井薬師の方でやっていたと記憶していますが・・・
と発言されている。これは哲学堂公園の今は軟式野球場とテニスコートになっている所であろうか。(哲学堂が東京都に移管された後も、グラウンドの部分はしばらくの間財団法人哲学堂の所有となっており東洋大学に貸与されていたと言う話を何かで読んだ記憶がある。現在は全て中野区の管理下にある)

一方、陸上部については同じ111号の座談会で兼頼氏は
陸上部は西巣鴨にあった国立の蚕糸専門学校のグラウンドを借りてやって
いたそうだ。蚕糸専門学校は現在の農工大で当時の場所は厳密にいえば北区西が原である。
また、兼頼氏は116号の座談会「われらの時代の“箱根駅伝”を語る」にも出席されており、その中では長距離の選手は
肴町の風呂屋(現白山・南天堂のとなり)から駒込、飛鳥山、西巣鴨を通って池袋までのコースを走るわけですが、風呂屋を出発点にするのは、お風呂屋へ行って裸になって、帰りにお風呂で汗を流すというわけですよ(笑)」
とも語っている。南天堂となりの風呂屋は後に白山サウナとなったが近年取り壊されマンションになってしまった。

この座談会には各年代の箱根ランナーの方々が参加されており、その時代時代の練習場所を知ることができる。
東洋大の戦後初めての出場となった第24回箱根駅伝で六区を走った林氏(昭和26年卒)の頃は
久我山とか大宮とかにある会社のグランドへ行きました。今俳優で有名な植木等さんなんかも一緒にいって練習しました
そうだ。植木さんは短距離の方である。
林氏が入学した入学したのは昭和20年、白山の街は焦土と化していたそうである。

林氏より少しあと、昭和32年卒の小菅氏(箱根出場時は峰岸姓)は
「先程白山からの練習コースの話が出ましたが、私たちの頃も同じコースと、それから大塚仲町、護国寺、後楽園、本郷をまわってくるコース、たまには皇居一周という場合も
あったと語っている。

そして、昭和35年卒、小池氏(東洋大が過去最高三位になった時の二区走者)の代には
「大学が力を入れ始めていた頃だったのか、十五、六名入りましてね。それで板橋の蓮根に合宿所を一軒借りてくれて自炊生活を始めたわけです。学校へ来るときはむこうから走ってくる。また逆もやる。当時大学の前を通っていた都電と競争するわけです。僕らの頃も勿論グランドはありませんでしたしね。まあ志村高校のグランドで走ったり、埼玉大のグランドを借りて練習したりしてました
との事である。

先に紹介した座談会『東洋大学スポーツの現状を語る』によれば、戦前は
「まだ大学の中で組織的に位置付けて云々というところまではいってなかったわけで、金銭的にも個々人の寄附だとか、働きかけが主体」(兼頼氏)
で戦後も昭和30年頃までこのような状況であったようだが、昭和30年から33年まで校友会事務局長を務めた伊賀上氏によれば
「その頃、学生の士気を高揚させるという意味と大学自体を宣伝するということで、野球、柔道、陸上の三部を強くするという“三部重点主義”というのができて、私は自分が中学の頃少し野球の経験がありますので野球の方を担当しまして、関西、中国、四国の方を回りました。まあ、全般的にこのあたりからスポーツに対する考え方がかたまってきたといっていいんじゃないでしょうか」
と語っている。小池氏が入学したのがちょうどこの頃ということだろう。

そして、昭和35年の川越グラウンドの完成によって選手たちは生活、練習とも川越に移っていく事になる。昭和50年卒の某氏の頃になると
「生活の面では川越から白山まで遠いもんですから、やっぱり学校へ出るというのがついつい疎かになりましてね。・・中略・・もっと授業へ行くべきだったと思ってますね(笑)」


かくして、筆者のような怠惰なOBも野球部の優勝にかこつけて大酒を喰らい、正月にはテレビの前でごろ寝しながら箱根駅伝に声援を送る今日を迎えることが出来たわけである。

参考
「サアいこう」。東京都文京区原町の高台に建築美を誇る東洋大。その石段を吉田主将にひきいられたチームが走り出すと、やわらかな日当たりにたたずんでいた学生たちが口ぐちに「あれが一区の石井だ」「箱根山をくだった奥沢だ」と話しはじめた。話題がいっせいに駅伝に集中されたのだから驚く。
二十六年前、同校の初出場に当たって一区を走った兼頼さん(同校陸上部長)の話では「グラウンドがないので手軽にやれる駅伝が東洋大で一番のスポーツになった
(『読売新聞』昭和三十四年十二月二十八日付朝刊の記事「箱根駅伝合宿めぐり」より)

画像



















*陸上部については陸上部応援サイト“輝け鉄紺”さんに詳しく紹介されています。




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'08'9'7東洋大対青学大二回戦Ⅴ 動画~好プレー(中倉裕人・鈴木啓友・松永隆太・福田清将)

2008-09-23 09:42:00 | インポート
中倉バックホーム・・の時
</object>
http://jp.youtube.com/watch?v=XJoEPiunlRE
(眼だけで追ってカメラの事忘れてました・・・。)



ショート鈴木啓、ファインプレー!
</object>
http://jp.youtube.com/watch?v=sCSarIf6UMI

上のスロー
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レフト松永、惜しい・・・。
</object>
http://jp.youtube.com/watch?v=UYqL97XGwBI



福田(清)、盗塁成功
</object>
http://jp.youtube.com/watch?v=56S1b_RLWd8



画像

















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関連エントリー
'08'9'7東洋大対青学大二回戦Ⅰ 動画
'08'9'7東洋大対青学大二回戦Ⅱ 動画Ⅱ
'08'9'7東洋大対青学大二回戦Ⅲ 動画 上野投球..
.'08'9'7東洋大対青学大二回戦Ⅳ 動画 内山投球...


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東洋大学野球部の歴史-戦後編⑥昭和35(1960)年

2008-09-21 10:23:00 | インポート
昭和35年の出来事
 1月:第36回箱根駅伝3位
 3月:『社会学部紀要』創刊
 4月:ラグビー部創部
 5月:雄弁会、第11回全日本弁論選手権大会で団体・個人(長井守男)優勝
    :川越総合グラウンドの内ラグビー場・野球場完成
    :川越で第1回体育祭開催(第3回から体育会主催)  
 6月:比較法研究所設置
 9月:川越総合グラウンド完成
12月:佐久間鼎第22代学長就任
    :アイススケート部発足(スキースケート同好会より)
昭和35年(1960)春2部3位 ...............


対東経大2勝1敗 対中央大0勝2敗

1回戦 4月16日 於・農大 1回戦 4月23日 於・農大
東洋大 002 210 001  4 中央大 000 101 000  2
東経大 100 000 002  3 東洋大 000 001 000  1
東洋:広沢-船田 中央:串間・矢島-丸山
東経:小野-山梨 東洋:広沢-船田
㊂宮本(洋)㊁船田(洋) ㊂玉田(中)㊁福岡(中)羽賀井(東)

2回戦 4月17日 於・農大 2回戦 4月24日 於・農大
東経大 201 000 020  5 東洋大 000 000 000  0
東洋大 000 000 020  2 中央大 207 303 02X  17
東経:黒岩-山梨 東洋:大沢・伊藤・広沢-船田
東洋:竹之下・大沢-船田 中央:矢島・三浦・大谷-丸山
本・木田(中)㊂中村(中)㊁丸山2・平沼・阿由葉・柴垣(中)
岩本・大沢(東)

3回戦 4月18日 於・農大
東洋大 011 014 010  8
東経大 200 000 001  3
東洋:広沢-船田・海道
東経:黒岩・小野-山梨
本塁打:船田(洋) ㊂林・宮本(洋)
㊁林・船田・広沢(洋)





対青学大2勝1敗 対東農大1勝2敗

1回戦 5月8日 1回戦 5月15日
東洋大 000 200 010  3 東農大 000 030 020  5
青学大 100 000 010  2 東洋大 000 100 000  1
東洋:広沢-船田 東農:狗飼ー佐野・長谷川
青学:荒井・宍戸・川北ー関沢・今関・三枝 東洋:広沢-船田
㊁真部(東)

2回戦 5月9日 2回戦 5月17日
青学大 010 031 100  6 東洋大 001 010 010  3
東洋大 000 300 020  5 東農大 010 000 000  1
青学:伊藤・宍戸・荒井・川北ー三枝 東洋:広沢-船田
東洋:大沢・竹之下・広沢-船田 東農:狗飼ー長谷川(裕)・佐野
㊂宮本(東)須藤(青)㊁船田・広沢(東) ㊁前田(農)


3回戦 5月12日 3回戦 5月18日
東洋大 200 020 060  10 東農大 000 000 000 000 1  1
青学大 000 001 000   1 東洋大 000 000 000 000 0  0
東洋:広沢-船田 東農:阿部・狗飼ー長谷川(裕)
青学:神戸・宍戸・川北・伊藤・荒井ー三枝 東洋:広沢-船田
㊂船田・真部(東)佐藤(青) ㊂山崎(農)㊁阿部・前田(農)岡野(東)






対明学大2勝1敗

1回戦 5月22日 於・明学大
明学大 120 000 001 1  5
東洋大 010 000 030 0  4
明学:阿蘇ー鈴木・足利・木田
東洋:竹之下-船田
㊂木田(明)㊁丹下・林田2(明)船田2(東)

2回戦 5月23日 於・明学大
東洋大 100 030 101  6
明学大 000 000 000  0
東洋:広沢-船田
明学:松本・佐地ー鈴木・足利
本・船田(東)㊂羽賀井(東)


3回戦 5月24日
明学大 000 010 000  1
東洋大 002 000 00X  2
明学:阿蘇ー木田
東洋:竹之下・広沢-船田
㊂金田(明)竹之下(東)


勝点
東農大 10勝 1敗 0 5
中央大 8勝 2敗 0 4
東洋大 7勝 7敗 1分 3
明学大 5勝 7敗 1分 2
青学大 4勝 9敗 1分 1
東経大 2勝 10敗 1分 0



昭和35年(1960)秋 2部3位 ...............


対青学大1勝2敗 対中央大0勝2敗1分

9月13日 一回戦 9月17日 於・中大
東洋大 000 100 000  1 中央大 000 000 000  0
青学大 100 010 31X  6 東洋大 000 000 000  0
東洋:広沢・藤沢-宮寺 中央:石田-丸山・大西
青学:伊藤-三枝 東洋:広沢-海道
㊂赤岡(中)㊁真部(東)
二回戦 9月19日 於・中大
東洋大○-●青学大 東洋大 000 000 000  0
中央大 000 020 02X  4
東洋:竹ノ下-海道
中央:三浦-丸山
三回戦 9月21日 於・中大
青学大○-●東洋大 中央大 001 020 200  5
 *このカードは上記以外不明 東洋大 000 001 000  1
 (対戦結果は星取表から推定) 中央:石田-丸山
東洋:竹ノ下・広沢-宮寺






対東経大2勝0敗 対学習院0勝2敗1分

一回戦 10月1日 一回戦 10月8日 於・中大
東洋大 011 100 100  4 学習院 100 000 000  1
東経大 000 000 000  0 東洋大 000 000 000  0
東洋:竹ノ下-宮寺・海道 学習:角原-小幡
東経:堀田-山梨 東洋:竹ノ下-宮寺・海道
㊂宮本(洋)

二回戦 10月2日 二回戦 10月9日
東経大 000 000 000  0 東洋大 100 000 000 00  1
東洋大 000 010 00X  1 学習院 000 001 000 00  1
東経:黒岩-山梨 東洋:広沢-海道・宮寺
東洋:広瀬-宮寺 学習:角原-小幡
㊂宮本(洋)

三回戦 10月11日
東洋大 000 000 000  0
学習院 001 000 12X  4
東洋:竹ノ下-宮寺
学習:角原-小幡
㊂佐藤(学)㊁宮本(東)田口(学)




対明学大2勝0敗

一回戦 10月22日
東洋大 120 004 000  7
明学大 000 000 002  2
東洋:広沢-宮寺
明学:阿蘇-大野


二回戦 10月23日
明学大 000 000 000  0
東洋大 000 003 00X  3
明学:阿蘇-大野
東洋:大沢・藤沢・竹ノ下-宮寺


勝点
学習院 10勝 1敗 1分 5
中央大 9勝 2敗 1分 4
東洋大 5勝 6敗 2分 2
青学大 5勝 7敗 0 2
明学大 4勝 7敗 0 2
東経大 0勝 10敗 0 0

*各年度の試合結果は
 こちらから
↓  ↓  ↓
「熱球譜」:戦前・戦後の歴史のうちスコア中心の記事
「全試合結果」 : 戦前から現在までの試合結果(「熱球譜」完成までの繋ぎ版)



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番外編:井上円了生誕の地

2008-09-16 21:36:00 | インポート
この三連休を新潟の親類の家で過ごしたのだが、帰途長岡インターで高速を降り長岡市の慈光寺を訪う。

慈光寺
画像
















(このページの画像はクリックして拡大して見ることができます)

「安政五年戌午二月四日。越後國三島郡來迎寺村、大字、浦、慈光寺に生る。」(『甫水井上圓了先生譜略』)
現在は長岡市浦。甫水の號はよく知られているように“浦”の偏と旁からとったものだが、他に“非僧非俗道人” “四聖堂” “不思議庵” “妖怪窟” “不知歌斎” “無芸庵拙筆居士”などとも號したそうだ。



参道にある“井上圓了先生誕生の地”碑画像




















本 堂画像




















画像

















「余幼より世人とその好悪を異にし、人の楽しむところにして余かえってこれを憂え、人の憂えるところにして、余かえってこれを楽しむ。ゆえをもって、その旧里に在るや、同郷の児童と共に遊ばず。およそ児童の楽しみは飲食遊戯のほかに出でずといえども、余の楽しみはひとり然らず。出でて江山の間に入れば草木の森々としておのずから鬱茂し流水の悠々として去って帰らざるを見、心ひそかに怪しむところありて家に帰りてその理を思う。これを思うて達すること能わざれば、ひとり茫然として自失し、幸いにその理に達すれば微笑して自得の状を呈す。これ余が衆と共に群せざるゆえんなり。長じて学を人に求るに及び、一見一聞、みな余が感を惹起し、日夜黙座して、ただその理を思うのみ。」
(『仏教活論序論』筑摩書房:現代日本思想大系7「仏教」所収より)


円了はここから同じ三島郡の隣村、池津村にあった蘭学医石黒忠悳の寺子屋に通い漢籍を学んだ。
井上君が初めて、余の家に來る様になつたのは、確か文久二三年の頃のやうに思ふ。恰度其時分は余が鄕里で塾を開かうと思って、學童を集めて居た時なので、井上君も其時に來た一人なのだが、隣村浦村の慈光寺といふ大谷派の寺の子で、其時分の名は龔常と云ってゐた。さうだ年はまだ八九歳であつたらうが、中々學才の有る兒で、余は其頃國史略を讀ませ又之を講授したものだが、幼少乍ら理解も良く歴史の事實の記憶も確かなもので、自分の設問に對しても何時も明確な答へを爲たものです。
尤も余の鄕國新潟縣と言えば、人も知る天下に有名な雪國、其降り方は實に夥しい、特に大雪の日などは、これでは迚もよう來まいと思うていると、戸の外でコツコツ下駄の雪を落とす音がする、すると家内が「大かた來たのは井上でありませう」
と果してさうである。斯様に雪の日も雨の日も一日も休まずセッセと通うて勉學したものでした。
處が或日の事、途中で下駄の鼻緒を切ったと云って、手に提げて來たから、家内が其の花緒を修繕して遣り乍ら
「全體下駄の緒はどの邊で切れたのだね・・・」と訊くと
「家を出ると、すぐ間もなく切れました・・・」
「それなら何故家へ戻つてすげて來ませんでしたか」
「餘程戻ってスゲて來ようと思ひましたが、それでは時間が遲れますから・・・・・・いつも先生から、時間は必ず正しく守らねばならぬと教はりましたから・・・・・・其儘上がつたのです・・・・・・・・」
かう云ふ話で家内も非常に感心したものです。
(『井上圓了先生-伝記・井上円了』所収の「感想-石黒忠悳」より)


本堂のほかは小さな鐘楼があるだけの質素な寺であった。

慈光寺から車で数分、越路河川公園へ向かう。


井上円了頌徳碑
画像
















画像




















画像



















こちらは思っていたよりも大きく立派な碑であった。基壇の部分も入れると高さは五メートル近くありそうだ。
この頌徳碑は昭和三十二年、東洋大学創立七十周年を記念して越路橋のたもとに建てられたのを昭和六十二年の百周年の際、近くの越路河川公園に移設したそうだ。


側面に刻まれた井上円了略歴
画像
















百周年に建てられた記念碑画像






















周辺にはこれといった観光名所もなく、河川公園ではゲートボールを楽しむ地元の方々の姿があった。
ここから小千谷インターへ向かい再び高速道へ。長閑なひと時を過ごした越後路の秋の旅である。

<iframe width="'480'" height="'360'" frameborder="'0'" scrolling="'no'" marginwidth="'0'" src="'http://map.yahoo.co.jp/embedmap?lat=37.39137068&lon=138.81244984&sc=5&mode=map&pointer=on&s=1221567865f9dcbdb505ed826bd098bb3180f4be80'"></iframe>
詳しい地図で見る
(野球場のある所が河川公園。航空写真に切り替えて拡大(+)して見ると、センターとライトの中間辺りのところに頌徳碑がある。上方にスクロールしていって線路を越えた集落の中の墓石が並んでいるところが慈光寺。本堂の裏手に当たる。)


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