猫面冠者Ⅱ

主に東洋大学を中心に野球・駅伝などの記録・歴史・エピソードなどなど…。

入学式の日の翌朝、自宅に電話が…“今日神宮で先発してくれ!”=昭和46年春の芝工大

2011-06-19 09:53:00 | インポート
世の中、光当るところには陰あり。明と暗はつねに対なのであります…。

さる6月9日、神宮球場で全日本大学野球選手権の準々決勝が行われている頃、お隣の神宮第二球場では一橋大と芝工大が東都大学野球三部・四部入替戦の四回戦を戦っておりました。
結果は芝工大の萩原投手が一橋大を五安打完封、三部復帰を果たしました。

あえなく四部転落となってしまった一橋大は、旧制東京商科大時代の大正12年創部。東都大学野球に加盟したのは昭和10年という古豪で、その前年には東洋大・拓殖大・文理大・工大と共に五校で構成していた新大学野球リーグ戦に加盟しておりました。
東洋大学野球部の歴史-戦前⑫昭和八年東洋大学野球部の歴史-戦前⑬昭和九年~

戦後再開されたリーグ戦でも昭和21年春から3シーズンは一部に残っていましたが、22年秋に二部に落ち、以後一部への復帰は未だかなわずにいます。

昭和27年秋には二部最下位となり、三部一位の東洋大と入替戦で顔を合わせ、この時は一橋が連勝して二部に残留しましたが、翌二十八年春に当時まだ東都の一員だった明学大に敗れ三部に転落…。
逆に東洋大は昭和29年春に東工大を破って二部に昇格するのですが、『一橋大学野球部五十年史』では当時選手だった方が次の様に回想しております。

…小生が入学した二十六年当時は、新興大学の台頭期で、二部では学習院が野球部としての体制を充分整えていて断然強く、大関一人に幕下五人というような組み合わせみたいなものであった。三部には新興大学が、うようよ上位進出を狙っていたので、二部で最下位になった所が、入替えの犠牲となり、東洋、大正、上智、本学、工大という順番でおち、かわって成蹊、芝浦工大、青山、明治学院などが二部に上がった。…中略…入学当時、学習院が大正に三〇ー一位の大差で勝ち、その大正に本学は無残にも二〇ー一位で敗れていたので、ベンチにいた小生など、この分で行くと学習院とやると六百ー一位になるのではないかと気が気ではなかった。(昭和三十年卒の方の回想)

昭和二十九年の春、秋共に皆良く頑張ったが遂に本学は優勝出来ず、二位乃至三位に甘んじた。この頃から強くなり出したのが東洋大学で二部最下位の官学として粘っていた東工大を入れ替え戦で破り、勇躍二部へと上がって行った。しかしながら三部でもずば抜けたチームではなかった東洋大がそれ以後隆盛の一途を辿り、遂に一部昇格を成遂げるとは予想もされなかったのは勿論、次の入替戦では東洋大が二部の相手だと思われる程度のチームだった。東洋大は転落して来た東工大が極めて弱体化して居た為に昇格出来た様なもので、それはその秋のリーグ戦で二部にいた筈の東工大が三部校を相手に連敗を重ね、遂に最下位になるということでも証明された。然しチャンスに恵まれた東洋大は以後良くチームを整え、二年後本学と対戦した時には、三部の田舎チームから洗練された素晴らしいチームへと驚くべき脱皮を遂げていたことは、東洋大にとってチャンスを上手に生かしたと云うべきで我々三部校にとっても目標とすべき快挙と云って良いだろう。(昭和三十二年卒業の方の回想)
『一橋大学野球部五十年史』(昭和48年2月刊)より


東洋大学野球部の歴史-戦後編①昭和21年~昭和30年


一方、今回の入替戦で三部昇格を果たした芝工大の方は、戦前は東京高等商工学校という専門学校で、昭和24年に新制大学となった”新興大学”。野球部は昭和4年の創部でありますが、東都大学野球三部リーグに加わったのは昭和26年春でした。
しかしながら、翌27年春に早くも二部に昇格すると秋には二部初優勝。その後昭和32年秋に一部初昇格を果たし、昭和36年秋には遂に一部リーグの頂点へ。その後も、昭和43年秋、45年春の計三回一部リーグ優勝を果たすなど、“勇躍二部に上がった”東洋大の横を更に速くすり抜けて一部リーグの強豪へと育っていたのであります。

1950年代半ば、芝浦工業大学は、一部で“芝浦スポーツ大学”といわれるほど、スポーツに力を入れていた時期があった。新興の教育機関が知名度を上げるためにスポーツを利用することはめずらしいことではない。“製図の芝浦”と呼ばれるまでになった実践的な製図教育は、このころから行われていたが、大学の名を全国に知らしめるまでにはいかなかった。
芝浦工業大学は様々なスポーツで華々しい成績を挙げた。ハンドボール部はリーグ戦等で51連勝を誇り、世界選手権に選手を送り出したこともある。野球部は東都大学リーグの強豪として知られ、1961年には優勝。このときには多くの学生が芝浦界隈を提灯行列して、勝利を喜んだという。…中略…新聞のスポーツ面には毎日のように芝浦工業大学の文字が躍り、全国的に知名度が上がるにつれ、学生数もどんどん増えていった。運動部の学生は母校のために力を発揮し、試合では一般の学生もかけつけて声援を送るなど、多くの学生が母校の活躍に誇りを感じていた。今でも母校の勝利の喜びを懐かしく振り返る卒業生は少なくない。
(『芝浦工業大学の21世紀戦略』日経BP企画より)


といった具合に野球だけでなくハンドボールやスキーなどでも全国大会で活躍していたのでありますが、そんな芝工大のスポーツ熱を急速に冷まして行ったのが“学園紛争”だったのであります。

スポーツ学生が増えてくると、講義や試験もないがしろにする者も出てきて、次第に教員や一般学生との溝が広がっていく。運動部の振興に多くの予算をあてる大学幹部の姿勢にも反感が募り、運動部のあり方は、学園紛争が起こるひとつの要因にもなった。(同上)


上に引用した『芝浦工業大学の21世紀戦略』によると、芝工大は当時旧国鉄出身の幹部が多く、経営も結構ずさんだったようであります。その為芝工大の学園紛争には学生だけでなく、改革を目指す若手教職員なども加わって経営陣と対立する構図となってしまい、スポーツ選手の推薦入学(同書では“スカウト入学”と表現されていますが)も廃止され

…数々の輝かしい実績を残した運動部も急速に衰退してしまう。大学の知名度アップには多大な貢献をしたものの、行きすぎた強化作戦は内部の不協和音を招き、結果的に大学としてのブランドを確立するまでにはならなかった。
(同上)

となってしまったのであります。


スポーツ推薦が廃止されると新入部員も入らなくなり、三回目の優勝を果たした昭和45年春のリーグ戦も部員は三、四年生だけの二十五人。ただしこの中には四年に伊原春樹内野手、三年には道原裕幸捕手と後にプロ入りする選手が二人もおりましたが・・・。

で、45年のメンバーが三、四年生だけということは、当然46年なると四年生は卒業し新四年生のみとなってしまうわけで、おまけに監督までも社会人チームのお誘いを受けて去って行ってしまいました…。

部員はたった15人
○…今シーズンの芝工大は、たった十五人で登場した。これが野球部全員ですべてが四年生。そして監督不在。学園紛争のあおりが現れてきたものだが、守備につくとベンチにはコーチとマネージャー、控え選手の六人が片すみに残るだけのさみしさ。コーチの西山正俊君は後輩の苦境を見かねて奉仕的に着任した今春の卒業生。今シーズンは道原主将を中心に合議制で切り抜けていくという。
このままだと、四年生が卒業したあとは自然消滅となってしまうが「十三日の入学式で部員を募ります。野球の経験のあるなしをいってられない。からださえ丈夫なら入部条件はOK。応募というより“入部お願い”のかたちですよ」と西山コーチは野球部の危機を深刻に語っていた。(『毎日新聞』昭和46年4月7日付朝刊)


4月6・7日に行われた中大戦で連敗した芝工大。13日には亜大戦が行われ2-0で勝利していますが、その日の入学式で新入生勧誘、いわゆる“新歓”ってやつを行ったようであります。

ところが、その“新歓”の場にひょっこり現れたのが田島睦男君という一年生で、この人、前の年の夏に甲子園でベストエイトに進出した熊谷商業のエースだったのであります!!!

高校球児の進路がマスコミで報道されたり、ネット上でうわさが飛び交ったりする今日ではなかなか考えられないことでありますが、当時はまだまだのんびりしていたようで…ただ、のんびりしていた割に、“神宮デビュー”の方はとんでもなく早かったのでありました!


入学翌日に先発
“人不足”芝工大に待望の新人
○…四年生十五人だけの野球部員でがんばってきた芝工大に、十三日入学式をすませたばかりの一年生五人が入部、うち二人は翌十四日の対亜大二回戦にベンチ入り。しかも“甲子園男”の田島睦男投手(熊谷商高出)は、先発投手という栄誉をになった。芝工大はこの試合に打負けはしたが、三年ぶりの新入生を迎えたベンチは“春”を満喫しているようだった。
○…入部二日目に先発した田島投手は、昨夏の全国高校野球選手権に出場、二回戦の平安高戦で延長十回13-12でドラマチックなサヨナラ勝ちした熊谷商の主戦投手。芝工大工業経営学科に十三日入学式をすませたばかりだ。
○…その足で新人さがしにやっきになる野球部に志願したところ十四日朝埼玉県大里郡妻沼町の自宅に“先発通告”の電話がかかって思わず「ドヒャー」。十三日入部の50球のテストをやって合格したわけで、その間の事情を選手でマネージャーの斉藤選手は「投手二人のうち一回戦でエースの若松が完投したし、投手はノドから手がでるほどほしかった。打たれはしたが、さすが大舞台をふんだだけあって、りっぱだった」とデビューをたたえた。
○…先発投手としての成績は、二回1/3、打者十一人に投げ、5安打(うち長打2)奪三振1、自責点1。「大学野球の打球の早さにビックリした。今夜から合宿にはいります」と落着いてインタビューを受ける田島投手だった。
(『毎日新聞』昭和46年4月15日付朝刊)


驚きを「ドヒャー」と表現するあたりは時代を感じさせますねぇ~。現代語に翻訳すると「え~マジっすか?超ヤバいっすよ!」でありましょうか・・・。

入部の翌日に神宮球場で先発したのは調べたわけではありませんが、おそらくこの田島投手ただ一人でしょう。
先発した4月14日の芝工大対亜大二回戦は第二試合。当日はヤクルト対阪神戦のナイターも行われるプロ併用日でありましたが、当時のナイターは夜七時開始だったので、東都の第一試合も正午から開始でした。ですので、朝妻沼の自宅で“先発通告”を聞かされても充分間に合ったようです。

“新歓活動”の思わぬ成果?もあってか、このシーズンの芝工大は6勝7敗勝点2で四位。秋のリーグ戦でも勝点こそ1でしたが、4勝8敗で五位となり、入替戦を免れたのであります。最下位は春秋ともに勝点ゼロの我らが東洋大でありました…。(東洋大はこの“大不振”が高橋昭雄現監督への就任要請につながって行きます)

しかし、“歴史は繰り返す”のであります…というほど大げさなことではありませんが、昭和46年は四年生と一年生だけのチームですから、春が来れば当然四年生(しかも最後のスポーツ推薦組)は去っていきます…。

チーム力は超大幅ダウンで迎えた昭和47年春の開幕戦は、前季優勝の日大が相手でしたが…

寄せ集め部隊だって 芝工大
「今シーズン一勝だけはしたい」(西山新監督)--。その一勝を開幕第一戦でものにし飛上がって喜ぶ芝工大ナイン。西山監督も「まさか。信じられない。試合にはこういうことも起こり得るんですネェー。いい試合をやればいいと思っただけなのに…」と喜びと驚きの入りまじった表情をかくさない。
昨秋のリーグ戦後、部員はたった6人で休部というピンチに追込まれた芝工大。野球部主催の校内大会やポスターなどでようやく選手を集めたものの、リーグ戦経験者はエース・田島一人。だから「技術ではとてもかなわない。だが声の大きさでは負けるナ」と試合にのぞんだという。
二年生の主将・田島は昨年のエース・永瀬からもらったというネーム入りの下着の汗をぬぐいながら「うれしい。今年はコントロールが良くなったが、今日の試合でまた自信がついた」とにっこり。
(『毎日新聞』昭和47年4月6日付朝刊)


前季覇者・日大からよもやの勝利に、俄然意気上がる芝工大ナイン!

が……、残念ながらここまでだったのであります…。

つづく二・三回戦を0-8、2-7で落とし、その後も6連敗。迎えた最終カードは前年に春秋とも勝点を挙げている東洋大戦でしたが

一回戦:東洋大11-0芝工大 
二回戦:東洋大15-0芝工大 

と大差で敗れ、この試合が一部リーグでの最後の試合となってしまいました。東洋大は先ほどもちょっとふれたように、このシーズンから高橋監督(当時は佐藤性)が就任。現在まで一部通算495勝を挙げている高橋監督にとってこの試合は4勝目と5勝目、二つ目の勝点でありました。また、初の二けた得点勝利でもありましたから、“打ち勝つ野球”の原点でもあった?試合でした。



最下位・芝工大の入替戦での対戦相手は青学大でした。現在では強豪校となった青学大ですが、当時はまだ“二部の強豪”。昭和28年秋に二部で初優勝を遂げると、以後入替戦に挑むこと八回。この入替戦は実に九度目の一部挑戦でありました。

9度目の挑戦で宿願の一部へ
東都大学野球の青学大
東都大学野球一部、二部入替戦、青学大(二部)-芝工大(一部)の2回戦は九日神宮球場で行われ、青学大が連勝して一部入りを決めた。青学大は初の一部昇格。芝工大の二部転落は四十二年秋以来で、通算3度目である。
一部昇格は相撲でいえば十両から幕内にはいったようなものだが、青学大にとってはこれまで8度も挑戦して破れなかったカベを突き破ったとあって約五千人の学生応援団は大喜び。「芝工大は学園紛争で二年生が最上級生、チーム力も落ちているのでチャンス」とはりきっていた選手たちも宿願達成に、監督13年の近藤監督を何度も胴あげし、渋谷の青山学院大までパレードをした。
敗れた芝工大の田島主将は「必ず、かえってきます」とくちびるをかたくかみしめ、応援学生の前でうなだれていた。
(『朝日新聞』昭和47年6月10日付朝刊)

(昔は一部昇格でパレードしたんですねぇ~。そしてそれを一般紙でもこんなに大きく報道していたのであります…。) 


青学大はこの後何度か二部落ちを経験しますが、昭和63年秋(昭和最後のシーズン)に一部初優勝を飾り今日に至っております。

芝工大の方はその後二部での優勝もかなわず、昭和51年春の入替戦で遂に昭和26年秋以来の三部リーグ陥落となってしまいました…。




今年、大学日本一の座に輝いた東洋大と、三・四部入替戦で顔を合わせた一橋大、芝工大。
いまでは大きく差が開いてしまいましたが、かつては上位進出を目指し、ともにしのぎを削っていたのであります。

また、現在の東洋大と芝工大の差は野球の実力というより、私学の経営戦略の違いと言ってもいいかもしれません。

とは言え、神宮球場でプレーする一部リーグも各校のグラウンドを主球場とする三・四部リーグも、同じ東都大学野球。
秋のリーグ戦が始まったら時にはこちらの方の試合結果も覗いて見るように心がけておきたいものです。

なにしろ芝工大にだって“甲子園球児”もいるのですから…いえいえ、昔の話じゃありません。
この春、三部昇格の立役者となった芝工大の二年生エース萩原大輝投手は横浜隼人高時代に甲子園で花巻東高・菊池雄星投手と投げ合った経歴の持ち主なのであります。
ただし、初登板が入部翌日だったかどうかは調べていませんが…。




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動画:’11大学野球選手権決勝=東洋大対慶應大

2011-06-12 23:22:00 | インポート
心配されたお天気も何とか持ちそうな日曜日。いよいよ大学選手権決勝であります。
対戦相手は公式な大会では初めて当たる慶應大学。

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三塁側応援席の窓口も結構並んでおりました。



東洋スタメンアナウンス
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“三田の理財”だけあって慶應は選手の名前にも“金”や“福”が・・・の訳ないか!



試合開始
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東洋先発は三連投藤岡。なんやかんや意見はあるようですが、ここまできたら藤岡の左腕に託すしかない東洋。



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初回を三者凡退にかたずけたものの、今一つフォームにいつもの躍動感がないようにも見えました…。

その裏東洋の攻撃は一番小田から。


一回裏・東洋小田のヒット
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不調だった一番打者がヒットで出塁するとすかさず…。

小田盗塁
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二番上原が倒れた後、主将の鈴木大地が打席へ。


東洋先制
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画面では切れてますが慶應一塁手のエラーで幸先良く先制。更に東都の首位打者戸田もヒットで続くと藤本もこのバッティング!!


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ところが二塁走者鈴木大地選手がこの走塁……。


一死一、二塁で藤本長打も…。
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てっきり“二点目のホームイン!”と思ってカメラを向けたのですが・・・。

結局この回の攻撃は一点どまり。

二回表には慶応大伊藤選手と藤岡投手の対決。


二回表、慶應・伊藤選手の初打席
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注目の対決は三球三振。

試合が始まっても観客は増え続けて、次第に立錐の余地なし・・・とまでは行かなくても“立三脚の余地”がなくなって来たので、いつもの様に動画カメラを固定することが出来なくなり、静止画像用と動画用をその都度持ちかえて撮影することに…。くわえて段々撮影よりも観戦に力点が移っていったため、慶應が同点に追いついた場面は動画も静止画もありません・・・ごめんなさい!

で、試合は延長戦に。10回表、ついに藤岡投手に異変が!

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リーグ戦から全試合に登板、“腕も折れよ”と投げ続けた藤岡投手の足がつった…。

それでも何とかこの回を抑えると、そついにその力投が報われる時が…!

小田選手のサヨナラ本塁打
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叫んでいるのは後ろにいた方で筆者ではありません、念のため。

延長10回の熱戦に終止符を打った小田選手も試合後にインタビューを受けました。

試合後のインタビュー
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閉会式
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劇的な幕切れで“選手権連覇”を果たした東洋大ですが、初対戦の慶應も最後まで健闘した熱戦でありました。

秋の神宮大会でも“陸の王舎”や“ダッシュ慶應”を聞きたいものであります。

慶應のエール
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