先日、たまたま某“新古書チェーン”の棚で『鹿実野球と久保克之』と云う本を見つけ購入した。南方新社と云う聞きなれない出版社名だったこともあって、何げなく手に取ってみたのだが、目次の中に“下川洋一”選手の名が有ったためである。
第二章で取り上げられている“下川洋一”選手は、鹿実卒業後東洋大に進んだ人。初優勝を決めた昭和51年秋の対専大戦では二番セカンドでスタメン出場していた選手である。
鹿児島実業で昭和42年から35年間監督を務めた久保克之氏が初めて甲子園出場を果たしたのは昭和47年春の選抜大会なのだが、この時主将としてチームを引っ張ったのが下川選手だった。
同書によれば下川選手は中学時代、168㎝と小柄ながらエースで四番、足も速く市内の陸上競技会では陸上部の選手を抑えて優勝したこともあったそうだ。
鹿実では一年の時からベンチ入りを果たし、二年秋の新チーム結成で主将となった。秋の県大会では準決勝で敗れ、通常なら選抜の夢は消えてしまうのだが、この年は九州大会が地元での開催だったため鹿児島からは三校の出場枠があり、三位決定戦を勝ち抜いて九州大会に進出することができた。
そして、九州大会では優勝し甲子園出場の夢を叶えたのである。
選抜時のチーム紹介記事には次のように書かれている。
選抜では一回戦で取手一高に3-0で勝ったが、二回戦では銚子商に2-3の一点差で敗れた。
下川選手は二試合とも一番ショートで出場し、銚子商戦で一安打を放っている。
最後の夏は県大会準決勝で鹿児島商に敗れ、再び甲子園の土を踏むことは出来なかった下川選手は、東洋大へ進学したのだが、あまり出場機会には恵まれなかったようだ。
筆者が当時の新聞記事を基に集計してみた大学四年間の通算成績は以下のとおりである。
四年の最後の試合、昭和51年10月22日の対専大二回戦で初めてヒットを放ちフル出場を果たしたが、この試合こそ東洋大が東都大学野球で初めての優勝を決めた試合だった。
試合の模様はテレビでも生中継されたが、放送の中では担当アナと解説の中大・宮井監督の間で次のようなやり取りもあった。
大事な一戦で抜擢された下川選手は自身にとっても初安打となるこの試合のチーム初安打を放ち、大学最後の試合でフル出場、東洋大の初優勝をセカンドの守備位置で迎えたのである。
対専大戦で初安打を放った下川選手-YouTube動画より
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http://www.youtube.com/watch?v=ZcadEUWGFRc&feature=channel_page
*打球をはじいた専大のショート・八角選手は選抜で敗れた銚子商出身。三番ショートで対鹿実戦に出場していた。
『鹿実野球と久保克之』によれば、2005年に行われたマスターズ甲子園に鹿実OBチームが予選を勝ち抜いて甲子園に出場、下川選手はOBチームの監督として再び甲子園の土を踏んだとのことである。
関連記事:生中継された初優勝=東洋大野球部の歴史-エピソード⑥
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第1部 | 鹿実野球部と人間・久保克之を語る |
---|---|
第1章 近くて遠い人――妻・久保妙子 | |
第2章 「久保野球」の基礎――下川洋一 | |
第3章 ターニングポイント――定岡正二・松元昭義 | |
第4章 「二代目」の生き様――竹之内和志 | |
第5章 二人の「親父」――川島英和 | |
第6章 「どん底」から「最強」へ――宮下正一 | |
第7章 「かごしまの母」――池本弘乃 | |
第8章 子供たちのための野球を――吉留勝己 | |
第9章 「三つ巴」がもたらしたもの――小鷹英雄 | |
第10章 「全国制覇」を託された男――枦山智博 | |
第2部 | 久保克之自伝 |
第1章 私の野球歴 | |
第2章 「遠き甲子園」を求めて | |
第3章 私の指導理念 |
第二章で取り上げられている“下川洋一”選手は、鹿実卒業後東洋大に進んだ人。初優勝を決めた昭和51年秋の対専大戦では二番セカンドでスタメン出場していた選手である。
鹿児島実業で昭和42年から35年間監督を務めた久保克之氏が初めて甲子園出場を果たしたのは昭和47年春の選抜大会なのだが、この時主将としてチームを引っ張ったのが下川選手だった。
同書によれば下川選手は中学時代、168㎝と小柄ながらエースで四番、足も速く市内の陸上競技会では陸上部の選手を抑えて優勝したこともあったそうだ。
鹿実では一年の時からベンチ入りを果たし、二年秋の新チーム結成で主将となった。秋の県大会では準決勝で敗れ、通常なら選抜の夢は消えてしまうのだが、この年は九州大会が地元での開催だったため鹿児島からは三校の出場枠があり、三位決定戦を勝ち抜いて九州大会に進出することができた。
そして、九州大会では優勝し甲子園出場の夢を叶えたのである。
選抜時のチーム紹介記事には次のように書かれている。
守りはよく訓練されている。なかでも主将の遊撃手下川と三塁手手島、二塁手奥平が見せる内野コンビのイキのあったプレーはあざやかだ。問題は攻撃力だ。3割打者は三番の下川一人でチーム打率も2割4部7厘と低い。過去6敗のうち1点差で負けた試合が4試合ある。・・・
(『毎日新聞』昭和四十七年三月七日付朝刊)
選抜では一回戦で取手一高に3-0で勝ったが、二回戦では銚子商に2-3の一点差で敗れた。
下川選手は二試合とも一番ショートで出場し、銚子商戦で一安打を放っている。
最後の夏は県大会準決勝で鹿児島商に敗れ、再び甲子園の土を踏むことは出来なかった下川選手は、東洋大へ進学したのだが、あまり出場機会には恵まれなかったようだ。
筆者が当時の新聞記事を基に集計してみた大学四年間の通算成績は以下のとおりである。
打数 | 安打 | 打点 | |||||
昭和48年(一年) | |||||||
春 | 出場なし | | |||||
秋 | 出場なし | | |||||
昭和49年(二年) | 春 | | |||||
5月16日 | 中大 | 二回戦 | 代走 | | |||
5月17日 | 中大 | 三回戦 | 八番 | 代打 | 0 | 0 | 0 |
5月28日 | 駒大 | 一回戦 | 代走 | | |||
5月29日 | 駒大 | 二回戦 | 代走 | | |||
| |||||||
秋 | | ||||||
9月12日 | 亜大 | 二回戦 | 代走 | | |||
9月19日 | 中大 | 一回戦 | 代走 | | |||
10月5日 | 専大 | 三回戦 | 代走 | | |||
10月9日 | 日大 | 二回戦 | 代走 | | |||
10月10日 | 日大 | 三回戦 | 代走 | | |||
昭和50年(三年) | | ||||||
春 | 出場なし | | |||||
秋 | 出場なし | | |||||
昭和51年(四年) | | ||||||
春 | 出場なし | ||||||
秋 | | ||||||
9月7日 | 日大 | 一回戦 | 九番 | 二塁(途中出場) | 0 | 0 | 0 |
9月30日 | 亜大 | 二回戦 | 代走 | | |||
10月13日 | 駒大 | 二回戦 | 二番 | 二塁(途中出場) | 0 | 0 | 0 |
10月15日 | 駒大 | 三回戦 | 二番 | 二塁(途中出場) | 1 | 0 | 0 |
10月21日 | 専大 | 一回戦 | 二番 | 二塁(途中交代) | 2 | 0 | 0 |
10月22日 | 専大 | 二回戦 | 二番 | 二塁 | 4 | 1 | 0 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
|
四年の最後の試合、昭和51年10月22日の対専大二回戦で初めてヒットを放ちフル出場を果たしたが、この試合こそ東洋大が東都大学野球で初めての優勝を決めた試合だった。
試合の模様はテレビでも生中継されたが、放送の中では担当アナと解説の中大・宮井監督の間で次のようなやり取りもあった。
アナ: | この下川は鹿児島実業出身の四年生ですが、いつもは新人監督やコーチ役が主らしいですが、 |
大事な一戦と云う事で四年生を使っております佐藤監督・・・・あまり出てないでしょ?。 | |
宮井: | 出てませんねぇ・・・・・。渡辺君て云うのが出てるんですけどね。 |
アナ: | その渡辺君は真面目でいい男なんだけど、どうも堅くなるといけないんで、今日は四年生で行くと話していた |
佐藤監督であります・・・。 |
大事な一戦で抜擢された下川選手は自身にとっても初安打となるこの試合のチーム初安打を放ち、大学最後の試合でフル出場、東洋大の初優勝をセカンドの守備位置で迎えたのである。
対専大戦で初安打を放った下川選手-YouTube動画より
</object>
http://www.youtube.com/watch?v=ZcadEUWGFRc&feature=channel_page
*打球をはじいた専大のショート・八角選手は選抜で敗れた銚子商出身。三番ショートで対鹿実戦に出場していた。
『鹿実野球と久保克之』によれば、2005年に行われたマスターズ甲子園に鹿実OBチームが予選を勝ち抜いて甲子園に出場、下川選手はOBチームの監督として再び甲子園の土を踏んだとのことである。
関連記事:生中継された初優勝=東洋大野球部の歴史-エピソード⑥
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