猫面冠者Ⅱ

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井上円了の見た東北=『南船北馬集』に描かれた被災地

2011-04-03 14:07:02 | インポート
悪夢のような大震災から三週間余りがたち、東京では余震も少なくなり大分落ち着きを取り戻してきた感はあるけれど、ニュースで被災地の様子を目にするたびにどうしても暗い気持ちになってしまう。

十年ほど前に出張で訪れたのを最後に東北へは足を運んでいなかったけど、テレビで自分にもいくらか馴染みのある町のことが報じられると、記憶の中にある風景との落差にやはり悲しくなってしまう。

月並みな言葉でしか言い表せないけれど、一日も早い復興と亡くなられた方のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

東洋大学の創立者・井上円了は明治三十九年に病を得て学長の座を辞した後、国民道徳を普及するため修身教会という社会教育の運動を興し「巡講」と称して全国各地を講演をして歩き、その記録を『南船北馬集』という紀行文にまとめている。講演先は全国各地におよび、東北六県もすべて訪れている。
今回、あらためて震災の中で特に甚大な被害を受けた太平洋側の地域の記事を調べてみたところ、下記の様な行程で回っていた。



館主巡回日記 秋田県 青森県 岩手県 明治24年 8/8~9/6 大館・弘前・花巻等十九市町村
福島県一部紀行 明治43年 10/22~10/30 郡山・猪苗代・須賀川等九市町村
福島石白三郡巡講日誌 大正3年 10/18~11/4 三郡、十二町村、十二カ所
茨城珂北三郡およびほか二郡巡講日誌 大正3年 11/5~12/1 一市、六郡、三十町村、三十三カ所
福島県信達三郡巡講日誌 大正3年 12/10~12/27 一市、三郡、十七町村、二十カ所
宮城県一部巡講日誌 大正6年 7/1~7/9 一市、十三郡、六十七町村、七十七カ所
岩手県巡講第一回日誌 大正6年 7/10~8/14 (上記に合算)
岩手県巡講第二回日誌 大正6年 8/26~9/21 (上記に合算)
青森県巡講第一回(旧南部)日誌 大正7年 7/25~8/13 二市、八郡、三十九町村、五十一カ所
青森県巡講第一回(旧津軽)日誌 大正7年 8/14~9/5 (上記に合算)
福島県会津巡講日誌 大正7年 10/14~11/10 一市、四郡、二十四町村、三十三カ所



この中から、大正六年に訪れた宮城県と岩手県の日誌から被害が甚大だった町の往時の様子を偲んでみたい。

宮城県

登米市
五日 雨。行程三里半のところ、朝大雨を冒して南方を発し、佐伯ホテルにいて換車して登米町に至る。車上所見一首あり。

雨水貫村灌万田
秧波如海望蒼然
車過佐沼城東路
本吉連山鎖一辺
(雨をあつめた水は村をつらぬいて流れ、幾千万の田にそそぐ。稲苗は波うって海のごとく茫々として青い。車は佐沼の東の道をよぎる。本吉郡の連山は一方をとざしているのである。)

会場は小学校、発起は町長伊達寧裕氏、校長大槻金蔵氏、助力者村田栄治、佐藤十二郎諸氏なり。哲学館出身阿部広之進氏は久しく中等教育の従事せられしが、不幸にして失明の人となり、この地に帰臥す。当町は北上川の岩頭にありて郡内第一の都会なり。不日、船橋を架設する計画あり。名物としては風鈴世に知らる。また、豆腐もその名高し。この豆腐はかたきをもって特色とす。福七旅館において晩食の際、町内製紙場失火の警鐘を聞く。登米町の隣村に赤生津と名付る一村落あり。飲酒をもってその名を知らる「赤生津赤椀下戸八杯」との俚言あり。下戸ですらも大椀八杯を傾くとの意なり。

六日 晴れ。早朝六時の北上川の気船に駕し、下行して本吉郡柳津町に着す。里程一里半なり。これより石巻港まで更に七里半余ありという。昨来の大雨により川大いにみなぎる。ただし両岸の深緑染むるがごとくなるは吟眸を洗うに足る。柳津会場は小学校、主催は町教育会、発起兼尽力者は町長亀井陽儀氏、校長佐藤弘毅氏、ほか数氏、宿所は佐々木旅館なり。…中略…また、本町に虚空藏菩薩あり。これを日本三虚空蔵の一として信者遠近より雲集す。その三とは防州の柳井津と会津の柳井津と当所なり。本軍は水田乏しきために、本業は養蚕と林業なり。また、沿岸には漁業あり。



南三陸町
七日 晴れ、ただし風あり。渓間を出入りして海岸を出でて、折立を経て志津川町に至る。行程五里なり。今朝、山路を一過するとき路傍に蛇を見たり。車夫曰く、今日は縁起がよいと。けだし、この地方にて朝蛇を見るを吉兆とする迷信あるによる。また、途上に納税模範の表札を掲げたる家あるを認む。これ納税を奨励する手段ならん。車上所吟、左のごとし。

本吉渓頭趁暁嵐
夏山一望緑於藍
寒村生計却豊富
業在植林兼養蚕
   
(本吉郡の渓谷のあたり、暁の嵐に乗じて行き、夏山を一望すれば藍よりも緑が豊である。このわびしげな村の生活はかえって豊かであり、その仕事は植林と養蚕を兼ねているからである。)

折立より志津川までの沿岸二里の間は太平洋に面し、湾曲あり、小嶼ありて、風光絵のごとし。会場は小学校、主催は青年団、発起は団長松原甲介氏、副団長勝倉弥一郎氏、郡視学大和田徳蔵氏等なり。当町は郡役所所在地なれば、郡長菊池忠良氏来訪せらる。宿所菅原旅館にありて当所の物価を聞くに、草鞋一足二銭ないし三銭、湯銭二銭、斬髪料十二銭、人力車一里三、四十銭、按摩五銭となりとす。按摩の安きは日本一ならん。


気仙沼市
九日 晴れ。車行五里、海浜に沿って車走し、郡内第一の都会たる気仙沼町に至る。途中、往々風光の明媚なるあり。午後、小学校において開演す。聴衆満堂、千人以上と目算す。主催は町長鮎貝盛徳氏、校長臼井千代吉氏、役場書記関口徳治郎氏、同菅原八十吉氏、助役大森美代吉氏、水産学校長菊池伊三郎氏および教員数氏にして、みな大いに尽力せらる。また、夜に入り劇場鼎座において、各宗寺院の依頼に応じ開会す。場内立錐の地なきほどの盛会を見る。その寺院は観音寺、宝鏡寺、ほか六ヶ寺なり。補陀寺住職白鳥励芳氏は哲学館出身たり。宿所は有志熊谷乙治郎氏の宅にして、その楼上は最も清凉なりとす。揮毫所望者すごぶる多く、昼夜筆硯に忙殺せらる、当町は戸数一千五百を有する都会なるが、二年前、全部祝融の災にかかりたるも、日ならずして再築全く成り、面目を一新するに至れり。これ市街は地狭く山海の間に介立するにもかかわらず、港湾深く入りて船舶の出入に適し、沿岸海産物の集散地なるの便を有するによる。また、当湾内の眺望は対画の観あり。よって一吟す。
   
碧灣深入海如湖
雨棹晴帆欺画図
舟子帰時人作市
気仙沼是一魚都。
   
(みどりの湾が深く入りこんで、海は湖のごとく静かである。雨にさおさすも、晴れに帆を張るも、あたかも絵画かと思われるであろう。舟人の帰るときには人が集まって市をなす。気仙沼はまさに一魚都なのである。)

本吉郡沿岸は大抵明治二十九年度、三陸大つなみの災にかかりしも、ひとり気仙沼は海灣深く入りしためにその災をまぬがれたりという。



岩手県

陸前高田市
大正六年七月十日 晴れ。朝、宮城県気仙沼町を発し、山路五里の間、腕車通じがたきにつき、迂路をとり、矢作嶺を登降して岩手県陸前国気仙郡高田町に至る。行程六里半。町外に一帯の松林の海に沿うありて、自然に防風波堤となる。夏時の海水浴場に適す。会場は昼間小学校、夜間浄土寺、主催は教育会および法雨会、発起は町長滝上嶋治氏、校長横田丈平氏なり。旅館金十は繭商なれば、階下の各室は繭積んで山をなし、その臭階上に漸入す。ただし旅館としては郡内第一と称せらる。町内の名物に柚子羊羹あり。これを喫して一句贈る。「名物にうまい物なき世の中に、柚子羊羹は独り例外」。この隣村気仙村は哲学館出身菊池武毅氏の郷里なり。



大船渡市
十二日 晴れ。車行四里、駅路海灣に沿い、風光の美はほとんど松島を欺かんとす。車上吟一首あり。

湾又湾々巒又巒
明山媚水気仙攅
今年不用避炎暑
随処潮風夏亦寒。
   
(海岸線は湾また湾、山また山、山紫水明の美は、この気仙沼にあつまる。今年は避暑を考える必要はなく、いたるところに潮風が吹きぬけて、夏なお寒いのである。)

会場は昼間盛町小学校、夜間同町浄願寺、主催は教育界および法雨会、発起は町長刈谷友治氏、助役伊勢栄蔵氏、会場住職丸子随宣氏なり。しかして教育会長は郡長関広治氏、法雨会長長安寺住職金正解氏なり。郡視学小林庄助氏は郡内各所を案内せらる。当町には王子陵と名付くる古碑あり。敏達天皇の皇子との説あれども定かならず。…中略…十三日 炎暑。昼食後、車行一里、立浪村に入る。山麓にあり。会場は安養寺、発起は校長千葉慶三郎氏、住職及川良順氏、元村長今野一郎兵衛氏等なり。この日日中[華氏]八十六度にのぼる。演説後、盛町に帰り、これより更に車行二十七町にして大船渡村に至り、小学校にて夜会を開く。発起は村長新沼貞雄氏、西光寺富沢鳳洲氏なり。宿所佐藤旅館は東京風の設備を有す。



釜石市
(二十一日)…釜石町宿坊石応寺に着せしは午前十一時なり。遠野よりは大矢氏、世を送りてここに至る。当寺は郡内にて一、二を争う巨刹にして、堂宇、書院ともに完備す。目下建築中の山門は県下無二ならんという。住職は菊池智賢氏なり。本日の会場たる小学校は生徒千七百人を有し、校舎の広くしてかつ美なるは県下屈指の一におる。発起は町長服部保受氏、校長那波勝治氏、助役菊池新之助氏等にして、役場吏員みな大いに尽力せらる。当町は明治二十九年、三陸つなみの中心にあたり、町内五千人の人口中、四千人溺死せりという。近在には一村落全滅、ただ一人、他行中にて免れたる所ありと聞く。宿寺の境内に二基のつなみ記念碑あり。寺内には地蔵尊を安置するために、子供のオモチャを付けたる紙傘を多くつるせるを見る。現今の釜石町は日本唯一の鉄鉱地なりとて、しtにもぶ。目下の戸数四千四百と称す。海産物の年額は四十万円という。港内に桟橋を設け、昼夜汽車汽船の来往するがごときは東北第一の港というべし。この地に寄留せる紀州九鬼港人、旧館外員宮崎嘉助氏来訪あり。釜石の実況を賦したる拙作を左に録す。

仙嶺之南釜石湾
風光自作紫明関
富源無尽蔵知否
半在波頭半在山

(仙人嶺の南に釜石湾がひらけ、風光はおのずから山紫水明の地を作り上げている。この地の富の源は尽きることなく、人はそれを知っているのか否か。そのもとは半ばは海にあり半ばは山にあるのだ。)



大槌町
七月二十二日(日曜) 穏晴。海上無波、朝七時出航、二時間にして大槌町に着す。港内砂州ありて、船の出入に便ならず。釜石よりここに至る陸路わずかに三里半なるも、山多くして車馬通ぜず。故に陸の孤島にひとし。ただし、養蚕、漁業とも盛んなり。目下、鰹魚、烏賊の漁期に入る。午餐後、鶯声を聞きながら岩間旅館の楼上に仮眠するに、なんとなく仙境の趣あり。会場は小学校、発起は吉井金助氏、助役金崎藤兵衛氏、校長沼里末吉氏等なり。隣村鵜住村藤原広順氏は、哲学堂へ若干円を寄付せらる。郡内は牧野郡書記、案内の労をとりてこの地におよぶ。



山田町
二十三日 炎暑。大槌より下閉伊郡山田町まで陸路五里の間、車道通ぜざれば余儀なく海路をとる。汽船延着のために午後十二時半乗船、四時山田着す。海上風波なく、水面油のごとし。気仙より本郡に至るの間、一帯湾曲の出入多く、往々青巒松嶼の点在するありて、一望のもと、人をして東北の絶勝は、あにただ松島のみならんやを想起せしむ。午後六時、劇場高砂座において講演をなす。発起は町長大久保喜重治氏、助役船越儀七氏、松江寺住職藤岡智寿氏なり。郡視学高野中四郎氏、ここに来会せらる。当町には漁業家多し。名物として鮫氷と名付くものあり。鮫の骨より製出すと聞く。これを味わうに海草のごとし。東京にてはその魚類よりとれるを知らずして、これを精進料理に用うる由。宿所は関嘉旅館なり。



宮古市
二十五日 炎暑。宿所より宮古町まで陸路二里半の所、海路をとり、扁舟棹さすこと一時間、清風に向かい晴嵐を破り、名のごとく本郡の都に至る。その地は湾を抱き川を控え、風光明媚、これに加うるに船舶の出入多く、市街は鍬ヶ崎町と相連なり、両町を合すれば人口一万五千を有し、沿岸第一の都会と称せらる。当地方は漁業の中心なれば、県立水産学校あり。盛岡市をへだつること二十七里、隔日自動車の往復あり。八、九時間にて達するという。乗車賃四円二十銭、盛岡と上野間の汽車よりも大井に高し。午後、常盤座において開演す。郡長小川順之動氏は余の演説を賛成して所感を述べらる。聴衆満場。主催は両町青年会にして、発起は小川郡長はじめとし、町長関口松太郎氏、青年団長中嶋源三郎氏(小学校長)、善林寺住職東館大道氏(哲学館出身)等、および鍬ヶ崎町長佐々木松平氏、同校長太田玉次郎等なり。いずれも多大の尽力あり。昼夜、揮毫に忙殺せらる。閉伊郡内は山岳縦横に起伏し、道険にして車通ぜざる地多く、あるいは馬あるいは舟、毎日乗り物を異にするところ、また多趣味を感ず。よって一絶を得たり。

両閉風光畫不如 
奈何途嶮脚難舒
斯行日々却多趣
昨馬今舟明是車

(上閉伊、下閉伊両郡の風光は画にもえがけぬ。道は険しく、足もすすめがたきをどうしようか。かくのごとき行路の日々は、かえって多くのおもむきを作り出し、昨日は馬、今日は舟、明日は車といったおもしろみがあるのだ。)

宿所熊安旅館は当町第一の客舎にして、名物粕煮を供せらる。これ当地方の漁家一般に用うる調理法にして、まず酒粕の汁を作り、その中へ鮮魚を入れて煮るものなり。その味すこぶるよし。決して漁家にばかり専有せしむべきものにあらず。その他、当所の名物はメノコ飯とアワビのトロロなり。メノコ飯は海草のワカメを飯に混じたるもの、アワビのトロロは芋の代わりにアワビをすりてトロロに作りたるものをいう。朝夕、街上にドンコドンコと呼ぶ声を聞く。これ魚売りなるは奇なり。…中略…

(二十六日)宮古[町]に入りしときは夜十時を過ぐ。宿所は当町第一の大坊、曹洞宗常安寺なり。林深く境幽に同ひろく、最も消夏によろし。住職は高橋超三氏なり。
二十七日 曇り。午後、宿坊において開会。主催は住職にして、発起は華厳院久保田東伝氏、江山寺上館全霊氏とす。東洋大学出身三浦文道氏[鍬ヶ崎町心公院)も助力あり。この日、当所の名勝たる淨土浜を一見せんと欲して果たさざりきは遺憾なり。聞くところによるに、その地鍬ヶ崎町湾内にありて、奇石怪嵓(かいがん)前後に兀立(ごつりつ)突出し、風光の秀美言語に絶すという。余、その絵葉書を見て一詩を案出す。

一帯浜頭開別郷
呼為淨土意深長
観来水態岩容妙
想起娑婆即寂光

(一帯の浜べには別世界の地が開け、淨土と呼ぶ意味はまことに深いものがあろう。見れば水のすがた、岩のかたちも絶妙で、娑婆はすなわち寂光〔現世はすなわち仏の世界〕と思ったのである。)

演説後、水産学校長塚本道遠氏の厚意により、石油発動機に駕し、宮古湾を発して外海に出ず。逆風のために波やや高く、舟大いに揺動す。沿岸往々、巌石の骨立せる奇観あり。



講演はいずれの町でも町長や教育、寺院関係者によって主催され、各地の東洋大(哲学館)出身者も協力を惜しまなかったようだ。聴衆も多く集まったようで、岩手県の一関で行われた時は大相撲の巡業が来ていたにも関わらず「聴衆充溢、殆ど立錐の地なし」の盛況だったそうだ。
その一方で宿所では名物料理を味わい景勝地で漢詩を読むなど、道中も大いに楽しんでいる様子も文面からは伝わってくるのである。

かつて、井上円了が吟じた三陸の明媚な風景は、今どうなっているのだろう…。

ただ、円了も文中で何度となく触れているように、この地方は明治二十九年の三陸大津波でも大きな被害を受けたところでもある。ここに描かれているのはそれから二十一年後の事であるが、釜石の様に“町内五千人の人口中、四千人溺死”したにも拘らず、すでに“景気すごぶるよく、町民なんとなく活気を帯”びている町もある。

時代も社会状況も全く違うのでい一概には言えないけれど、町の人達が平穏に暮らし、訪れた人が思わず“一詩吟じ”たくなるような明媚な風景を楽しめる日々を一日も早く取り戻せるよう切に祈りたい。




*かつて円了が宿とした宮古の常安寺など幾つかの寺院は現在避難所となっているところもあるようだ。

(引用はいずれも『井上円了選集』第12巻~15巻所収の「南船北馬集」より)