「包括適応度とシステム」
というタイトルで昔書いたのをサルベージ
最近このテーマで思惟してないなぁ
システムの進化(ある時空間における適応度の向上)は、ストレスが閾値に達したとき生じるという仮定を立ててみる。
無→正反エネルギー(電子とかクォークとかの素粒子と力?)→原子→分子→結晶とかアミノ酸とか→細胞→生物→生態系・・・
「無」が不安定で有形化(振動・波動?)しなければならなかった理由(原因)があるはず。放射性元素や3重水素などが地球では崩壊してしまうようなもんか? もちろん高エネルギー物理学はわからん・・・
生物進化とは、淘汰の結果、絶滅しなかった種が存続してゆくということだけれども、安定した物質も非平衡開放系たる生物も、淘汰を免れたシステムなわけで。都市化して環境を自己に逆適応させたヒトの未来は如何に。
以下、別のブログさんでコメントしたものを転載したとです。
包括適応度の概念はゲーム理論など、数学的なもので、きわめて「論理的」であり、そこに私は魅力を感じます。
「最適」というのは100%ないし、限りなく100%に近いというニュアンスだと思いますが、最適の状態を知ることは難しいかと。んで色々試すわけですが、ほとんど失敗=淘汰されたり寿命が短い(放射性元素など)。この「試す」というのを少ないエネルギーで短時間に行う機能を持っているのが人間です。「想像」や「仮想」が人間や類人猿において特に観られる能力であり、人間たらしめていることなのはそういった理由です。
自然科学において「理論」「法則」は「仮定」であることもあれば、量子サイズでは間違っているニュートン力学のように、そう考えると分かりやすい(特定の局面においてのみ成立する)というものもあります。社会科学の場合はアバウトで「傾向」ぐらいの意味のときが多いですね。でもその「傾向を表す」というのは実は自然科学でも同じです。
「生物進化」について、ダーウィニズムにせよ、ネオダーウィニズムにせよ、根本には「淘汰」の概念があると思います。これは生物に限らず、あらゆるシステムにいえることで、或る存在(有)は、或る時空間に於いて、在ることが許されている?わけですね。俗にいえば「あらゆることには意味がある」とか「生きていることには意味がある」とかですが、「意味」といっても形而下で「役に立つ」という意味ではなく、「理由」や、ニュートラルなニュアンスの「原因・結果」のような。
シュレンディンガーの猫が表しているのは「存在」が「確率」であるということです。「原因」とか「結果」は論理における左辺と右辺ですが、確率的に変化する時空間における過去と未来なので、イコールでは結ばれません。あくまで確率です。
そして淘汰を免れ存在するということも確率であり、それを生物学において表しているのが包括適応度です。生物といってもエネルギーの局所的時空間における特殊状態に過ぎませんから、その存在も確率的であり、遺伝コード(種とか)の存在(存続)も確率的なわけです。
子孫を残すといっても、真核生物においては減数分裂によって自己の遺伝子は半分しか残せないと単純にはいえるわけで、クローンを残さない方法をとるこのような生物が進化によって生じたのもマクロでは確率が高くなる場合もあるからでしょう。(減数分裂の生物学的意義を参照)
部分的に無駄やバグのあるコンピュータプログラムやスクリプトでも出力(結果)が目的に適っていればいいわけです。アツいプログラマーでない限り細かいことは気にしないでしょう。
遺伝子がデジタルなプログラムであるように、物理「構造」はそれ自体が「機能」でこれは存在の両面です。単純化すると、この世はエネルギーがシステム(物理的構造・機能)をもって存在していて、あらゆる時空間・サイズにおいてこれは絶対です。ニュートリノだろうと銀河系だろうと。
包括適応度に対し「あくまで状況があってそれに後付けの説明をしているにすぎないのではないか」とおっしゃられていますが、「理論」「法則」とはそもそもそういったもので、この世の「構造・機能」が様々な局面において確率的に現れるものを人間が理解し表すことだと思います。
「部分的に無駄やバグのあるコンピュータプログラムやスクリプトでも出力(結果)が目的に適っていればいいわけです」
と書いたのは「全体としては~」のことを言いたかったのでした。
もちろん「目的」は人間の作為の場合だからです。
先のコメントの始めの方で「最適」「100%」としているのは「存在可能性」についてで「目的」があってのことではありません。全然言葉が足らなかったですね。ただ「最適」はニュートラルな場合にも使用されると思います。「適者生存」なんかもそーゆーニュアンスかと。
これを勘違いか意図してか優生思想とか優生政策に援用するのが問題なのですよね。
事実と「べき」(倫理)について考えてまして、たとえば殺人はなぜいけないのかと(永井均の著作がありますね)考えて、なぜいけないということになったと考えて、いけない場合にどんなメリットがあるのかと考えて、そういった倫理(価値観)の「成立が」包括適応度や淘汰思考で説明できるのではと考えています。
つまり、人間のうち倫理を持った者の方が包括適応度が高い→生存・倫理が普及、ということではないかと。そのとき倫理の内容や価値のおき方も適応と絡んでくるのでは・・・ などと考え中です。
「ミーム~」というのはシャレでして。非目的論的世界観の唯物・決定論者なもんで、色即是空というか対自即自というか、ゆる~く思惟してます。
2009年3月21日 (土) 03時05分のコメントで
>包括適応度の向上という目的のために
とありますが、「ために」というのは厳密な生物学的理解の妨げになります。進化論(ネオダーウィニズム)において「進化」とは、何か「目的」があってとか、最適化する「ため」とか、そーゆー積極的(Active)なことではないのです。あくまで適さないものが「淘汰」される(絶滅する/数を減らす)ということ。
2009年3月22日 (日) 00時46分のコメント
>包括適応度の向上のために私たちが倫理を作り上げたのだと言い切ることはできない
そうですね。「道徳」はルールですが、時代・地域で色々ありますよね。そのなかで(時間的に)存続し、多くの人間に受け入れられているというのはその道徳自体の進化(淘汰)の結果です。このとき、その道徳の進化なのか、その道徳を採用した人間(≠ヒト)の進化なのかというのは同義です。
ここらへんからミームが着想されたんでしょうけど、わざわざ遺伝子にたとえなくても、この世のあらゆる系(システム)は淘汰思考で説明できるのではないかと漠然と考えてます。
>結局のところ、道徳の根拠は、私たち人間の感情、共感能力、そしてそれを支える想像力です。
についてですが、「感情」って「痛み」(言語化・カテゴリー化する前の痛覚)のようなシンプルな電気信号が中枢神経系で複雑に処理されたもの、もしくは処理過程そのものですよね。そういった機能を「獲得」したこと自体が進化の結果ですよね。
感情を持ち、共感できるほうが、複雑な社会行動をするヒトの生存にとって有利に働いたのでしょう。
「感情」「共感」「想像」と「道徳」のどちらが先とはいえず、ともに進化したものです。子を殺さないというルールは魚類にもある単純なもので(もちろん食べちゃう奴もいます)、感情よりか原初的なものです。でもあえて「道徳」と呼ぶ“高度なルール”は共感などの機能に拠るところもあるでしょう。
あくまで「包括適応度=後付けの説明」ですので、「包括適応度」は淘汰の起こる(起こらない)“確率”であって、80:50では50の方が絶滅するもしくは数を減らす可能性が高いみたいなことですよね。
また、新しい倫理(法)をつくる根拠には直接はなりません。倫理はそんな単純なロジックで成立するものではないからです。
今我々が見ているような「倫理」「社会」「感情」「共感」「体型」になった“根本”は「包括適応度」で説明できるとゆー、まあ何でキリンの首は長いのかを説明するように、知ったところで俗世間では何の役にも立たないような形而上に近い話なわけです。
でも、小さい子供がキリンの疑問を持った時説明できるように、「なぜ人を殺してはいけないのか」を包括適応度とゲーム理論、囚人のジレンマで説明できる必要が、宗教や家父長(尊敬・暴力)の力が弱くなった現代ではあるかと。
あっ、ですから「共感」があるじゃないかとゆーのも、論理的に理解(確率を予測)できなくても結果的に包括適応度に有利な行動をとれるようバイアスをかける機能が「共感」とか「愛」なので進化し獲得したのだと。
というタイトルで昔書いたのをサルベージ
最近このテーマで思惟してないなぁ
システムの進化(ある時空間における適応度の向上)は、ストレスが閾値に達したとき生じるという仮定を立ててみる。
無→正反エネルギー(電子とかクォークとかの素粒子と力?)→原子→分子→結晶とかアミノ酸とか→細胞→生物→生態系・・・
「無」が不安定で有形化(振動・波動?)しなければならなかった理由(原因)があるはず。放射性元素や3重水素などが地球では崩壊してしまうようなもんか? もちろん高エネルギー物理学はわからん・・・
生物進化とは、淘汰の結果、絶滅しなかった種が存続してゆくということだけれども、安定した物質も非平衡開放系たる生物も、淘汰を免れたシステムなわけで。都市化して環境を自己に逆適応させたヒトの未来は如何に。
以下、別のブログさんでコメントしたものを転載したとです。
包括適応度の概念はゲーム理論など、数学的なもので、きわめて「論理的」であり、そこに私は魅力を感じます。
「最適」というのは100%ないし、限りなく100%に近いというニュアンスだと思いますが、最適の状態を知ることは難しいかと。んで色々試すわけですが、ほとんど失敗=淘汰されたり寿命が短い(放射性元素など)。この「試す」というのを少ないエネルギーで短時間に行う機能を持っているのが人間です。「想像」や「仮想」が人間や類人猿において特に観られる能力であり、人間たらしめていることなのはそういった理由です。
自然科学において「理論」「法則」は「仮定」であることもあれば、量子サイズでは間違っているニュートン力学のように、そう考えると分かりやすい(特定の局面においてのみ成立する)というものもあります。社会科学の場合はアバウトで「傾向」ぐらいの意味のときが多いですね。でもその「傾向を表す」というのは実は自然科学でも同じです。
「生物進化」について、ダーウィニズムにせよ、ネオダーウィニズムにせよ、根本には「淘汰」の概念があると思います。これは生物に限らず、あらゆるシステムにいえることで、或る存在(有)は、或る時空間に於いて、在ることが許されている?わけですね。俗にいえば「あらゆることには意味がある」とか「生きていることには意味がある」とかですが、「意味」といっても形而下で「役に立つ」という意味ではなく、「理由」や、ニュートラルなニュアンスの「原因・結果」のような。
シュレンディンガーの猫が表しているのは「存在」が「確率」であるということです。「原因」とか「結果」は論理における左辺と右辺ですが、確率的に変化する時空間における過去と未来なので、イコールでは結ばれません。あくまで確率です。
そして淘汰を免れ存在するということも確率であり、それを生物学において表しているのが包括適応度です。生物といってもエネルギーの局所的時空間における特殊状態に過ぎませんから、その存在も確率的であり、遺伝コード(種とか)の存在(存続)も確率的なわけです。
子孫を残すといっても、真核生物においては減数分裂によって自己の遺伝子は半分しか残せないと単純にはいえるわけで、クローンを残さない方法をとるこのような生物が進化によって生じたのもマクロでは確率が高くなる場合もあるからでしょう。(減数分裂の生物学的意義を参照)
部分的に無駄やバグのあるコンピュータプログラムやスクリプトでも出力(結果)が目的に適っていればいいわけです。アツいプログラマーでない限り細かいことは気にしないでしょう。
遺伝子がデジタルなプログラムであるように、物理「構造」はそれ自体が「機能」でこれは存在の両面です。単純化すると、この世はエネルギーがシステム(物理的構造・機能)をもって存在していて、あらゆる時空間・サイズにおいてこれは絶対です。ニュートリノだろうと銀河系だろうと。
包括適応度に対し「あくまで状況があってそれに後付けの説明をしているにすぎないのではないか」とおっしゃられていますが、「理論」「法則」とはそもそもそういったもので、この世の「構造・機能」が様々な局面において確率的に現れるものを人間が理解し表すことだと思います。
「部分的に無駄やバグのあるコンピュータプログラムやスクリプトでも出力(結果)が目的に適っていればいいわけです」
と書いたのは「全体としては~」のことを言いたかったのでした。
もちろん「目的」は人間の作為の場合だからです。
先のコメントの始めの方で「最適」「100%」としているのは「存在可能性」についてで「目的」があってのことではありません。全然言葉が足らなかったですね。ただ「最適」はニュートラルな場合にも使用されると思います。「適者生存」なんかもそーゆーニュアンスかと。
これを勘違いか意図してか優生思想とか優生政策に援用するのが問題なのですよね。
事実と「べき」(倫理)について考えてまして、たとえば殺人はなぜいけないのかと(永井均の著作がありますね)考えて、なぜいけないということになったと考えて、いけない場合にどんなメリットがあるのかと考えて、そういった倫理(価値観)の「成立が」包括適応度や淘汰思考で説明できるのではと考えています。
つまり、人間のうち倫理を持った者の方が包括適応度が高い→生存・倫理が普及、ということではないかと。そのとき倫理の内容や価値のおき方も適応と絡んでくるのでは・・・ などと考え中です。
「ミーム~」というのはシャレでして。非目的論的世界観の唯物・決定論者なもんで、色即是空というか対自即自というか、ゆる~く思惟してます。
2009年3月21日 (土) 03時05分のコメントで
>包括適応度の向上という目的のために
とありますが、「ために」というのは厳密な生物学的理解の妨げになります。進化論(ネオダーウィニズム)において「進化」とは、何か「目的」があってとか、最適化する「ため」とか、そーゆー積極的(Active)なことではないのです。あくまで適さないものが「淘汰」される(絶滅する/数を減らす)ということ。
2009年3月22日 (日) 00時46分のコメント
>包括適応度の向上のために私たちが倫理を作り上げたのだと言い切ることはできない
そうですね。「道徳」はルールですが、時代・地域で色々ありますよね。そのなかで(時間的に)存続し、多くの人間に受け入れられているというのはその道徳自体の進化(淘汰)の結果です。このとき、その道徳の進化なのか、その道徳を採用した人間(≠ヒト)の進化なのかというのは同義です。
ここらへんからミームが着想されたんでしょうけど、わざわざ遺伝子にたとえなくても、この世のあらゆる系(システム)は淘汰思考で説明できるのではないかと漠然と考えてます。
>結局のところ、道徳の根拠は、私たち人間の感情、共感能力、そしてそれを支える想像力です。
についてですが、「感情」って「痛み」(言語化・カテゴリー化する前の痛覚)のようなシンプルな電気信号が中枢神経系で複雑に処理されたもの、もしくは処理過程そのものですよね。そういった機能を「獲得」したこと自体が進化の結果ですよね。
感情を持ち、共感できるほうが、複雑な社会行動をするヒトの生存にとって有利に働いたのでしょう。
「感情」「共感」「想像」と「道徳」のどちらが先とはいえず、ともに進化したものです。子を殺さないというルールは魚類にもある単純なもので(もちろん食べちゃう奴もいます)、感情よりか原初的なものです。でもあえて「道徳」と呼ぶ“高度なルール”は共感などの機能に拠るところもあるでしょう。
あくまで「包括適応度=後付けの説明」ですので、「包括適応度」は淘汰の起こる(起こらない)“確率”であって、80:50では50の方が絶滅するもしくは数を減らす可能性が高いみたいなことですよね。
また、新しい倫理(法)をつくる根拠には直接はなりません。倫理はそんな単純なロジックで成立するものではないからです。
今我々が見ているような「倫理」「社会」「感情」「共感」「体型」になった“根本”は「包括適応度」で説明できるとゆー、まあ何でキリンの首は長いのかを説明するように、知ったところで俗世間では何の役にも立たないような形而上に近い話なわけです。
でも、小さい子供がキリンの疑問を持った時説明できるように、「なぜ人を殺してはいけないのか」を包括適応度とゲーム理論、囚人のジレンマで説明できる必要が、宗教や家父長(尊敬・暴力)の力が弱くなった現代ではあるかと。
あっ、ですから「共感」があるじゃないかとゆーのも、論理的に理解(確率を予測)できなくても結果的に包括適応度に有利な行動をとれるようバイアスをかける機能が「共感」とか「愛」なので進化し獲得したのだと。