『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

 岡本太郎と言葉を交した〜 魂のイニシエーション

2023-09-15 02:40:03 | 人間(魅)力

__ 若くてまだ心身ともに柔らかい時期に、「この人こそ真の人間」という人物に出逢うことは、邂逅ともいえる最大の慶事であろう。

わたしは、二十歳のときに岡本太郎と対峙した。ことばをやりとりした、わたしは何かを覚ったのである。

 

そのときの様子を書き記しておこう。岡本太郎の直接の風韻を伝える人びとも少なくなっている。

彼が何物なのか、芸術家とは何なのか…… 

わたしは、あのとき以来、詩人の魂(=アーティスト魂)を忘れて過ごしたことはない。

 

時は、1980年代初頭、わたしが足繁く大阪の中之島図書館に通っていた時分に…… 

岡本太郎が、大阪にやってきた。

梅田の「ナビオ阪急」で個展と講演会をするために。

わたしは当時、大阪の英語の専門学校に通っており、なぜか不思議と惹かれて意気投合した同級生(二つ年上だったが、誕生日が同じだった)とともに、まず個展を見に出かけた。

 

その同級生は、和田さんというのだが、彼と私は互いに忌憚なく批判精神旺盛なままに、存分に言い合う仲であって…… 

まるで、ちょっと「世界的な芸術家である岡本太郎(の作品)」でも見てやるかといった気分で、わりと狭い空間の個展会場へ入っていった。

おのおの、美術関係の素養は豊かで、それなりの見識もあったので、しずかにたんたんと作品を見て廻った。

そうしているうちに…… 

ざわざわと観客が列に並びはじめて、岡本太郎が来場した旨の場内アナウンスが流れた。

「おっ、本人が来たの?」と、まさか本人に直接逢えるとは思ってなかったから、自分に自信のあった私たちでもさえも、少々興奮を抑えきれなかった。

画集や何かが積み重ねられたカウンターテーブルの後ろのドアから、唐突に彼があらわれた。

まるで言葉も愛想も発せずに、しずしずと「どこかの小柄なおじさん」といった風情で、岡本太郎がテーブルに座った。

多分、画集を買った人びとへのサイン会だったのだろう。

私たちは、思いもよらずご本人に会える僥倖にひそかに歓んだことだった。

和田さんは、なんの蔑みの念もなく、「普通のひとやな」と大阪人らしい感想を一言もらした。

OSAKA人は、日常が舞台やからな、できれば派手に充実したものであってほしいのかも知れんな、まー悪気はないんです。

わたしは、翌日の講演会のチケット🎫も入手していたから、また眼のつけどころが違った。

平生の岡本太郎に相見えるのは、仕合わせだと思った。

わたしは、その佇まいの内に、ある密度を感じていた。

なにかしら、拒んでいるような、別世界にいる人のような、人間らしい親しみも微塵も見せなかった。

まるで「隠亡(おんぼう)」のようだ。

或る西洋詩人が、魚座♓️の太陽を待つ者の雰囲気を、隠亡のそれに譬えていたのだ。

岡本太郎は、魚座の第1デーク(魚座の最初の十日間、2/20〜2/30くらいの生れ)の生れ、正確には2/26日生れ。

もっとも魚座らしいキャラクターを帯びている。(畏れ多くも、今上陛下も2/23日ご生誕)

「隠亡」とは、生死の場に立ち会う特別な役割を担う者である。古神道にも「殯の森」ってありましたね。

 

彼のベストセラー、『今日の芸術』を三度四度と読み漁り、すっかり「わたしの神」となっていた岡本太郎は、

ひじょうに物腰がひくく、謙虚に「隠亡」のようにして、わたしの前に現れました。

 

 

 

彼にしたら、サイン会に臨むことは不本意なことなのでしょう。ご自分の作品を金に変えなかった、稀有な作家だからです。

サイン中には、一言も発しませんでした、ただ静かにたんたんと眼前のものごとをこなし続けました。

そーゆー、社会人としてまともに振る舞える処も岡本太郎なのです。万博の委員会で「太陽の塔」のプレゼンをするにあたり、居並ぶ大物のお歴々の前で、いたって真面目に理論的にご自分のコンセプトを披歴した動画でもそれは確認できます。

彼は一方では、ソルボンヌ大学卒のフランス語🇫🇷を流暢に喋るインテリ文化人なのですから。

この、余人には真似のできない「落差」が、岡本太郎なのです。

 

さて、次の日、一切口をきかない隠亡の岡本太郎がどのように変貌するのか……    ドキドキしながら、

大好きな「ナビオ阪急」に向かった。(マルーン色の阪急電車は、関西のセレブリティなのだ、スデンドグラス風の阪急デパートの採光もすこぶる好い♪)

割と小規模で、100人入らないくらいの会場に、5人座れるくらいのテーブルが沢山ならべてあった。

この講演会は、ケーキ🍰と紅茶☕️付きの、ちょっとハイカラな催しだったのです。

わたしは、ルーズリーフのノートをもって、一言漏らさず、メモする気概でいた。

貧乏学生だったが、ケーキは口にしなかった。岡本太郎と対峙するのに甘いものはないだろうと真剣に臨んでいたからだ。

一緒に座った面々も、穏やかな人々だったと思う。向かいの人好きのする可愛いおばさんが、講演後の質疑応答で質問していたなあ。

「岡本画伯、血液型は? 好きな食べ物は?」みたいな、大阪のおばちゃん的なものだったのが可笑しかった。

まー、人数のわりにヒッソリとした雰囲気だった。知的な、文化的な人が多い印象がある。

東山魁夷とか横山大観とか、画壇の大先生みたいなイメージなのかも知れなかった。

アバンギャルド(前衛)芸術やらアブストラクト(抽象画)、キュビズム、シュールレアリズム(超現実主義)など…… 

岡本太郎に冠される肩書きなぞ、あまり興味のなさそうな、品の良い一廉の人物たちの集まりみたいだった。

 

そんな、大阪にしてはインテリ文化人めいた人たちの集う会場は、なにか「どれほどの人物か鑑定してやるわ」みたいなものだったかも知れないな。

そんな大阪ローカルな場に、東京🗼もんというか、フランス🇫🇷洋行帰りの世界的な文化人があらわれる構図でしょうか。

 

岡本太郎は、濃いグリーンの光沢スーツを纏って、さっそうと壇上にあらわれた。(オスカー・ワイルドも濃緑のブレザーを着こなしたらしいが、グリーンは英国🇬🇧紳士の定番らしいです)

机を前にして一拍おいて、やおら、サッと鳳凰の翼のように両手をひろげて高く差し上げた。

その瞬間、爆風が吹き荒ぶイメージに襲われました。

物凄い迫力というか、圧が押し寄せる感じなの。

ブワァ〜と、大波🌊が押し寄せてきたような体感でした。

 

 

映画『マトリックス・リローデッド』で、目覚めた人の原始的な世界・ザイオンで、民衆の前で演説を始めるときのモーフィアスに似ていたかな。

どこか、宗教的な厳粛さが漂っていました、意外な気配に一氣に呑み込まれましたね。

もう、心地よい興奮が湧き上がりました。

ルーズリーフ(B5判サイズ)ノートに、キーワードをメモするのが手一杯で、一瞬でも岡本太郎の表情をみのがさないように集中しました。

まるで瞑想しているような充実した集中の内に浸っていました。

話の内容はよく覚えていません。

ただ、いままで繰り返し読んできた、神格化された人物が目の前に(読解した通りにまさに)実在していることを、しみじみと実感していた。

ゾクゾクと嬉しくなったのをはっきりと憶えている。

こうやって生きてもいいのだと、心の底から納得した・理解した時間でした。いまでも、そうやって生きています。

自分の中から、岡本太郎を出して生きてる感じでしょうか。自分の中から観音菩薩を出すようにです。

 

あっという間に終わった講演であったが…… 

素の岡本太郎に迫る質疑応答の時間が取られていた。

みんな、どーでもいいような質問ばかりして、おおさか人は芸術を知らないのかと、岡本太郎が可哀想になってきた。

揃いも揃って「オカモト画伯」なんて、丁重に呼びかけていたな、私は岡本太郎の気持ちがそのとき分かるような気がした。

「画伯」と呼ぶ人は、岡本太郎の芸術を自分事として引き受けていない人であろう。

5〜6人の質問が終わった頃、会場の司会が「そろそろ…… 」と口走ったので…… 

岡本太郎への質問を聞いて、「そーじゃないだろ、そーじゃない、そんな芸能人に訊くような質問では失礼だろ」などと独りごちていました私は、

矢も盾もたまらず、ボルテージがMAXまで上がって…… 

ひときわ大きな声で、応援団長のように「はぁい!」と挙手した。

その時の岡本太郎の、「はい、そこ」と咄嗟に鋭く反応して、だらけた顔から一瞬に真顔となって私を指さして発言を促した機敏さには、やおら感動した。

常在戦場の如く、つねに芸術家たるもの瞬息の気合いに自分を表現するものなんだなという感慨である。

 

司会は、「時間が過ぎていますので、どうか、手短にお願いします🙏」と丁寧に私につたえてマイク🎤を渡した。

 

わたしは、あえて「岡本さん」と呼びかけた。

彼は心持ち頷いたように感じられた。

やっと、真剣に相手できる人間があらわれたたと、歓迎して対峙する構えである。

わたしは、この得難い瞬間にブルブル震えた。(武者振るい)肚に丹田に心持ち力をこめた。

当時、中之島図書館に通って、閉架から『原色の呪文』などを読んでいた私は、

「オカモトさんの『原色の呪文』に書いてあった、男性的な男性とは、どーゆー人のことですか?」みたいなことを訊いた。

しばし黙考した風の岡本太郎は、「男性的男性とは、君のような人のことだが…… 」と持ち上げるようなことも口にしながら、

「時間もないので」と断った上で、「男性とか女性とかに分けて考えないで、全身でぶつかる」みたいなアドバイスを僕にくれた。そして「そんなとこでいいかな?」と済まなそうに添えた。(岡本太郎が発見して、教科書に載るようになった「縄文式火焔土器」は、女性の作品だからねえ、それを考えると意味深)

わたしは、彼の真意が理解できたわけではなかったが、彼の真心をこめた応対には100%満足していた。

こーゆーひとが、実際にいるのだ。

対等に、同じ土俵で対峙してくれる芸術家。

そのことに、湧き上がってくる悦びを抑えきれなかった。岡本太郎とハダカで付き合ったと感じた。芸術家(創造する者)として、意識を共有した感があった。

この、神前におけるような真剣さは間違っていないことを確信した。そのとき、岡本太郎はわたしであった。

わたしが、岡本太郎であった。

この感じは、後年唱えられるようになった「BE  TARO」とは全然ちがうものだ。

「BECOME」ではない、「BE」なんだから、

原義は、「岡本太郎を生きる」ということ。

「岡本太郎になる」んじゃないんだよ。

岡本太郎として、真人間として、存在するのが「BE」の謂であろう。

自分の内なる岡本太郎を、しぼりだすのですよ。

そんな感じでしたね。

 

質疑応答が終わって、岡本太郎は壇上から観客席に下りて、テーブルの間を縫いながら退場していった。

わたしは、そのときスタンディング・オベーションで迎えれば、岡本太郎と握手できたかも知れないと、いまでも残念に思う。

歩み去ってゆく岡本太郎をじっと見つめるだけの私を、岡本太郎は歯痒かったかも知れない。

それほどの共感が、ふたりの間で生まれたことと思う。

濃やかに、あらゆるものの一致を共有した瞬間であった。

わたしは、それ以来作品を創らないアーティストである。(このブログは、作品にあたるのかも知れんけど)

 

わたしは、すべてに満足して会場を後にした、満ち足りた思いでエスカレーターに乗っていた憶えがある。

こんなとき、サッと立ち去るのが良いのだ。

 

 

岡本太郎は、1911年(明治44年)の生れである。あれで、明治の男なのだ。

変わり者の芸術家、母の岡本かの子について、

私にとっては母は、宇宙を支配する、おおきな

叡智をもつ先導者であった。

…… と後年に述べている。尊敬する画家ピカソと同じ背丈で、ひどいマザコンなのも同じで、おふたりは意気投合したものらしい。

 

 

岡本太郎は、フランス🇫🇷に渡って、画廊でピカソの『水差しと果物鉢』(1931)の抽象画に出逢う。

岡本太郎は「涙が出るほど感動した、感動したからには、あれを乗り越える」と、抽象芸術に入っていったもののようだ。

このへんは、わたしも同じだ。

感動したら、それを乗り越える。憧れだけに終わらないのが芸術家(詩人でもアーティストでもよい)なのだ。それが、真剣な対峙の意味するものである。

岡本太郎は、わたしの佇まいからそれを観受したのである。彼はそうやって生きてきたのである。出逢う人出逢う人に、偉かろうがそうでなかろうが、目の前の人に真剣に対峙してきたのである。

それがわかって、わたしは嬉しかった、飛び上がるほど嬉しかった。わたしもそうしようと思った。

 

 

__ 長々と体験を綴ったが、過去に書いた拙稿も載せておこう。

 

 🔴一無位の真人―岡本太郎

[2009-02-02 12:58:51 | 玉ノ海]

『岡本太郎』‘TARO’ の署名は ‘ROTA (輪・蓮)’ ‘TAROT(タロットカード)’ の意も含ませているのでしょー

エロスは、タブーの侵犯であると宣った、生命讃歌の哲学者_ジョルジュ・バタイユが主宰する秘教結社に、異国人ながらも誘いを受けるほどの霊的感性を具えもち

シュール・レアリズム運動を牽引した奇才_アンドレ・ブルトンが 絶大なる信頼を寄せ、

ピカソ・ダリのカタロニア~バスク地方の霊性からも等しく認められ

縄文式火焔土器、沖縄、韓国、東北、そしてメキシコの土地の大地性に 濃やかに感応し独自の表現をし続けた ひと

おおらかで、やさしく、なつかしい感じのする御方でした

…… ハタチの頃、大阪はナビオ阪急にて、ご本人と対峙したことがございます……  大仰ですが、まさにそんな感じの息詰まる対話でした

オスカー・ワイルドばりに英國紳士好みの濃緑(艶アリ)のスーツを着込み、演壇にスクッと立つや、両腕を翼のよーに広げたときの

まるで爆風のよ~な『オーラ』(私ハ零能デス)は、今にして忘れられません!

 

芸術は‥爆発だっ!!”

この有名な言葉の中の『爆発』とは、

無音の爆発のこと、即ち静寂のうちに推移する命のほとばしりのことを云っているのです

ぉ大師さんの 生生死死始終暗冥(秘蔵宝鑰)’ の句に似た 静けさが支配する中で営まれる、人間的な命の燃焼=発光を物語るものだと解釈しております

ふだんの彼は、いたって謙虚で音無しく、隠亡のよーなイメージがしました

うちの県にある蔵王スキー場によくぉ越しになった頃、インストラクターをしていた近所の兄チャンの印象も同様との事

それが、一度び獅子吼するや、無類のオリジナリティを発揮して已まないのです

 

酔狂にも、臨済禅の師家の集まる法会で 講演したこともあるそーデス

居並ぶ禅匠を前にして、仏に逢うては仏を殺せ…” について禅問答を吹っかけたんですから底が抜けています♪

詳細をご紹介できないのが残念だが…… たしか街の辻で自分に逢ったら、如何せん?とかいった内容でした

師家連中が、固唾を呑んで見守る張り詰めた空気のなか、岡本太郎が垂示した切り返しは、それは見事なものだったと嘆声が漏れる場に居合わせた師家が書いてました

存外に禅定力あったんだナァ♪

BE TARO!』は、自分の存在認識運動であろー

 

 

__ 上記の拙稿の中で、「臨済禅の師家の集まる法会」の詳細を以下に引用します。

◆◆◆(岡本太郎『自分の中に毒を持て』より)>

京都文化会館で二、三千人の禅僧たちが集まる催しがあった。

どういう訳か、そこで講演を頼まれた。

ぼくはいわゆる禅には門外漢であり、知識もないが、自由に発言することが禅の境地につながると思う。

日頃の考えを平気でぶつけてみよう。そう思って引き受けた。

ぼくの前に出て開会の挨拶をされた坊さんの言葉に、臨済禅師という方はまことに立派な方で、

道で仏に逢えば、仏を殺せ

と言われた、素晴らしいお言葉です、という一節があった。

有名な言葉だ。ぼくも知っている。

確かに鋭く人間存在の真実、機微をついていると思う。

しかし、ぼくは一種の疑問を感じるのだ。

今日の現実の中で、そのような言葉をただ繰り返しただけで、はたして実際の働きを持つだろうか。

とかく、そういう一般をオヤッと思わせるような文句をひねくりまわして、型の上にアグラをかいているから、禅がかつての魅力を失ってしまったのではないか。

で、ぼくは壇上に立つと、それをきっかけにして問いかけた。

 

「道で仏に逢えば、と言うが、皆さんが今から何日でもいい、京都の街角に立っていて御覧なさい。仏に出逢えると思いますか。逢えると思う人は手を上げてください」

誰も上げない。

「逢いっこない。逢えるはずはないんです。

では、何に逢うと思いますか」

これにも返事がなかった。坊さんたちはシンとして静まっている。そこでぼくは激しい言葉でぶっつけた。

「出逢うのは己自身なのです。

自分自身に対面する。

そうしたら己を殺せ」

 

会場全体がどよめいた。やがて、ワーッと猛烈な拍手。

これは比喩ではない。

人生を真に貫こうとすれば、必ず、【条件】に挑まなければならない。

いのちを賭けて運命と対決するのだ。

その時、切実にぶつかるのは己自身だ。

己が最大の味方であり、また敵なのである。‥‥ ()‥‥

ぼくは臨済禅師のあの言葉も、

実は「仏」とはいうが即己であり、すべての運命、宇宙の全責任を背負った彼自身を殺すのだ、と弁証法的に解釈したい。

禅の真髄として、そうでなければならないと思う。」

 

 

…… この、禅坊主どもを唸らせた講演も、司会の山田無文老師が、結構なお話でしたと、そつなくまとめて何事もなかったかのように終わるのだが、岡本太郎はその非凡な力量を認めつつも「喰えない坊さんだなあ♪」と苦笑まじりに述懐している。

それでも「臨済将軍」と云われるほどに機鋒の烈しく、公案(禅問答)で錬られているバリバリ現役の臨済宗の坊さんが一堂に会している場で、いくら依頼されたからといって、まともな神経で臨めるものではない。

岡本太郎の生き方は、それを力むことなく平然とやるところに、禅的な境涯が多分にあると思える。

あの、レタリングのような筆字は到底いただけないが(祖父が書家だった血筋もあるのだが)、岡本太郎の絵画作品は禅宗坊主の「墨蹟」に優に匹敵するとはいえるのではあるまいか。

なんにせよ、破格に面白い御仁であった。

岡本太郎以前と、岡本太郎以後とでは、芸術(=岡本太郎にとって生きることと同義であった)の捉え方・あり方がまったくといってよいほど違う。

 

 

【毎日新聞の動画より。1975年に石原裕次郎の石原プロモーションで制作した秘蔵フィルムである。「3:44」からのヘラ刷毛による描画がすこぶる佳い】

 

破天荒な人物と思われるかも知れないが…… 

岡本太郎は東京美術学校でも、トップの成績で入学した。

ダリやピカソの如く、人並外れた精緻なデッサンを描ける基礎があった。

それゆえ、美術伝統の「型」をマスターした上で、「型破り」をしたわけで、ただの出鱈目な抽象絵画とは、その成り立ちを異にする。

岡本太郎は、なんでも基礎は徹底して修練した。

フランス語でも、子どもたちと共に寄宿舎に入って、習い覚えて、フランス語を母国語とする現地人を驚かせるほどにフランス語を使いこなしたものである。フランスのテレビ番組でもそのコメントが大人気であった。

ただの、世間知らずの絵描き👨‍🎨とは別物なのである。

「太陽の塔」を作っていた頃に、メキシコ🇲🇽で「明日の神話」の壁画も作っていた。黒い太陽と、原爆のドクロは、メキシコの髑髏信仰と呼応するのである。

圧倒的な生を描くことは、圧倒的な死を描くことでもあった。

それゆえに、生身の岡本太郎に対面することは、わたしにとって「成人式」にも等しいことに思えたわけである。

大阪は、わたしのそんなイニシエーションの聖地であった。

       _________玉の海草

 

 

 

 

 

 

 


 「大母性」〜 小松左京の 或る言葉

2023-09-12 18:30:14 | 人間(魅)力

__ 1970年代に、既に

『日本沈没』(海面上昇・大津波)や

『復活の日』(新型コロナウイルス🦠)、

『首都消失』(地球外知的生命体)

『エスパイ』(超能力・テレパシー⇒インターネット🛜に漏れ出る潜在意識)など、

映画化もされ、現在の地球が直面する死活問題をとりあげ、詳細なデータまで添えて、SF小説の形をとって予言した作家、

小松左京は、偉大な作家であり知識人であり教養人である。

 

SF作家の体裁をとりながら…… 

文壇では高橋和巳や開高健、三島由紀夫などを知己としながら、持ち前のバイタリティーと探究心で何でもやってしまう。

漫画かいたり(松本零士と知り合う)、桂米朝と一緒にラジオ📻やったり、歌舞伎や文楽にも造詣深く、1970年の大阪万博(民俗学の梅棹忠夫・岡本太郎と出会い一緒に「太陽の塔」の内部構造を練った)や1990年の「国際花と緑の博覧会」でも活躍、関西国際空港にも関わり、「ベ平連」(小田実と出会う)の呼びかけ人となったり…… 

阪神・淡路大震災と東日本大震災の復旧にも、積極的に関わり続けた。

文壇にも科学界にも、財界人にも政治家にも、建築家・クリエイター・学者にも幅広く人脈を有していた。

 

そんな小松左京の、広範な領域での業績と旺盛な活動力に敬服した岡田斗司夫や唐沢俊一らは、

「平成極楽オタク談義 第六夜 小松左京」の中で、

荒俣宏立花隆宮崎駿を足して3で割らない」と評している。(wikiより)

とにかく、何んでも知っている、該博な知識量の持ち主であった。

マージャン🀄️が強く、ヘビースモーカーで、昼からグラスを傾ける酒豪でもあった。

関西をとことん愛した巨大な文化人だったと私は思う。SF作家なのに、古典芸能の「芸道小説」までモノしている。個人的には、気難し屋の稲垣足穂が彼を高く評価していたのが印象深い。

 

 

そんな小松左京の、しみじみとした述懐(約40年前の対談での発言)を書き残しておきたい。

 

>「自分は ただ土であって要するに人を生み出す役である。

なぜ人を生み出すかといったら、

生み出した子供が 要するに宇宙を理解したり、宇宙を動かして知るために生み出したんだということがわかっている『母そのもの』のような人もいるんです。

たいへん大きな女の人がいると思うんですね。」

 

 

…… なにやらまさに、酒井順子女史の言われる「男尊女子」みたいな感じがするので、彼女に触発されて書いた拙稿をまとめてみた。

 

 🔴昔日のオンナは怖かった
オトコだけが持つY遺伝子は、オンナのX遺伝子に比べて、かなり細いし短い。
遺伝学の研究では、Y遺伝子は時代と伴にますます縮小していっているそうです。(そのうち無くなるようです)

「女は全員、気が強い」(<酒井順子)のに対して、男は実に繊細な生き物なのです。
だから、女から立ててもらわないと男らしく振舞えないわけです。それが分かり過ぎるほど分かっていた女が、男を丁重にかつ丈夫に育て上げたのです。(身体も弱く、死亡率も女子より高かった)
「泣くな! 男の子でしょ」と常にハッパをかけ続けて、励まし続けて、女の望む姿に大事に育ててきたのが、日本の伝統 です。
そうやって男系Y遺伝子(自然界で貴重なもの)を大切に守ってきたのです。

頼り甲斐のある殿方のいないことが、現在の女性たちの不幸であることは言うまでもありません。
しかし、戦後の女性たちは、よく組織化された伝統を容赦無く壊してきたのですから、そうなるのは当然の帰結なのです。
昔は、自分用にあるいは自分の娘たち用に、立派な男を計画的に育てた、強く賢い女達が存在したということです。

女性の側も、おそろしいほどの鍛錬を欠かさなかったのです。大和撫子(やまとなでしこ)と敬意を込めて呼ばれたのは伊達ではないのです。いまさら貴女がたに言っても詮なきことではありますが。

 

 🔴男尊女卑のロールモデル

最近、
「男尊女子」(<酒井順子)という圧倒的な表現に巡りあった。
この、「男を立てる」女子の持つ、したたかな生存戦略が素晴しい。聖母性とか菩薩性とか無駄に憧れるまえに、この真に現実的な選択を見よ。こーゆー女にはとてもとても敵わん。
これと反対に男卑女子は、オトコを56し、みずからの本性をも56すということね。

内閣府の令和4年度版『男女共同参画社会に関する世論調査』の中の一項目、

「夫は外で働き、妻は家庭を守るべきである」という考え方に対する意識調査では……
上記の「男尊女子」が、確実に「3%」はおられるという集計結果となっている。「どちらかというと賛成」という女子を含めると、約28%が「男尊女子」ということになる。
東日本大震災の直後の2012年には、この女性の賛成票がほぼ50%まで激増したことがあったそうです。


> 非常事態になった時に、伝統的な男女のあり方が最注目されたのでしょう。(酒井順子『男尊女子』より)


[※ 内閣府のHPで、「世論調査」を参照してください]

世の中が平穏な時代には、好き勝手にリベラルでも生きられるが、果して現在わたしたちの置かれている大変革の時代ではどんなものなんだろう。
もはや昔の伝統には戻れないにしても、しあわせなカップルは「あるべき姿」を披露しているようで、見ていても気持ちがいい。
まー、日本人はその失われつつある団欒を、皇室に求め過ぎるから残酷なんだけどね。

 

 

 🔴現代女の系譜
始まりは、
いま70歳代前半の「団塊の世代」の祖母たちです。彼女らの母親は戦中派で「青春時代」をもてなかった世代でした。そのせいもあり、娘には青春を謳歌してもらいたいとばかりに、随分と甘やかして育てたのです。
「彼氏と楽しんでいらっしゃい、お父さんにはうまく言っといてあげるから♪」
こうして、大事に自由な雰囲気で育てられた娘は、同じように娘 (団塊ジュニア世代) を育てて、その娘がまたまた同じように育てたのが「ゆとり世代」の娘でした。

戦後に恋愛が解放され、1960年代の半ばには見合い結婚と恋愛結婚の割合が逆転すると、
70年代には恋愛結婚の割合がどんどん高まり、
80年代になると、恋愛結婚の割合が 8割を超えます。
それはすなわち、恋愛、結婚、そしてセックスをも自己責任で行う時代の到来ということでした。
さらに、1980年代は、仕事を持つ女性がぐっと増え、「女の時代」などと言われるように、
アイコイ(愛・恋)結婚セックス仕事……と、若い女性達は忙しかったのです。
[※ 酒井順子『日本エッセイ小史』より]

…… 三代にわたって連綿と受け継がれた亡国の所業をひとつ挙げれば、「韓流ブーム」であろう。
このブームを生み出して牽引していたのは、「団塊の世代」の女性たち(お祖母さん)なのである。
そして、その伝統は娘と孫にも受け継がれて、いまも続く「Kーpopブーム」へと繋がってゆく。
BTSが、裏で(本国では)何を言っているのか、知らないわけではあるまい。
国を挙げて、日本を敵国指定して教科書でも偏向教育しているような国を親子三代で応援するものかしらねえ。

ー現代の女性は、何よりも擬似アイコイ(推しの男子)が大切だということを物語っている。

 

 

…… あいや〜、令和の日本婦女子に対する嘆き節になってしまいましたね。

幼い頃より女姉妹と同居していた男子はそんなことはないのだが、男所帯で同居する異性は母や祖母ぐらいだった男子は、「女というもの」への憧れを美化して、男特有のロマン主義という陥穽にはまって、どうしても抜けきらない傾向が強い。

ゲーテの云う「永遠に女性なるもの」で、女の不可思議さをもって「女神」に置き換えて、あやまった信奉者になってしまう。

 

ただ、小松左京の「大母性」についての上記の言及は、彼が「女シリーズ」というものを書いていた経緯からも、昭和の時代にはそうしたオナゴが間違いなく存在したものだと思われる。

子ども心にも、拝みたくなるような神々しい女はいたものだった。

そんな女性(にょしょう)を書き綴った懐かしい拙稿を二つばかり載せときましょう。

 

 

 🔴“彼に、猛烈に嫉妬したことがある”
[2013-04-19 23:32:50 | 玉の海]

> 「本当に愛したひとは三國さんだけ」

…… これは、かの伝説的女優・太地喜和子がのたもうた
昭和の時代精神と風土が産んだ、稀有なる女性(にょしょう)…… 
品よく、婀娜(あだ)っぽく、猫みたいに可愛らしく、並外れた感性で世の男性陣を骨抜きにした…
魔性とも云える、圧倒的な存在感を醸し出した妙なる演技者であった

 


五木寛之「忘れえぬ女性(ひと)たち」(婦人公論連載)

「太地喜和子は、どこか聖なる場所からやってきた女という気配があった~ガルシア・ロルカの影」より

強烈な個性の持主のように見られる彼女は、実際には自分がない人間なのかもしれない。その虚無の深さが、役者の才能というものではあるまいか。とかく男の噂の絶えない太地喜和子だったが、彼女のなかには男性への根づよい不信感がわだかまっていたような気がする。

太地喜和子の体のなかには、なんとなく昔の大道芸人の血が流れているように感じることがあった。同時にどこか聖なる場所からやってきた女という気配もあった彼女は自分が笑うとき、ガバッと大口をあいて笑うのが男心をそそるのだと言っていた。

(以下、1971年五木寛之が三十代で書いた雑誌の人物論から)>

太地喜和子は男っぽい女である。
 と、いうことは、官能的に見えながら、実はその反対の硬質の精神に充ち満ちた存在であるということだ。
 しかし、真に官能的である女、性的に卓越した女は、常に女性的ではない。表面的に女らしい女、セクシュアルな女に、本当の女はいない。この意味で太地喜和子は、本当の女になり得る可能性を秘めた、目下のところはそのどちらともつかぬ地点をさまよっている男っぽい女である。

> 夢野久作の小説をもし舞台か映画にするとすれば、そのヒロインには彼女が最もふさわしいような気がする。】

 


私の大好きな女優、高橋惠子にとっても、憧れの大先達であった
>どんな役柄でも女の情念を感じさせるその演技力は、私の大きな目標だったのです。


…… 高橋さんは、どうしてもお会いしたくて、太地さんに事務所を通じて連絡してもらう
そして、太地の自宅に招かれた時に聞いた言葉がこれである
>「私はね、女優としてサービス精神がある限り、見てくれている人に
『ああ、太地喜和子も家に帰ったら家庭があるんだろうな』と想像させてはいけないと思っているの。
だから、一生結婚はしないつもりよ」


……  昭和の艶っぽい姐さんと云えば、太地喜和子を想い浮かべる
年上の、溢れる母性も、蠱惑な娼婦性も、あろうことか聖なる少女性さえすべて兼ね備えた…
さっぱりした男気性の粋な姐(あね)さんであった
この、モテる女の代表格だった彼女が、19歳の時に、ぞっこん惚れ込んだ男こそ、三國連太郎である
太地はマリリン・モンロー、三國もデ・ニーロには匹敵するなぁ……

そういやぁ、彼女は現代の名優・十八代目中村勘三郎(コクーン歌舞伎や平成中村座を立ち上げる)をも育てたといってよい。19歳の勘九郎時代にゾッコン惚れられたが、歌舞伎役者としての将来を見据えて、彼女の方から身を引いたと云ふ。

―彼の演じた『釣りバカ』の鈴木一之助社長も、その自然なリアリティーにゾッとすることがありました
企業のトップに襲いかかる、途轍(とてつ)もない孤独感と、熱き一人の人間としての釣り道楽…
そのハザマに揺れ動く、落差の表現が恐ろしいほどリアルだった氣がします
ご子息の浩市もよいですネ
血はあらそえぬ物です

―名優と呼ばれた方々は、なぜか癌で亡くなることが多いと感じていましたが…
三國さんは、そーではなかったし、御歳九十をむかえられました
やはり、どこか違うのだと思います
―勘三郎の、【永遠に女なるもの】でもあった太地喜和子…… 
伊勢白さん(私注;伊勢白山道リーマンさん)も、お人がわるい♪
私の初恋の人のおもいびとは、川崎麻世でした
長身で脚が長いのです(私注;当時リーマンさんが、足が長い川崎麻世似であることをご自分で言っていた)
そしてまた、昭和を象徴するイイ女のおもいびとを記事になさるなんて…
美智子さまをお射止めになられた今上陛下にかつて嫉妬したよーに…
またも、埋み火がメラメラと…
静観、静観とばかりもいきませんが…
こんなにも心掻き乱す魅力的な人物を輩出する、日本とゆーお国柄がたまらなく好きです

 
 
 
 🔴『肝っ玉かあさん』の聖母性
[2009-07-10 11:44:24 | re; 玉ノ海]

映画『三丁目の夕日』を観て、昭和の匂ひ(有機的な臭い)がしないのは仕方ないにしても、根本的に何か足らないものを感じたが…… 
 
読者さんのご投稿を読んで、はたと膝を打った!
そー、あそこには…
『京塚昌子 (1930-1994) 』的な本質がなかったのだと...
若かりし頃は細身の美人だったことを偲ばせる彼女の美しい和顔♪
この女人の前では、悪いことは出来ないなと芯から思わせる、圧倒的な存在感―慈しみで出来ているよーな御方であった
それに、なんとも云えぬ艶っぽさも兼ね備えていらした(カナリ、ぉモテになったと聞く)
平成の御世には、『京塚昌子』は、もはや見られない(*┯_┯)…ウッ

> 恰幅が良く割烹着の似合う母親役で絶大な人気を誇り「日本のお母さん」とも呼ばれた。(Wikiより)

…… 小・中学生時分、ぽっちゃりふくよかな女子は、
教科書に載った ‘正倉院樹下美人の図’ にちなみ…
天平美人とか平安朝美人と、からかわれたものだが… 当時私は、そーした佳さが微塵も分からない奥手のガキであった
年を経て、目の前から消えて初めて、強烈にあの日本そのものでもある女性性を懐かしむ

昭和元禄と云われた時代、家庭の母なる人と水商売の人とは截然と分かたれていた
子どもの眼からみても、化粧や仕草に明らかであったものだ
―化粧は古来、禁忌(タブー)と密接に関わる
大雑把にいえば… 近づいてはならぬ者を一目で分かるよーに施されたのが「化粧」の始まりである
例えば芸人は、推参(押しかけ)が許されているが… 社会の埒外にある者として、差別マークとして化粧せねばならなかった
それが今や、良いのか悪いのか総芸能人化している

かなり水商売寄りの聖母性では…
田宮二郎主演『白い巨塔(1978-1979)』での愛人役・太地喜和子が忘れられない
 
>財前五郎の愛人、花森ケイ子を演じた太地喜和子は素晴らしかった!財前の母への思いやりが深くて、愛人としての立場もわきまえた細やかな態度は度を越えて美しく不思議な母性を感じさせる。すべてにおいて大人の女としての格が違う、そんな演技を魅せてくれました!(立木義浩)

……  “五郎ちゃぁ~ん♪” と微笑みかける彼女の声音が、いまでも耳に遺っている
和歌山生れの彼女は、熊野の国津神つながりか、青森の淡谷のり子の生涯を演じたこともある
 
 
 

淡谷先生♪は、
>戦時下で多くの慰問活動を行い「もんぺなんかはいて歌っても誰も喜ばない」「化粧やドレスは贅沢ではなく歌手にとっての戦闘服」という信念(Wikiより)
で歌われた女傑である
山田五十鈴といい、綺麗で性根の怖い、深情けな『いい女』がいらした時代であった
[※ 太地喜和子は、山田五十鈴の隠し子だという噂があった、当時の文学座の先輩・悠木千帆(樹木希林)は太地が酔ってそう言ったのを直接聞いている]
まるで鎮守の森の如くに巨きく深く神秘的な―“ たいした魂消た! ” この二人の独身女たちを想い起こした
 
 
 
【ドラマ『肝っ玉かあさん』撮影当時、彼女はなんと37歳だった】
 
 
…… あくまでもひと昔まえの素懐なのだが、十何年も前の拙稿になりますね。当時の跳ねるように弾んだ文体を、なにやら懐しい思いで見つめている自分がいます。
おなごに対する根本的な認識は、いまも変わっていないと思います。
ただ、最早それを熱く語ることはできない。
それを体現した幻想の女人は、御二方ともに、生涯独身女だったことは、いま思えば意味深長であります。
いまの世界にはそんな女人は存在しないようです。
 
でも、平成〜令和と、日本女性は本当に綺麗に変貌したと思います。これは、偽らざる私の心情です。
小顔になって、スタイル(フォルム)も麗しく、よくもまあ30年ばかしの短期間で変わりおおせるものかよと感嘆すること頻りであります。
 
ただ、いまとなっては、昭和のオネエサンがたに抱いた息詰まるような女性への憧憬は無くなってしまいました。
宗教性も変わってきたからでしょう。
女神といっても、女夜叉やカーリー母神、はたまた玉藻の前や妲己(九尾狐)やダキニ天のような魔性も実感するからです。
そのへんの、お隣のお姉さん的な女性にも、束の間垣間見られることは往々にしてあります。
「男は夢と寝たがるが、女は男としか寝ない」
…… これ即ち、つねに生身の女の怖さが、凄みが分かるようになったということでしょうか。
 
これからの、変革の時代、いや圧政の時代かしら?
女たちが、どのように変貌して進化してゆくのか、なにやら楽しみでもあります。
他人事みたいで、申し訳ありませんが、男子も男子で切羽詰まった展開を強いられています。
 
インセル(弱者男性)にミソジニー(女性嫌悪)…… 
素直に自分の母親を尊敬するマザコン男子(決して卑下しているわけではない)は増えつつあるが、
果して私たち男性は、小松左京のいう「宇宙を理解したり、宇宙を動かして知る」存在にまで到達しているだろうか?
本当は、そーした境涯に辿り着いてこそ、女性たちの大地母性が生きるのである。
 
 
 
 
あらゆる局面において、その大母性のお蔭を決して忘れてはなるまい。私もまた、小松左京に倣いて「未来をあきらめない」大阪魂を忘れないつもりである。
伊勢白山道に拠れば、小松左京は「啓示をうけた人」であるそうだ。
      _________玉の海草
 

《オマージュ》  篠田正浩監督の 「河原者(かわらもの=役者)」 論

2023-09-10 14:40:55 | 読書

__ わたしの大好きな岩下志麻女史を射止めた、映画監督・篠田正浩が書き下ろした名著『河原者ノススメ』。

これは、エッセイや折々の断片を並べたタレント本とは訳が違う。

まるで文化人類学の学術書のごとき風格を帯びている。

映画監督🎞️って、こんなにまで深い見識と教養を必要とされるものなのかと、やおら感嘆せざるを得ない濃密度の芸能風俗史となっている。

わたしは、藝(能・歌舞伎・武芸・音曲芸すべて)と非日常、つまり無生産者の差別についても、ひとかたならぬ興味があった。

河原者とは、河原、つまり誰の領地でもない特殊な空間に住まう者であり、京の街場には住めない身分であることを示している。

そうした焦点の置き方をして収集した、日本の裏歴史の断片は数々もっているが、それらを網羅して余りある監督の労作だと感じる。

よくぞこれほど調べたものよ…… …… そして何よりも眼差しが優しい。

映画は総合芸術だというが、なるほど映画監督とは一流のアーティストであり研究者であり現場創造者であることに景仰の思いを禁じえない。

 

【目次】

1.  芸能賤民の運命/ 2.  河原という言葉/ 3.  排除された雑技芸/ 4.  劇的なるもの/ 5.「猿」について/ 6.  漂流する芸能/ 7.  神仏習合の契機/ 8.「翁」について/ 9.  清水坂から五条通りへ/ 10.  白拍子とは何か/ 11.  興行者の誕生/ 12.  歌舞伎と浄瑠璃/ 13.  近松門左衛門/ 14.  すまじきものは宮仕え/ 15.  助六誕生/ 16.  東洲斎写楽/ 17.  東海道四谷怪談/ 18.  團十郎追放/ 19.  河原者の終焉

○小見出しをランダムに列挙〜 

異形の「代受苦」/ 桂離宮でのらできごと/ 劇場の祖形・壬生狂言/ 「婆沙羅」という混沌/ 物真似芸能の系譜/ 「クグツ」と人形/ 「あそび」の系譜/ 瞽女の霊性/ アルキを止めた放浪者/ 隼人と行基教団/ 北面した現人神/ 卑賤のアジール/ 象徴記号「阿弥」/ 影向の松/ 忌み嫌われた「業病」/ 宿神の激烈と微笑/ 被差別民が宗教と出会う場所/ 坂非人と犬神人/ 牛若丸の霊力を加速させたもの/ 「柿色」の意味/ 両性具有の妖しさ/ 町衆とキリスト教/ 「浮世」と「憂世」/ 竹本義太夫との出会い/ 「景清」と「荒事」/ 坂田藤十郎の写実/ 「ヤツシ」と乾き/ 町奴と旗本奴/ 役者絵に秘められたルサンチマン/ 女形という「型」/ 鶴屋南北の野心/ 河竹新七の絶筆と天覧歌舞伎/ 漂泊の道筋 等々

 

> 芸能とは、劇的なるものの探求である。(篠田正浩)

 

お手軽にまとめることが憚られる、隠れた名著なので…… 

いままでした関連投稿の中で、篠田正浩『河原者ノススメ』から引用させてもらったものを列挙してオマージュとしたい。

 

 

 

 

 🔴 差別化する功罪

こんなことを言うと受け入れられないかも知れないけど……

誰もが差別して生きているんだよ、先祖代々差別して生き延びてきたんだよ。

 

・自分の体内細胞レベルでいえば、免疫とは「自分」と「異物」との差別化のことである。

ガン細胞は、もともと自分の細胞だから、異物反応はなく、免疫不全に陥る。

・集団レベルでいえば、橘玲のいうように、人間の歴史は150人規模を最大とするコミュニティの歴史である。

つねに、「うちらの集団」と「よそ者集団」との抗争の歴史である。これは今でも遺伝子レベルにまで浸透していて、「こっち(自分の味方)」と「あっち(自分の敵)」に区別して攻撃する習性になって顕現している。

そうした集団内では、目立たなくては存在意義が認められない。現在の企業における、「差別化」による成長戦略と根は一緒なのである。

理屈からいえば、それは「区別」と言われるが「差別」と何ら変わりはない。人種差別にしても「よそ者差別」にしても、始まりはそこに求められる。

 

都の京都人が、よそ者を差別するところから、坂上田村麻呂が連行した蝦夷のアテルイは、命を取らないという約束を破って、裁判にもかけられずに勝手に処刑された。当時の京都人にとって相容れない異物(異形の者)だったからである。

同様のことが、「山水河原者」へも穢多非人への差別にもあらわれている。

都から遠く離れた東日本には、「血の穢れ」に対する差別はほとんどない。(西日本では、結婚相手の身元を興信所で調べるのが通例であるとか)

 

ある大女優(ご存命)の叔母さんが歌舞伎の名門(河原崎家)に嫁がれたのだが、桂離宮が特別公開されたときに、受付で氏名を記入していたら、「河原者を入れることはできない」と入場を拒まれたそうである。

また、出雲阿国の映画をつくっていた監督が、四条河原で踊るシーンを撮影するために、700年の歴史を持つ「壬生狂言」(重要無形民族文化財)の保存会に依頼したところ……

うちらの壬生狂言は格式のある伝統芸能であり、河原者の芸能とはわけ違いますとけんもほろろに断られたそうである。

[※  篠田正浩『河原者ノススメ』より]

現代京都人にも、差別は連綿と受け継がれている。(地元の人に言わせると、洛中のみが京都で、洛外は京都ではないそうだ)

 

「褒める」のと「貶す」のが、「評価する」という

観点からは同じであるように……

「区別」や「特別待遇」でさえも、「よそ者扱いする」という観点からは、同様に「差別」である。

たとえば、伊勢白山道ブログのコメント欄で、リーマンさんを神使として特別扱いするのも、それは「聖別」という名の「差別」に他ならないのである。

差別という問題は、人間が生きる上で根源的な問題を孕んでいる。

 

 

 🔴隣の芝生は青い

受け入れるメス性として生まれているのに……

オスを頑なに受け入れないのは、まず第一にメス性(女性)としての自分を受け入れていないからであろう。

 

昔の女は、個人のしあわせよりも「家」全体のしあわせを願って尽していたように感じるな。

結婚は家同士の結びつきだったからね。

政略結婚で道具としてつかわれたりもしたから、自分の置かれた立場を受け入れていたのだと思う。

また来世のしあわせもちゃんと考えていた。

 

ここに、イエズス会の宣教師 ルイス・フロイス がローマに送った手記『日欧文化比較』(1585年)を要約したものがある。

日本の女は処女の純潔を少しも重んじないし、結婚の妨げにもならない。

ヨーロッパでは財産は夫婦共有だが日本では別々で、時には妻が夫に高利で貸しつける。意のままに離婚ができ、しばしば妻から夫と離婚する。

娘たちは両親に断りなく1日あるいは数日でも一人で出かけ、女は夫に知らせず外出する自由をもっている。堕胎は普通に行なわれ、20回も堕した女がいる。赤子を育てられないと、喉の上に足をのせて56してしまう。

[※ 篠・田正浩の名著『河原者ノススメ 〜死穢と修羅の記憶』より。私注;引用文中の「56」は該当漢字を忌みきらい書き換えた]

 

女性たちが、こうした奔放な生態を選んだ時代もあったのである。(現代はどうやら戦国時代に似ているようだ)

単なる「男女のロールモデル」では語れない振れ幅があるのである。

選択肢を自由に選べるだけに、現代女性は、みずから進んでその迷いの泥沼に足をつっこんでいるようだ。

オスは何万年も変わらないんですよ、子孫を残したいだけですから、単純なものです。

しかしオスを選んでいるうちに、行き遅れるなんて、なんと贅沢な一生でしょう♪

 

 

 🔴魁の空也上人

平家の末裔である私は、京の東山、六波羅あたりには親近感が湧く。

清水坂の坂下にひろがる鳥辺野(平安朝の火葬地)六道の辻(小野篁)、つまりアノ世とコノ世の境、葬送やキヨメを扱った「坂」の土地柄なのである。

戦さ場での死が日常だった平家武士は、ここを本貫の地と定めた。

 

空也上人は、法然・親鸞に先立つこと200年あまり、皇室のご出自だと云われている。

踊り念仏の始祖であり、一遍が私淑した聖者であるが、六波羅蜜寺の空也上人立像はいかにも異形である。

六体の阿弥陀仏を口から吐き、鹿の角の杖をつき、肩には鹿皮の衣を身につけている。「皮聖」とも呼ばれる。

つまり、殺生を生業とする皮屋(被差別民)と共に在ることを表しているそうだ。

 

 

藤原摂関政治は朝廷の死穢の禁忌に縛られて死刑執行を停止していた。

弘仁元年810の薬子の乱で藤原仲成が処刑されたのを最後に、保元元年1156の保元の乱で藤原頼長、源為義、平忠正らの死罪が決行されるまでの

340年あまり、日本では死刑が執行されなかった 

のである。死穢のタブーがいかに浸透していたかを知ることができよう。

[※ 篠・田正浩の名著『河原者ノススメ 〜死穢と修羅の記憶』より引用。泉鏡花文学賞受賞作]

 

…… 朝廷のこうした「穢れ」への恐怖の念は、

来世への強迫じみた不安(実際に釈尊が予言した「末法の世」が到来していた)から生じており、それにつれて殺生する者や「血の穢れ」への禁忌は、はかり知れない程膨れ上がって…… 

神道的には「穢れ(氣枯れ)」、仏教的には不殺生戒を犯す「破戒」と同一視されて、

異常なまでの「怖れ」が発生して(朝廷貴族は、山で修行もできずに救われない我が身をいかにしたらよいか、切迫つまった恐怖に慄いていた。法然上人はそんな彼らに救済の道を示したので、他宗派の「国師」とは別格の扱いとなっている〜50年毎に諡号する慣例)…… 

徹底的な差別(人非人扱い)をするようになったことは想像に難くない。

 

この、死刑が全面禁止🈲された期間(340年間)が長かったことが、近畿圏や西日本での、「部落差別」を決定的なものにした歴史的な経緯ではないかと愚考する。

 

空也上人はしかし、分け隔てなく、迫害を受けた業病(ハンセン病)を患う者や屠殺業者の中に入って活動なさった。

こうした、念仏行者の積み重ねた功徳があったからこそ、時宗の一遍上人の道行き(踊り念仏の集団行進)では、強盗や性犯罪などが一切なかったという伝承がある。(裏社会や底辺の者たちからも支持されたことを示している)

市井の人々から大いに慕われた空也上人は、はじめて「南無阿弥陀仏」と口に唱える念仏を実践なさったド偉いお方である。

 

__ 現在の日本では、芸能人は一種のセレブ扱いされ、憧れられている存在である。

能・歌舞伎は、日本を代表する格式ある芸能であるし、役者たちは文化勲章をもらうほどの名士である。

日本婦女子の白メイクは、本来芸者が一目で一般人から判別されるように、芸者みずからが施した「差別化粧」であった。

いまや、ほとんどの女子が、その芸者に課された差別の印である「化粧」を施して生活している。

芸能者は、その化粧を施して、各家庭に「推参」することが許されていた。いわば「芸の押し売り」である。

(「見参」は正式にお目見えすること、「推参」は許しもなく勝手に参上することである)

中世の芸能者は、お国境いを越えて移動することが許されていた。(ヨーロッパ中世🏰のフリーメイソンとよく似ている、特権を持っていた)

そのため能役者でありながら鉱山師であったり山の民・海の民とも近しい間柄であった。(徳川幕府の金山奉行・大久保長安は、一流の鉱山技師でありながら、能の大蔵流の太夫でもあった)

芸を売る者は、特殊な境涯におかれた「人外の民」(納税の義務を負わない、国を跨いでの移動が許可されている)であった。渡来系の人びとが多かったようにも聞く。

忍者や土木事業者(石積みの穴太衆とか、行基に付き従って橋をかけたり治水したりしていた技術者集団)、吉原などの遊廓や任侠の世界もそうであろう…… 

芸の道は、庶民人気が高かっただけに、日本文化の奥深くまで浸透している。

すべてが「道」になるのが、日本的霊性(日本人の真心)である。

完成がないもの、どこまでも上達するものが「道」である。

藝者とは、極限に挑む者である。

目の肥えた日本では、そんな人が尊敬をうけるのである。

とはいうものの、三國連太郎や成田三樹夫のように、みずから「河原者(かわらもの)」をもって任ずる自覚があってしかるべきであろう。

藝において、差別と聖別の境いが分明ならざるものとなっていく。

そうした自然な謙虚さが名人の証しともなるのだと思う。

      _________玉の海草

 

 

 

 

 


《叡智のことば》  「真実は、ひとつじゃない」

2023-09-09 19:55:44 | 小覚

__ もじゃもじゃ頭(アフロ)の久能整(くのう・ととのう)くんが、探偵みたいな役どころを演ずる、田村由美原作コミック『ミステリと言う勿れ』のドラマ版、

第一話の、密度の濃すぎる展開の見事さには、感嘆いたしました。

名言が次々と飛び出してきましたが、その中でも白眉といえるのは…… 

真実は一つじゃない

2つや3つでもない

真実は人の数だけあるんですよ

でも事実は一つです

 

…… この言葉ですね。

真実とは、その人にとっての真実(本当のこと)なのであって、客観的事実とはピッタリと一致しないものなのですな。

この事実(ファクト)とは、この場合、

昨今もてはやされる、「学術的な根拠」をあらわす【エビデンス(evidence)】と同じものと見てもよいでしょう。

 

 

 

 

 

__ 田村由美の原作コミックの、該当部分の台詞を引用してみよう。

 

たとえばAとBがいたとしましょう

ある時

階段でぶつかって

Bが落ちてケガをした

 

Bは日頃から

Aからいじめを受けていて

今回もわざと落とされたと主張する

 

ところがAは

いじめてる認識など全くなく

遊んでるつもりでいる

今回もただぶつかったと言っている

 

どっちもウソはついてません

この場合

真実ってなんですか

 

 

刑事 青砥「それゃAはいじめてないんだから

Bの思い込みだけで

ただぶつかって落ちた事故だろう」

 

そうですか?本当に?

 

いじめてないというのは

Aが思ってるだけです

その点Bの思い込みと同じです

 

人は主観でしかものを見られない

それが正しいとしか言えない

 

ここに一部始終を目撃した人がいたとして

更に違う印象を持つかもしれない

神のような第三者がいないと見きわめられないんですよ

 

刑事 青砥「それは屁理屈というものだろう」

 

だから戦争や紛争で

敵同士でしたことされたことが食い違う

どちらもウソをついてなくても

話を盛ってなくても

必ず食い違う

 

AにはAの真実がすべてで

BにはBの真実がすべてだ

 

 

 

真実は一つじゃない

2つや3つでもない

真実は人の数だけあるんですよ

でも事実は一つです

 

起こったことは

この場合は

AとBがぶつかって

Bがケガしたということです

警察👮‍♀️が調べるのはそこです

 

真実とかいうあやふやなものにとらわれるから

冤罪事件とか起こすのでは

[※  田村由美『ミステリと言う勿れ』第一巻より、、、エピソード1には圧倒されたので、電子書籍で購入して愛蔵しているほどです♪]

 

…… 圧巻の畳みかけですね、痺れます。この「真実は、人の数だけある」という真理の言葉は、

宗教的に「真実はひとつ」という無知蒙昧さを粉々に砕いてくれます。

真実とは、神のみぞ知るものかも知れないが…… 

「神の真実に過ぎないのではないか」とも思う。

わたしたちにも神性はそなわっていて、わたしたちの真実が神の真実であることもあるだろう。

「真実はひとつじゃないが、事実はひとつである」と云う。しかし、その事実とやらは、(最近の科学実験では)個々の神々の量子的な思いで変化するものなのではなかったでしょうか。

それじゃあ、その事実(客観的事実)とは、わたしたち人間がおのおのの神性で見る「真実」とどこが違うのか?

そんな疑問から投稿した拙稿をアップします。(加筆しています)

 

🔴 真実と事実

真実は、ひとの数だけある。事実は、ひとつです。

真実はひとつではありません。

[※ 『ミステリと言う勿れ』久能整(菅田将暉・演)より]

 

…… AさんとBさんが、階段でぶつかって、Bさんが転げ落ちて怪我をした。【エビデンス(事実)】

 

Bさんが言うには、いつもAさんから虐められていて、今回もAさんから突き落とされた。

Bさんにとっての真実】

 

・しかし、Aさんが言うには、私はBさんを虐めてなんかいないし突き落としたりもしていない。ただ階段の上でぶつかって、Bさんが転げ落ちただけだ。

Aさんにとっての真実】

 

…… 同じ現象(事件)の当事者同士でも、おのおのAさんとBさんの観方は異なる。

が、それぞれが当人にとっての真実である。

これを傍観していた者がいれば、傍観者の方が当事者よりも事実認識はしやすい。傍観者の観察の方が「事実(エビデンス)」に近いと言えるだろう。

これが、人の数だけ「真実」があるということである。

 

最近の学者やコメンテーターが多用する言葉、「エビデンス(学術的な根拠)」を嫌う者がいるが……

こうした消息を踏まえれば、なにも格好つけて「エビデンス」などと横文字を使っているわけではなく、特別感のある言葉として「エビデンス」を使わざるを得ない事情があるのである。

 

ざっくり言えば、

一般に「科学」とは認められていない学問、

例えば心理学や経済学は、それぞれの観方(真実)によって「傾向を示唆する」ことはできるが、

心理学・経済学の識見は「エビデンス」としては使えない。

再現性がないからである。

数学・物理学・化学や脳科学・遺伝子学・統計学📈とかの識見やデータは、間違いなく「エビデンス」として使えるのである。

いつでも、どこでも検証可能だからである。

 

いまは、多様性の時代などといって、すべてのあらゆる人の真実(観方、中には「思い込み」も入る)に触れようとしているが、それではキリがない。決してまとまらない。

事実(客観的事実エビデンス)を基にして構築するのが、一番自然で手間暇かからないであろう。だから、エビデンスという用語は極めて大切なものである。

 

ここで、「地獄はある」という真実がある。

しかしここに、「地獄は自分がつくる、自分から地獄に進む」という霊的な事実(伊勢白山道リーマンさんによる)がある。

しかし、その霊的な事実が確かにそうだという検証を行なうすべがない。(地獄を証言できる者がコノ世にいないから)

それは、エビデンスではなく、リーマンさん個人の真実である可能性もある。

 

ここで、おのおのの霊的な真実は、エビデンスを知ることにより変容するだろう。(量子力学)しかし、そのエビデンスが事実であるという確証はどこにもない。

自分の真実が、エビデンスに合致したとき、それは覚りというのだろう。

確証(エビデンス)なしに信じることを、「信仰」というということなのかな。「不合理ゆえに我信ず」とも云う。

 

三次元の真実は、四次元では必ずしも真実ではない。同じことが四次元と五次元との関係においても言える。(相似律)

さまざまな局面(次元)での真実は色々あるが、エビデンスはひとつである。

つまり、ラマナやニサルガダッタは、自分の真実と事実(エビデンス)を一致させたのだろう。

そうなると、そこに個我を超えたものを観たのであろう。個我とは事実なのかと探究して、真我という事実に辿り着いた。

しかし、ほんとうにそれはエビデンスなのであろうか。

 

それが事実であってもなくても、わたしたちは目の前の生を生きるしかない。生きるとは、そんなぐあいに曖昧模糊としている。

「この世で一番大切なのはリラックスしていることですよ」(世之介)

なんでもない一日のような人だった。だからこそ失って初めて、その愛おしさを知った。

[※  共に、吉田修一『永遠と横道世之介』より]

 

 

🔴 神の存在証明

「神がいる」と言うことは、神がいるということであり、

「神がいない」と言うこともまた、神がいるということである。

 

…… 明治政府の招いたお雇い外国人で、その哲人的な風貌から「教養の人(man of culture)」として深く尊敬された、ケーベル博士🎓による神学的な言葉である。

日本の哲学と「教養」という観念は、このケーベル博士を起源とする。

生かされていることに感謝する聖句を理解する者ならば、すんなりと頷ける言の葉であろう。

ニーチェに限らず、神を否定できるのは他でもない、神がいるからである。

西洋では、神はいみじくも “ First Cause ” と呼ばれている。被造物はファーストになれない。すべての淵源には神がいる。

 

[※   ケーベル博士🎓 (wikiより)>ラファエル・フォン・ケーベル(ドイツ🇩🇪: Raphael von Koeber、ロシア🇷🇺: Рафаэ́ль Густа́вович фон Кёбер,   1848〜1923年)は、ドイツ系ロシア人の哲学者・音楽家。明治政府のお雇い外国人として東京帝国大学で哲学、西洋古典学を講じた。

> 1898年5月、東京音楽学校(現・東京藝術大学)に出講し、ピアノと音楽史を教えていた(1909年9月まで)。

>東京帝国大学文学部での1893年(明治26年)から1914年(大正3年)までの出講では、夏目漱石も講義を受けており、晩年に随筆『ケーベル先生』を著している。他に教え子は久保勉深田康算西田幾多郎井上円了安倍能成岩波茂雄阿部次郎小山鞆絵九鬼周造和辻哲郎深田康算大西克礼波多野精一田中秀央武者小路実篤小野秀雄正親町公和木下利玄下村湖人(内田虎六郎)、志賀直哉島村盛助など多数おり、大半が『思想 -ケーベル先生追悼号-』(岩波書店、1923年8月)に寄稿している。和辻は後年『ケーベル先生』(岩波版「全集」第6巻に収録)を出版した。

> 音楽家としての教え子には、東京音楽学校の石倉小三郎幸田延と瀧廉太郎、ピアノの教え子に橘糸重神戸絢本居長世などがいる。]

 

 

 

…… この「真実は、人の数だけある」という言葉は、ゆめゆめ忘れてはならない叡智の言葉である。

> 私の生きる世界と あなたの生きる世界は違う。一緒だと思うからモメる。(専念寺ネコ坊主かく)

おのおのの自我の見る真実は、当人からしたら真実(=本当のこと)であることは間違いのないことなのである。

しかし、それは実相を観ていない。となると、自我から離れなくてはならないわけである。

この、「真実」を巡る言葉が、霊的修行をしなければならないという根拠を如実に示している。

わたしたちは、真相を観ていないから。

真相、つまり世の実相を知るために修行している。

我見(=私的な真実)に囚われているかぎり、真相はわからない。

なぜ真相にこだわるのか、

真相とは普遍であるから。

真理とは、不変にして普遍。

刻々と変わりゆくものを相手にしている限り、そこに「安心」はない。

つまるところ、メンタルを安定させるために普遍を求めるのではないのか?

次に述べるドラマの台詞が、気に掛かった。

 

 

🔴 価値観のちがい

ドラマ『何曜日に生まれたの』は、いままで見たことのない視点から描かれていて、観る気もないのに惹きこまれた。

書斎で、作家の公文が吐露した言葉が心に引っ掛かった。(第二話 38分辺り)

 

「公文ちゃんてさ、こうゆう古典とかしか読まないのに、なんで純文学とか書かないでラノベ(ライトノベル)なの?」

 

「若い人が読まないものを書いて何が楽しい?

おれは価値観が固定した人間が苦手なんだ。

価値観が固定すればメンタルは安定する。

だけどそれって、他をうけいれづらくするってことにならないか?

そうなると、よくてカンショウ(鑑賞?)にしかならないのさ

何を読んでも、見てもね。

 

カンショウは記憶に残りづらい。

だからおれは、まだ価値観の固定しない世界に向かい合いたいんだ。

物語を衝撃とともに長く記憶してほしい、よくもわるくもね……

たぶんおれは、そういう承認欲求の物書きなんだと思う」

 

……仏教の「 安心立命」とは、上記の公文先生によれば、メンタルの安定=価値観の固定ではないのか?

聖ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジは、普遍の「真我」に一途だから、メンタルは盤石の安定感を誇る。

日本人のように、四季の移ろいに「情緒」を感じている国民性は、未練たらしく名残惜しむ執着を弄んでいるようだ。

刻々と変わりゆくものに焦点を合わせて、感情移入していては、とてもとても不変(不易)には辿り着けない。

それじゃあ、融通無碍でカラッと拘りのない自由な眼差しは到底かなうまい。

果して、それでいいのか?

そこらへんの消息が肝なんだよね、きっと。

だから、松尾芭蕉の「不易流行」が出て来る。

岡本太郎の「対極主義」もそうかな。

一切は皆変化するが、そのこと自体(一切皆変化)は変わらない。

長い目でみたら、たかだか80〜100年しか見られない私たちの目👀は節穴ということになるのかな。

いまのこの瞬間に、どれほど永遠に近いものを見られるか、それが私たちの真実の限界であろう。

       _________玉の海草