『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

《玉断》 西郷さん随想〜 ❌征韓論じゃなく、単なる ⭕️『 遣韓論 』 だった

2022-04-12 21:00:07 | 西郷先生

 

●  西郷先生〜 あるべき日本人の姿

[2018-06-25 00:28:36 | 王ゝのミ毎]

大河ドラマ『西郷どん』も前半の佳境、いよいよ沖永良部島に流されて、土持先生と終生かわらぬ契りを結ぶ

沖永良部では、「西郷先生」と呼ばれている

西郷さんは、いまでも九州全土の英雄であらせられますが……

九州の方々からの尊敬と親しみは尋常ではないものの、土持先生の様に師表として仰ぐと云った趣きではないよーです

うちの山形県庄内でも、城下町・鶴岡市辺りでは庄内藩士の子孫も多く、いまでも「西郷先生」と呼ばれています

 

徳川四天王の筆頭・酒井家は、松平(=徳川)家の本家筋にあたる佐幕の中核であり……

同じく四天王の井伊家(彦根藩)と伴に、御用学問の「朱子学」ではなく、あえて願って「徂徠学」を熱心に行じたお家柄です

文明開化の外圧とともに、西洋の学問が本格的に流入して来た時……

人一倍、幕藩体制の「まつりごと」の在り方、君臣の忠義の道を眞剣に模索なさった経緯があったことでしょー

そーしたなかで、かつては憎むべき敵であった庄内藩(江戸市中取締役)の降伏に際して、王道をもって臨まれた西郷南洲翁のご采配に心底驚き、そのとてつもない実行力を目の当たりにして……

人生の師表として、生きた聖人の道を歩まれる西郷先生に藩をあげて心酔されたとしても何ら不思議はない

『南洲翁遺訓』のなかで、学問は洋の東西を問はずひとつだと諭しておられる

西郷さんは読書家でいらして、キリスト教の聖書や福澤諭吉の進取の書物なども出来うる限り目を通していらした

そんな詞藻ゆたかな文人といってもよい素養を持ち合わせ、なおかつ確実な政治力(人間力)を併せ持った大器量の西郷さんに、尭舜の聖人を重ねてみたとしても可笑しくない

 

荘内南洲会の、今は亡き古老の先達がたは、西郷先生がいつ皆が心に思い描く「西郷さん」に成られたのかとゆー設問に対して……

意見を一致しておられた

曰く、沖永良部島に上陸なさって牢屋に向かう峠道を登り切られた時であろーと

「西郷先生」と敬慕してやまない荘内南洲会には、他の西郷南洲研究家とはちがう独自の見解も幾つかある

まーそれでよいのだ、西郷さんは巨きすぎて、なかなか見渡せません

知己を三百年の先に待つのだと‥‥

 

●  ゲマトリア

9/14 は、崇徳院のご命日、

9/24 は、西郷南洲翁のご命日、

明治維新150年の今年は、なにかが蠢いている気配がいたします

 

●  明治維新150周年

[2018-12-24 04:32:04 | 王ヽのミ毎]

今上陛下のお誕生日、おめでとうございます

陛下の真心が溢るる、あの御会見、ひび割れて乾いた土に潤いの浸み渡るがごとく、心も柔かくほぐれてあたたかにお日様に照らされたよな心地になりました

皇后国母美智子さまも、かつて国民の一人であられたのだなあと、感慨を深く懐きました

60年間、聖上をお支えになられた偉業(観音行)は、忘れられることはございますまい

この傲慢な私にしてからが、美智子さまが皇太子妃とおなりになられ、浩宮さまをお産み遊ばされ、乳母を置かずに御自らお育てになったからこそ、はじめて皇室に興味を抱いた経緯があります

 

明治聖天子が東京に御うつり遊ばされてより、150……

今上陛下の御手により今、ひとつの巨きな節目を迎えられたことは、日本国民としてよろこばしい慶事であるのかも知れません

奇しくも今年の大河ドラマは、維新の英雄・代表的な日本人の『西郷どん』でした

裏表乱れてさまざま色々な思いに翻弄されて、すぐには最終回の感想は出てきませんでした

しかし、一度とて見逃すことなく綿密に大西郷の生涯を追いかけて来ました

前回の、司馬遼太郎原作『翔ぶが如く』にくらべ、今回は当方も歳とともに練れて細部まで舐める様に吟味して、ドラマで取り上げなかった事件にまで思いが及び、随分と深く「明治(御一新)」に漬かることが出来たと感謝しております

いままで、あれだけ毛嫌いしていた「幕末」が、にわかに新しい光を帯びて語りかけてくるよーな真実味・人間味がございました

島津の斉興公と斉彬公との藩主の座を争う直接対決は凄かった

蘭癖(西洋かぶれ)の殿様は、藩の財政を危うくする張本人なのですなあ、斉興公とお由羅そして調所の気持ちが痛いほど分かりました

篤姫の、むごい婚姻についても今回思いを馳せました

あそこから、徳川の立派な嫁として、江戸城無血開城にも繋がってゆくわけで…… なんとも

慶喜公の洒脱な遊びっぷりも印象に残っています、着流しの裾さばきが見事でしたね

豊臣秀頼公といい徳川慶喜公といい、御みずから戦いの先陣をきれば勝てる局面にあったとは思う

しかし、あえて戦わなかった処が尊いのです

西郷さんの度重なる島流しは、西郷さんの人生観を形造った苦難でしたが、やはり牢獄生活はひとを甚しく一変させるものです

奄美大島からの西郷さんは、愛加那さんと睦み合い雰囲気が変わって新鮮でした

南国の風は不思議な空間を創り出します

奄美大島の龍郷町に暮らした西郷さんでしたので、九州旅行のお土産は大島紬の「龍郷織り」のバッグにして、随分と母から喜ばれた思い出があります

あの大島紬の深味・滋味は、年を重ねてはじめて分かってくる最上の色味ですね

久光公から呼び戻されて、京に向かった西郷さんと「精忠組」の幼なじみ有馬新七との腹を割った話し合いがまたよかった

神影流の達人で学問もよく出来た有馬新七が、過激派として寺田屋で命を落とした行動の陰には、九州遊説した庄内藩郷士・清河八郎や真木和泉・平野国臣・田中河内介も関与している

龍馬や神道無念流の達人・桂小五郎(ちょっと合気を感じる)もよくはまっていた

大村益次郎も一風変わった人柄がよく出ていて印象深い

岩倉卿はキャラが立ちすぎて、力量がある俳優(芸人)を起用するのも考えものですね

江藤新平も迫力ありましたね、佐賀ではいまだに顕彰が足りていないと思います

わたしたち庄内では、佐賀の副島種臣(蒼海)翁は、旧庄内藩発行『南洲翁遺訓』の序文を書いて下さっているご縁からよく知られています

しかし、大久保卿から見せしめの為に手酷く処刑された江藤新平は、保守的で真面目な佐賀県人からはいまだに謀叛人の扱いで、日の目を見ていないよな感じがします

実際、佐賀で江藤新平の銅像を探すのに、地元の人々がほとんど知らないものだから苦労しました

西郷さんの取り巻きのバランスもよかったと思います

薬丸自顕流の達人・中村半次郎も背が高くて180㎝近くあり、西郷さんは178㎝、血液型B型、あの当時からみれば大男の部類です

私学校の校長をなさった篠原国幹は、陸軍少将で、明治天皇の天覧軍事演習にて抜群の働きがあり、「あの篠原に習え」との天皇陛下の御一言で千葉県の「習志野(習篠)」の地名となったと聞きます

わたしも鹿児島の「西郷南洲顕彰館」で篠原国幹のご筆蹟を拝見しましたが……

実に濃やかに綿密で強靭な人智人徳を感じ致しました

篤実沈勇の人と称される篠原国幹は、わが庄内の名将「鬼玄蕃(酒井玄蕃・吉之丞)」ともよく気心が合った様です

庄内藩では「敬家」と呼ばれる名門の酒井玄蕃家に生まれた吉之丞は、見た目は優しげなイイ男だが、破軍星旗(北斗七星)を棚引かせて戦うカリスマ的な軍略家であり仁徳を備えた武将であった

戊辰戦争では無敵を誇った庄内藩は、沈潜の気風と云われたものだ

玄蕃の楷書は一点一画ゆるがせにしない見事な造形で、高橋泥舟の虞世南の臨書に匹敵する風情がある(いずれも庄内南洲会所蔵、他にも月照上人の禅機溢るる書や村田新八の丁寧な書もある)

まあ、『西郷どん』の最終回の妙な明るさには大いに掬われた

薩摩隼人ならばこそ、ああいった風情や覚悟の在り方が成り立つと思われる

日本の歴史上最後の白兵戦にして、最後の内戦である「西南戦争」は、西郷さんの「陽()」と大久保卿の「陰(理性)」との拮抗するせめぎ合いであったと感じる

明治維新にはどちらも必要不可欠な御仁であったのだ

『西郷どん』には、西郷さんの恩師である赤山靱負や月照上人そして橋下左内、有馬新七や横山安武など、「維新」の大義の為に命を落とした真の志士たちの生き様がよく描かれていた

西郷さんの懐には、さきに死んでいった英雄たちの面影が常に忍ばせてあったと見ゆる

彼らのしかばねを越えて生きてきたからこそ、彼らに対して恥じる様な行いは断じて出来なかったことであろー

 

西郷さんの逸話で、わたしの何となく惹かれる一話がある

明治新政府が出来て、参議や陸軍大将に任じられ、位人臣を極めた頃の話である

西郷さんが私用で知り合いのお宅を訪ねた折に、正面玄関から案内を乞うような事は決してせずに、勝手口や裏口に回って、女中がたまたま通りかかるのをひたすら待っていたと云ふのである

「たのもう」とか「ごめんください」とか声をかけて、わざわざ自分の為に女中の仕事を中断させて応対させるのを憚ったのだと云ふ

この、「目の前の世界より自分は小さい」と云わんばかりの謙虚さは、薩摩隼人には珍しいタイプである

この手の道徳観、腰の低さはむしろ東北の、庄内のひとかどの人物と相通ずる気脈を感じてならない

江戸っ子の「ひとさまに気を遣わせない」生き方とも呼応している感じがある

西郷さんは、ポリネシア系(沖縄・アイヌ)のお顔立ちだが、気難しい京の都人にも坂東武者の江戸っ子にも好かれた、史上稀有なキャラクターなのではないかと存ずる

 

●   あの「ひー様(一橋慶喜)」を囲んだ遊廓での、西郷さんと左内の遣り取りは面白かったですね

西郷さんは、篤姫の婚礼道具一式を京都で揃えたり、遊廓で折衝されたり(女性からの人気が高かった)と、風流のたしなみも並々ならぬものが御座いました

Rさんの見立てどおりの、筋肉隆々の西郷さんが初めてお目見えした記念すべきドラマでした

島津久光公もユーモアがあって素適でしたね、山縣有朋が城山攻撃前の軍議で「この中で西郷さんに助けられたことのない者はいるか?」と口走る件りに、西郷さんの真骨頂があるのだと感じ致しました

「敬天愛人」とは、根源神に仕える天の御使いの視点でもあるのだと思います

 

●  西郷さんの本名

[2019-08-01 01:19:16 | 王ヽのミ毎]

今でしょ!センセイの『ニッポンドリル』に、うちの地方(山形県庄内)のお宝が初めてテレビ放映された

西郷さんのご本名「隆永」の署名のある書翰のお軸である

さすがはハヤシ先生、庄内藩家老・菅実秀に目を留められましたか

まさか、このよーな取り上げ方をしてくださるとは、ほんとうに驚くばかりで眞事に感謝に堪えません

酒田市に「荘内南洲神社」があるのですが、ご祭神は西郷南洲翁だけではなく、この傑物・菅実秀翁と合わせて二柱でもあるのです

テレビで映された、菅さんと西郷さんが正座して向かい合っている銅像は『徳の交わり』と称されており、この意気投合なされた気合をこそ祭って、「南洲神社」としている消息もあると思います

地元では、雅号の臥牛先生とお呼びしております

臥牛(がぎゅう)とは、牛の寝そべった様をあらわし、名峰・月山の別名でもあります

庄内藩士は、戊辰戦争以後の明治からは、『南洲翁遺訓』と『臥牛先生遺教』を座右の書として、研鑽怠りなく励んで参ったわけであります

まー、誇りの高すぎる庄内人が、西郷さんとご同様に景仰するほどの御仁ではあります

ただ、庄内生まれの先人、たとえば清河八郎や大川周明・石原莞爾に象徴されますよーに、臥牛先生もまた功罪相半ばすると申しましょーか、陰陽ともに強烈で未だ評価の定まらぬ名士と云えるかと存じます

 

臥牛翁は、むかし西郷さんの暗殺を企てていた節(庄内藩は徳川親藩として江戸市中取締り役でもあった)もあり、肝が据わって腕っぷしにも自信があったのでしょー

佩刀にも独特な見識があり、かの首斬り朝右衛門にも自ら乗り込んで取材しているほどで、剣客としてひとかどの人物であったことは間違いないでしょー

剣術流派は「陰流」(秋田では盛んだが珍しい流派)、無辺流の槍もつかわれます

薩摩藩の表芸が示現流で裏芸が薩摩琵琶であるよーに、庄内藩でも剣術と裏芸としての「釣り」が武士の嗜みでありました

いまに残る「庄内竿」を編み出して、日本海のイシダイと戯れていたわけであります

菅実秀翁は、風流人でもありました

庄内酒井家は書も画もよくします、幕末明治に生きた忠篤公と弟御の忠宝公とが合作なされた書画の掛軸が遺されていますが……

殿様芸を遥かに超える出来栄で、このご兄弟は西郷さんの推薦でドイツに7年もの間ご留学されて帰国、その時既に西郷さんはお亡くなりになっていたので、中央に留まらず躊躇なく鶴岡に帰ってお仕舞いになりました

西郷さんがもしも下野なされなかったら、山形県ではなくて「鶴岡県」になっていたかも知れません

庄内人は県庁が山形にあることを認めない人が多いと思います

 

月山とゆー御山は不思議な趣きがあり、山形市あたりからも見えるとの事で山形県の中央にあり、出羽三山の主峰でもあり、県の代表的な山です

わたしは秋田県寄りの鳥海山文化圏なので違いを肌身で感じているのですが、月山を雅号にする菅実秀とゆー人物はほんとうに油断がなりません

ちょうど藤沢周平の生家から仰ぎ眺める月山の山容が「臥牛」そのものなのです

なにか長閑な風景を感じられるかも知れませんが、月山はなだらかなのに遭難が多く、月山スキー場が夏スキーで有名なよーに(冬は雪が深すぎて滑れない)、ほんとうに怖い御山なのです

そうした重層さや沈潜の気風の不気味さ等、菅さんの苦労人ぶりからも感じられます

「小西郷」と呼ばれた副島種臣翁(『南洲翁遺訓』の序文を寄稿してくださっている)が借金を抱えて、庄内に来られたときにカンパして差し上げたことがあった

戊辰戦争負け組の庄内藩は、賠償金とか大変な時期だったのに、菅さんは義理堅く率先して金集めに奔走しておられた

出陣した戦さ全てに勝利した、荘内きっての名将・「鬼玄蕃」(酒井玄蕃)も菅さんに師事したことがあった

菅家のご先祖は、北九州あたりのご出身らしいのだか、「菅公」の御血筋なのだから頭もきれる

ハヤシ先生は、幕末では江藤新平を評価されていたが、目の付け所がシャープだなあと感心していたら……

今度は、菅実秀とは……

おっしゃったよーに、菅さんなくば『南洲翁遺訓』として西郷さんの口吻が後世に伝わることはなかったでありましょー

あなたが初めて認めてくださいました、ありがとう御座います

 

●  > ‥‥ 最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、

結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。

あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです。

[ マザー・テレサの言葉]

 

> 人を相手にせず、天を相手にせよ。

天を相手にして、己れを尽し人を咎(とが)めず、

我が 誠 の足らざるを尋ぬ可(べ)し。

[ 『南洲翁遺訓』第25章より、荘内藩士・戸田務敏が面授された言葉]

 

‥‥ 一口に「内なる神・内観」と云ってしまえば、洋の東西を問わず神秘主義の最重要テーマになるが、代表して上記の御二方に登場願った

ちなみに、西郷さんの言葉をまとめた『南洲翁遺訓』(41章追加2章)には、他にも「誠」に言及している章が数多い

・第7章ー「至誠」

・第35章ー「至誠」

・第36章ー「誠意」

・第37章ー「真誠」

・第38章ー「誠心」

・第39章ー「誠」

[ wikiの「南洲翁遺訓」に全文掲載(追加第2章は抜かれているが)、ご参照されたい]

 

‥‥ Rさんの言葉、「本当の自分」に理解されるような、自分の努力の行為、これが西郷さんの云われる【誠を尽す】とゆー事でありましょー

漢学の盛んだった幕末の藩校教育では、もっとも大切な言葉が「誠」だったのかも知れません

 

「誠は天の道なり、誠を思うは人の道なり。至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり」(『孟子』)

「誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり」(『中庸』)

「誠は物の終始、誠ならざれば物無し」(『中庸』)

「心を養うは、誠より善きは莫()し」(『荀子』)

「五年にして一語を得たり、曰く誠なり」(司馬温公に五年師事した劉安世の言葉)

 

 

●  西郷さんが西南戦争を起こしたのではない

[2021-10-08 01:33:22 | 玉の海草]

「西南戦争」の戦端をひらいたのは、西郷さんの発意ではありません

新政府が鹿児島にある武器弾薬を大坂に移そうと、「コッソリと」船に積み込もーとする処を、「私学校」の生徒らが見つけて、奪い返してしまった事件が発端でした

この事件の緊急報告を出先でうけた西郷さんは、思わず「しもた(仕舞った)」と呟いたそーです

 

新政府は、これを幸いとこの事件を強奪事件としてとらえ、薩摩士族の叛乱とみなして、薩摩討伐の名目としました

この事件が起こった下地としては、新政府の大久保卿が24人の警察官(薩摩出身者)を、スパイとして薩摩に送り込んだ疑惑がありました

彼らの目的は、「西郷の暗殺」だと云われています

私学校の生徒が、スパイを捕らえ拷問して吐かせたのです(暗殺と勘違いしたとの説もある)

 

武器弾薬強奪事件をうけて、西郷さんは最早申し開きのできないことを悟り、「政府に尋問の筋これあり」と自分を暗殺するためにスパイを派遣されたのは本当なのかと、新政府に問いただすことを大義名分として、熊本鎮台(熊本城)まで行進することにしたのです

西郷さんは、もはや戦争が避けられないことを覚悟して諦めて、私学校の生徒はじめ不平士族の「御輿(みこし)」に担がれることを良しとしました

「この命をお前さま方に差し上げましょう」と挙兵の看板となることを了承します

 

新政府と戦さする気が微塵もなかった西郷さんは、西郷軍の戦略会議(軍議)に加わることは一切なかったそーです(ただし、城山で討ち死にするための最後の軍議だけは出席した)

まるで飾り物のよーに「大将」として、その身を提供したのです

 

私学校とは、西郷さんが公職中に得た収入から私財を注ぎ込み、次代の青年たちを育てるために建てた私塾のよーな学校です

この学校では、軍事訓練も行いますから、不平士族の不満を鎮める目的もありました

西南戦争の直前まで、佐賀・熊本・福岡・山口で不平士族の反乱が連発しました

西郷さんが、新政府とコトを構える気が毛頭なかったことは、「佐賀の乱」で盟友の江藤新平が鹿児島に逃げて、西郷の助力を仰いだときにも一切応じなかったことでも明らかでしょー

 

西郷さんは、たとえ幕府が「大政奉還」しよーとも、倒幕のために徳川慶喜をとことん追いつめました

徳川幕府を倒さないかぎり、新政府の樹立はできないとばかりに、江戸市中を焼け野原にしてまでも倒幕する計画を胸に秘めて、「官軍」の軍事司令官として江戸城に行軍しました

「いざ、お国のためにやる」となったら、情け容赦なく実行する武闘派(極めて優秀な軍師)の一面も強くもつ西郷さんなのでした

 

だからといって、決して喧嘩っ早いわけではありません

教科書で ❌「征韓論」などと聞くと、朝鮮を「征服する」論だから、戦争肯定派なのかなと早合点しそーですが……

真実は、西郷さんが「烏帽子直垂れ(ひたたれ)」の正装(礼装)でもって(軍隊を引き連れないで)、新政府の代表として単独で朝鮮半島へ赴き、交渉して来ましょう」と言っただけでして、いわば、

「韓国への派遣論」= ⭕️遣韓論」【けんかんろん】だったのです

[※  毛利敏彦『明治六年政変』(中公新書、1980年)に詳しい]

もし自分が訪朝して殺されたら、その時には仕方なく開戦の口実としてもよいとゆー外交政策だったのです

あくまでも礼儀を重んじて、相手の真意を謹んで承るとゆー姿勢が、西郷さんの真実の姿なのです

なにせ、他人の家を訪問したときに、「ごめんください」と発することは迷惑をかけるからと云って、女中が玄関を通りかかるまで、黙って待っているとゆー風な御仁です

 

西郷さんの脳内には、おそらく対立の構図はありますまい

歴代の禅師以上に大悟された「腹の出来た人」、山岡鉄舟居士が酒を持参してくみかわす、ほとんど唯一の大器量が西郷さんです

ご一新の最大の功労者・西郷さんをみくびってもらっては困ります

           _________玉の海草

 



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