__藤原摂関家や歴代の幕府から日陰においやられた「伏ろわぬ自由民」については、記しておきたい。
以下の引用は、水澤龍樹『日本のまつろわぬ民〜 漂泊する産鉄民の残痕』に拠っている。
厚く御礼申し上げたい。
この本の帯に「鬼をめぐる暗号を読み解く」とある。
世間には、それが鬼の現れとは知られぬままに流布している昔話が幾つか存在する。
たとえば、
河童
小野小町伝説(小野猿女氏)
猿面冠者秀吉
弓削道鏡の巨根伝説(金精神、金屋子神)
髑髏(どくろ)本尊
摩多羅神
真言立川流、天台玄旨帰命壇
一つ目の天目一箇神
傀儡子、遊女、遊廓
忍者、修験者、能役者、悪党
上州の博徒
国栖、土蜘蛛
外法荼枳尼天
安倍晴明と陰陽師
足柄山の金太郎伝説
蛭子と恵比須神
桃太郎と温羅(うら)の伝説 等々
これらすべて、「真金(まがね)」とよばれた「鉄」に絡めた物語なのである。
ご興味のある向きには、直接この名著『日本のまつろわぬ民』にあたってもらって、正史と呼ばれる歴史の裏面に追いやられた日陰者たちに思いを致していただきたい。
今回は、さまざまな章より任意に引用する。
「__ 」以降が私の声(地の文)である。
🔴「遊女」の本来の意味
> 『古事記』の「天岩戸」の項……
> 天照大神が隠れた岩戸の前で、ほぼ裸体の天宇受売命(あめのうずめのみこと)が神がかったエクスタシーの所作で舞い踊る様子や、それを見て八百万の神々が笑うことを指して「楽ぶ(あそぶ)」と記しているのである。
また『古事記』では、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)に射殺された天若日子(あめのわかひこ)の遺体を納めた喪屋(もや)で、八日間にわたり家族が歌い、舞ったことも「遊び」としている。
> 江戸寛政年間(1789〜1801)の『摂津名所図会』に記された住吉神社(大阪市西淀川区野里)の一夜官女、もしくは一時上臈(じょうろう)など、乙女が神の一夜妻となって、子孫繁栄や豊漁・豊作を祈る神事が諸国の神社に残されている。
『遊女と天皇』(大和岩雄著)や『ヒメの民俗学』(宮田登著)によると、これらの神婚のルーツは、神の役を演ずる神官や土地の長老が、祭日の夜に巫女と交歓した「神遊び」の神事にあるという。
以上の事例から、神を祭るための性的な没我の舞踏や宴、死者の復活や鎮魂のための歌舞音曲、肉体的に神と交わる豊饒儀礼、これらのすべてが遊びであり、天宇受売命や一夜官女などの遊ぶ女、すなわち遊女の正体が、神界に通じる巫女であったことがうかがい知れる。
巫女に純潔を求める思想は、儒教やキリスト教の倫理に影響された、はるかな後世の所産にすぎないのである。
事実、天宇受売命の子孫は猿女(さるめ)氏となり、鎮魂祭の演舞や、国家の豊饒儀礼である大嘗祭、新嘗祭に供奉する「巫女=遊女」の猿女(定員4名)として、氏族の乙女たちが宮中に出仕していた。
また、平安初期の『令集解(りょうのしゅうげ)』によると、垂仁天皇の庶子である円目王(つぶらめおう)が祖となって、天皇崩御の際に、遺体を仮安置した殯宮(もがりのみや)で鎮魂の祭事を挙行する遊部(あそべ)が成立したという。
さらに、近世の遊郭にも「巫女=遊女」の名残りがあり、客を「大神(だいじん)」客の取り巻きを「末社」と呼び、最上位の遊女には宮中の「巫女=遊女」の格式をもとにして、高等官である太夫の位がつけられていた。
遊郭の宴や床の作法は、「神遊び」の形式を模したものだったのである。
> マチ針の話は、小町に対する誤解にほかならない。彼女は「大神=天皇」に仕える一夜官女であったため、他の男性と交際できなかったのである。
__ マチ針は糸を通す穴がない、と小野小町を貶める噂が流布したのは、反対勢力がいたからなのだろー。
うちの近所に鎮座まします八幡宮の宮司は、小野小町の父にあたる小野良実(出羽国の郡司)をご先祖として、約1200年代々「小野」を継いできた名家だが、小町が秋田に帰るときに一夜泊まっていったとゆー伝承があるそーだ。
すこし離れた所に「小野塚」なる墓地があり、千軒の集落があったと伝わる。渤海国から庄内地方へ千人の移民があったとする史実に照合する。小野小町の生誕を西暦800年代前半とすると、700年代の移民と辻褄が合う。
その小野塚のある熊野神社(庄内町狩川)は、まさにタタラ製鉄の拠点であった。
> …… 水辺の巫女をルーツとする平安の遊女たちは、淀川ぞいの淀津(京都府乙訓郡大山崎町)や神崎(兵庫県西宮市)、江口(大阪府東淀川区)などの宿を拠点とし、水面に小端舟を浮かべて客を引いていた。真の意味での「水商売」をしていた彼女たちは、女性の長者に率いられた遊芸のプロ集団であり、行動の自由を奪われ、管理されていた江戸時代の遊女とは異質な存在であった。
また、社会的に卑賤視されていたわけでもなく、江口の遊女であった丹波局は、後白河天皇に寵愛され、承仁法親王の生母となっているのである。
__ 小野氏は定住民としての顔と漂泊の産鉄民としての顔の両面をもつ。小野氏と霊的な猿女氏とが結合した小野猿女氏の中では、「地質や地下の水脈の卜占透視」が猿女の女性の役割であった。
一族の誇りである小町の物語を全国に流布したのも彼らである。
そんな彼らの血筋から、戦国時代の末期から江戸初期にかけて「小野於通(おつう)」を名乗る幾人もの女性が現れる。
初代松代藩主の真田信之は、京で小野於通(おそろしく教養があった)とつきあい、国元に二代目於通を呼んで息子の妻に迎える。
ちなみに真田信之(幸村の実兄)の庶子に正受老人が産まれている。あの白隠を打ち出した禅匠である。
> …… 『黄金と百足』(若尾五雄著)によると、陣地や橋などを構築する戦国時代の工兵であり、江戸幕府の隠密や下級御家人として存続した「黒鍬(くろくわ)衆」は、小野氏の系統であるという。
また、安土城や聚楽第、江戸城をはじめとする各地の城郭の石垣積みを担当した石工集団「穴太(あのう)衆」と、近江の小野氏の故地小野郷はともに滋賀郡内(大津市)で隣接していた。
__ 『子連れ狼』によく出てきた「黒鍬もの」、建築スキルをもった工兵のイメージが強いが、やはり小野氏つまり鍛冶・鉱山師の系統だったのですね。こーゆー時代背景わかった上で時代小説よむと、またちがった感慨に浸れます。
> 戦国末期に一人の小野猿丸が現れ、豊臣秀吉になったのでは?と、筆者は推察している。
__ 秀吉の城取り戦法は尋常ではありません。前田家に遺っている文書に、太閤さんは指が六本あったと記されてあり、かなり下層のお生まれだと思われる。一代で天下人に昇りつめるなど運だけでは出来ますまい。
> …… 巷間の伝承によると、この金精は、称徳(孝謙)女帝を惑わして皇位を簒奪しようとした奈良時代の怪僧、弓削道鏡の巨根が起源になっているという。
> 金精神、別名金麻羅(かなまら)
> 金精神は金属の精霊であって、鍛冶や鉱山と縁が深い神なのである。
> …… 金で信仰の起源という説もある岩手県の巻堀神社(盛岡市)の近くにも大ヶ生(おおがゆう)金山があった。
> 吹屋銅山の近くに金精神社(高梁市)
> 金山神社(神奈川県川崎市・若宮八幡宮境内)
> 神奈川という県名も、砂鉄採取の鉄穴流し(かんながし)に用いた川のことであり……
> 鉄の古語である須賀(スガ)の文字が含まれる横須賀
> 川崎市麻生区の麻(アサ)も鉄の古語
> 相模国で製鉄業が盛んだあったからこそ、あの正宗をはじめとする「相州伝」の名刀が生まれたのである。
【金山神社(川崎市)の、お守りと絵馬】
弓削道鏡のご先祖は、
> 用明天皇2年(587)に討死した物部弓削大連守屋
> 軍事豪族である物部氏は鍛冶・鉱山師でもあり、砂鉄から道具を作るという、当時としては先進的な技術を保持していた。
> …… 『道鏡』(吉田健一著)によると、当時としては珍しく、道鏡政権には下層民に対する視線があり、多くの奴婢を開放して良民に変えたという。また道鏡は、開墾地の私有を認めた墾田永年私財法を停止し、貴族や有力者への土地と富の集中を防いだ。後世に作られた印象とは違い、道鏡はただの野心家ではなかったのである。
__ この弓削道鏡事件は、皇室および宮中を揺るがす大事件であったらしく、道鏡を斥けた和気清麻呂と、後白河院と平清盛の間に立って守った平重盛、臣籍降下して皇室を護る蔭働きをなさった中山忠伊卿の御三方は、臣下であるにも拘らず皇室で祀って神事をなさっているらしいです。
__ 物部氏といえば、物徂徠(荻生徂徠)が有名だが、隣県の秋田に伝わる「物部文書」が知られている。
うちの近所にも「生石(おいし)神社」があり、あの物部氏の遺構ではないかと云われる石のご宝前(巨大なご神体)のある日本三奇の「生石(おうしこ)神社」(兵庫県高砂市)の唯一の分社となっている。成務天皇の御代に分祠したと伝承されているが、西暦でおよそ100年頃だろーか、信じられないが多分庄内最古の神社となろー。
なにゆえ、こんな処に分霊したのか?
このへんの一ノ宮は、鳥海山大物忌神社なのだが、この「大物忌」とゆー雅びな命名も田舎に不釣り合いで謎とされている。
伊勢神宮や鹿島神宮には、「大物忌」と呼ばれる童女の巫女のよーな重要な役職が存在する。なにか関係があるのか?
神武天皇の東征は鳥見山まで、つまり鳥海山までといわれている。
ここ出羽国は、越(こし、新潟県)の国の出羽(=出端)の意味で、大和朝廷からはよく知られていたよーだ。
かれらの恐れる陸奥(みちのく、道の奥)は、出羽から向こう、つまり出羽の奥にあるとの認識で、なんと山形県から秋田県あたりは陸奥国に入らないのである。
> 鍛冶の神、天津麻羅(あまつまら、天界の男性器)
> なぜ、金属神が男性器なのか?
> 『鉄の民族史』(窪田蔵郎著)には、羽口(はぐち)と呼ばれる鞴の送風口が男性器に似ていることが記されてある。
> 堂(日光山輪王寺の常行堂)の祭神である摩多羅神(まだらじん)は来歴不明の神であり、一説によると、天竺渡来の大黒天(男体)と荼枳尼天(だきにてん、女体)が合わさった、人の精気を奪う鬼神であるともいわれている。
__ うちも、刀鍛冶の家系だからなのか、足をあげた大黒天の置物を飾っている。摩多羅神も案外近しいのかも知れんが、庄内の冬の行事「大黒様のお歳夜」では二股大根をつかい、いわば聖天さまとも習合している。
大黒天と荼枳尼天とは、縁深い関係で、たしか破壊神シヴァ神の化身である大黒天が荼枳尼天(女夜叉)を調伏した歴史があったはずである。
大黒天は本来畏怖される神格である。大暗黒天の意味だから、ニコニコ笑っているのがよけい恐ろしい。
大黒天はタタラ産鉄民から信仰されているが、出羽三山の湯殿山も大黒天信仰である。
> …… 「煩悩即菩提」を教義とする一派…… (略)…… 真言立川流である。
> …… 後醍醐天皇の帰依により、立川流は一気に興隆するが、南朝の衰退とともに勢力を減じ、歴史の表舞台から消えていく。その後、立川流の法灯は、南朝と関わりが深い鍛冶・鉱山師や修験者、職人や芸人など、諸国を漂泊する人々に受けつがれ、迫害に耐えながら細く隠微に燃え続けた。
> …… 文永7年(1270)に成立した立川流の批判書『受法用心集』には、髑髏本尊なるものが紹介されている。
> …… 天明4年(1784)に伯耆国(鳥取県)の鉱山師下原重仲が著した蹈鞴製鉄の解説書『鉄山必要記事』の内に、「往古に天下った髑髏に祈ると、色が変わる。その色の変化により、炉の全てのことがわかる」という妙な記述がある。
> 事実、蹈鞴場の内では、死穢を忌まなかったと伝えられている。また、中国地方を中心として、鍛冶・鉱山師に信仰されている金屋子神(かなやごかみ)は、死体を好むという話もある。
『竈神と厠神』(飯島吉晴著)には、鉄が沸かない時は死人を背負って歩くとか、鍛冶屋で仕事の調子が悪い時は、柱に死体をくくりつけたなど、農耕民の習俗とは異質な伝承が紹介されている。
__ 『子連れ狼』の第二部、大五郎と東郷重位(示現流)とのシリーズ中に、黒い刀を打ってもらうシーンで、この死体好きの金屋子神が出てくる。
刀鍛冶が作刀まえに精進潔斎するとか、神がかった高貴なイメージは、後鳥羽院が壇ノ浦で失われた三種の神器の剣のレプリカをつくろーとなさってから出来たものである。
日本の職人文化は、聖徳太子と後鳥羽院がその淵源となっていると思う。
> 念仏聖の一派である時宗は、二代遊行上人他阿(たあ)の時代から、鍛冶・鉱山師の神である小野神を守護神としていたのである。さらに、小野神を信奉する小野猿女氏の系統に連なる小野源大夫家が、代々日光山の神官を務めていたことも重要である。
__ 時宗の一遍上人の絵巻物には、熱狂的な踊り念仏の大行列にあっても、殺されたの盗まれたのとかのキナ臭い逸話がまったく遺っていない。
これは、あの当時治安もよくなかったのに、いかに上人が信奉されたかを示す証しだと思う。もちろん、陰で働いた組織はあったであろー。
「まつろわぬ者」のネットワークが、時宗の信者たちを護ったのであろーと私は確信している。
> 南朝の衰微とともに、異形異類の者たちは歴史の闇の内へ隠れていった。
だが、後の豊臣秀吉は小野猿女氏の系統に連なる者であり、また、徳川家康は南朝に属した新田氏の末裔であるといわれている。つまり、戦国の動乱を経て、鬼の王国は見事に成立したのである。
__ このあたりの水面下での策謀は、隆慶一郎『影武者徳川家康』に詳しい。道々の輩である世良田次郎三郎が、徳川家康になりかわる筋は、家康公の晩年のひとが変わったよーな様変わりをよく説明していた。
道々の輩は、ナンバーネームが好きだなとも感じた。坂東八十助、蓑助、三津五郎とか山の民の風俗も関与していそーだ。
歴史とは成文化されたレポートには書かれない珍事にあふれている。
江戸時代の風呂屋は、男女ともに裸を恥ずかしがっていないよーだし、西国でおおっぴらに行われていた「夜這い」の風俗も現代には継承されていない。
案外、『るろうに剣心』の維新観や暴動などは、史実に近いんじゃないかと言う歴史家もあらわれている。昔のことはわからないものだとゆーのが正直な思いである。だってわたしんちでも「百回忌」やることがあるが、親戚の長老とかに訊いても、その当該の先祖を知っている者は一人としていない。たった百年でひとは忘れ去られるのが現実なんである。
明治維新のころ、剣心のよーな闇のテロリストがいても不思議ではないではないか。
> 火男が鍛冶の化身であり、とがった口は炉の炎を煽る鞴の象徴であること。
> …… 『闇の日本史』(沢史生著)によると郡内(鎌倉郡)の銭洗弁天宇賀福神社(鎌倉市)も製鉄に関係していたという。一般に、この神社の霊泉で銭を洗うと何倍にも増えるとされているが、その起源は金洗いであり、灼熱の炉から取り出した鉄塊(ころ)を冷却した泉が、信仰のルーツになっているというのである。
また、弁天は砂鉄を産む川の水神、宇賀福神も河川と鍛冶に縁が深い蛇神である。
__ 最近、「宇賀神」とゆー珍しい苗字をテレビでよく見かけるよーになった。人の顔に蛇体の気持ち悪い神像がアタマから離れないが、頭上に蛇を載せた龍樹菩薩(ナーガルージュナ)もそーである。
中沢新一によると、蛇はいろんな価値あるものを象徴していて、刀への信仰も蛇神信仰であると云ふ。
なるほど、火と水で火水(かみ)で、蛇は刀で河川でもあり、強力な水神につながる、スサノオは水刀祝詞をつかう。
> 宮中の祭祀を担当していた忌部氏の古伝承を、平安時代の初期にまとめた『古語拾遺』の天の岩戸の項に、刀や斧、鉄鐸(くろがねのさなぎ)を作る天目一箇神(あめのまひとつのかみ)という一目の鍛冶神の名が記されているのである。
> …… 鉱山師に縁が深い、修験道の本尊とされる不動明王の左目が眇であることも、この天目一箇神に関係している。さらに、妖怪の一目小僧や一眼一足の一本蹈鞴などは、この鍛冶神が零落した姿であるとされている。
> …… 『鑪(たたら)と鍛冶](石塚尊俊著)には、鍛冶職人が一目をつむって炉の火の色をながめ、金属の溶け具合を確かめることにより、片方の目を悪くしてしまうという職業病が記されてある。
さらに、『青銅の神の足跡』(谷川健一著)には、製鉄に携わる鍛冶職人は休まず鞴を踏み続けるため、片足も不自由になってしまうことが紹介されている。
__ 片目びっこの山本勘助である。鍛冶の家系を継ぐわたしの父は、片目の視力がほとんどなく、そのうえ事故で片脚を失ってしまった。なおかつ突然大黒天の大きな置物を求めて大事に飾っていた。タタラ産鉄民は大黒天を信仰することは知らなかったはずである。かくゆー私も、鉄の溶接を生業としたことがある。ご先祖の記憶とは、いま生きている人にもフラッシュ・バックするものなのか? 興味は尽きない。
> 大和朝廷に迫害された役の行者を始祖とする修験者のルーツは、朝廷の支配から逃れて山野に隠れた反体制派の鍛冶・鉱山師、すなわち鬼であった。
> …… 修験道の法具が、山中の岩肌を砕いて鉱脈を探す鉱具でもあった……
> …… 楠木正成の本拠地である赤坂(大阪府南河内郡千早赤阪村)の赤は、白粉や薬、塗料の材料として高値で取り引きされていた水銀の原料「硫化水銀(丹砂・真朱-まほそ)を表わしているのである。
楠木正成は河内から大和を横断して伊勢に至る大和水銀鉱床の採掘や精製、売買を仕切っていたといわれている。
> 『楠木正成』(森田康之助著)ほかの資料によると、戦後に伊賀市(旧上野市)の旧家で発見された上嶋(かみしま)家文書には、
上嶋家から出て、服部一門の宗家である服部清信の跡を継いだ元成の三男が大和(奈良)申楽観世座を創始した観阿弥であり、その観阿弥の母は、河内(大阪市東部)の悪党を前身とする 後醍醐天皇の忠臣楠木正成の姉か妹であることが記されている。
> …… 散楽もしくは申楽(猿楽)と呼ばれていた能楽師は「七道の者」、すなわち諸国放浪の者とされ、定住民から差別的な視線で見られていた。
> しかし、「七道の者」から出発した能楽が伝統芸術の地位にまで昇格したのも、長らく忘れられていた観阿弥や世阿弥が再評価されたのも明治の末以降のことなのである。それは能楽師の家に秘匿されていた世阿弥の伝書の数々(『風姿花伝』『申楽談儀』ほか)が世間に公開され、能に関する研究が進んだ結果であった。
__ 『雲霧仁左衛門』にも「七化けの〇〇」と女盗賊が出てくる。この「7」とゆー数は、妙見さんつまり北斗七星に繋がるものだそーだ。
七支刀とか破軍星旗とか、意外に根深い北斗七星信仰が日本の随処にみられる。北辰一刀流もそーだし、妙見信仰は奥深い。
> …… 伊賀の文人である菊岡如幻は、江戸初期に著した『伊乱記』のなかで、服部氏の祖先を雄略天皇に仕えた秦酒公(さけのきみ)であると説いている。
> 『日本書紀』応神天皇の項をひも解くと、秦の始皇帝の子孫といわれる弓月君(ゆづきのきみ)が120県の民を率い、朝鮮半島を経由して来日したことが記されている。
この弓月君を祖とする秦氏は養蚕や機織、灌漑や鍛冶・鉱工業など大陸の先端技術とともに、申楽や能楽の原形である散楽を日本へ伝えたとされているのである。
この秦氏。ルーツとし、機織を職掌としていた機織部(はとりべ)が、後に服部と呼ばれるようになったとされている。
また、『日本書紀』欽明天皇の項には、大蔵の司に任じられた秦大津父(おおつち)が、伊勢で商いをしていたことが記されてある。この伊勢での商いは水銀の売買である。
『朱の考古学』(市毛勲著)によると、水銀の需要が増大した欽明天皇の御世、すなわち6世紀後半に、秦氏が伊勢水銀鉱床の坑道採掘を始めたという。
つまり、秦氏は水銀長者の楠木正成と直につながっているのである。
> …… 世阿弥は著書『風姿花伝』のなかで、聖徳太子の近臣で広隆寺の創建者として知られる秦河勝(かわかつ)を申楽の始祖としている。
> …… 江戸初期の幕府代官頭であった大久保長安(ながやす)……
天文14年(1545)、長安は金春流の申楽師大蔵大夫の次男として生まれた。
『佐渡の風土と被差別民』(沖浦和光著)によると、大和の金春家に残された系図には、彼の名が「秦長安」と記載されているという。
> …… 佐渡金山で彼が推進した「水銀流し」という精錬法……
これは鉱石に含まれる金の成分を水銀で溶かし、金アマルガムとした後に熱し、水銀を蒸発させて純金を得る方法で、メキシコで生まれた新技術とされている。だが、その原形の技術は古代日本で実用化され、奈良東大寺の大仏の鍍金(メッキ)に使われていたのである。
__ 金山奉行の大久保長安は、ほんとうに異能なおとこで、国史にいきなり金(ゴールド)の「水銀アマルガム製法」を登場させた、徳川幕府の功労者でもある。
この大久保長安と将軍家の兄弟・松平忠輝とを主人公にすえた歴史絵巻が、隆慶一郎『松平忠輝』である
家康公の血筋を引く忠輝卿は、文武にまさに異能を発揮して、なんでも出来たが将軍に成り損ねた男である
異国のコトバに堪能で、クリスチャンであり、剣も歌舞音曲も往くとして可ならざるはなき天賦の才を発揮して、同時代人にかえって警戒されてしまう悲運の貴種ではあった
幕府内で独特の立ち位置を占めるので、TV時代劇の陰のヒーローになったりもした
駿河の忠長卿をかついだ面々のよーに、大久保長安も忠輝卿をかついで幕府を我が手に入れよーと画策したものかも知れない
大久保長安は忍者出身でもあり、自身の安全には周到な警戒を露ほどもゆるめなかった、そのために長安在世中は流石の辣腕の幕府方も手を出せなかったのである
厩戸皇子よろしく、長安が亡くなってから、莫大な財産もろとも、長安の子孫の命も根こそぎ奪われた
独眼竜政宗のごとく、大久保長安が天下を奪る目もあったのだから凄まじい、「漂泊の民」の出自で頂点を極めた太閤秀吉公に匹敵する偉材であったと私は思う
幕末の小栗上野介もそーであった様に、徳川幕府はどーも掌中の珠を手放してしまう性癖を内に秘めているよーだ
_________玉の海草