『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

《玉の断章》 空海から副島蒼海〜 宇宙を象る 「書」

2021-11-29 22:27:20 | 「書」入木道

__むかし、ヴィットゲンシュタインの『反哲学的断章』が好きだった

内容はそこそこで、このタイトルが素的だと思ったので、ちょいと拝借しよーと思い、起承転結まで持ち込めない断片を 《玉の断章》 と名付けて、まとめて貼ることにした

 

 

● “ 正統なる神道家〜 副島種臣(雅号=蒼海)”

佐賀の副島種臣については、以前NHKで書家の石川九楊さんが解説した番組を面白く拝見しました

空海の神品に匹敵する書をのこした、史上唯一の書家であるとの評価でした

「カリグラフィー」の意味では堪らない書家なのでしょーが、副島蒼海の書は余技であるところに彼の真面目(しんめんもく)があると思います

書を専門に手掛ける「職業書家」では、決してないのである

外交官としては、大陸で提唱した「士大夫の道」でも注目され、政治家としても高度の教養を兼ね備える仁士として、西郷さんからも後事を託されるほどの有為な偉材でした

 

【画像=明治23年(明治天皇の恩赦の後)荘内藩によって発行された西郷さんの語録『南洲翁遺訓』の序文は、副島翁に依頼された】

 

そんな副島が、深く神道を修めた人であることを忘れてはならないと思います

本田親徳 に「鎮魂帰神法」を学び、大本教の出口王仁三郎に古神道を教えた 長沢雄楯 とは相弟子である蒼海は、本格の神道家なのです(山形県遊佐町蕨岡の大物忌神社拝殿の大額を書かれた有栖川宮熾仁親王は、王仁三郎の父御だと云われます)

[※ 薩摩藩士の子息で、「精忠組」では重く用いられた異能の親徳は、明治六年頃西郷さんの紹介で副島と会い、「帰神」による危急の見立てを伝えた、「明年早々西郷は衆に擁せられて兵を挙ぐるにつき未然に防ぐには種臣自ら赴いて説き東京に倶う外道なし。若し挙兵にいたらば災必ず汝の身に及ぶ故難を国外に避くべし」…… これにより副島は清国へ向かい、西南戦争の前後は日本に居ない]

 

本田親徳はまた、明治天皇に伯家神道を教えた 高濱清七郎 翁とは親友です

いま567感染者を激減させた「ファクターX」としてネットで注目されている今上陛下の「祝(はふり)ノ神事」とは、120年振りに挙行された伯家神道の秘事であるのです

それほどまでに古神道に精通した蒼海は、根本の意念からしてその辺の書家とは隔絶した境涯にあるのです

老子ー王羲之ー空海ー日本の入木道(青蓮院流など)へと連綿として流れる神仙道の意念は、天皇家でも脈々と受け継がれております

秋篠宮の修めた「有栖川流書道」がそれですが、副島翁は大正天皇の「書」を高く高く評価されておられるほどなので、その深淵は窺い知れません

 

まー、私しにとりまして書の道は趣味などとゆー生易しいものではなく、生き方全般につながる道標と云えるものです

伊勢白山道が、神道の書は「清」と「凜」だと喝破されていますが、高野山の両部神道、比叡山の山王一実神道、慈雲尊者の雲伝神道、現代では伊勢神宮内宮の荒木田神主の書にまで、日本古来の神道の「中空」性は観て取ることが出来ます

 

尊円親王の『入木抄』(1352年)より引用します

「古賢能書の筆のつかひ様は、いづくにも精霊有りて弱き所無し」

「能筆の手跡は生きたる物にて候。精霊魂魄の入りたる様に見(へ)候うなり」

 

‥‥ 「昔からよい書というものは、どこもかしこも生きていて、弱いところがない」とはその通りだと思います

現代書家の、白い紙に墨液を塗りたくっただけのよーな作品は果して「書」と云えるのか

王羲之伝来の「入木道」では、「大」の字ばかり、三年の間ひたすら練習させられると聞く

 

三島の龍沢寺(入木道の正統伝承者である山岡鉄舟が参禅した臨済宗の禅寺)の師家、山本玄峰老師(終戦時の鈴木貫太郎首相が参禅された)は無学であったが必死に筆字を稽古された、孫弟子の鈴木老師がその様子を書き留めておられる

 

「まず、紙を展べて筆を執る、そのとき、

・太い筆の軸の上に重い米俵を三俵ほど載せて、

・石工が、堅い石を刻むように、

・文字を石の中へ、突きさすように

して書きます。つまり禅定力をもって書くのです。丹田に気力を満たして書きこむという方法です」

[※  鈴木宗忠『玄峰老師への追憶』より]

 

‥‥ 現代書道界は、このよーな「境涯の書」を、書道技術の拙さをもって本格的にとりあげることなく、傍流の位置に追いやってきた

ジョン・レノンは、白隠の書を床の間に掛けるためだけに、わざわざ和室まで新築したんだよ、あなたがたの書にそこまでの魅力があるのかい?

とはゆーものの、NHK大河『青天を衝け』の題字みたいに、ただの素人が書いたような「書」を「境涯の書」とは言わんから 💢プンプン

 

 

● 空海さんのサイン(署名)”
[2021-05-06 01:47:26 | 玉の每水(王ヽのミ毎)]

 

大乗仏教の祖、八宗の祖とも云われ、「小釈迦」の異名で景仰される龍樹菩薩……
『華厳経』にある「菩薩の52位」で、唯一最高位の52段の悟りまで辿り着いた人間は釈尊だけで、
次席の41段目まで至ったのは、わずかに龍樹菩薩と、唯識派の無著(アサンガ)菩薩だけだと聞く


空海の密教(秘密仏教)の淵源を辿れば龍樹に行き着くし、龍樹が阿弥陀の本願を明らかにして下さったことを衷心より感謝なさっている親鸞……
この御二方は、龍樹菩薩の後継者なのです

 

さて、なにかと気になる空海さんですが……
高校時代、書道部だったにも拘らず、三筆の空海さんを素通りした私でした(到底人の手になる書とは思えなかったから、王羲之にも肌身でそー感じた)……
はて、空海さんって、どんな署名してたかしらん?
つまり「空海書」と末尾に添えて落款(ハンコ)を押すのが、書家の仕上げ方だから
でも、空海さんは時代が古いから、禅宗の「墨蹟」みたいな作品としては遺ってはいないはず
とはゆーものの、かの『風信帖』(最澄さんにあてた手紙をまとめたもの)ならば、お便りだから「空海」の署名があろー
で、見てみると……
いやあ、驚きました、あの空海さんがカッコつけているのです


「則天文字」といいますか、通常使われている書体ではなかったです
「空」の字はそのまま、「海」の字はサンズイ篇を「水」に見たて、「每+水」を縦に並べた漢字をお使いになっています
每(つねに)水、水象のイメージを大切になされたのかと存じます
[ 同じ用法として、「峰峯」「島嶋・嶌」「崎・﨑㟢・嵜」などがあります]

 

🔴 以下の4枚の貴重な画像は、『花筏(はないかだ)』と仰る、博覧強記の学術的サイトから、引用させて戴いた。(このサイトのリンクを貼っておきます、是非ご高覧いただき深掘りしていただければと存じます)

空海 | 花筏

 

【この「海」の異体字は、かの『康熙字典(こうきじてん)』にも記載されているそうです。】

 

 

【画像= 空海の『ご請来目録』を、最澄が借りて書き写したもの。巻頭と末尾に「沙門空海」の文字が見えるが、さすがの秀才・最澄も書き慣れない書体に四苦八苦している様が窺えて、そぞろに可笑しい ♪ 

空海さんって、ほんとに変わり者だったんですね。】

 

 

 

 


やはり、宗祖として世間的に目立たせる必要があったのだろーか?
20
年の留学生(るがくしょう)としての義務を自分勝手に破って、2年で帰国したものの…… 朝廷から入京のお許しが出るはずもなく、3年もの間、無駄に九州太宰府に留め置かれる
「密教の正統伝承者」(数多の中国人を差しおいて日本人の空海が指名された)として、洋々と帰朝なされた空海だったが、朝廷のお墨付きのある最澄とは、依然として置かれた立場が地位が余りにも違いすぎた
嵯峨天皇の寵愛を得るまでは、ご苦労が絶えなかった在野の巨人であったのである

 

> 書の極意は、心を万物にそそぎ、心にまかせ万物をかたどること。
正しく美しいだけでは立派な書にはならない。
心を込め、四季の景物をかたどり、字の形に万物をかたどる。
字とは、もともと人の心が万物に感動して作り出されたものなのだ。

[ 空海『性霊集』より]

 

 

‥‥ 万能の天才空海と同時代に遭遇したがゆえに、最澄さんは比べられて気の毒であったが、しかし、
例えば空海さんが唐より持ち帰った品々の「ご請来目録」(上掲の画像参照)は、長らく空海さん直筆と思われていたが‥‥
延暦寺印などが押してあることから、実は最澄さんが書き写したものが現存するものだと分かった
つまり、空海直筆と間違われるほどに、最澄さんも能筆であられるのである
端然たる静けさにおいて、空海にまさる最澄であると私は思う


秘蔵っ子の泰範(最澄の「澄」が泰澄大師から由来するよーに、泰範の「泰」も同様であろー)は、最澄を裏切って空海になびいた様に、何をやっても抜群の器量を示した、並ぶ者なき空海さんであったが……
東嶺金蘭の最澄さんのよーに、後年に次々と宗祖となるよーな人傑を比叡山ならぬ高野山で輩出することは遂に叶わなかった
空海さんが出来過ぎていただけで、墨蹟で観る限りは、最澄さんの書に匹敵するよーな鎌倉時代の宗祖はおられない


伝承の難しい密教の不安定性に対して、比叡山の開かれた顕教は防波堤とゆーか土嚢(どのう)のよーな重要な役割は担ったことと思う
この陰陽が必要不可欠だったのだと思う
東密(真言宗)と台密(天台宗)は、これまた最澄の後を継いだ、天才の慈覚大師・円仁によってバランスを取るに到った

 

「正しく美しいだけでは立派な書にはならない」
とは、いかにも山野を自由自在に駆け巡った空海さんらしい
「万物をかたどる」、象る、つまり字の形に森羅万象を映すと云われている
このあたりが、スーパーエリート最澄さんが在野の自由人空海さんにどうしても及ばない処だと思われる

            _________玉の海草

 


 日本の伝統が失われる〜 映画 『るろうに剣心 最終章』 の題字 (筆字)

2021-11-15 04:44:29 | 「書」入木道

__少しでも567の感染リスクを回避するために、映画館の大スクリーンで観るのを我慢していたが、とうとう予約していたDVDが届いた

漫画『るろうに剣心』については、実際の維新風景もこのマンガの描写に近いのではないかと研究している学者もいるやに聞く

 

【画像=映画『るろうに剣心』第一作のタイトル題字(後述)】

 

 

緋村剣心は、河上玄斎がモデルとも言われるが、「人斬り抜刀斎」のよーに有名になった暗殺者ばかりではなく、無名でも十人や二十人斬った闇の剣客はいたのではあるまいか

そんな明治の殺伐とした街並みが、随所に活写されてあって京都庶民の暮しぶりに目がいった

 

剣心が、長州藩の奇兵隊の応募に応じる情景は、壬生の狼「新撰組」のそれに似た、生々しい遣りとりがあった

佐藤健の居合、抜刀して納刀する一連の流れるよーな所作には目を奪われた

腰、間、瞬息のうちに展開する「動と静」、まるで一幅の繪のよーで、ほとほと見惚れてしまった

 

そして、長州藩おかかえ宿での食事のシーン…… 何度も繰り返し出てきて(巴が給仕をするよーになった為)、興味深かった

健くんは正座が端正である、食べる仕草まで武家らしい

 

ー新撰組の探索(志士狩り)で、その常宿に乗り込まれ、どこぞに雲隠れするしかなくなったとき、

桂小五郎から、巴は剣心に付いていって郊外の農家に隠れるよーに促されたとき…… 

巴は「お供させていただきます」と云った

これが、昨今日本国内で流行っている「〇〇させていただきます」の良き使い方の例であろー

 

「〇〇させて頂く」、つまり相手の許しを乞う形で、自分を謙譲する言い回しだが…… 

大阪の芸人は、「勉強させていただきます」とは昔からつかっていた

最近では、「感謝させていただきます」とかネットでよく目にする

勉強とか感謝とか、自分の裁量でなんとでもなるものに関して、相手に許しを乞う言い方は、何かコテコテの大阪商人を思わせる

「へりくだる」とゆーよりも、卑下している感すらある

[※  「させていただく」を詳しく深掘りしたものは、

《玉断》 畏れるべき関西文化〜 「させていただく」の是非 - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

をご参照くだされ]

 

この巴(有村架純:演)の、宿であり勤め先を追い出されて、ゆくあての無い境遇であればこそ、「お供させていただきます」が相応しいのである

 

お庭番衆のよーな闇の組織をひきいる北村一輝は、終始さえなかった

殺陣も闇のラスボスとしての風格がまるで感じられず、ダレた一幕となったが、手下のトラップを仕掛けた命懸けの戦闘は忍びの者らしくてシビれた

 

冬の粉雪舞う決闘シーンは、『鬼滅の刃』の傑作な雪原シーンに優るとも劣らず、巴の紅とあいまって、幻想的な美しさと身も凍る厳寒とが同時に感じられた

この巴とゆー役は、「永遠に女性なるもの(ゲーテ)」をイメージしたと大友監督も仰っていたが、実に精神性の高い武家娘ならではの気高さが凛と張りつめて、いっそ神々しかった

 

有村架純を美女だと認識したことはなかったが、この巴は内に秘めた思いにしろ立ち居の清々しさにしろ、実に歴史に残るお姫さまキャラではあるまいか

黒くて長いおろし髪が、上品な着物姿が、こんなにも伝統的なご新造さんを感じさせる女優は現在では稀有な存在である

聞けば、有村架純は「茶道」の嗜みがあるそうだ、和服に慣れておられるような気がした(スクッと立った姿勢と立居振舞い、着物の裾捌き等に品があった ♪)

 

とはいえ、最後に決定的なイヤミ言を告げねばならないが、和綴じの日記に筆を走らせる場面があるが、あの筆字は到底いただけない(のちに弟の縁が監獄の中で読む「姉の日記」に書かれた細字は、巻頭はまあまあの出来だった)

筆力のまるで欠けたヒョロヒョロの細字は、巴の芯のあるキャラクターにはそぐわない(女性の細字で名人とされるのは、富岡鉄斎を育てた蓮月尼であろーか)

 

そして、エンドロールに流れるタイトルの筆字の「るろうに剣心」…… 

監督はじめスタッフも、あの毛筆で書いた字のあらわす意味がわからないのだろーか?

ネットで題字について調べると、ポスターデザイナーの知人の書であるらしい

味のある書体にひかれて、オファーを出したらしいのだが、小学生ころにでも何年か書をたしなんだ経験があれば、あのタイトルの書は小学校五年生くらいのレベルと分かるのではあるまいか

ネットでも、タイトルの字が下手で萎えたと言っていた人がひとりおられた

見る者が見れば、あの筆字は「幼い」、若い字だと言えよーか

 

書体から立ち昇る風趣は決して悪くはない、素直で素朴な書であると評することも出来る

だからといって、この「若気」は胡魔化せない

 

※  参考までに、毛筆で書いた 大人のカタカナ を紹介しましょう

【アニメ映画『AKIRA』(1988)のポスター題字である。お書きになった方は、侍漫画で、独特の重厚な画風を誇った、平田弘史さん。(最近、物故された)

『るろうに剣心』のヒラガナとの違いにご納得いただけるだろうか。毛筆に慣れた方の筆蹟は、かくの如く格調がある。そうなるわけは、字体のバランス、詳しくいうと「正中線」が通っているのだ。全体の配置と余白のバランスも、書道をたしなむ人は、カッチリと調和が取れている。これが大人の書く筆字である。】

 

 

酒田の南洲会館に、西郷さんの秘蔵っ子である村田新八の書がある

西南戦争にて、42才で自決なさっているので、ほぼ30代の頃の揮毫かと思われる

 

【画像=酒田の人気ブログ「Rico Room2」より引用、村田新八の真筆(南洲会館所蔵)】

 

つぎに西郷どんの練達の書(40代か?)を上げるが、見比べてみてどーだろー……    村田新八の書は素直で真面目、筆鋒は潤いがあって形も筆力もたいしたもの(私は大好きだ ♪)だが、西郷さんの幾たびか辛酸をなめた境涯から生まれた書とは到底同列には並べられないのは明らかである

 

【画像=西郷南洲書「敬天愛人」、西郷さんの本名は「隆盛」ではなく「隆永」であることを知る庄内では「南洲翁」とお呼びする】

 

 

書の綿密さにおいて、西郷さんから私学校の校長を任された篠原国幹も実に見事なもので、百戦錬磨の海軍的柔軟さと年輪を感じる(※  「西郷南洲顕彰館」に展示)

【強靭で綿密な線、端正で風流な豪傑・

篠原国幹の書】

こーした毛筆の風合いは、たとえば一年間四季折々に床の間に掛け軸にして眺めていれば、素人でも歴然とその違いが体感できるものだと云ふ

『るろうに剣心』の題字も、副島蒼海や盤珪禅師なんかの「稚気」を帯びた良さも勿論ある

 

…… が、どーしよーもなく「若い」、ある意味文明開化の明治の物語にはぴったりなのかも知れないが、日本伝統の書になじんだ者からすると、間違いなく「幼い」筆致ではあるのだ

千年以上にわたって連綿と練り上げられた筆法や技は、職人芸のよーな確かさがあって、その出来にごまかしは利かない

それを書いた本人が年若いから、「若い書」になるわけではない

たとえば、京都建仁寺の風神雷神図を書で表現なさった、新進気鋭の書家・金澤翔子女史の字は、「おさない書」とは到底言えない風格があるのだ

【画像=金澤翔子の屏風書「風神雷神」、実際に建仁寺で国宝「風神雷神図」の隣に展示された】

 

俵屋宗達の名画(国宝)に、よくも書き添えたり「風神・雷神」の書、俄かには信じられないことだが、

琳派の天才・俵屋宗達の傑作に、位負けしていないのだ

かたちにしろ余白にしろ筆力にしろ、無心にして墨気冴えて入魂の見事な書である

金澤翔子は、いまは無垢な天才である

ただ、その作品はあの母上との合作のような気がする

     【スッキリした隷書「無一物中無尽蔵」】

           【「飛龍」】

         【「言霊(ことだま)」】

 

 

ーやはり、日本の先人が連綿と受け継いで、いまに遺した伝燈(伝統)とゆーものが、厳然と存在する

昭和の時代には、たとえば選挙の投票所や入学式や卒業式での看板に書かれた筆字とか、すこぶる達筆な毛筆の書が、全国津々浦々で見られたものであった

[※  名筆・達筆については以下も併せてご覧ください]

 

「書」 でわかる〜 その人の 「悟り」 の境涯 - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

__最近は、「達筆」とゆーほどの書には、とんとお目にかからなくなったテレビ画面に時々大きく映される、たとえば「防衛省」の看板の筆字…… ありゃ酷...

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いまや、政府の省庁の看板ですら、酷い筆字を基にして彫刻されている

昭和の時代は、時代劇の俳優名を書いた、オープンロールやエンドロールは、実に独創的な書体で統一して書かれていたものだった

それが、自由な書道の名のもとに、「永字八法」のよーな基礎鍛錬を積むことなく、まるでレタリングの授業のよーに「自由に」書かせる

筆法の基本が出来ていないと、たとえば岡本太郎は芸術的な筆字で「夢」とか書いているが、書道家からみれば、ちゃんちゃら可笑しい筆字であろー (お祖父さんが書家だから、その筋の才はあるんだろうけどね)

【『遊ぶ字』なんて本を出版している、この「湯♨️」はなかなか味わいがあるね。でも、岡本太郎の筆字は単なるレタリングですね、かえって横文字の「TARO」の方が滋味がある】

 

そのへんの、「分かる人」の絶対数がいなくなったのが、令和の現実である

書の道に限らず、道は極めれば万事に通じると宮本武蔵ばりにゆー気はないが、一事を修めた人はなにかしらの風格はまとう感じがする

昔のひとは、それを「ひとかどの人物」と云ったのではなかっただろーか

        _________玉の海草


 瀬戸内寂聴と細木数子とをつなぐ人たち

2021-11-13 03:34:45 | 人物山脈

__瀬戸内寂聴女史が、100歳ちょい手前で大往生なされた

岡本太郎が、結婚してもよいと思ったほとんど唯一のオナゴが瀬戸内晴美であっただろー

岡本太郎はソルボンヌ大学で人類学とか学んで、生身のフランス人に肌から馴染んで、フランスのテレビ番組にも出たりして、フランスでも人気があった

電車に乗り合わせて、目と目があって、コトバを交わし、付き合うといった自然でフランクな男女づきあいが成り立つのがフランスの流儀だったと云ふ(by 岡本太郎)

それが、日本では成り立たず、自立した女性も少ない時代に…… 

大作『かの子撩乱』の取材でよく訪れる瀬戸内晴美が、珍しく岡本太郎の気に入った

すでに秘書の敏子さん(後年に内縁の妻&養女となる)もおられた頃だったが、岡本太郎はやんわり一緒に住まないかと提案したらしい

ヨーロッパ流の付き合いに慣れた岡本太郎を本気にさせただけでも、瀬戸内女史の魅力が際立っていたことが分かる(東女・トンジョの才媛で奔放、かの子の徳力に重なる)

「生き身の観音さま」と称された岡本かの子を母にもった太郎は、複雑な女性観を懐いていたらしく、身長も強烈なマザコンもパブロ・ピカソとそっくりで初対面で意気投合したらしい

芥川龍之介の指導もうけていたかの子は、『老妓抄』などの秀れた掌編をものした純文学作家である

「観音経」信者で仏教の造詣も深い、それ故に瀬戸内のこの伝記小説は奥行きの深いものとなって、岡本太郎も気に入っていた

シュール・レアリスムの第一線で世界的に活躍していた岡本太郎を、若い頃に東郷青児や関根正二らと伴に画家をめざした今東光は心底尊敬していた

谷崎潤一郎の唯一の内弟子で、ケンカは強いし(後年、極真空手名誉初段を贈られた)、男っ振りも水際立ったイイ男(宇野千代・評)

津軽藩士の名門・今家の出身で、古代豪族の東北蝦夷(えみし)の末裔であり、色白で飛び切りの素養を兼ね備えていた

川端康成と知り合い、親友となり、東大生でもないのに、谷崎潤一郎・芥川龍之介を生んだ『新思潮』に寄稿したりして、東大へはモグリ学生として聴講しに行っていた

現役東大生に教えるほどの学問をもっていたらしい、新感覚派の旗手と呼ばれた頃もあった

そんな今東光だったが、芥川龍之介が自殺してしばらくして突然出家して作家の道を絶った

大谷崎の弟子になれるほどの学殖は、天下の英才あつまる比叡山でも遺憾なく発揮された

本場中国でも高く評価されている、『今氏易学史』を著すほどに漢文に達者な東光(僧名は今春聴)は、比叡山の検定試験(口頭試問)でも、明代の四大高僧の藕益智旭(ぐうえきちぎょく)大師の易学理論などを後ろ楯にして、なみいる先輩の善知識らの論戦を煙にまいたとか…… 

選挙に出たり、タレントみたいな活動もしているので、今春聴大僧正をバカにしている向きもあるが…… 

あわや比叡山座主になりかけた程の大器量であることを夢夢わすれてはならない、中尊寺の貫首をつとめたことがあったが、中尊寺は天台宗ではNo.2の名刹である

そんな岩手の中尊寺で、瀬戸内晴美は今春聴を導師として落飾する、「寂聴」は今東光の命名である

比叡山の特命住職として、大阪八尾(河内地方)にある天台院の復興にあたったこともある

その頃、勝新太郎と田宮二郎でヒットした『悪名』とか『闘鶏』とかを著した

そんな河内つながりなのか、かの楠木正行公の側近・堀田弥五郎を先祖にもつ安岡正篤と昵懇となっている

「明治31年会」を立ち上げ、今・安岡両氏と西松建設社長の三人は戌年生れ同士意気投合して季節ごとに集まっていたそーである

安岡正篤といえば、「歴代総理の指南番」として、自民党で隠然たる勢力を誇った陽明学者にして理論右翼の大物である

東大在学中に『王陽明研究』を出版して、八代海軍大将はじめ軍人から尊敬の眼差しで仰がれ、若くして「老師」と呼ばれていた俊秀である

今東光が、東大のモグリ聴講生だったのとは雲泥の差であるが、後年酒席を共にするよーになるとは如何にもご縁である

東光はあれで、大本教の出口王仁三郎からスカウトされたほどに、なかなかの法力も兼ね備えておられる

天台宗比叡山を代表する学僧で、特命住職としても幾つもの廃寺を復興された実績がある

かたや安岡翁は、政財界にパイプが太いだけではなく、実兄の堀田真快猊下は高野山座主である

おまけに、ご実家の堀田家は天皇を守る秘密結社「八咫烏(ヤタガラス)」に属しておられるとの噂もある

陽明学と易学、安岡正篤は三島由紀夫も師表と仰いだ漢学の泰斗である

竹下総理の漏らした談話から、「平成」の元号の発案者として有名になったが、最近になって内閣府が「平成」の発案者は東大名誉教授の山本達郎氏であることを公表した(長年にわたる憶測と誤解を解くためと言明していた)

たしかに、元号をあらためる改元は祝祭の意味合いもあって、その時点で故人となっている者の提案は採用されない決まりである

しかし、安岡正篤が「平成」を唱え、それを山本名誉教授が再び提出された処に深意があるよーに思う

 

ともあれ、そんな晩年の安岡翁に細木数子女史は近づいた、私は女史の執拗な向学心・探究心からと思いたい

易学とゆーものは極めて難解で、漢文としても経義としても儒学の奥義に位置づけられる秘鍵なのである

細木女史の「六星占術」は、易学を基にしたものだと仄聞する

易学を基礎から正確に学んでいる人は、専門の学者でも少ないそーなので、漢学の泰斗に直接教えを乞おうとしたのではあるまいか

安岡正篤の帝王学は、人倫のめざすべき道として、細木女史のテレビ番組にも応用されていたよーに感じる

 

ー女が絡むと、男と男の対立を和らげ、融合に向かう

関西学院時代に、今東光は稲垣足穂を殴ったそーなので、この御二方の異才が交わることは生涯なかった

しかし、そこに瀬戸内女史が入りこみ、一緒に作家講演会をまわったり、仏門の東光の懐に救いを求めたり、あるいは女同士で足穂夫人と付き合ったりするなかで、両者の良い処が公になってくる

東光が叡山文庫から読んだ『稚児草紙』(女犯を禁じられた僧侶間では男色を昇華させた稚児灌頂などが発達した)などから着想をえた『稚児』なぞは、他の誰よりもタルホがその功績を高く買っている

東光は、お父さんが日本郵船のキャプテンでハイカラな世界人なものだから、インドのクリシュナムルティの神智学協会に入っていた

東京ロッジの支部長をなさっていて、鈴木大拙夫人のベアトリス女史とも行き来があったそーである

ブラヴァツキー夫人『シークレット・ドクトリン』については、東光は芥川龍之介から質問を受けているほどで、東大英文科の秀才芥川も神智学には並々ならぬ関心があったよーだ

陽明学も、心学の要素がかなりあって、神秘的色合いもすくなくない革命思想である

安岡翁は、関西を中心に財界に「師友会」をつくったり、「農士学校」をつくったり、民間事業でも尽力された

私の地元酒田に「荘内南洲神社」があるが、何を隠そう、安岡翁の「農士学校」の卒業生が一念発起して建立したものである

神社号の標柱は、安岡先生の揮毫になるもので、社殿も伊勢神宮の土宮の廃材を安岡先生の口利きで特別に下げ渡してもらった経緯がある

二度ほど酒田にもお見えになっている、神社の第一寄附者である

「南洲神社」の荘内南洲会のめざす処は、つまるところ、地元に有為な人材を育てることに他ならない

その教育に、安岡先生仕込みの聖賢の帝王学が生かされているのである

 

ー瀬戸内寂聴さんにしても、細木数子さんにしても、大衆の教育・啓蒙に大変力のあった御仁だったと思う

いまの世にほとんど見られなくなった「お節介おばさん」の最強バージョンである、何時の世も世間では叱られたがっているかのよーだ

毒舌は、コンプライアンス社会では最早居場所がないよーではあるが、真実は痛いときもあるからなあ〜

末筆ながら、つつしんで哀悼の気持ちを捧げます

                             _________玉の海草


《ちょい言》 親ガチャの失敗作〜 『カラマーゾフの兄弟』

2021-11-10 06:56:29 | 読書

__NHK『100分de名著』でいま、フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』が取り上げられている

むかし、読者メモに夥しく出てくる人名(70〜80人はいるんじゃないか?)を書き込みながら、それでも尚物語に強烈にひきこまれながら読んだ

ロシア語は難しい言語であるらしい、それに人名にしても「アレクセイ」が愛称で「アリョーシャ」になったり、片仮名の長い人名を覚えるだけでも疲れる

こんなに長々と書き綴る「ロシア人気質」とゆーものにも、なんとも粘着質な感触を抱いたものだ

トルストイにしても、よくあんな長編をものするものだと呆れてしまうが、『カラマーゾフ』も未完の長編で、現在ある物語は第一部にあたるものだそーだ

私が『カラマーゾフ』に手を出したのは、おそらくヴィットゲンシュタインが生涯の愛読書(30回は読んでいるらしい)と云ってはばからず、第一次大戦の従軍にも持ち歩いたほどの小説とどこかで読んだからじゃなかったかと思う

長期的に時間を辿るのは、おおげさだが神の視座を獲得する

そんな観の眼でみたら、家系の一瞬を切り取ったよーな「親ガチャ」なんて非道いことは言わないだろー

いつの世も「若者はバカ者」だが、親子関係の因縁をこんなにも短絡させて表現したのは、とりも直さず令和の抱えるどーしようもない幼さである

わたしは、子は親をえらんで産まれてくる(生誕後はその事を忘れる)説に賛成だ

「親ガチャ」と嘆いたとて、なんら前向きの気持ちにはならないからだ

欲望の権化のよーな父親・フョードルにたいして、カラマーゾフの長兄や次兄のよーな反発拒絶する時期は、当然私にもあった

アリョーシャのよーに「ゾシマ長老」に象徴される神秘に逃げた時期も勿論ある

「カラマーゾフ」とは、人間がフタをして、無いものとして見ないよーにしている身内のあらゆるモノでもある

まー、かの「大審問官」の条りが知識人の魂を掻き鳴らすものでありましょー

 

『カラマーゾフ』を読んで感じたことは、「わたしのうちもカラマーゾフである」とゆーことだった

文学としても傑作で、信奉者の多いドストエフスキーを語るのは、おこがましいが、ものごとは単純なもので感得してもよいと思う

たとえば、イマヌエル・カント『純粋理性批判』とは、単に「ア・プリオーリ(先経験的な)」なる一語を説明するために書いたと私は感じた

ドストエフスキーの神学は、青い文学青年には蠱惑的な魔力を感じさせるものではあるが…… 

ケーベル博士『神と世界』の至言で事足りる

> 《神は在る》は即ち《神が在る》ことである。

《神は無い》はこれも又《神が在る》ことである。

 

‥‥ つまり、「存在」とは「生まれないし死なない(不生不滅)」ものであること

わたしたち人間は「現象」であり、生まれて死ぬものであること

その、仮の存在めいた私たちは、神の似姿であり、神性を付与されていること

私たちは、宇宙の塵のよーな儚い一部分ではなく、私たちの内に宇宙が包含されていること

イワンの詩「大審問官」が突きつける命題は、私たち自身の内なる葛藤であること

わたしは、伊勢白山道とニサルガダッタのアドヴァイタ(非二元認識)によって、以上のよーな応えにいたった

日常生活に引き寄せて言明すれば、「わたしの内に、カラマーゾフがある」とゆー実感がある、小説文中の台詞にもある

「カラマーゾフというのは淫蕩、強欲、奇癖ということにあるんだ」

 

‥‥ わたし自身、複雑な家柄に育ち、二つの家系を継いでいる

(1)一つはタタラ製鉄から刀鍛冶につらなる、職人の道、

(2)もう一つは、平清盛の嫡子で、早逝した平重盛の子孫としての道

どちらに転んでも、強烈な生きる意志とゆーか「家風へのこだわり(=誇り)」が「カラマーゾフ」なのである

戦前戦中をとおして、平重盛は「親孝行」の美徳でもてはやされた

六波羅近くの小松第に住んでいたことから、「小松内府(だいふ=正二位内大臣)」と呼ばれ、たいそう人気だったよーである[※  私の継いだ家も「小松」を名乗っていた]

伊勢白山道を通じて知り合った読者の「triport」さんと云ふ方がおられたが、彼の知人からの内密な情報では、平重盛とは皇室が例外的に臣下を祀る三人のうちの一人であるそーだ

ほかのお二人は、弓削道鏡による皇室乗っ取りを防いだ「和気清麻呂」と、明治維新前夜に光格天皇の御志を体し臣籍に降り、討幕のために暗躍なされた「天忠党」の中山忠伊(ただこれ)卿…… [※ 光格天皇の第六皇子であらせられる武生宮長仁親王であるとされる]

平重盛は、父清盛が畏れ多くも後白河法皇を攻め滅ぼさんとした折に「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず」と、泣いて諌めて暴挙を止めた功労を賞したものらしい

文武両道にすぐれた重盛は、重用されたが、母方の親戚に有力者がおらず(母は白拍子とされる)苦労なさったらしい

内に秘めた激しい情熱は、平家の屋台骨であったが、惜しくも早世された

そんな無念の重盛公であったので、本来の烈しい性格を代々受け継いでいるよーだ

わたしは、その家系の秘密を二十歳で祖父の弟から伝承されたが、それ以来お盆になると憂鬱に悩まされるよーになった

何故なら、その「小松」姓を名乗っていないからだ、墓も別にあった

そのニつの家の墓をまとめて、一緒に祀るまで、その重苦しい憂鬱は消えなかった

その遺された思い、それが「カラマーゾフ」なのである

 

一族の悲願とかゆー言い方もするが、その外圧ならぬ内圧は凄まじいものがある(わたしはそーだった)

わたしは、しかし、イワンのよーに正面から嫌がるよーな歳でもなかった

なにか、親しげな思いを懐いた、「おれもそーだなあ」と、お盆が来る度に同化していった

つまり、遺伝とはそーゆーものだ、この血に流れているものは、ユダヤ人に云われるまでもなく濃いのである

 

ーそんな意味で、代々にわたって個体を変えて伝承されてゆく「家系」とゆーものも、ある種の「存在」ではないかとまで思うにいたった

わたしには妻子もなく、このままゆけば「絶家」となるが、「存在」に回帰した個体にとっては、それはかなしむべきことでは決してない

以前に美輪さんがよく云われていたものだが…… 

「家を新築すると、五年以内くらいに不幸が音ずれる」と

かくも左様に、そこに暮した念とゆーものは強いのだと思う

住者の念が深く浸透した、その家屋を壊すことには、なにかしら無礼なものがある

井戸にしろ、竈門(かまど)にしろ、機能して「活きて」いた代物を壊し、その上で何かを営むとき、その蔑ろにされた思いは「祟り」となるのかも知れない

おおざっぱに括ってしまうと、人びとが生きているとゆーことは、取りも直さず「霊」同士のせめぎあいが渦巻いていると観なければなりますまい

霊の海に浮かぶ、人びとの思い、出来るかぎり大切にしてあげたいものだ

        _________玉の海草

 


 昭和レトロ・ブームって、なんだ?

2021-11-05 11:43:23 | 歴史・郷土史

__この頃、テレビでよく見かける昭和レトロ、10代にフォーカスした番組『超無敵クラス』でも取り上げられていたのだが、

埼玉県の西武園ゆうえんち『夕日の丘商店街』とか、ときがわ町の昭和レトロな温泉銭湯『玉川温泉』それに入間の『ジョンソン・タウン』もそーだよな

   【画像=西武園ゆうえんち『夕日の丘商店街』】

 

    【画像=ときがわ町『玉川温泉♨️』】

 

    【画像=入間市の『ジョンソン・タウン』】

 

大分県の『湯布院昭和館』みたいに、地方でも昭和を志向したものが流行っている

      【画像=『湯布院昭和館』】

 

10代の女の子が、昭和のコテコテの花柄グラスとか、花柄炊飯器に花柄魔法瓶に熱い視線をそそいでいるのを見るのは、気分がよい♪

これは、どーいった現象なのかなと首を傾げる

 

いわば、私たちが過去に捨て去ってきたものに、若者が注目している図式…… 

私なんかは思うよ、学びは「真似び」から来て、温故知新も大切だが、過去の風俗に回帰してないで、新しいものを産みだしてよと

まー、テーマパークに成ったり大々的にビジネスとして成り立つのは、また別の側面もあろー

やっぱり人工比の多い「団塊の世代」に素因があるよーに思う

ご自分たちの懐古趣味に浸り、なおかつ孫世代に「昭和」を案内する優越感に満足する

孫世代にしてみれば、日本の先行きはあくまで暗く、567騒動で全方位塞がれた気分で、まったくの進取のオリジナリティ(ベンチャー)に投資する人も少なくなる一方で、SNSでは新たなチャレンジを演出したいとゆー思惑はあるだろー

で、あまりお金もかからず、同意も得やすい、確実なリピートの見込める『昭和レトロ』に回帰する

平成の30年間も終わって、いよいよ「昭和は遠くになりにけり」が現実のものとなった証しではありますね

昭和の60有余年は、戦争から焼け野原、貧困、高度成長とその歪み、公害や環境破壊等々…… いろいろなフェーズを持っているんだよね

たとえば私の50代にしても、戦後すぐの日本と全共闘世代については、まるで1ミリも解らない

あたかも時空の異次元スポットのよーに、関係性がもてないつーか、異国のことのよーに遥か遠い出来事である

大学紛争や学生の自由なんてものは、次世代に「伝統」として受け継がれていないのだ

いきなり露われ、いきなり揉み消されたから、賛成だの反対だの共感だのから生じる時代の連続性が皆無なのである

で、テレビ世代になって、アニメが大流行といっても、たとえば『ガンダム』以前と以後とは歴然と違う

そしてゲーム世代となって、個々なじんだゲームによって、派閥とゆーか分断が起こる

いまや、マンガ(漫画)は立派なアートになってしまい、ゲームは不可欠な娯楽となって「eスポーツ」にもなってしまった

「昭和レトロ」と総括して言ってしまうと、昭和のモノは戦後に限っていえば残っているものが多い

江戸時代のモノは、明治で一新され破壊もされた

明治は洋風建築を好んで建てたし、髪格好も激変して、西洋風な生活様式になった

それも大正の「関東大震災」で瓦礫に埋もれてしまった

生まれ育った風景、古い街並みが残っていることが、伝統を守ってゆく意味では最重要なのだ

浅草の「十二階(凌雲閣)」が関東大震災で倒れたのが象徴的で、その後も第二次世界大戦の空襲で、日本の伝統的家屋の並ぶ街並みは灰塵に帰した

【画像=『凌雲閣』の震災前の絵と震災後の写真】

 

現在ではもはや、江戸の風情を色濃く語るものは東京には存在しなくなっている

 

そーゆー意味合いにおいて、昭和は1945年以降戦争を経験していないので、市井の風俗がものによっては残っているのである

骨董マニアが棲息する余裕が、日本経済にもあったからである

また、アナログ機械とゆーものはデジタルとはまた違った良さがあったからである

 

まー、昔の日本人の変なこだわりを聞いても、役にたたないよーではあるが、ユーミンが個人性と一般性についてこんなことを仰っている

「言葉の選び方は細心の注意を払ってやってきたつもりです。…
方向さえ間違っていなければ、パーソナル(個人的)なことをきっちり言えば言うほど ジェネラル(一般的)になる。
個を追求すれば公に通じるもの。
最大公約数的なことを言うだけでは、誰にも当てはまらなくなります」
[※ 引用:『山形新聞』
2010/5/22・夕刊より]

 

‥‥ つまり、極め人のささいな拘りこそ、公的な大見解(一般的な常識)と成り得るものだとゆーことです

おそれずに、昔熱中した話をしても構わないのです(自慢話は鼻につきますが ♪)

そこに粋なものが存在し、一隅を照らす光明があるならば、広く後世の人びとの胸を打つでしょー

 

懸命に生きた昭和の時代、舶来品を有り難がっていた日本人が世界に冠たる「メイド・イン・ジャパン」を産み出すに至るまでの足跡を辿るのも一興であります

いまの「昭和レトロ・ブーム」こそ、戦後日本の最後の総括となるものかも知れません

日本人はいつの時代も一生懸命に駆け抜けたのです

そのことを後世の吾々は誇ってよいのです、デジタルにアナログ的な感性をもちこんだのが、アップル社のスティーブ・ジョブズでありましょー

「アナログ」とは言ってみれば【手の延長】であり、そこに「未知のモノ(例:半導体回路とか自分で直せない部品)」を介在した断絶が無いのです

剣術の発達も、槍の操法を取り入れて発達しました

手の感覚の延長、つまり道具を手と一体化させることに妙味があるのです

最近のロボットは、有機体のもつ滑らかな動きを手に入れました、正確で滑らかな無駄のない動き、これは伝統を継いだ昭和の達人のみが到達できた境地です

 

犬型ロボットがミック・ジャガーさんのダンスを再現 ストーンズの曲に合わせ

全英2位、全米1位に輝いた英ロックバンド「ローリング・ストーンズ」のアルバム「Tattoo You」(刺青の男、1981年発売)の発売40周...

youtube#video

 

 

昭和レトロへの懐古が、捉え方の拡張、つまり世界観がひろがるヨスガとなれば良いなと存じます

昭和の人びとの風貌には、日本古来の伝統がまだ感じられます、食生活があまり変わっていなかった為でしょー

醤油顔で細いアゴがイケメンとして認知されはじめた頃、縄文人の面影が消えつつあったと思います

コトバ(方言)の変化もありますよね

テレビ世代とゆーことは、いわゆる標準語(日本共通語)を強く意識して真似た田舎人が激増した世代とも云えます

実際、わたしの高校は進学校でしたが、大学への上京を踏まえて学校生活をオール標準語で過ごした女子同級生がいました(昭和50年代後半の出来事です)

首都東京の暮らしを知ること、とくに東北地方は「お上」意識が根強く、東京を基準とすることが多いです

田舎の「真の伝統」が失われた世代が、昭和世代であったとも言えると思います

たぶん私たちの世代(「新人類」と呼ばれた)が、古き良き日本を継ぐ最後の世代となりましょー、責任重大で肩が重いのです

ーあのABBAがきょう、40年ぶりにニューアルバムをリリースした(平均年齢74歳だって、頑張るねえ)

昭和の「時代精神」は、いまだ消えず、よくここまで継続しているものだ、生き続けることを「生きる」のゆーのですね、ただ日本には「隠居」とゆー素晴らしい言葉がありますけどね…… 

        _________玉の海草