__ ブログ 『 伊勢-白山 道 』 といえば、宗教ギライやスピ系拒否する人びとにとっては、「 アッチ系の危ないブログ 」 なのかも知れないが、
なんのことは無い、「 死んでからの事は誰にも訊けないでしょ?」っていう話に過ぎないのです。
無料で、教団に入る必要のない、スピリチュアル・ケアを提供しているのが伊勢白山道です。
いったい誰が、「 生死 」というものを教えてくれるでしょうか?
誰が、死後の世界を正確に伝えてくれるのか……
そもそも、死後の世界( アノ世 )なんて本当にあるの?
死んだらどうなるの?
生きるって、そもそもどーゆー事なの?
これら、誰にでも訪れる「 死 」とゆーものについて、明確な確言をいってくれる人は先ずいない。
この件に関しては、居並ぶお年寄りの誰もが、まるで頼むに足らない。
仮に、「 死 」を知っている人がいたとしても、その人を信じてよいものか誰にも分からないと来ている。
人生(ひとの生きる道)とゆーものを、つぶさに眺めてみると、老後の事ならば経験者はゴマンといるから困らないものの……
こと、「 死 」や「 霊 」(見えない世界)については、広くは先祖供養や神さま祀りについて、正しい「やりかた」を教えてくれる人がいない。
いまの、伝統的な作法は、歴代の先人がそうやって来たからというものでしかなく、神霊学( そういうものがあるとしての話だが )に基づいた正確な知識ではない。
「 生死 」について、いまの世の老人たちは、あまりにも無知なのです。
あなた、死に関して、正しい葬式や法事( 供養 )について、いったい誰に相談しますか?
そんな智慧者( 本当のことを知っている者 )が、身近に存在していますか?
要は、単にそーゆーことなんです。誰も知らないこと、知り得ないことがあるのです。そのときに、あなたならどうしますかという単純な問いかけに過ぎないのです。
そーした際に、私にとって伊勢白山道がどーゆー位置付けなのか、伊勢白山道読者のことばも混ぜながら、呈示してみたいと思います。
[※ 伊勢白山道では、切り取り引用は神意を損ねるということで、禁止されています。それゆえ本記事からの切り取り引用はいたしません。しかし、コメント欄📝での読者との質疑応答の片言によって、推し量ることといたしましょう。]
【第11次元の、霊峰白山(世界中に散在する「白い山」の根源たる威容)に顕現なされた白山神】
__ まず、伊勢白山道の霊視では、最高位の聖者にランクされるラマナ・マハリシを通して、他の読者のかたが理解している非二元についての認識について、最初に観ていきます。
🔴 女性読者さんから、私に向けられた投稿
>[2020-09-10 09:06:24 | m◯◯◯◯]
リーマンさんが先生と読んで庇うコメント(私注;私を批判する投稿に「玉ちゃん先生に、そんなこと言ってはダメです。 めっ。」との一言がリーマンさんから出された)を出すほどの方は、どんなことを書かれているのか知りたくなりました。きっと知るべき何か
そのお名前では見当たらなかったのですが、ひょっとして。
> もー湧き上がる思いがあなたがたとは違うのだす
と書かれている言葉の分断のニュアンスに、はてなとなりました。非二元論アドヴァイタ バガヴァット・ギーター 等の知識を持つ先生が、「 自分とは違うあなたがた 」を見ていると言う
ラマナ・マハルシと、ニサルガダッタ・マハラジ
このお二人の話される内容から、悟りにも違いがあるということを具体的に知りました。でも、揺るがない共通のことは、お二人の、本の中の質問者との会話を読んでいると、その視線は私 ( =本の中の質問者 ) を見ながら「 ( 私 = マハルシ・マハラジ = ) 真我 」を見ているとハッとします。めっちゃ見られてる感
私の中に「 ある 」という喜びが励起され、その振動が湧き上がります。ああ、ひとつだなあと実感させて頂けます。感謝に震えます。同じく、リーマンさんも私 ( たち ) の内在神を見て下さっている。見られている私も、私の五感が捉える存在はすべて、真我の現れだと見ます ( 私は霊線のようなパイプみたい ) 。コメント欄の他の読者さんたちも真我のあらわれ
非二元的な知識は、あってもなくても、どっちでもいい … 本当に、ただある、生きている わけだから
人に親切にしているだけで充分、生かされていることに感謝しているだけで充分
⚫︎マハラジは質問者に、「 ある 」というそこに感謝を持つようには言っていない ( 私の読み落としであればスミマセン。本の中の質問者の親和性に合わせてるだけかも ) 。「 生かされている 」ことへのフォーカスはない。
⚫︎マハルシは、そのことへの感謝を、質問者に対して、している。マハルシは、質問者たち ( =私 ) に、感謝している、( ! )
先日、神祭りでフトノリトを唱えながら驚きましたことは
神さまは、感謝される存在としてあるけれど
神さまこそ、生きとし生けるものすべてに感謝されているということでした。あまりのことに、書きたい気持ちは山々だったのですが、今までなんだか畏れ多くて書けませんでした。
書くきっかけを下さり、ありがとうございます。私も神さまからの霊線として、すべてに感謝していきます。
__ さて、次は私の返信です。
🔴 m◯◯◯◯さんに対する、私のレスポンス投稿。この投稿は二年余り経過した後で為されました。
>[2022-11-15 02:00:15 | 王ヽのミ毎]
「 非二元論に基づいた生活 」
非二元とは、聖ラマナやニサルガダッタの思想をいいます。「 アドヴァイタ・ヴェーダーンタ 」のことです。
以前、他の読者の方から、アドヴァイタ云々語るわりには、二元性の観方で他の読者に対している旨の疑問を突きつけられました。[ ※以下引用、()内は私注 ]
> 「 もー湧き上がる思いがあなたがたとは違うのだす 」(私の発言)
と書かれている言葉の分断のニュアンスに、はてなとなりました。非二元論アドヴァイタ バガヴァット・ギーター 等の知識を持つ先生が、【 自分とは違うあなたがた 】( 他の読者に対する私の観方 ) を見ていると言う
…… その読者ご自身が、他の読者に対してどのように観ておられるかについては、以下に引用します。
> 見られている私も、私の五感が捉える存在はすべて、真我の現れだと見ます ( 私は霊線のようなパイプみたい ) 。コメント欄の他の読者さんたちも真我のあらわれ
> 非二元的な知識は、あってもなくても、どっちでもいい…本当に、ただある、生きているわけだから
人に親切にしているだけで充分、生かされていることに感謝しているだけで充分
…… 当時、よく指摘してくれた、と感心していましたが、何か「それとこれとは違うんじゃないか」との思いも捨て切れずにいました。
最近になって、この違和感を言い当てた聖ラマナの発言を見つけたので引用します。
> 1938年2月13日 対話458
シュリー・バガヴァーンは次のように語った。
「 非二元性は支持されるべき概念です。
しかし 【 アドヴァイタを行為の中に適用してはいけません 】。
もし師が見つからず、教えを受けることができないなら、どうやってアドヴァイタを学ぶと言うのでしょう?
それでは、そこには二元性があるのではないでしょうか?
それがその意味なのです 」
[※引用;『 ラマナ・マハルシとの対話 』第2巻
ムナガーラ・ヴェンカタラーマイア ( 記録 ) 福・間巌 ( 訳 ) 402頁より]
…… 自分の内なるサッドグル ( 真の霊的教師 ) が、現象界にグル ( =他者 ) の形をとって現れると、ヴェーダーンタでは言っています。
教える者と教わる者との二元のかたちを取りますが、ともに真我のあらわれです。
あらわれとは、つねに二次的なものですが。
真我とは「 行為者のいない 」状態です。アドヴァイタ ( 非二元性 ) は、主体と対象に別れない、つまり二元 ( あなたとわたし等 ) にならないことです。
分離された個我 ( ひとり一人 ) が単位となっている「現象界 ( =現実界 ) 」では、それぞれが「 行為者 」になっているので、アドヴァイタを敷衍することはできないのです。
非二元性だからといって、短絡して「 みんな私と一体、一緒だね 」とはならないのです。
思想を生活に落とし込む当事者は、いつの時代の文明でも女性が担ってきました。
> 「 文明とは、女性の協力である 」( 稲垣足穂 )
…… 女性とは、どこまでも現実的な生活者であるからです。生活とは、母子が最小単位であろう。
母胎による生身の出産体験が、大我ともいえる拡大認識を伴ったことも大きい。その「全能感(産む力)」が文明からみると厄介な代物ではある。偉人を産んでそだてるのは、常にその母なる女性だからです。
ただ、いくら精緻な思想でも短絡されてしまっては、台無しになってしまいます。
…… 私注; 伊勢白山道の女性読者に多いのは、「感謝しかございません」とばかりに、人生の総てを感謝のみに集約してしまうことです。ただただ感謝だけなのだそうです。そうすることが生きやすいからと、感謝することだけに人生を固めてしまうのですな。たしかに、八百万の神神を信仰してきた日本人は、人生のあらゆる局面に神神をみたのです。そして拝礼感謝してきた伝統はあります。しかし、それは感謝していれば良いと云うことではありません。悟って後なにをしたのかという命題と同じで、感謝して後あなたはどうするのかが自分の人生だと私は思います。教条的に「感謝感謝」と言い立てる人びとを決して信用はしません。それこそ、秘すれば花、言わぬが花なのです。なぜ、自分の内に向かって言うことを、外に向かって言うのか。
伊勢白山道は、悟りに関して、最後の一押しが必要不可欠であり、それは神の恩寵である旨、示唆しています。
感謝の念と、神の恩寵とはシンクロするものなのかも知れません。
ニサルガダッタ・マハラジには、ラマナ・マハリシがアルナーチャラのシヴァ神から賜った恩寵が、まだないということです。
_________
…… 伊勢白山道では、全11次元(段階)の霊的な次元という物差しがあります。
例に挙げているのは、
⚫︎10次元〜 ラマナ・マハリシ
⚫︎9次元〜 老子、モーツァルト
⚫︎8次元〜 孔子、バッハ、黒住宗忠、棟方志功
⚫︎7.5次元〜 ミケランジェロ
⚫︎7次元〜 ラーマクリシュナ、ゴッホ、
⚫︎6次元〜 クリシュナムルティ、ダ・ヴィンチ
⚫︎5次元〜 ピカソ、ラジニーシ
釈尊についての言及はいままでなかったですが、老子として幼き釈尊を指導して、釈尊が老いては阿難として側近くに仕えたという、伊勢白山道の前世というものから推し量れば、老子や釈尊は別格扱いのように感じています。
これの次元分類を見てお分かりのように、聖ラマナ・マハリシ( マハルシはサンスクリット語表記なので、タミール語表記のマハリシを使う )は、ここ数千年間で肉体に受肉した魂では最高次元の10次元にまで境涯が進んでいます。( あくまでも伊勢白山道説だが )
それで、上記の読者と私との応酬ということになったのです。
私の抱いた印象は次の通りです……
・真我を理解する(自我を去る)ための手段として、アドヴァイタをつかうのではない
・自我の支配する空間に置ける関係性に、アドヴァイタは適用できない
・非二元性になるんじゃないし、ましてするのではない
・真実として非二元であるという直感的理解
他の女性読者でも、「真我を達成する」と書いている人がいましたが、「真我」というものは達成するものではありません。
これは決して言葉尻にとらわれているのではなく、認識の違いなのです。女性は哲学が苦手ですから、「真我に成る」だなんて平気で口走るのです。
いわば、
▪️オンティッシュ(存在者・モノにかかわる存在的なこと)と
▪️オントロギッシュ(「存在」にかかわる存在論的なこと)
をごっちゃにしているとでも言いますか。
「成る(現象)becoming 」と
「在る(存在)being 」
との根本的な違い、存在論が分かっていません。
「まったくもう、だから女って奴は…… 」と慨嘆していたら、「真我を達成する」って最初に書いていたのは、他ならぬリーマンさんご自身でした。それじゃあダメでしょうが、正しく言葉を使わなくちゃ、正しく伝わりませんよ。
伊勢白山道の文章力は、このような根本的な欠陥を抱えているのです。語彙が少ない、文才がない、専門用語を使いこなせない、いずれも読書量が根本的に不足しているからだと思います。そこが同年代としてつくづく情けないところです。
…… 私注;リーマンさんに、初めて強烈な違和感を感じたのは、リーマンさんのある著書について、吉本ばなな女史から帯の推薦文を書いてもらったことを記事になさった時でした。現在はアーカイブを見てもその部分は削除されていますが、吉本ばななが和歌に才能があること、そして父親(吉本隆明)よりも文才があることを記事内でリーマンさんが指摘していたのです。ここで私は、「霊視」とは何なのかと根本的に疑問に思い、リーマンさんに深く疑義を覚えたのです。私はこれについては批判投稿しましたし(不掲載でした)、いまでも考えは変わりませんが、ご自分はさんざんな文章を書いておいて、和歌も一切詠まないのに、なにゆえに他人の才能について物申すことが出来るのか、霊視で文学がわかるのかと烈しく憤ったものです。ほとんど読書もしていないのに、語彙もなく稚拙な日本語しか書けないのに、霊視で文学を語る浅はかさを嘆いたのです。
🔴 霊的な根本義に触れた、質疑応答も添えておきます。
[※ 。。。。の記号は、リーマンさんの発言であることを示しています]
> 。。。。老子の場合は、まさに中道、緑色の位置です。
コノ世で生きる意味でも、臨機応変に真我と霊性の間を使い分けています。
ラマナ・マハルシの場合は、真我に常駐のために、逆にコノ世的な仕事は出来ませんでしたが、無言のままでも人々を変えることが可能でした。
この作用は、現代でも写真から起こっています。
>(読者)昔より見えないご先祖様神様を敬う気持ち、見えないものに生かされている思い、見えない世界がある思い、でした。でも悟る、や解脱、という事を考えたことがほとんどありません。これはめざすものではないかと思います。
。。。。あなたが正しいです。
目指すべきことでは無い。
これが正解。
…… 私見;【狙って掴めるものではない】ということです。悟りとは、(自分で)獲得する対象となるような認識とか何かではないということ。故に「悟りを得る」と云うのは言葉の矛盾である。
>。。。。では人間と神様の違いは何か?
人間の都合に悪いモノを悪とみなす価値観を人類が持つ間は、正しく魔神と神様の違いを理解することは不可能だと思ってください。
大自然の視線、完全なる公平な視点というものに、人類が気づける進化をした時に、その正体がわかることでしょう。
>(読者)今、ノン・デュアリティとかアドヴァイタと呼ばれるタイプの覚者の本が書店にたくさん売られています。このタイプの覚者がどうしてこんなに大量発生しているんだろうと疑問に思います。この現象をリーマンさんはどう見られますか?
このタイプにはリーマンさんが評価されるラマナ・マハルシやニ○○ガダッタ・マ○○ジもいます。ラマナはこのブログでもおなじみですが、後者についてはリーマンさんは「良いでしょう。この人は、ラマナ・マハルシの段階の神聖性は、今生は無いです。しかし、今生で光明を見てます。つまり、来生は、仏陀に成れる人に間違いは無いです。」とコメントされています。
ただ、あまりにもこのタイプの数が多く、日本人にもこのタイプの人がいるので、本当に皆本物なのか疑ってしまいます。
称してお金を取っている日本人
。。。。デタラメ。
その線で人集めて、大金を得て、自分は着飾る厚化粧。
その線の主張するならば、ラマナ・マハルシのように裸を好むのが本当。
何も無い、が信条なのですから。
私の信条は真逆です。
何もかも有る。
自分が生まれている、事実から逃避しません。
_________
🔴 リーマンさんの霊的な立ち位置表明に対する私の投稿
[2022-11-16 03:58:01 | Unknown]
「聖ラマナを超えて」
リーマンさんから、ニサルガダッタ・マハラジをご紹介頂いたとき……
真我ひとつの不二一元 = 個我はまやかしの非二元
ニサルガダッタ = 「 2去る我だった 」= 「 二元性を去る自我 」= 「 非二元だった 」なんてギャグを思いついておりました。
読者からの質問で、ノン・デュアリティとかアドヴァイタと呼ばれるタイプの覚者の本が、☔️雨後の筍の如くずらりと書店に並んでいるが、聖ラマナやニサルガダッタに繋がるこの系譜の有料先生たちは、本物なのかという質問(2016年6月1日)に対するお応えとして、
以下のように述べておられます。
> 。。。。デタラメ。
その線で人集めて、大金を得て、自分は着飾る厚化粧。
その線の主張するならば、ラマナ・マハルシのように裸を好むのが本当。
【何も無い、が信条】なのですから。
私の信条は真逆です。
【何もかも有る】。
自分が生まれている、事実から逃避しません。
…… 「その線」とは、ヴェーダーンタ哲学の「真我ひとつの宇宙観」のことです。
このお応えの中で、
・聖ラマナは、真我ひとつで「何も無い」(何も生まれない、生まれないものは滅しない)
・リーマンさんは、「何もかも有る」。自分が生まれている事実を認める。(生じるものは滅する)
という構図をお示しくださっているのを見つけ、烈しく驚きました。
具体的には、聖ラマナは「輪廻転生がない」立場(低次の境涯における輪廻転生は認めているが)。
リーマンさんは、「輪廻転生はある」、自我に実体性があるとの立場だと思います。
そう云われると、いままでリーマンさんの記事を読んで感じていた齟齬が少し納得できるような気がしました。
リーマンさんの内在神の話と、ヒンドゥーの真我の話とは内容が一致しません。
聖ラマナに見られる、
> Neti-Neti
ネーティ・ネーティ
「これではない、これではない」
究極の真理に達するために、世界を形成するすべての名称と形態を否定してゆく段階的な分析過程。
[※『ラマナ・マハルシとの対話』用語解説より]
…… 般若心経のように、「 あれも無い、これも無い 」と無い無い尽しを並べるように、
アドヴァイタの修練も、「 あれは私ではない、これも私ではない 」と、真我 ( 本当の自分 )でないものを次々と削ぎ落としてゆきます。
そして残ったものが真我であるということなんですね。
第10次元の聖者・ラマナの、その「 無い無い尽し 」の信条ではなく、リーマンさんはそれを超えて、「 何でも有り 」の信条なのですな。
まさに、バーリ・トゥードの自由な( 月世界の )豊饒の海であるわけです。
これは厄介だと思いました、敬遠しているのではなく、難題に興味津々のワクワクです ♪
ただ、リーマンさんはその旗幟 ( きし ) を鮮明にしておられません。違うのなら違うと、ハッキリ言ってくれれば分かりやすいのに、そうはしません。
推薦図書なんていわれて、聖ラマナの対話録などを薦められても、その真髄と伊勢白山道は一致しないのです。面喰らいますよ。
_________
…… 釈迦の再来と崇められる大哲学者・龍樹菩薩が、釈尊の無我を解いて説いた「 空 」観、そのフィロソフィーを大胆にもヒンドゥー🛕哲学に盗用したシャンカラが、いまに続く完成度の高い「 アドヴァイタ( 非二元 )」を創始しました。
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ヒンドゥーの叡智2️⃣〜 仏教を 「仏道」 から離反させたインド人・龍樹 - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』
ヒンドゥーの叡智3️⃣〜 三島由紀夫が惚れ込んだ、難解なる 「唯識」 - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』
仏教では「 無我 」として、個別の自我は無いとされています。それなら、その個我の無い状態で、何が輪廻転生するのかという大矛盾にぶち当たり、「 唯識派 」が阿頼耶識だの薫習だのと辻褄合わせを成し遂げました。
片や、その龍樹の「 空 」の論法を借用したシャンカラは、自我〜真我、小我〜大我へと「 真我ひとつ 」のアートマン( 魂 )論を確立させた。
ニサルガダッタ・マハラジの修めた伝統的なヴェーダーンタや、無師成道したラマナ・マハリシの後付け説明的なヴェーダーンタは、このシャンカラの霊統に属すと見做されている。
ほぼ完璧な、瑕瑾のない思想体系を創り上げたように思える。
その、ヒンドゥーの至宝を真っ向から否定して、「 何もかも有る 」を基底においた伊勢白山道は、いったいどのように「 世界 」を把握するのだろうか?
グルジェフの「 自己想起 」を、易行門の「 感謝想起 」に仕立て直した革命的な発想は、つとに賛辞を送るに足る偉業である。
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伊勢白山道の出現〜 今まで気づかなかった 「アタリマエ」 に感謝する - 『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』
かといって、グルジェフを超えて、ラマナ・マハリシを超えて、いわば第11次元の認識を示してくださるとでも云うのだろうか?
自我の仮象( 偽実体 )であることを認めずに、「自分が生まれている」という事実を真正面から認めると云う。
生まれる( 生じる )ものは滅びるが、摂理。
人は普遍( 不変 )をこそ求めるものではなかったのかしらん。
ミロクの世の到来( 2039年 )と並行するから、ますますもって入り乱れているような印象をいだく。
半肉半霊と自我( 個人我 )との兼ね合いも、そぞろに興味深い。
輪廻転生する「我」というものを、保持しながら霊的に進化を続けるとはどういうことなのか、無鉄砲で無謀なスサノオ神の戯れ( リーラ )に付き合ってみましょう。
グルジェフの高弟ともいえるウスペンスキーが成し遂げられなかった、意識を保ったまま三途の川を渡るというミッション( 彼はそのために歩きながら死ぬことを試みたと聞く )……
なにか凄く難しそうだが、過去に一伊勢白山道読者であった「 mercy 」さんと仰るかたが、意識を持ったままアノ世に赴いたという旨、リーマンさんが言及しておられたことがある。( 意識をもったままアノ世に赴くと、意識の自由度が高まるものらしい )
それは、リーマンさんの霊的な助力あってのことなんじゃないかと訝しんだものだったが、mercy さんの御子を思う親心が難行を完遂させたのかも知れない。
そのことに対するエビデンスは勿論、リーマンさん以外は持ち合わせていないわけだが、果してどんなものだったのであろうか?( 悟りの概念が変容してゆくのを感じる )
伊勢白山道の行法が、油断のならない卓効をあらわすことは一再ならず経験している。
だからこそ、聖ラマナ・マハリシの認識を超えて進めるものかどうかを、厳しく見届けておきたい。
ブログ 『 伊勢-白山 道 』 のコメント欄📝に見られるような、ぼんやりと子ども化( ネオテニー )した読者連を、どのように覚醒に導き、その次元上昇を成し遂げるのか、まったき不可能事に見えてならないが、勝算があるから現世に受肉したともいえるわけで、その神能の発露に是非立ち合わせてもらいたいモノだ。
どーも、第一印象の異質な触感がいまにして思い出される。いままで、神使におめにかかった経験がないからそうなのか、いまひとつ信用ならないという正直な思いを晴らすことは出来ないでいる。
それでも、覚りというものは特別なものではない、大したことはないと思えるようになっただけでも、伊勢白山道には感謝している。
ただ、あんまりリーマンさんのようにはなりたくないのですよ。彼を聖者と認定してよいものか、何かが抜けている気がしてならないのです。
善きこととは、神( 大自然 )に順うことを云う。リーマンさんに素直に随えない自分を何とみるか、ここをつぶさに明らめて参りましょう。
_________玉の海草