『 自然は全機する 〜玉の海草〜 』

惚けた母がつぶやいた〜 「 生きてるだけが仕合せだ 」♨️

 「剣豪小説」 とは、こんな感じ〜 白い闇夜にうごめく死闘

2023-10-28 00:23:51 | 日本語

__ 剣の達人を描いた剣豪小説(現在は、時代小説と云う)、

この特殊なジャンルは、その際立った精神性(悟りの境地、武士道)や多彩な歴史絵巻、伝奇物語としての風味もあいまって、おおくの読書人に愛されてきた。日本型の「教養小説」でもある。

しかし、職人気質的な文学ジャンルでもあり、未完の作品も少なくない。

このまま、「未完ゆえ単行本にもならずに見捨てられていた」傑作が、世間に知られないまま埋もれるのは、余りに惜しいので、こころある「時代小説ファン」に読んでいただきたい。そんな思いで著作権法に抵触しないように、地の文を適宜挿入しながら、引用の体裁をととのえようと思い立ちました。

[※ 五味康祐歿後、未亡人が原題『虎徹稚児帖』を『柳生稚児帖』に改名して、徳間文庫から初めて上梓された。単行本で出版されたことはない。]

 

【剣豪小説を愛する皆さんへ】

これから、白眉の剣戟シーンを引用しますが……

節々で挿入された私のコメントには漏れなく色付けしてありますので、

五味康祐の格調高い文章を味わいたい御方は、(色の付いた文章をスキップして⏭️黒い地の文だけを一気にお読みください

 

  書籍では、漢字の隣りに小さく添えられる「ルビ」の表記については、()内に半角カタカナで添えました。

一本線や破線も、できるだけ似たような印象に近づけました。

 

【読むまえに〜 物語の背景(あらすじに替えて)】

この「雪洞」の暗闘の舞台は、幕末の尾張藩剣術指南役・柳生兵庫介厳蕃(とししげ)の屋敷。

この未完の大作のラスボスは、「仙台黄門」こと戸田流林田派宗家・藤木道満であり、五味康祐『風流使者』でもラスボスをつとめている。『柳生武藝帳』における疋田陰流・山田浮月齋のような立ち位置であろう。

千葉周作が、「生涯敵わなぬ」と吐露していた、中西道場の三羽烏の一角を占める、「音無しの構え」の高柳又四郎は、この藤木道満の戸田流の系譜に連なる。

中条流平法を継いだ、越前の「富田流」は、一刀流を編み出した伊藤一刀斎や巌流・佐々木小次郎を育てた鐘巻自斎の流派である。鐘巻(印牧)は「外他、戸田」も名乗っている。小野派一刀流の源流と云える。

文中の浜部角兵衛は、藤木道満の一番弟子で道満の影武者をつとめるほどに出来る剣客だが、もとは刀鍛治であった。

その偽道満の角兵衛を襲うのは、江戸柳生を守る秘密結社「犬頭党」のメンバーである。

徳川幕府初期に柳生十兵衛の影武者だった狭川新七郎(古陰流)が、弱体化する江戸柳生を守るために組織した、柳生但馬守の弟子たちの末裔たち(稚児)で構成された陰の組織である。

裏柳生の忍者技に似て、集団で多撃必倒の必殺剣を振るう暗殺結社であった。

そんな、命を惜しまぬ、決死の玉砕戦法を取れる非情の武士が、無言のうちにジリジリと襲ってくる不気味さは堪らなく怖い。

 

 

_ . _ . _ . _ . _ . _   

 

 

 

五味康祐『柳生稚児帖』より引用>

 

雪洞(ぼんぼり)

 

  1

 

 偽道満が書院を出たのは八ツ(午前二時)過ぎである。

 早苗を辱しめたあの裸身ではなく、むろん軽衫 (カルサン)  も、袖無し羽織も身につけ、大小を腰に、片手で菅笠をさげていた。

 雪はいくぶん小歇 (コヤ) みになった様子ながら、深夜の暗さに変りはなく、植木までがた'''に雪に蔽 (オオ) われコソとの物音も無い。

 書院野広廂を渡り廊下の階 (キザハシ) まで来ると、そんな、真綿を敷きつめたような庭の静寂に一瞬、渠は立ちどまって視線を遣 () った。きざはしを降りたところに草履を脱いである。そこから渡り廊下が弧をえがいて母屋へ跨 (マタ) がっている。

 渠は草履をはいた。

 渡り廊下の、擬宝珠 (ギボシ) のついた手すりに蓑を掛けてあり、軒からはみ出た半分が雪で白くなっている。ゆっくり、手すりに寄ってこれを取りあげ雪を払い落すと、さっと肩へ引っかぶって、咽喉もとの紐を結び合わせながら、

…………

 何か、低いつぶやきを洩 () らした。それから菅笠を、被 (カブ) った。

 この時にはもう、万象ことごとく積雪の下に眠る趣きのあった庭さきに、一つ、ふたつ、白い影が動いていた。

 影は合羽を蔽 (カブ) っていた。

 先刻、偽道満が塀を飛び越えて立った燈篭のかげと、母屋の縁の下と、道場へつづく庭の柴折戸 (シオリド) のわきから現われた三人である。いずれも偽道満へ対 (ムカ) い、三方から迫るとともに蔽った合羽を、ふわりと後方へ投げ捨てた。

 襷 (タスキ) がけに鉢巻。

 藍色 (アイイロ) の稽古着へ、一人は剣道具の黒塗りの胴をつけ、野太刀さながらな大刀を提 () げていた。他の二人は常の武士のいでたちである。ただ雪の日なので、いずれもが軽衫ばき。

 偽道満__ 浜部角兵衛がこれら刺客の待伏せをいつ感知したか分らないが、恐るるに足らずと軽視したことは明らかである。それが、渠をして悔いを千載にのこさしめる因となった。

 たかが、柳生の門弟__ そう見くびったのが不覚である。

 

 

…… 黒柳徹子がテレビ📺出演を始めた(つまりテレビ放送が始まった)1953年に……

剣豪作家・五味康祐は、芥川賞を受賞した。(同時受賞は、松本清張)

齡31才にして、川端康成や三島由紀夫に匹敵する、美文調の練達した筆致であった。一種の「実験小説」のような体裁で受け止められたが、まごうかたなき「剣豪小説」(着想は斬新なものだったが)で芥川賞を獲ったのである。

その受賞作『喪神』は、ドラゴンボール超🐉の「身勝手の極意」みたいな心法の剣術で、オカルティックなある種の魔剣であり、かの幻の剣術「無住心剣」とはこんな感じなのかしらと思わせる短編である。

日本浪漫派の五味は、文章がいい。

オーディオの玄人で音感もすごれたクラシック通の五味は、きっと文章のリズム(律動)も練れているのだろう。

『喪神』は原稿用紙で30枚しかない、芥川賞史上もっとも短い作品である。ドビュッシーのピアノ曲にインスパイアされて書き上げた「剣豪小説」で芥川賞を受けたのも、空前絶後のことであろう。

ちなみに、文中の「渠」とは「かれ(=彼)」と読みます。

 

 刺客は、後でわかるが柳生屋敷の内弟子では無い。兵庫とは無縁な集団である。

 浜部角兵衛は夢にもそうと知らなかったから、

  「うじ虫どもが、この雪の最中 (サナカ) に湧 () くとはの」

 蓑を脱ぐではなく、擬宝珠の手摺に足をかけるとヒラリと雪の庭へ脚を没して立った。まだ大小は腰にさしたままである。

 三人は抜刀した。

 雪が深くて機敏な動作は双方とものぞめない。何か高速度写真の動きをみるように、雪を蹴散 (ケチ) らし、肺腑から絞るような気合の声をあげて一人が、刀を上段にふりかざし、ゆらり、ゆらり、角兵衛に駆け寄ると、ふわーっと刀をふりおろした。

 鏘然 (ショウゼン) 、これを受け止めた角兵衛の太刀の鍔もとで、刃が鳴った。

「これは」

 呻いたのは角兵衛である。音無しの剣のはずが、いかに雪の中とて、あっけなく刺客の太刀に音を発せしめたのだ。

 尋常の相手ではない。

「その方ら」

 角兵衛は菅笠の庇 (ヒサシ) から眼を光らせ、

「柳生の者ではないな。名乗れ」

「____

「われを藤木道満と知っての襲撃か。柳生の者でないならわれらの此処に在るをどうして知った?」

「____

「汝 (ウヌ) ら、新陰の一派ではあるな?」

 何と言われようと刺客はいっさい無言である。

 角兵衛にようやく微 (カス) かな狼狽の色がはしった。

 刺客らは、死を怖れていない。上層部より指令があれば己が生死を問わず、命じられた相手を仆 (タオ) す__ いうなら 《一人一殺》 、そんな訓練を受けた集団らしいと角兵衛は察知したのである。高速度写真の緩 (ユル) やかさで撃ち込んできた剣先に、かえって、凄 (スサ) まじい相討ちの意志があり、自殺行為に似た悲壮感さえそれはともなう攻撃であったことを。

「名乗れ」

 もう一度、角兵衛は叫んだ。蛆虫 (ウジムシ) と蔑 (サゲス) む傲慢さはもう浜部角兵衛から消えていた。

 三人は応じない。

 黒塗りの胴をつけたのが頭 (カシラ) 格で、歳は三十四、五。浪人髷で眉の太く精悍 (セイカン) な面魂である。これが野太刀を左手 (ユンデ) にまだ提げて、

〈懸れ〉

 と言わんばかりに右の刺客へあごをしゃくった。

 右にいたのは白鉢巻のひときわ凜々 (リリ) しい士で、歳は二十をいくらも過ぎていまい、眉はやはり黒々と太く、隼 (ハヤブサ) の鋭さをもつ眼で、これは刀を青眼に構え、雪に没する肢を、交互にゆっくり揚げながら一歩、また一歩、角兵衛の脇に接近する。

 同時に黒胴の合図をうけて先程の、高速度写真の緩やかさで挑んだ刺客が、今一度、こんどは双手大上段に刀を把()って、やや面俯 (オモブ) せに、鉢巻を締めつけた髷に粉雪を戴きながら角兵衛の左脇へ接近する。同じように片足ずつ、雪に埋もった肢を膝高くあげては躊躇 (チュウチョ) せず前へ、前へと進んだ。

 平地なら身のかわしようがある。機敏な跳躍も意のままである。

 だが、こう雪が深くては退 () きもならない。牛の歩むに似た鈍重さで、死を目前に、たじろぐことなく徐々に前進する彼等の、その接近ぶりにはおそるべき迫力があった。あまつさえ、黒胴の浪士も亦 (マタ) 、これは角兵衛の正面から、提げた刀を八双に把って、ひときわ膝を高くあげては前へ踏み出し、あげてはふんで肉迫する。

 

 

…… わたしの読書の始まりは、浪人時代に読んで、完全にその物語世界に魅了された剣豪小説、柴田錬三郎『運命峠』でした。

柴錬、五味康祐、池波正太郎なんかの王道の剣豪小説を読み耽りましたよ。後年は、隆慶一郎や戸部新十郎にも興奮していました。

何十年と、チャンバラ小説を読み続け、たいがいのパターンは熟知している私にして胸を震わす展開なのです。

ひょいと出逢った『柳生稚児帖』の、この雪洞の章には、一読ブッ魂消ましたよ。

なんという筆力でありましょう。

この文庫の解説者(稲木新)がいみじくも洩らしています。

偽道満を討ち取る場面の造型力は素晴らしい」と。

 

 

 

   2

 

 渡り廊下には屋根がかぶさっている。

 その屋根に積もった雪がすべり落ちるので、屋根の軒下にあたる辺はひときわ雪が堆 (ウズカタ) く、踏みこめば足の自由がきかない。

 角兵衛はそんな場所にいた。

 言いかえれば角兵衛が其処に立つのを刺客らは辛抱づよく待っていたに違いなかった。あなどり難いこれは武略である。

 雪は小歇みなく降りつづけている。

 角兵衛の蓑笠をかこんで、三つの影はともに死をいとわず迫る。

 どうしようがあろう。

「待、待て。…… 負けた。待て」

 構えた刀をおろし、角兵衛は手をあげた。

「身共の敗けじゃ。音無しの構えが、さいぜん刃 (ヤイバ) の音を発したことさえあるに、一対一ならまだしも、三人が斉 (ヒト) しく相討ちを覚悟ではこの藤、藤木道満とて⬜︎ (カナ) わぬ…… 先ずは、刀をひけ。許せ」

 

 

…… この⬜︎にした漢字は、ネット上の漢和辞典なんぞには載っていないものなのだ。手持ちの『漢字源』には、確かに記載されていたので、実在する漢字のようだ。

忄(りっしん偏)に、匚(はこがまえ)の内に「夾」を入れた旁(つくり)

漢文に堪能な、昔の世代には遣われていた漢字なのだろう。こんな未知の漢字の造型に出逢えるというのも、練達の時代小説作家を読む愉しみのひとつであろう。

五味康祐の漢文趣味は、ひときわ変態的であることよ。

 

初めて『柳生武藝帳』を読んだときには、その語彙の凄まじさに、漢和辞典・古語辞典・国語辞典を並べて、高校までの国語力を全開させなければならなかった。

ネット上に、五味康祐の撰んだ漢字がないのなら、いまもその条件に変わりはないとも云える、なんともはや…………

 

 

 

 危地に陥れば降服して難を免れるのも兵略であろう。卑怯者というだけでは、敗北を喫したことにはならぬし、斬られては弁明の余地もなく敗者である。

 いさぎよく死ぬより、卑怯者の汚名に甘んじるとも生きのびて再起を計るのが、刀工浜部寿定の血をついだ__ つまりは武士の育ちでない偽道満の真骨頂であろうか。

 だが、刺客らは、武士であった。

「見苦しいぞ」

 はじめて、中央の黒胴の浪士が錆 () びた声で、

「この期におよんで何をこわがる? 黒の酬いを避け得ると思うか角兵衛」

「な、な、なんと?」

 菅笠の下で炯 (カツ) と角兵衛は眼をむき、

「われらを浜部角兵衛と知ってこれへ? ……  だ、だれに聞いた? 言え、誰が今宵 (コヨイ) 、柳生屋敷をおれが襲うと汝らに告げた? 誰がじゃ」

 刺客はもう答えなかった。屋根から落ちた雪のうずたかいのへ、まるで滑走でもするように、

「曳」

 気合もろ共、三人ほとんど同時、太刀よりは身をおどらせて、角兵衛に殺到した。

 白刃が一度、二度、交叉 (コウサ) し火花が散った。

 にぶい、濡 () れ手拭 (テヌグイ) を叩 (タタ) くに似た音、噴水さながらに奔 () き昇る血汐 (チシオ) が梢 (コズエ) の雪を払う音。呻き。渡り廊下の手すりに体でぶつかる音。シューッと蓑の裂ける音、手すりに太刀の喰い込むにぶい音。

 鬼気迫る、この静寂 (シジマ) の暗闘に一時、夜空に舞う粉雪までが凍 () てつくかと思われた。

…… 申せ、だ、だれか汝らに……

 角兵衛はあごをさげ、手すりに背を凭 (モタ) らせてそれきり、ズルズルと地面へ沈んだ。雪の大地に尻もちをつく恰好 (カッコウ) で肩から腕の力が抜けていた。抜ける力に比例しておびただしい血が周囲の雪を染めた。

 左袈裟 (ヒダリケサ) と、脾腹 (ヒバラ) と、手首と大腿部を角兵衛は負傷していた。このうち左袈裟に浴びた一太刀が致命傷だった。

 がっくり項垂 (ウナダ) れて、角兵衛はコトきれていた。そのなげ出した脚のわきに二十前の刺客が、うしろの手すりに二つ折りに身を凭らせてもう一人が、これも瞬時の斬り合いで、相討ちで即死していた。

 無疵だったのは稽古着姿の浪士ただ一人。

 

 

…… 黒胴をつけたお頭格の武士は、胴をガラ空きにして捨て身の撃ち込みをするためであったろうか。

端然とたたずむ、生き残りの孤影に虚を突かれる。なんという戦い方、必ず斃すために、躊躇なく踏みこめることに怖気を震う。

尾張の柳生家は、初代の兵庫介が新陰流の正統三世を継いだが、大和柳生の育て方には「鳥飼い」と呼ばれる、絶対不敗の信念を植え付ける独特な精神的鍛錬法が存在する。

振り下ろされる刃の下をくぐるということには、それほどの絶対信念がないことには務まらないのであろう。

そうした宗教的ともいえるメンタル面での強靭さにも焦点をあてたのが、津本陽の大作『柳生兵庫介』であった。

「真言不思議、観受すれば無明をのぞく」

新陰流の道統を継ぐ最終段階として、穴山流薙刀の阿多棒庵のもとに参ずるという試練があった。

薙刀は、対剣術としては強いからね。長モノは、多人数相手でも力を発揮する。

長物から小太刀まで、そして無刀捕りの素手体術に極まる総合武術ですね。

 

 

 

   3

 

 いかな深夜でも、達人同士の斬り合いでも、瞬時に三人が仆れるほどの死闘が、人に気づかれぬわけがない。

 おもしろいことに、庭さきの呻きや、鈍い物音に最初に夢を破られ、気づいたのは母屋の奥の__ 現場から一番はなれた__ 病室に臥 (フセ) っていた兵庫の妻女だったという。

 

 

  

_ . _ . _ . _ . _ . _(引用終)

 

 

…… わたしの剣豪小説読書歴のなかでも、そのヒタヒタと迫る不気味さと不敵さに、剣戟描写の白眉ともいってよい『柳生稚児帖』の「雪洞」の一節を手入力している時に、これに関連した調べ物をする過程で、信じられないような情報が目に飛び込んできた。

 

『柳生武藝帳』ですよ♪ その続編たる『柳生石舟斎』がペーパーバックで初出版されたと云ふ。

ʕʘ‿ʘʔ〜マサカ……   Σ(-᷅_-᷄) ナンデストー、それってあのマボロシの?

 

【週刊「新潮」に連載された、当時のページ。挿し絵入りだったんですね】

 

webサイト「復刊ドットコム」によれぼ、

>「柳生石舟斎」は、週刊新潮(昭和37年~39年、307号~434号)に連載されたものの、以後一度も、単行本として出版されていない幻の作品です。

 

…… とすれば、60年ぶりの復刊ですよ。生きてるうちに読めないと思っていた。なにやらアタフタしてきた、神の恩寵は知らないうちに与えられているって、そんな氣分になりました。

すぐにAmazonでクリック、全4冊入手が決まった。

 

武藝者も、忍者や能役者みたいに「芸者」だから、マンガ『カムイ』みたいに、被差別部落を避けては通れないのですな。『柳生石舟斎』は、のっけからその展開だと耳にしてきたので、こりゃ読む機会は永遠にやってこないかも知れないなと、五味康祐の妙なる運命に天を仰ぎましたよ。

 

 

それが、現に目の前に、何の飾りもない黒い表紙の『柳生石舟斎』がある。

豊饒な中身と、荘厳な字面、そして格調高い文体。

いつもどおり、たしかな至楽を間違いなくもたらす五味康祐の本が、ここにある。亦、悦ばしからずや。

 

『柳生武藝帳』は、五回は読んでいる、三回目くらいが一番愉しかったような憶えが……   さて続編『柳生石舟斎』はどうであろうかのう。

 

四十年、このときを待った。いまのこの氣分、高額の宝くじが当たったら、こんな心持ちになるだろうか。

       _________玉の海草


(🍶) blog 内 twitter 「どの口が言うか!」

2023-10-20 10:33:50 | 雑感

●「渋谷に来ないで!🎃」のロゴが素的(20231029)

さすがは、渋谷ですねえ。

地名どおり「谷」だから、水象の土地柄なんだよね。

街のアップダウンも激しめだし、それがいい風情を醸している。渋谷は、タワーレコードと東急ハンズに通ってたんですよ、埼玉・杉戸から遥々と。

それだけ魅力のある、ひとの集まる霊地なんだろね。

渋谷駅の連絡通路には、岡本太郎の大壁画『明日の神話』も鎮座していますしね。

『呪術廻戦』でも、いま「渋谷事変」を放送中で…… ベタベタ貼られたり吊るされたりしている「渋谷に来ないで!」のロゴに囲まれると…… 

異世界に呑み込まれそうな氣分になる。

『明日の神話』の中央の骸骨は、メキシコ🇲🇽のドクロ信仰をも象徴するものだし、呪術師の伝統「トルテック」、つまりカルロス・カスタネダのブルホ(呪術師ドン・ファン)にも関連するものでもある。

おなじ時期に造っていた、『太陽の塔』とこの『明日の神話』は、まさに陰陽☯️を成すものだが…… 

『太陽の塔』の三つの顔も、メキシコに原型があるとも言われていますね。

『ジョジョの奇妙な冒険』の冒頭、「石仮面」も生け贄の神具だし、伊勢白山道によればインカやアステカ・トルテカの神さまは、奈良の大神神社⛩️の大物主大神であり、宇宙から渡来した地球規模のおほがみ様であるらしい。

そんな生死を司る境界が、渋谷にあるのではないかな。

この「渋」のフォントが大気を締めているような気がするんだよね。

センター街の入り口、「大盛堂書店」の店主が、『ゴールデンカムイ』の「不死身の杉元」のモデルであるらしいし、…… 

実写版が撮られていることも、渋谷の磁力🧲に関係するかも知らんね。

ヒロインのアイヌ少女のアシリパさんは、こどもの顔した珍しい女優・山田杏奈だし、白石を演ずる矢本悠馬も佳きかな。

なかなかの面構えの俳優が揃っているんだよね、あの変態だらけの突き抜けた『ゴールデンカムイ』を、戦争の狂気とともにうまく描けるものかしらね。

時代柄、アイヌ人〜ロシア🇷🇺、アイヌとまったく同じ顔した沖縄人〜中国地🇨🇳、このシンクロもあるのかも知れない。

時代の底流が、おおきく動き出している感触がある、どうなるものか。

_________

 

 

 

20231020

🔴  上皇后陛下美智子さまのお誕生日を祝して、

ゆかりのあるお花(私の一番好きな花でもある)について、昔の拙稿に美しい画像を添えて、再掲したい。

 

御所のお庭にMY悲恋」

[2012-06-09 18:19:31 | 玉の海]

 

ゆふべ、仕事の道具を買いにいったついでに立ち読みした本『御所のお庭』(扶桑社刊) に、目が釘付けになってしまいました

【マイヒレン(舞妃蓮)と呼ぶ花だとか

御所の北庭に咲く、その氣高くふんわり優しい佇まい(写真)を目にした時

その、あまりの美しさに陶然となった!

睡蓮の仲間の蓮花なのだが

昭和35年に、両陛下が米国をご訪問された (ご結婚後初めての海外旅行) 際に、

日系人から贈られた黄蓮の実を大賀博士が開花させ、皇太子殿下に因んで 王子ハスと命名される

この王子ハスと、古代の大賀ハス(3000年前の種子より)とを掛け合わせ、長い年月をかけて作られたのが、この大輪の優雅な花を咲かせる【舞妃蓮】である

これを作り出した阪本氏は大賀博士のお弟子さん

最初は「クラウン・プリンセス (皇太子妃) 」と名付けよーと思案していたらしいのだが、

上京して東宮御所で当時の両殿下にお目にかかった後に     【舞妃蓮】 と名前を改めたものらしい(ほんとうは、My悲恋なんだよ、きっと)

美智子さまのご印象を彷彿とさせる、聖なる花である

 

 

 

【画像=「球わかば.net」https://tamawakaba.net/maihiren_2017/より】

 

 

 

御所通用門から内玄関へと続く途中の左側、

生け垣の向こう側には、

50坪ほどの薔薇花壇がある

昭和40年に、英国のアレクサンドラ王女が来日された際にもたらされた

オレンジの花弁も美しい新品種のバラは、翌41年にイギリスにおいて、

正式に 「プリンセス・ミチコ」 と命名された

 

淡いクリーム・ピンクの、優しい色合いの花びらを持つ

 「エンプレス・ミチコ」 と共に、

英国・北アイルランドのバラ種苗会社・ディクソン社の作出になるものである

 

まあ! 上品この上ない雰囲気をもつ薔薇の花である

このバラ花壇には、もう一つ忘れられない薔薇がある

其名も 「プリンセス・サヤコ♪」 ―昭和57年、仏国のミッテラン大統領夫人・ダニエルさんから贈られたものである

こちらは、オレンジがかったサーモンピンクの花弁が、いと可憐で繊細な風情を醸し出している

御所のバラ園に、仲良く母子の御名を戴くバラが咲き誇る

先頃、美智子さまの語録が出版されていたが

その中で 紀宮には (どこか) 楽しいところがある とお話しになっておられた

黒田清子さんは、ご一緒に話したら、きっと樂しい女人だと思ふ

彼女のお印であった

「未草(ひつじぐさ)―その、白く凜呼たる清楚な睡蓮花も、御所のお庭には咲いている

_________

 

 

 

 

● 新ドラ『いちばんすきな花』

今回第二回をみて、ようやく何を描きたいかが分かったんだよね。(TVer で初回分を改めて見直しましたよ)

正直ゆーと、多部ちゃんでているから観たけど、初回はつまらなかったんです。

 

よくあるマイナス志向の、幼い時のトラウマを引きずっている人びとが次から次に現れるわけですよ。そら、つまらんわ。前フリが長すぎると思った。

クアトロ(四人)主演とか謳っているものだから、それぞれのキャラを説明しなければならない初回だったのだろう。

 

 

『silent(サイレント)』のスタッフが作ったんだってね。気になる台詞がよくあったから、脚本はよく出来ている。

人生における「ふたり組」の在り方  にフォーカスしたもので、

「好きな人とふたり組に成りなさい」と言われて、うまくパートナーを見つけられずに、

最後にひとり余ってしまう

そんな引っ込み思案の「つきあい下手」を四人集めて、テーブルを囲ませて、彼らがほっと安堵できる居場所が初めてできる物語なんだねえ。

世間で暮すなかで、思いが通じないことを、期せずして囲んだテーブルで吐露すると、いままで決して得られなかった「共鳴」が連鎖しあう居心地のいい時間が流れる。

 

独特の視点ですね、それだけ理解されないマイノリティが多いということなんですな。(オードリー若林と水卜アナの『おかえり、こっち側の集い』も面白いものね、いままで明るく仕上がった、テレビ向きのキャラ(あっち側の人)しか、テレビ的に許されなかったのだから、初めて見る裏側の事情なのですね。

こっち側の人が四人いて、主演だなんて新しいね。

 

クアトロ主演なんて言っても…… 

現実に主演がつとまるのは、多部未華子しかいないのです。(NHK『これは経費で落ちません!』続編を蹴って、このドラマに決めたんですね。相手役の重岡くんが『単身花日』の主演に決まったから、続編を断ったんでしょ、残念ですね)

他の三人は、どこか足りないというか、欠けているピースがあるんだよね。主役になれる、役者の幅と奥行きに欠けているんです。それが、今回のドラマではピッタリと欠落部分に役柄がハマるのだから面白い。

今田美桜は、その最たるものですね、このドラマでは彼女のヒリヒリするいびつな個性がよく映えています。

主演男優ふたりも、引っ込み思案の弱腰おとこがよく似合います。地でやっても務まりそうです。

かれら全てをまとめるのは、やっぱり多部ちゃんなのだろう。(一番好きな花は薔薇🌹、王道を愛する多部ちゃんなのだ)

 

それにしても、こんなにピアニッシモが響くドラマは、 映画『Love Letter(1995)』 以来かしら。

あの、岩井俊二監督の名作は、主演のふたりに少年時代のふたり、この四人の役者のすべてが 「魚座♓️」 の生れという、極めて珍しい雰囲気の映画なんです。

 

【中山美穂♓️と豊川悦司♓️】

【少年時代を演じた、酒井美紀♓️と柏原崇♓️、柏原くんは弟さんもイケメン俳優だが、この「神のマスターピース」とも言うべき美少年ぶりには驚かされたものだ。現在は、内田有紀のマネージャーしてんだってね、さすが柏原くん♪】

 

 

あの、弱々しく繊細なのだが、神々しくも、芯の強い「発光体」のような愛情濃やかな主人公たちを描いた、そこはかとなく移ろう「もののあはれ」を写したような映画🎞️でしたね。

 

縁の下の力持ちのような、目立たない陰の人柄が注目される時代になったのかしら。

若者たちの「つきあい下手」は、危険水位に達したようで、「おひとり様」でも生きられないし、複数人でも深く付き合えないと来ている。

生き残るために、もっと真剣にならないといけないと私は思う。

このドラマは、来週も観よう、テーブルでの会話がなかなか聞かせるのよね。

滅多に聞けない、謙虚な人びとの声と感性に、しばし耳を傾けてみよう。

      _________玉の海草


 酒田に いちから 「南洲神社⛩️」 を建てた人〜 長谷川素山のこころざし

2023-10-12 19:55:02 | 人間(魅)力

酒田にある南洲神社⛩️

 

 

わたしたち庄内人にとって、明治初頭に旧・庄内藩士が編纂した西郷さんの唯一の語録  『南洲翁遺訓』 には、特別な想いがある。

西欧列強が日本を餌食にしようと、鎖国を破って侵入してきた時代……

徳川幕府の北の砦・庄内藩では、他の外様藩とは自ずから違う覚悟が求められた。

徳川四天王筆頭の酒井忠次を先祖に戴く庄内藩は、徳川親藩(徳川家と酒井家とは親戚)としての生き方と同時に、日本という国体としての生き方という二つの狭間で、真剣に迷い戸惑っていました。

それは、西洋と東洋との生き方(人生哲学)の相剋でもあった。

徳川幕府では、官学として朱子学を定めていました。

それなのに、彦根藩と庄内藩のみは、特に願い出て「徂徠学(古文辞学)」を藩を挙げて学んでいたのです。

[※  徂徠学=古い辞句や文章を直接続むことによって、後世の註釈にとらわれずに孔子の教えを直接研究しようとする学問

そうした、独自の取り組みから庄内藩独特の矜持が生まれ育ったのです。

 

幕末の戊辰戦争で、徳川親藩の庄内藩は幕府軍最強を誇り、徳川幕府と心中する覚悟で、最後の最後まで官軍に抵抗しました。(徂徠学による藩校教育は、庄内藩士を自分の裁量で自発的に学ぶ、戦場にあっては自分で判断して戦う兵士を養成しました)

しかし、時代の趨勢には勝てず、会津藩の降伏に伴って、無敗を誇った戦果のままに、降伏を受け入れたのです。

このとき、おそらく庄内藩士は絶望の淵にあったことと思います。いままで築き上げてきた武士の世の中が転覆するのです。そればかりか、官軍による横暴と他国による侵掠にも備えなければならない。

そんな切迫つまった時代でした。

庄内藩代々、徂徠学を探究して練り上げてきた「武士道」を棄てざるを得ない状況でした。

おそらく、すべてを諦めて決意した、官軍への投降であったでしょう。

 

下手すると、武士の意地から玉砕覚悟の最終戦すら辞さない庄内藩士に、丁重に向かい合ったのは、西郷さんの意を汲んだ黒田清隆でした。

黒田は、型通りに城の明け渡し交渉を終えると、上座から降りて、藩主の酒井候を上座に迎えて低頭したということです。(予想に反して、刀や武器も取り上げられることなく、そのままで許されました)

この、見事な武士道ぶりに瞠目して拍子抜けしたのは庄内藩士の方でしたでしょう。

 

🏯の明け渡しに、一筋の光明を見つけた庄内藩士は、後々までこれを覚えていて、ある時上京した折に「あのときの御礼」に黒田卿の下に参上することにしました。

そして、あの丁重な明け渡し劇の裏に、西郷という大人物の意向があったことを初めて知るのです。

 

庄内藩士たちは、西郷さんのその振舞いのなかに、自分たちが追い求めていた 「 王道 」 を見出したのですね。

嬉しかったことと思います。

もはや武士の世も終焉して、覇道の世の中になりそうな時に、王道的振舞いをする、亀鑑とすべき「最後の武士」を見つけたのですから。

 

新政府の明治が始まってまもなく、「明治六年の政変」で西郷さんは鹿児島へ下野します。

その西郷さんを追って、彼の創設した私学校で学ぶために、旧・庄内藩士たちは遠路はるばる西郷先生のおられる鹿児島までおもむきました。

旧藩主を筆頭に76人規模(全庄内藩士3000人から選りすぐった)で研修訪問したこともありました。

いわば、藩を挙げて鹿児島へ留学したのである。誇張抜きに言うが、生命をかけて学びとったのである。

そうした際に、肌身で感じた西郷先生の御姿を記憶して、庄内まで持ち帰って、元家老の指導の下に「語録」にまとめたのです。

不幸にも「西南戦争」の末に、西郷先生は国賊となってしまったために、そうしてみんなの耳目で集められた西郷さん語録も公開されないままに、旧庄内藩内で秘蔵されて、有志のあいだで勉強されて来ました。

 

西郷さんの語録は、沖永良部の牢獄生活でのものなど数少ない例をのぞいて、ほとんど後世に伝わっていません。

庄内藩の編纂した『南洲翁遺訓』が、西郷さんの生の口吻に触れることの出来る、まとまった唯一の第一次資料なのです。

三代目理事長・小野寺時雄翁は、仰っていました。

 

「荘内の先人たちが、直接(西郷先生へ)ききたかったことは何だったのか。

(後世の私たちに)遺したかったことは、何だったのか。」

 

つまり、庄内に生きる私たちは、『南洲翁遺訓』によって、

・ひとり偉大な大西郷の思想に触れるだけでなく、

・庄内の先人たちからの遺言(メッセージ)をも受け取ることのできる、

私たちだけの特別な読み方が可能な書 でもあるのです。

徂徠学で鍛えられた庄内藩士が、大西郷にひるむことなく、学人として対等の立場から放った真摯な質問によって、大西郷の深淵さが初めて世に露われたのです。

どんな気持ちで、それを西郷さんに訊ねたのか、その庄内藩士の底意をも私たちだけは学ぶことができるのです。

[※  例えば、荘内南洲神社建立に多大なるご貢献をされた澤井修一氏は、荘内藩士・戸田務敏のご子孫である。『南洲翁遺訓』には質問した荘内藩士の名前は記載されていないが、この条はどの藩士が西郷先生からご教示賜ったものか判明している。身近なご先祖がたが質問したものを結集して編集した集大成が『南洲翁遺訓』に成っているのである。]

聖賢の学を修めた、西郷さんの思想的な深みを世に知らしめたのは、他ならぬこの『南洲翁遺訓』であります。

小野寺理事長は、庄内藩士の先人たちのことを敬慕して、「荘内の大先覚者たち」と称えておられました。

 

 

荘内南洲会も、三代目理事長・小野寺時雄の執筆なされた『南洲翁遺訓に学ぶ』をもって初めて、長年研鑽を重ね講究してきた『南洲翁遺訓』の解説書を上梓するに至る。

長年の念願であった手引き書は、荘内南洲会の創始者・長谷川信夫の遺志(草稿と詳細な資料)を継いで、三代目の小野寺理事長が成し遂げられた。

荘内南洲会ならではの見解も、少なからず存在する。

[※  長谷川信夫『西郷先生と荘内』等参照]

『南洲翁遺訓』の原文に、逐一意訳と講究を添えるという学者並の労作を書き上げて世に問うた。

もう、これだけの見識をもった人物はあらわれないかも知れない。(荘内南洲神社の創立メンバーは、皆が日本農士学校卒で農業エリートであった。南洲会初代理事長・菅原兵治先生は元・農士学校長・検校だし、二代目・三代目理事長はその教え子である。それぞれに漢学の素養が豊かであった。)

 

 

そんな小野寺理事長が、「知己を300年の後に待つ」ために、南洲会員に寄付を募って、神社の境内に「銅像」を建立された。(小野寺理事長は、私費で300万円を寄付されている)

[※  上掲の写真では、鳥居の奥に、西郷さんと菅実秀(庄内藩家老)とが対面する坐像(銅像)が見られる。同じ銅像が、西郷翁の武邨(たけむら)の生家跡にも建立されている]

小野寺翁の気概たるや、ブラジル🇧🇷300年で完成予定の計画都市ブラジリアみたいな規模なんですね。

ある日に真顔で言ったんです、「銅像って、300年もつんだよ」

西郷さんの真精神に感応する人がいまはおらなくても、これから300年間のうちには誰か気づいてくれるのではないかと仰るんですね。

こんな銅像を建立するくらいに熱く西郷南洲翁を語っていた時代が間違いなくあったんだと感応できる人が必ずや現れると。

そのために銅像を建てるんだと。

『南洲翁遺訓』にも「誠篤ければ、たとい当時知る人無くとも、後世必ず知己あるべし」と南洲翁が言っておられる。

 

 

今年の6月末をもって、新しい五代目理事長を迎えて、理事や評議員を総入れ替えして、荘内南洲会も刷新された。

五代目理事長は、三代目理事長のご子息である。

公益財団法人の仕事も、なかなか資金調達できなくて、運営も難しいらしい。もともと、山形相互銀行🏦(現;きらやか銀行)の肝入りで金銭的援助も受けながら存続してきた(二代目長谷川理事長と澤井頭取が親友だった)のだが、その資金を切られてからは、運営に支障をきたすことが多くなった。

理事長やキャストの給料も間々ならないような経理状態なので、引き受け手もいないのが実状である。

それで、ある強い覚悟をもって、五代目は全面的に引き受けてくれたものらしい。無給で奉仕してくれるそうだ。

 

ただスタッフが全面的に刷新されたものだから、どこまで従来の活動を継続してくれるかは皆目分からない。

まさに、三代目が予見した未来図が現実化しているのかも知れない。

 

元の理事や評議員の方々も、その強引なやり方に辟易して、どうやら南洲会の会員まで辞めて、完全ノータッチを決め込むようだ。

こうした地方に根付いた(無形の)精神文化を継承する場合、一緒にやるメンバーが好きだの嫌いだのは、本来関係ないはずである。

後世に遺すべきだから、継承するのだ。そこに私心はないはず。

それが伝統というものである。

体制が変わったからといって、会員(荘内南洲神社の氏子)資格まで全て放棄するなどとは、本来文化の担い手が取る手段ではあり得ない。

こういう、一時の感情にまかせて一気にすべてを思い切る辺りが、酒田に文化が育たない、そして根付かない原因ではないかと思う。

街おこしとか観光資源とか「お金を生み出すもの」にしか関心が向かない傾向があるようだ。

そもそも南洲翁への景仰は、鶴岡市(=庄内藩)の精神なのであって、酒田人の知る処ではなかったものなのだが。

長谷川信夫という傑物が顕われたのが酒田だったのが悔やまれる。酒田も本来は、平泉の奥州藤原氏の系統を継ぐ「浄土系」の街づくりが為された宗教的な土地柄なのである。いまも浄土門の寺は多い。

門徒の結束の堅さは、信長をも悩ませたはずなのに、何故か仲がわるい。昔、日本海有数の遊郭が栄えた怨念でも残留しているのだろうか?

酒田という湊町は、利に流れて、すこぶる纏まりの悪い土地柄なのである。(我よしの縄張り争いが烈しい)

文化の継続とは、華やかで派手なものではなく、地道で険しいものである。

ただ、そういう軽いノリで参加している心情(人間のサガ)を見抜いて、300年の計を立てた三代目理事長はつくづく慧眼であることよ。

 

 

荘内南洲会は、酒田市在住の長谷川信夫翁が一念発起されて、日本農士学校🏫の安岡正篤先生の助力を仰ぎながら、酒田の地に、いちから西郷南洲翁を祀る神社を創建なされたところから始まる。

【長谷川素山先生の遺稿出版本📕『西郷先生と荘内』より、著者ポートレート。大正2年8月24日生れで、平成9年8月24日歿(1913〜1997年)、天寿満84才。

岩波文庫版『西郷南洲遺訓』を日本で一番多量に購入なされた人物であろう。その数、生涯でおよそ 25,000冊 超。

すべて素山先生のポケットマネーで買って、南洲神社⛩️参拝者に無料でお配りした。南洲会館に所蔵している西郷さんの真筆も、何百万円もするものを何幅も集められるだけご自分の給料から捻出して買い求めた。だから、質素倹約して衣服も持ち合わせていなかったのである。】

 

昭和51年(1976)の事だから、まだ歴史は浅いのだが……

長谷川信夫翁の熱誠は、本家の鹿児島だけではなく、沖永良部の和泊や都城市の人びとの心を動かし、南洲翁への敬愛の火をともして回ったのである。(毎年、人を募って、庄内から鹿児島県を訪ねる「西郷先生の遺徳を偲ぶ旅」を挙行した)

[※  この長谷川素山(信夫)先生は、ほんとうに対話するのが面白くて、私みたいな若僧にも襟を正してお相手してくださる、寛容で胆力のある古武士のような御仁でした。背筋がピンと伸びて、坐禅も参禅されて見性しておられました。ご子息を逆縁で亡くされており、西郷さんには本当に救われたのだと思います。

いつお会いしても和服姿なんですが、南洲会館で毎月行われる「南洲翁遺訓の講究会」で身につける一張羅の羽織袴と、普段使いの単衣の着物、この二枚しか衣服を持っていないのです。すべての報酬は、西郷先生の墨蹟や関係文献を求めるためにお使いになっていました。完全に突き抜けた、涼やかな佇まいをしておられました]

【『財団法人荘内南洲会 三十年のあゆみ』より、講究会はいつもこの一張羅の羽織でした】

 

そして、それぞれの地で南洲神社が建立されていった。

現在、「南洲神社」は鹿児島を筆頭に5社を数えるまでになっている。

【西郷さんの「敬天愛人」の書。鹿児島で揮毫されたものは、右から横書きの一行書きで、荘内では右から縦書きで二行書きなされたようです。】

 

 

 

■ 西郷南洲翁に出逢う以前の、佐幕の雄藩であった

庄内藩に醸成されていた独自の藩風

 〜幕末最強の庄内藩を生んだ、藩校「致道館」教育について〜

参考テキスト📘 ;
「現代ビジネス」講談社HPより
河合敦〜幕末最強・庄内藩士の強さを支えた「驚きの教育システム」
学校がそこまで自由でいいんですか? 〜


江戸時代のエリートを養成した教育システムとしては……

薩摩藩の「郷中教育」

会津藩の「什の掟」

とがある。

> 前回紹介した二藩(薩摩・会津両藩)がいずれも徹底的に厳しく子弟たちを教育したのに対し、

庄内藩の教育はきわめて自主性を重んじる、リベラルな教育なのである。

> 文化二年(1805)、庄内藩は「被仰出書」という形式で、致道館の教育目標を明らかにした。
そこには「国家(庄内藩)の御用に相立候人物」、
具体的にいうと「経術を明らかにし、その身を正し、古今に通じ、人情に達し、時務を知る(儒教の文献を解き明かし、品行方正で歴史に詳しく、人の情けを知り、的確に政務がとれる)」人材の育成を目指したのである。

> (致道館の)初代校長の白井矢太夫は教職員に対し、次のように述べている。

「諸生(学生)の業(学業)を強いて責ぬる(強制する)は由なき(良くない)なり。今度、学校(致道館)建てられたれば、才性(個人の才能)によりて教育の道違はずば、自然(おのずから)俊才の士生ずべし。とにかく学校に有游して、己れが業いつしか進めるを覚えざるが如くなるを、教育の道とするなり」

このように勉学の強要に反対し、「個人によって教育の方法は違うのだから、なんとなく藩校にやって来た学生たちが、自分でも気づかないうちに学業が進んでいる、そうした状況をつくるよう教師は心がけせよ」と命じたのである。さらに、

「学校の儀は、少年輩の遊び所ゆえ、たとえば、稽古所の少し立派なるものと心得、児童の無礼は心付け、その外何事も寛大に取り扱ひ、あくみの心の出来申さざる様致し、面白く存じ、業を教へ遊ばされ候様成され度御趣旨ゆえ、弓矢場なども十五間に致し、又は児輩の面白く存じ候書物にても見せられ候か如何様にも引き立て方これあるべき事ゆえ、一統評議のうえ申し上げ候」(『句読所への口達』)
と依頼したのである。
原文はかなり難しいが、要するに、「学校は子供たちの遊び場なのだから、子供が無礼を働いたりイタズラしても、たいがいのことは大目に見てやれ。教師は子供たちがあくびしないような面白がるような授業を心がけよ、また子供たちの面白がるような本を見せてやれ」と言っているのである。

教育にも(それがいいことかどうかは別にして)サービス精神が求められるようになった現代ならいざ知らず、到底、江戸時代における校長の発言とは思えない。

他の藩校は専任の教師や年長者が下の者を指導するスタイルが一般的だったのと違って、教育課程における自学自習の時間が多かったことも致道館の特徴だ。



「自分でテキストを選び、自らの力で学習する」

それが  致道館の方針 
だった。

 

いわば放任主義である。こうした教育手法も、荻生徂徠の影響であった。

> …… 戊辰戦争で庄内藩は、会津藩と並んで朝敵とされてしまった。

仕方なく庄内藩は、会津藩や東北諸藩(奥羽越列藩同盟)とともに新政府軍を迎え撃つが、圧倒的な数と軍事力の差によって他藩は次々と降伏してしまった。

ところが庄内藩だけは、緒戦で敵対する周辺諸藩を完膚なきまで叩き、さらに新政府の大軍が襲来した後も、ほとんど藩内への侵攻を許さなかったのである。驚くべき強さであった。

しかし結局、すべての東北諸藩が降伏してしまったため、戦いでは負けていなかったとはいえ、そのまま戦争を続けるのはもはや絶望的だった。ここにおいて庄内藩も、ついに新政府に降伏を申し入れたのである。

ここまで庄内藩が強かった理由だが、
一つには、やはり藩士たちが受けてきた教育の効果もあったのではなかろうか。単なる指示待ちではなく、各藩士たちが己の判断によって柔軟に戦えたことが強さの秘密だったと思うのである。

> 徂徠は著書『太平策』のなかで次のように語っている。

「人ヲ用ル道ハ、其長所ヲ取リテ短所ハカマワヌコトナリ。長所ニ短所ハツキテハナレヌモノ故、長所サヘシレバ、短所ハスルニ及バズ」(人を用いるコツは、その長所だけ取り上げ、短所は気にしないことだ。長所と短所は分離できないのだから、長所さえわかればよいのだ。短所など知る必要はない)

「善ク教ヘル人ハ、一定ノ法ニ拘ラズ其人ノ会得スベキスジヲ考ヘテ、一所ヲ開ケバアトハ自ラ力ノ通ルモノナリ」(良い先生というのは、臨機応変にその人が獲得できる能力を考えたうえで、一箇所に風穴を開けてやるもの。そうすれば、あとは本人が自分の力で能力を獲得していくだろう)

「彼ヨリ求ムル心ナキニ、此方ヨリ説カントスルハ、説クニアラズ売ルナリ。売ラントスル念アリテハ、皆己ガ為ヲ思フニテ、彼ヲ益スルコトハナラヌコトナリ」(生徒が自ら学ぼうという気持ちがないのに、先生が教えようというのは、教育ではなく販売である。そんなことをしても、生徒のためにはならない)

少々引用が長くなったが、

荻生徂徠の説くところは、自分で自由に物事を決定できる人間 を育成する、あたかも戦後に世界各地で流行したドイツ発祥のシュタイナー教育のようである。

こうした致道館の教育方針から、学則もかなり自由だった。

【現在の「致道館」でも、「庄内論語(徂徠学による読み下し)」や「小学」などが学ばれている】

 

 

__ まーかくの如く、庄内藩の「自由すぎる学制」に、河合先生も驚かれたのである。
庄内の当時の領民は、江戸時代の打ち続く飢饉のおりにも、酒井の殿様が積極的に動いてくださって餓死者が出なかったことを恩義に感じている。
それに応えるよーに、庄内藩でも徳政を心掛けた。
豪商本間家を間にはさんで、封建制がうまく機能した。
庄内藩の方針を示す「易の卦」がある。「地天泰」の卦で、下からの動きが上(天)に通じて泰らかとなる。
いまでも、酒井家のご子孫は「殿様」と呼ばれている。
出羽三山神社の氏子総代⛩でいらっしゃるし、正月の三が日には鶴岡の政財界のお歴々が挨拶に訪れるそーである。
現在の「荘内銀行」にしても、「松ヶ岡開墾所」「山居倉庫」にしても、酒井家が明治時代に殖産事業に力を入れて実った成果であるからだ。
庄内の、一風変わった風土は一日にして成らず、先人・先覚たちの弛まぬ努力の賜物なのである。
小さな地方都市として、鶴岡市の文化度の高さは異常である。
文化人や大学教授も多数輩出している。
鶴岡が京都とすれば、酒田は大阪に相当する。
鶴ヶ岡城(鶴岡市)と亀ヶ崎城(酒田市)とが、陰陽となって、庄内を盛り上げて来た貴い歴史がある。

                      _________玉の海草

 

 


(🍶)  ブログ内Twitter みたいな感じ

2023-10-10 16:50:53 | 雑感

__ Twitter が、亡くなったからでもあるまいが、随筆としてまとまらない「つぶやき」を書いてゆく。精神衛生上、心の内に溜め込んでおくのは良くない👎。

_ . _ . _ . _ . _ . _   _ . _ . _ . _ . _ . _   

 

 

 

 

● 20231011

“ 芯から驚いた恋愛ドラマ ”

この間終わった、フジテレビ月九ドラマ『真夏のシンデレラ』は、予想通りの記録的低視聴率だったようだが、放映前からほんとうにビックリした。

あのヒロインはいけないでしょう。

そりゃあ、十人並に可愛いし、例えば彼女が主人公を追いかける設定なら、ギリギリいけそうだが…… 

あの女優で、あの女性像ではモテないでしょう。

多数の男女が入り乱れる恋愛群像劇で、ヒロインがモテないんじゃあ、妬み嫉みの強力なパワーが出ないのだ。

ヒロインを間違えた、特筆すべき恋愛ドラマと言えよう。

 

いま注目されている『パリピ孔明』でも、ヒロインが器量不足で、孔明を翻心させるほどのカリスマ的な美声にふさわしくない。

けど、作中主人公が憧れる世界的シンガー、マリア・ディーゼルを演じるアヴちゃん(女王蜂)のヴォーカルは将にカリスマ性がありましたね。

 

 

音楽ドラマで、「ヒット曲」である設定で作中演奏歌を作曲して、そのまま流行らせる実力をもっているとは、アヴちゃんとは何者ですか?

昔、ドラマ『チャンス』で、三上博史演じるロックスター・本城裕二のヒット曲を作らされて、そのまま現実界でもヒットさせた久保田利伸以来の快挙じゃないかな。

「HANG OUT」と「夢 with YOU」よね、懐しい♪

「ドラマのために、ヒット曲を作曲してください」って言われているようなもんだからね。

ヒット曲だという設定の挿入歌を、そのままヒットさせるなんて、並大抵の実力では成し得ないことよ。

あの頃の久保田利伸は、飛ぶ鳥を落とす勢いだったのは間違いがない。ほんとに輝いていたものだ。

 

何か、最近の恋愛❤️ドラマには、根源的に齟齬がある。恋愛やら愛欲やらに高感度をもっているスタッフがいないのかも知れない。(恋愛不感症ですね)

この二作ともに、ヒロインに関しては酷いキャスティングだよね。あきらかに違うでしょ。

たぶん、日本では恋愛ドラマは最早需要がないんだよ。

中国の「寝そべり族」に、国を挙げて「恋愛作法」を教えようとしているのと、ほぼ同列なのではないかな。

おもしろい生態であるね。

 

車🚗も要らない、恋人も要らない、自分の好きなこと優先で、孤独も厭わない。

そこに間然するところはないね、見事なもんです。

わたしも、いま若者だったら、そうするのかなあと自分に問いかけている。

目の前にそれしかなかったら、それを捕食するしかないもんなあ。

 

80年代の青春と、どちらがどっちとも言えないようだ。

80年代は、身体性と体験があった。

2020年代は、そのどちらもバーチャルなものだ。

まー、あるにはあるんだが、脳内に汎用的なソフトが存在するのだろうか?

 

eスポーツの達人が、F1レーサーに成ったりしているようだ。

今は消えてしまったが、戦闘ゲームの達人で格闘家になった人もいて、その理合いに感心した覚えがある。ただリアルの世界では、不意打ちがあるから、それでテレビ実験されて失敗したみたいだね。

ゲームは向かっている時点で、戦闘態勢を取っており油断はないわけだから、任意の不意打ちを察気する現実の危険さには対応できなかったのかも知れん。

それでも、本当に武術の本を著したのだから、大したものです。数々の名言を読み取りましたよ。

まー、すべてを脳🧠の反応速度に帰結させることが出来るものなのか、しとどに興味深い。

_________

 

 

 

● 20231011

“ 自分を「ちゃん付け」する幼稚さ ”

「欽ちゃん」や「九ちゃん(坂本九)」なんかは、ファンが呼ぶ時の愛称だから、いいのだが…… 

問題なのは、芸能人の正式名が「〇〇ちゃん」という風に、「ちゃん付け」されている場合だ。

いったい、〇〇ちゃんは今何人いるだろう?

・フワちゃん

・スギちゃん

・クロちゃん

・しずちゃん

・玉ちゃん(玉袋筋太郎)等々

 

自分で、自分のことを「フワちゃん」とか言っているのは、本当にこっちが恥ずかしくなるんだよね。

幼児とおなじですね。

なんでこんな商習慣が定着したのか?

「さかなクン」とか「なかやまきんに君」あたりが初まりなんだろうか?

そういえば、上皇后陛下美智子さまが「さかなクンさん?」なんて、呼び方に戸惑ってらしたのが可笑しかった。

なんなんだろうね、この自分に愛称をつけて、可愛く呼んでほしいという欲求はどこから来るのかしら。

 

その点、「あの」ちゃんは偉い と思う。

彼女の正式芸能名は「あの」であるのだ。

ただ周りが「あのちゃん」と呼んでいるだけなのだ。

彼女は、ご自分を指すときも「あのは…… 」と、ちゃん付けしないで、キチンとしている。

 

気のせいか、自分を「ちゃん付け」している芸能人は、何かバカっぽいキャラクターなんだよね。

スギちゃんは、愛すべきお人柄が伝わってくるが、他は「ちゃん付け」して呼ぶほど可愛らしくないんだよね。

日本人の戦略的な幼形成熟(ネオテニー)は、いまに始まったことではないものの‥‥ 

難しい漢字を避けたり、親しみやすく仮名にしたりとか、やることが随分と子ども向けのやり方なんだよね。

英語圏では、“ Call me 〇〇.” とか、(自分を〇〇と呼んで」と此方から呼び方を指定することも多いが…… 

自分を「ちゃん付け」して呼んでと、愛称を強要するのは何か筋違いなんじゃないかな。

仮想現実を、目の前の現実界に持ち込もうとしている試みとも受け取れるが。

いつまでこんなこと続けるつもりなのかしら。

頼むよ、日本人🇯🇵。

 

 

 

● 20231010(2023年10月10日の意味)

“「何曜日に生まれたの」ロス ”

飯豊まりえ、は中々いい役者だと思うのよね。

最初モデルというか、レポーターかグラドルの感じだったんだが…… 

振り幅のはげしい演技が光ります。

ピリピリする緊張感と、間延びしたような可笑しみとが同居している。

目が離れているからか、笑顔のインパクトが凄い。

今回は「こもりびと(「引きこもり」の別称)」としての、コミュ障のハラハラさせる怯え感と、親しいひとに見せる柔らかい顔が截然と分たれていて面白かった。

ドラマ『何曜日に生まれたの』より

彼(公文)はすぐ立ち去ったり、動揺を見せたりしない。

逃げ込める場所、物語の世界があるから。

> ここからは、リアルになる。

 

 

若手の女優はいいのが揃ってきているね。

蓮佛美沙子や、多部ちゃん(多部未華子)も独特の美しさだよね。

蓮佛は、バカっぽいが義理堅いイイ女がうまくて(ドラマ『今夜すきやきだよ』のアイコは楽しかった♪ 映画『君に届け』の女子学生も弾けた雰囲気が唯一無二)、

多部ちゃんは、色々主演しているが、案外と代表作は、NHK『これは経費で落ちません!』じゃあるまいか。制服とかフォーマルが似合う女人なんですね、これが。

このNHKドラマは、続編を作る予定だったのが、同僚の役者が変更するというので、多部ちゃんが断ったため作られなかったという曰く付きのドラマなんですね。

いかにも優秀な経理課社員を演ずる多部ちゃんの勇姿をもういっぺん観たいものですが、NHKは諦めるなよ♪

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●20231011

“ 酒田ラーメン🍜が日本一(ご当地ラーメン総選挙より)”

今回「酒田ラーメン」を出したグループは、老舗「満月」を中心とする「酒田のラーメンを考える会」とかの作品なんだと推測する。

酒田には、「新月」「照月」「花鳥風月」とか「○月」と名乗るラーメン屋が多い。さっき言った「満月」から枝分かれした、美味いラーメン屋の集まりである。

酒田のラーメンは、戦後に栄えた「横浜の支那そば」が原点であるらしい。魚介スープの醤油味で、私の小さい頃は「ラーメン屋」ではなく「支那そば屋」と呼びならわしていた。

うちの近くの「支那そば屋」は、中国🇨🇳の満州人の店主で、チャーシューが出汁を搾り尽された感じの脂み感のないパサついた感じの「馬肉」で、その乾いた食感も大好きだった。労働者向けのしょっぱいスープとチャーシューの相性も良かったように思う。「馬肉」はクセがなくて旨いのね。

酒田のラーメン文化は、誇り高いよね。

湊町酒田特有の荒っぽさと、酒田三十六人衆の「売ってやるよ」という居丈高な商売感覚が、「酒田は殿様商売だから」だと他所の商人から陰口たたかれる素因となっている。(東京で営業をしていた時に隣り合わせた、全国を巡る名古屋のベテラン商人が実感を込めて言っていた)

この「酒田三十六人衆」というのが、平泉の奥州藤原氏に仕えた武士たちが、酒田の地に移住して商人となったのだから、「サムライ商売」の気風は元々あったのですね。(三十六人衆の主筋は、平泉の秀衡公の妹御である、「徳の前」という尼御前だったので、無茶苦茶プライドが高い土地柄になっちまったんだよね)

サッカー⚽️の本田圭佑が「このラーメンになら二千円払う」と言ったとしても、たかがラーメンである。

わたしは、並んでまで食べたいとは思わない。

それなのに、誇りが「殿様商売」に向かっていって、随分と威張っているラーメン屋店主もいるんだよね。

「○月」という店(あえて店名は伏せる)は、食券買って食べるんだが…… 

いつも混んでて満席なんだよね、一回だけ行ったことがあるんだけど(20年前くらいかな)、客が食べているのを人相のわるい店主が座って睨んでいるんだよね。

失礼な人だなと、わたしはわざとスープを残して食事を終えた。

いくら、他店では真似のできない工夫と独創をこめているとはいえ、あの態度は根本的にいけない。それが分からないほど、常識がない処があるのが、むかし荒っぽい漁師町だった酒田の民度なんですね。

この無愛想さは、酒田の伝統なんです。

金持ちそうな人には丁寧に応対するが、そうでない人にはケンモホロロなところは、酒田唯一のデパート🏬「清水屋」でもそうだったと思う。

中町の商店街は、そうした清水屋に倣い、随分と無愛想だったと思う。「港座」という映画館での学生に対する態度は、そりゃ酷いものでしたよ。

そんな殿様商売してるから、酒田に初めてコンビニ🏪の「ファミリーマート」が出店したとき(35年前かな)は、酒田市民はある種の強烈なカルチャーショックに見舞われました。

ファミマでは、「いらっしゃいませ、こんにちは♪」と明るく大きな声で客を迎えるわけです。そんな文化は、それまで酒田には微塵もなかったのです。

下手に出て、丁重にお客様をお迎えする姿勢は、酒田商人にはないものでした。(酒田中心街周辺の在郷の人びとへは軽侮の眼差しを向けたものです)

それ以降、陸の孤島とよばれた酒田も、徐々に変わってきたようです。

 

そして、今回やっと本来の酒田ラーメンの実力を天下に示すことと相成りました。芽出たいことです。態度のわるい年寄りの店主はいるが、味は良いです。

わたしのひいきは、もう店仕舞いしてしまいましたが…… 

八文字屋書店のとなりにあった「松よし」というお店です。(もう一つは、遊佐町の大物忌神社へ向かう途中にある、あっさり中華そば『千鳥』も幼な子の頃から食べている、五十年通う名店)

「満月」(極薄の雲呑ワンタンが有名)の系譜につらなるのですが、東京の池袋で修業なさった店主が酒田で開いた「清宝苑」の姉妹店でした。「松よし」は女性の店主でした。

大阪帰りの、餃子🥟にうるさい私の舌を満足させる餃子も出してくれました。現在の「清宝苑」の中華そばとは、味が違いますが、相似た処もあります。「松よし」のスープは、一滴も残したことがありません。

まったくもって、至福の一杯でありました。

現在の「酒田のラーメンを考える会」の加盟店舗は、流石にうまいけどもスープの後味が、わたしに言わせると今一つなのです。ちょっと雑味が舌に残る感じで、スッと身体に浸み入る「松よし」のスープの足下にも及ばないのでした。

世知辛い酒田の印象のなかで、この「松よし」と市立図書館だけが、良き思い出の場所です。

平成の市町村合併で、在郷の飽海郡八幡町だったのに、名誉酒田市民に成り果せた私でしたが、あんまり嬉しくはなかったものです。でもまー、同じ傘の下に暮せば、敵愾心は薄まってくるようです。

コロナ禍で、酒田市からお金を支給されたこともあり、現在はこんな私でも、酒田のために一助になるように努めるつもりです。

       _________玉の海草

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 岡本太郎と言葉を交した〜 魂のイニシエーション

2023-09-15 02:40:03 | 人間(魅)力

__ 若くてまだ心身ともに柔らかい時期に、「この人こそ真の人間」という人物に出逢うことは、邂逅ともいえる最大の慶事であろう。

わたしは、二十歳のときに岡本太郎と対峙した。ことばをやりとりした、わたしは何かを覚ったのである。

 

そのときの様子を書き記しておこう。岡本太郎の直接の風韻を伝える人びとも少なくなっている。

彼が何物なのか、芸術家とは何なのか…… 

わたしは、あのとき以来、詩人の魂(=アーティスト魂)を忘れて過ごしたことはない。

 

時は、1980年代初頭、わたしが足繁く大阪の中之島図書館に通っていた時分に…… 

岡本太郎が、大阪にやってきた。

梅田の「ナビオ阪急」で個展と講演会をするために。

わたしは当時、大阪の英語の専門学校に通っており、なぜか不思議と惹かれて意気投合した同級生(二つ年上だったが、誕生日が同じだった)とともに、まず個展を見に出かけた。

 

その同級生は、和田さんというのだが、彼と私は互いに忌憚なく批判精神旺盛なままに、存分に言い合う仲であって…… 

まるで、ちょっと「世界的な芸術家である岡本太郎(の作品)」でも見てやるかといった気分で、わりと狭い空間の個展会場へ入っていった。

おのおの、美術関係の素養は豊かで、それなりの見識もあったので、しずかにたんたんと作品を見て廻った。

そうしているうちに…… 

ざわざわと観客が列に並びはじめて、岡本太郎が来場した旨の場内アナウンスが流れた。

「おっ、本人が来たの?」と、まさか本人に直接逢えるとは思ってなかったから、自分に自信のあった私たちでもさえも、少々興奮を抑えきれなかった。

画集や何かが積み重ねられたカウンターテーブルの後ろのドアから、唐突に彼があらわれた。

まるで言葉も愛想も発せずに、しずしずと「どこかの小柄なおじさん」といった風情で、岡本太郎がテーブルに座った。

多分、画集を買った人びとへのサイン会だったのだろう。

私たちは、思いもよらずご本人に会える僥倖にひそかに歓んだことだった。

和田さんは、なんの蔑みの念もなく、「普通のひとやな」と大阪人らしい感想を一言もらした。

OSAKA人は、日常が舞台やからな、できれば派手に充実したものであってほしいのかも知れんな、まー悪気はないんです。

わたしは、翌日の講演会のチケット🎫も入手していたから、また眼のつけどころが違った。

平生の岡本太郎に相見えるのは、仕合わせだと思った。

わたしは、その佇まいの内に、ある密度を感じていた。

なにかしら、拒んでいるような、別世界にいる人のような、人間らしい親しみも微塵も見せなかった。

まるで「隠亡(おんぼう)」のようだ。

或る西洋詩人が、魚座♓️の太陽を待つ者の雰囲気を、隠亡のそれに譬えていたのだ。

岡本太郎は、魚座の第1デーク(魚座の最初の十日間、2/20〜2/30くらいの生れ)の生れ、正確には2/26日生れ。

もっとも魚座らしいキャラクターを帯びている。(畏れ多くも、今上陛下も2/23日ご生誕)

「隠亡」とは、生死の場に立ち会う特別な役割を担う者である。古神道にも「殯の森」ってありましたね。

 

彼のベストセラー、『今日の芸術』を三度四度と読み漁り、すっかり「わたしの神」となっていた岡本太郎は、

ひじょうに物腰がひくく、謙虚に「隠亡」のようにして、わたしの前に現れました。

 

 

 

彼にしたら、サイン会に臨むことは不本意なことなのでしょう。ご自分の作品を金に変えなかった、稀有な作家だからです。

サイン中には、一言も発しませんでした、ただ静かにたんたんと眼前のものごとをこなし続けました。

そーゆー、社会人としてまともに振る舞える処も岡本太郎なのです。万博の委員会で「太陽の塔」のプレゼンをするにあたり、居並ぶ大物のお歴々の前で、いたって真面目に理論的にご自分のコンセプトを披歴した動画でもそれは確認できます。

彼は一方では、ソルボンヌ大学卒のフランス語🇫🇷を流暢に喋るインテリ文化人なのですから。

この、余人には真似のできない「落差」が、岡本太郎なのです。

 

さて、次の日、一切口をきかない隠亡の岡本太郎がどのように変貌するのか……    ドキドキしながら、

大好きな「ナビオ阪急」に向かった。(マルーン色の阪急電車は、関西のセレブリティなのだ、スデンドグラス風の阪急デパートの採光もすこぶる好い♪)

割と小規模で、100人入らないくらいの会場に、5人座れるくらいのテーブルが沢山ならべてあった。

この講演会は、ケーキ🍰と紅茶☕️付きの、ちょっとハイカラな催しだったのです。

わたしは、ルーズリーフのノートをもって、一言漏らさず、メモする気概でいた。

貧乏学生だったが、ケーキは口にしなかった。岡本太郎と対峙するのに甘いものはないだろうと真剣に臨んでいたからだ。

一緒に座った面々も、穏やかな人々だったと思う。向かいの人好きのする可愛いおばさんが、講演後の質疑応答で質問していたなあ。

「岡本画伯、血液型は? 好きな食べ物は?」みたいな、大阪のおばちゃん的なものだったのが可笑しかった。

まー、人数のわりにヒッソリとした雰囲気だった。知的な、文化的な人が多い印象がある。

東山魁夷とか横山大観とか、画壇の大先生みたいなイメージなのかも知れなかった。

アバンギャルド(前衛)芸術やらアブストラクト(抽象画)、キュビズム、シュールレアリズム(超現実主義)など…… 

岡本太郎に冠される肩書きなぞ、あまり興味のなさそうな、品の良い一廉の人物たちの集まりみたいだった。

 

そんな、大阪にしてはインテリ文化人めいた人たちの集う会場は、なにか「どれほどの人物か鑑定してやるわ」みたいなものだったかも知れないな。

そんな大阪ローカルな場に、東京🗼もんというか、フランス🇫🇷洋行帰りの世界的な文化人があらわれる構図でしょうか。

 

岡本太郎は、濃いグリーンの光沢スーツを纏って、さっそうと壇上にあらわれた。(オスカー・ワイルドも濃緑のブレザーを着こなしたらしいが、グリーンは英国🇬🇧紳士の定番らしいです)

机を前にして一拍おいて、やおら、サッと鳳凰の翼のように両手をひろげて高く差し上げた。

その瞬間、爆風が吹き荒ぶイメージに襲われました。

物凄い迫力というか、圧が押し寄せる感じなの。

ブワァ〜と、大波🌊が押し寄せてきたような体感でした。

 

 

映画『マトリックス・リローデッド』で、目覚めた人の原始的な世界・ザイオンで、民衆の前で演説を始めるときのモーフィアスに似ていたかな。

どこか、宗教的な厳粛さが漂っていました、意外な気配に一氣に呑み込まれましたね。

もう、心地よい興奮が湧き上がりました。

ルーズリーフ(B5判サイズ)ノートに、キーワードをメモするのが手一杯で、一瞬でも岡本太郎の表情をみのがさないように集中しました。

まるで瞑想しているような充実した集中の内に浸っていました。

話の内容はよく覚えていません。

ただ、いままで繰り返し読んできた、神格化された人物が目の前に(読解した通りにまさに)実在していることを、しみじみと実感していた。

ゾクゾクと嬉しくなったのをはっきりと憶えている。

こうやって生きてもいいのだと、心の底から納得した・理解した時間でした。いまでも、そうやって生きています。

自分の中から、岡本太郎を出して生きてる感じでしょうか。自分の中から観音菩薩を出すようにです。

 

あっという間に終わった講演であったが…… 

素の岡本太郎に迫る質疑応答の時間が取られていた。

みんな、どーでもいいような質問ばかりして、おおさか人は芸術を知らないのかと、岡本太郎が可哀想になってきた。

揃いも揃って「オカモト画伯」なんて、丁重に呼びかけていたな、私は岡本太郎の気持ちがそのとき分かるような気がした。

「画伯」と呼ぶ人は、岡本太郎の芸術を自分事として引き受けていない人であろう。

5〜6人の質問が終わった頃、会場の司会が「そろそろ…… 」と口走ったので…… 

岡本太郎への質問を聞いて、「そーじゃないだろ、そーじゃない、そんな芸能人に訊くような質問では失礼だろ」などと独りごちていました私は、

矢も盾もたまらず、ボルテージがMAXまで上がって…… 

ひときわ大きな声で、応援団長のように「はぁい!」と挙手した。

その時の岡本太郎の、「はい、そこ」と咄嗟に鋭く反応して、だらけた顔から一瞬に真顔となって私を指さして発言を促した機敏さには、やおら感動した。

常在戦場の如く、つねに芸術家たるもの瞬息の気合いに自分を表現するものなんだなという感慨である。

 

司会は、「時間が過ぎていますので、どうか、手短にお願いします🙏」と丁寧に私につたえてマイク🎤を渡した。

 

わたしは、あえて「岡本さん」と呼びかけた。

彼は心持ち頷いたように感じられた。

やっと、真剣に相手できる人間があらわれたたと、歓迎して対峙する構えである。

わたしは、この得難い瞬間にブルブル震えた。(武者振るい)肚に丹田に心持ち力をこめた。

当時、中之島図書館に通って、閉架から『原色の呪文』などを読んでいた私は、

「オカモトさんの『原色の呪文』に書いてあった、男性的な男性とは、どーゆー人のことですか?」みたいなことを訊いた。

しばし黙考した風の岡本太郎は、「男性的男性とは、君のような人のことだが…… 」と持ち上げるようなことも口にしながら、

「時間もないので」と断った上で、「男性とか女性とかに分けて考えないで、全身でぶつかる」みたいなアドバイスを僕にくれた。そして「そんなとこでいいかな?」と済まなそうに添えた。(岡本太郎が発見して、教科書に載るようになった「縄文式火焔土器」は、女性の作品だからねえ、それを考えると意味深)

わたしは、彼の真意が理解できたわけではなかったが、彼の真心をこめた応対には100%満足していた。

こーゆーひとが、実際にいるのだ。

対等に、同じ土俵で対峙してくれる芸術家。

そのことに、湧き上がってくる悦びを抑えきれなかった。岡本太郎とハダカで付き合ったと感じた。芸術家(創造する者)として、意識を共有した感があった。

この、神前におけるような真剣さは間違っていないことを確信した。そのとき、岡本太郎はわたしであった。

わたしが、岡本太郎であった。

この感じは、後年唱えられるようになった「BE  TARO」とは全然ちがうものだ。

「BECOME」ではない、「BE」なんだから、

原義は、「岡本太郎を生きる」ということ。

「岡本太郎になる」んじゃないんだよ。

岡本太郎として、真人間として、存在するのが「BE」の謂であろう。

自分の内なる岡本太郎を、しぼりだすのですよ。

そんな感じでしたね。

 

質疑応答が終わって、岡本太郎は壇上から観客席に下りて、テーブルの間を縫いながら退場していった。

わたしは、そのときスタンディング・オベーションで迎えれば、岡本太郎と握手できたかも知れないと、いまでも残念に思う。

歩み去ってゆく岡本太郎をじっと見つめるだけの私を、岡本太郎は歯痒かったかも知れない。

それほどの共感が、ふたりの間で生まれたことと思う。

濃やかに、あらゆるものの一致を共有した瞬間であった。

わたしは、それ以来作品を創らないアーティストである。(このブログは、作品にあたるのかも知れんけど)

 

わたしは、すべてに満足して会場を後にした、満ち足りた思いでエスカレーターに乗っていた憶えがある。

こんなとき、サッと立ち去るのが良いのだ。

 

 

岡本太郎は、1911年(明治44年)の生れである。あれで、明治の男なのだ。

変わり者の芸術家、母の岡本かの子について、

私にとっては母は、宇宙を支配する、おおきな

叡智をもつ先導者であった。

…… と後年に述べている。尊敬する画家ピカソと同じ背丈で、ひどいマザコンなのも同じで、おふたりは意気投合したものらしい。

 

 

岡本太郎は、フランス🇫🇷に渡って、画廊でピカソの『水差しと果物鉢』(1931)の抽象画に出逢う。

岡本太郎は「涙が出るほど感動した、感動したからには、あれを乗り越える」と、抽象芸術に入っていったもののようだ。

このへんは、わたしも同じだ。

感動したら、それを乗り越える。憧れだけに終わらないのが芸術家(詩人でもアーティストでもよい)なのだ。それが、真剣な対峙の意味するものである。

岡本太郎は、わたしの佇まいからそれを観受したのである。彼はそうやって生きてきたのである。出逢う人出逢う人に、偉かろうがそうでなかろうが、目の前の人に真剣に対峙してきたのである。

それがわかって、わたしは嬉しかった、飛び上がるほど嬉しかった。わたしもそうしようと思った。

 

 

__ 長々と体験を綴ったが、過去に書いた拙稿も載せておこう。

 

 🔴一無位の真人―岡本太郎

[2009-02-02 12:58:51 | 玉ノ海]

『岡本太郎』‘TARO’ の署名は ‘ROTA (輪・蓮)’ ‘TAROT(タロットカード)’ の意も含ませているのでしょー

エロスは、タブーの侵犯であると宣った、生命讃歌の哲学者_ジョルジュ・バタイユが主宰する秘教結社に、異国人ながらも誘いを受けるほどの霊的感性を具えもち

シュール・レアリズム運動を牽引した奇才_アンドレ・ブルトンが 絶大なる信頼を寄せ、

ピカソ・ダリのカタロニア~バスク地方の霊性からも等しく認められ

縄文式火焔土器、沖縄、韓国、東北、そしてメキシコの土地の大地性に 濃やかに感応し独自の表現をし続けた ひと

おおらかで、やさしく、なつかしい感じのする御方でした

…… ハタチの頃、大阪はナビオ阪急にて、ご本人と対峙したことがございます……  大仰ですが、まさにそんな感じの息詰まる対話でした

オスカー・ワイルドばりに英國紳士好みの濃緑(艶アリ)のスーツを着込み、演壇にスクッと立つや、両腕を翼のよーに広げたときの

まるで爆風のよ~な『オーラ』(私ハ零能デス)は、今にして忘れられません!

 

芸術は‥爆発だっ!!”

この有名な言葉の中の『爆発』とは、

無音の爆発のこと、即ち静寂のうちに推移する命のほとばしりのことを云っているのです

ぉ大師さんの 生生死死始終暗冥(秘蔵宝鑰)’ の句に似た 静けさが支配する中で営まれる、人間的な命の燃焼=発光を物語るものだと解釈しております

ふだんの彼は、いたって謙虚で音無しく、隠亡のよーなイメージがしました

うちの県にある蔵王スキー場によくぉ越しになった頃、インストラクターをしていた近所の兄チャンの印象も同様との事

それが、一度び獅子吼するや、無類のオリジナリティを発揮して已まないのです

 

酔狂にも、臨済禅の師家の集まる法会で 講演したこともあるそーデス

居並ぶ禅匠を前にして、仏に逢うては仏を殺せ…” について禅問答を吹っかけたんですから底が抜けています♪

詳細をご紹介できないのが残念だが…… たしか街の辻で自分に逢ったら、如何せん?とかいった内容でした

師家連中が、固唾を呑んで見守る張り詰めた空気のなか、岡本太郎が垂示した切り返しは、それは見事なものだったと嘆声が漏れる場に居合わせた師家が書いてました

存外に禅定力あったんだナァ♪

BE TARO!』は、自分の存在認識運動であろー

 

 

__ 上記の拙稿の中で、「臨済禅の師家の集まる法会」の詳細を以下に引用します。

◆◆◆(岡本太郎『自分の中に毒を持て』より)>

京都文化会館で二、三千人の禅僧たちが集まる催しがあった。

どういう訳か、そこで講演を頼まれた。

ぼくはいわゆる禅には門外漢であり、知識もないが、自由に発言することが禅の境地につながると思う。

日頃の考えを平気でぶつけてみよう。そう思って引き受けた。

ぼくの前に出て開会の挨拶をされた坊さんの言葉に、臨済禅師という方はまことに立派な方で、

道で仏に逢えば、仏を殺せ

と言われた、素晴らしいお言葉です、という一節があった。

有名な言葉だ。ぼくも知っている。

確かに鋭く人間存在の真実、機微をついていると思う。

しかし、ぼくは一種の疑問を感じるのだ。

今日の現実の中で、そのような言葉をただ繰り返しただけで、はたして実際の働きを持つだろうか。

とかく、そういう一般をオヤッと思わせるような文句をひねくりまわして、型の上にアグラをかいているから、禅がかつての魅力を失ってしまったのではないか。

で、ぼくは壇上に立つと、それをきっかけにして問いかけた。

 

「道で仏に逢えば、と言うが、皆さんが今から何日でもいい、京都の街角に立っていて御覧なさい。仏に出逢えると思いますか。逢えると思う人は手を上げてください」

誰も上げない。

「逢いっこない。逢えるはずはないんです。

では、何に逢うと思いますか」

これにも返事がなかった。坊さんたちはシンとして静まっている。そこでぼくは激しい言葉でぶっつけた。

「出逢うのは己自身なのです。

自分自身に対面する。

そうしたら己を殺せ」

 

会場全体がどよめいた。やがて、ワーッと猛烈な拍手。

これは比喩ではない。

人生を真に貫こうとすれば、必ず、【条件】に挑まなければならない。

いのちを賭けて運命と対決するのだ。

その時、切実にぶつかるのは己自身だ。

己が最大の味方であり、また敵なのである。‥‥ ()‥‥

ぼくは臨済禅師のあの言葉も、

実は「仏」とはいうが即己であり、すべての運命、宇宙の全責任を背負った彼自身を殺すのだ、と弁証法的に解釈したい。

禅の真髄として、そうでなければならないと思う。」

 

 

…… この、禅坊主どもを唸らせた講演も、司会の山田無文老師が、結構なお話でしたと、そつなくまとめて何事もなかったかのように終わるのだが、岡本太郎はその非凡な力量を認めつつも「喰えない坊さんだなあ♪」と苦笑まじりに述懐している。

それでも「臨済将軍」と云われるほどに機鋒の烈しく、公案(禅問答)で錬られているバリバリ現役の臨済宗の坊さんが一堂に会している場で、いくら依頼されたからといって、まともな神経で臨めるものではない。

岡本太郎の生き方は、それを力むことなく平然とやるところに、禅的な境涯が多分にあると思える。

あの、レタリングのような筆字は到底いただけないが(祖父が書家だった血筋もあるのだが)、岡本太郎の絵画作品は禅宗坊主の「墨蹟」に優に匹敵するとはいえるのではあるまいか。

なんにせよ、破格に面白い御仁であった。

岡本太郎以前と、岡本太郎以後とでは、芸術(=岡本太郎にとって生きることと同義であった)の捉え方・あり方がまったくといってよいほど違う。

 

 

【毎日新聞の動画より。1975年に石原裕次郎の石原プロモーションで制作した秘蔵フィルムである。「3:44」からのヘラ刷毛による描画がすこぶる佳い】

 

破天荒な人物と思われるかも知れないが…… 

岡本太郎は東京美術学校でも、トップの成績で入学した。

ダリやピカソの如く、人並外れた精緻なデッサンを描ける基礎があった。

それゆえ、美術伝統の「型」をマスターした上で、「型破り」をしたわけで、ただの出鱈目な抽象絵画とは、その成り立ちを異にする。

岡本太郎は、なんでも基礎は徹底して修練した。

フランス語でも、子どもたちと共に寄宿舎に入って、習い覚えて、フランス語を母国語とする現地人を驚かせるほどにフランス語を使いこなしたものである。フランスのテレビ番組でもそのコメントが大人気であった。

ただの、世間知らずの絵描き👨‍🎨とは別物なのである。

「太陽の塔」を作っていた頃に、メキシコ🇲🇽で「明日の神話」の壁画も作っていた。黒い太陽と、原爆のドクロは、メキシコの髑髏信仰と呼応するのである。

圧倒的な生を描くことは、圧倒的な死を描くことでもあった。

それゆえに、生身の岡本太郎に対面することは、わたしにとって「成人式」にも等しいことに思えたわけである。

大阪は、わたしのそんなイニシエーションの聖地であった。

       _________玉の海草