__ 剣の達人を描いた剣豪小説(現在は、時代小説と云う)、
この特殊なジャンルは、その際立った精神性(悟りの境地、武士道)や多彩な歴史絵巻、伝奇物語としての風味もあいまって、おおくの読書人に愛されてきた。日本型の「教養小説」でもある。
しかし、職人気質的な文学ジャンルでもあり、未完の作品も少なくない。
このまま、「未完ゆえ単行本にもならずに見捨てられていた」傑作が、世間に知られないまま埋もれるのは、余りに惜しいので、こころある「時代小説ファン」に読んでいただきたい。そんな思いで著作権法に抵触しないように、地の文を適宜挿入しながら、引用の体裁をととのえようと思い立ちました。
[※ 五味康祐歿後、未亡人が原題『虎徹稚児帖』を『柳生稚児帖』に改名して、徳間文庫から初めて上梓された。単行本で出版されたことはない。]
【剣豪小説を愛する皆さんへ】
これから、白眉の剣戟シーンを引用しますが……
節々で挿入された私のコメントには漏れなく色付けしてありますので、
五味康祐の格調高い文章を味わいたい御方は、(色の付いた文章をスキップして⏭️)黒い地の文だけを一気にお読みください。
※ 書籍では、漢字の隣りに小さく添えられる「ルビ」の表記については、()内に半角カタカナで添えました。
一本線や破線も、できるだけ似たような印象に近づけました。
【読むまえに〜 物語の背景(あらすじに替えて)】
この「雪洞」の暗闘の舞台は、幕末の尾張藩剣術指南役・柳生兵庫介厳蕃(とししげ)の屋敷。
この未完の大作のラスボスは、「仙台黄門」こと戸田流林田派宗家・藤木道満であり、五味康祐『風流使者』でもラスボスをつとめている。『柳生武藝帳』における疋田陰流・山田浮月齋のような立ち位置であろう。
千葉周作が、「生涯敵わなぬ」と吐露していた、中西道場の三羽烏の一角を占める、「音無しの構え」の高柳又四郎は、この藤木道満の戸田流の系譜に連なる。
中条流平法を継いだ、越前の「富田流」は、一刀流を編み出した伊藤一刀斎や巌流・佐々木小次郎を育てた鐘巻自斎の流派である。鐘巻(印牧)は「外他、戸田」も名乗っている。小野派一刀流の源流と云える。
文中の浜部角兵衛は、藤木道満の一番弟子で道満の影武者をつとめるほどに出来る剣客だが、もとは刀鍛治であった。
その偽道満の角兵衛を襲うのは、江戸柳生を守る秘密結社「犬頭党」のメンバーである。
徳川幕府初期に柳生十兵衛の影武者だった狭川新七郎(古陰流)が、弱体化する江戸柳生を守るために組織した、柳生但馬守の弟子たちの末裔たち(稚児)で構成された陰の組織である。
裏柳生の忍者技に似て、集団で多撃必倒の必殺剣を振るう暗殺結社であった。
そんな、命を惜しまぬ、決死の玉砕戦法を取れる非情の武士が、無言のうちにジリジリと襲ってくる不気味さは堪らなく怖い。
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● 五味康祐『柳生稚児帖』より引用>
雪洞(ぼんぼり)
1
偽道満が書院を出たのは八ツ(午前二時)過ぎである。
早苗を辱しめたあの裸身ではなく、むろん軽衫 (カルサン) も、袖無し羽織も身につけ、大小を腰に、片手で菅笠をさげていた。
雪はいくぶん小歇 (コヤ) みになった様子ながら、深夜の暗さに変りはなく、植木までがた'わ'わ'に雪に蔽 (オオ) われコソとの物音も無い。
書院野広廂を渡り廊下の階 (キザハシ) まで来ると、そんな、真綿を敷きつめたような庭の静寂に一瞬、渠は立ちどまって視線を遣 (ヤ) った。きざはしを降りたところに草履を脱いである。そこから渡り廊下が弧をえがいて母屋へ跨 (マタ) がっている。
渠は草履をはいた。
渡り廊下の、擬宝珠 (ギボシ) のついた手すりに蓑を掛けてあり、軒からはみ出た半分が雪で白くなっている。ゆっくり、手すりに寄ってこれを取りあげ雪を払い落すと、さっと肩へ引っかぶって、咽喉もとの紐を結び合わせながら、
「………… 」
何か、低いつぶやきを洩 (モ) らした。それから菅笠を、被 (カブ) った。
この時にはもう、万象ことごとく積雪の下に眠る趣きのあった庭さきに、一つ、ふたつ、白い影が動いていた。
影は合羽を蔽 (カブ) っていた。
先刻、偽道満が塀を飛び越えて立った燈篭のかげと、母屋の縁の下と、道場へつづく庭の柴折戸 (シオリド) のわきから現われた三人である。いずれも偽道満へ対 (ムカ) い、三方から迫るとともに蔽った合羽を、ふわりと後方へ投げ捨てた。
襷 (タスキ) がけに鉢巻。
藍色 (アイイロ) の稽古着へ、一人は剣道具の黒塗りの胴をつけ、野太刀さながらな大刀を提 (サ) げていた。他の二人は常の武士のいでたちである。ただ雪の日なので、いずれもが軽衫ばき。
偽道満__ 浜部角兵衛がこれら刺客の待伏せをいつ感知したか分らないが、恐るるに足らずと軽視したことは明らかである。それが、渠をして悔いを千載にのこさしめる因となった。
たかが、柳生の門弟__ そう見くびったのが不覚である。
…… 黒柳徹子がテレビ📺出演を始めた(つまりテレビ放送が始まった)1953年に……
剣豪作家・五味康祐は、芥川賞を受賞した。(同時受賞は、松本清張)
齡31才にして、川端康成や三島由紀夫に匹敵する、美文調の練達した筆致であった。一種の「実験小説」のような体裁で受け止められたが、まごうかたなき「剣豪小説」(着想は斬新なものだったが)で芥川賞を獲ったのである。
その受賞作『喪神』は、ドラゴンボール超🐉の「身勝手の極意」みたいな心法の剣術で、オカルティックなある種の魔剣であり、かの幻の剣術「無住心剣」とはこんな感じなのかしらと思わせる短編である。
日本浪漫派の五味は、文章がいい。
オーディオの玄人で音感もすごれたクラシック通の五味は、きっと文章のリズム(律動)も練れているのだろう。
『喪神』は原稿用紙で30枚しかない、芥川賞史上もっとも短い作品である。ドビュッシーのピアノ曲にインスパイアされて書き上げた「剣豪小説」で芥川賞を受けたのも、空前絶後のことであろう。
ちなみに、文中の「渠」とは「かれ(=彼)」と読みます。
>
刺客は、後でわかるが柳生屋敷の内弟子では無い。兵庫とは無縁な集団である。
浜部角兵衛は夢にもそうと知らなかったから、
「うじ虫どもが、この雪の最中 (サナカ) に湧 (ワ) くとはの」
蓑を脱ぐではなく、擬宝珠の手摺に足をかけるとヒラリと雪の庭へ脚を没して立った。まだ大小は腰にさしたままである。
三人は抜刀した。
雪が深くて機敏な動作は双方とものぞめない。何か高速度写真の動きをみるように、雪を蹴散 (ケチ) らし、肺腑から絞るような気合の声をあげて一人が、刀を上段にふりかざし、ゆらり、ゆらり、角兵衛に駆け寄ると、ふわーっと刀をふりおろした。
鏘然 (ショウゼン) 、これを受け止めた角兵衛の太刀の鍔もとで、刃が鳴った。
「これは」
呻いたのは角兵衛である。音無しの剣のはずが、いかに雪の中とて、あっけなく刺客の太刀に音を発せしめたのだ。
尋常の相手ではない。
「その方ら」
角兵衛は菅笠の庇 (ヒサシ) から眼を光らせ、
「柳生の者ではないな。名乗れ」
「____ 」
「われを藤木道満と知っての襲撃か。柳生の者でないならわれらの此処に在るをどうして知った?」
「____ 」
「汝 (ウヌ) ら、新陰の一派ではあるな?」
何と言われようと刺客はいっさい無言である。
角兵衛にようやく微 (カス) かな狼狽の色がはしった。
刺客らは、死を怖れていない。上層部より指令があれば己が生死を問わず、命じられた相手を仆 (タオ) す__ いうなら 《一人一殺》 、そんな訓練を受けた集団らしいと角兵衛は察知したのである。高速度写真の緩 (ユル) やかさで撃ち込んできた剣先に、かえって、凄 (スサ) まじい相討ちの意志があり、自殺行為に似た悲壮感さえそれはともなう攻撃であったことを。
「名乗れ」
もう一度、角兵衛は叫んだ。蛆虫 (ウジムシ) と蔑 (サゲス) む傲慢さはもう浜部角兵衛から消えていた。
三人は応じない。
黒塗りの胴をつけたのが頭 (カシラ) 格で、歳は三十四、五。浪人髷で眉の太く精悍 (セイカン) な面魂である。これが野太刀を左手 (ユンデ) にまだ提げて、
〈懸れ〉
と言わんばかりに右の刺客へあごをしゃくった。
右にいたのは白鉢巻のひときわ凜々 (リリ) しい士で、歳は二十をいくらも過ぎていまい、眉はやはり黒々と太く、隼 (ハヤブサ) の鋭さをもつ眼で、これは刀を青眼に構え、雪に没する肢を、交互にゆっくり揚げながら一歩、また一歩、角兵衛の脇に接近する。
同時に黒胴の合図をうけて先程の、高速度写真の緩やかさで挑んだ刺客が、今一度、こんどは双手大上段に刀を把(ト)って、やや面俯 (オモブ) せに、鉢巻を締めつけた髷に粉雪を戴きながら角兵衛の左脇へ接近する。同じように片足ずつ、雪に埋もった肢を膝高くあげては躊躇 (チュウチョ) せず前へ、前へと進んだ。
平地なら身のかわしようがある。機敏な跳躍も意のままである。
だが、こう雪が深くては退 (ヒ) きもならない。牛の歩むに似た鈍重さで、死を目前に、たじろぐことなく徐々に前進する彼等の、その接近ぶりにはおそるべき迫力があった。あまつさえ、黒胴の浪士も亦 (マタ) 、これは角兵衛の正面から、提げた刀を八双に把って、ひときわ膝を高くあげては前へ踏み出し、あげてはふんで肉迫する。
…… わたしの読書の始まりは、浪人時代に読んで、完全にその物語世界に魅了された剣豪小説、柴田錬三郎『運命峠』でした。
柴錬、五味康祐、池波正太郎なんかの王道の剣豪小説を読み耽りましたよ。後年は、隆慶一郎や戸部新十郎にも興奮していました。
何十年と、チャンバラ小説を読み続け、たいがいのパターンは熟知している私にして胸を震わす展開なのです。
ひょいと出逢った『柳生稚児帖』の、この雪洞の章には、一読ブッ魂消ましたよ。
なんという筆力でありましょう。
この文庫の解説者(稲木新)がいみじくも洩らしています。
「偽道満を討ち取る場面の造型力は素晴らしい」と。
> 2
渡り廊下には屋根がかぶさっている。
その屋根に積もった雪がすべり落ちるので、屋根の軒下にあたる辺はひときわ雪が堆 (ウズカタ) く、踏みこめば足の自由がきかない。
角兵衛はそんな場所にいた。
言いかえれば角兵衛が其処に立つのを刺客らは辛抱づよく待っていたに違いなかった。あなどり難いこれは武略である。
雪は小歇みなく降りつづけている。
角兵衛の蓑笠をかこんで、三つの影はともに死をいとわず迫る。
どうしようがあろう。
「待、待て。…… 負けた。待て」
構えた刀をおろし、角兵衛は手をあげた。
「身共の敗けじゃ。音無しの構えが、さいぜん刃 (ヤイバ) の音を発したことさえあるに、一対一ならまだしも、三人が斉 (ヒト) しく相討ちを覚悟ではこの藤、藤木道満とて⬜︎ (カナ) わぬ…… 先ずは、刀をひけ。許せ」
…… この⬜︎にした漢字は、ネット上の漢和辞典なんぞには載っていないものなのだ。手持ちの『漢字源』には、確かに記載されていたので、実在する漢字のようだ。
忄(りっしん偏)に、匚(はこがまえ)の内に「夾」を入れた旁(つくり)
漢文に堪能な、昔の世代には遣われていた漢字なのだろう。こんな未知の漢字の造型に出逢えるというのも、練達の時代小説作家を読む愉しみのひとつであろう。
五味康祐の漢文趣味は、ひときわ変態的であることよ。
初めて『柳生武藝帳』を読んだときには、その語彙の凄まじさに、漢和辞典・古語辞典・国語辞典を並べて、高校までの国語力を全開させなければならなかった。
ネット上に、五味康祐の撰んだ漢字がないのなら、いまもその条件に変わりはないとも云える、なんともはや…………
>
危地に陥れば降服して難を免れるのも兵略であろう。卑怯者というだけでは、敗北を喫したことにはならぬし、斬られては弁明の余地もなく敗者である。
いさぎよく死ぬより、卑怯者の汚名に甘んじるとも生きのびて再起を計るのが、刀工浜部寿定の血をついだ__ つまりは武士の育ちでない偽道満の真骨頂であろうか。
だが、刺客らは、武士であった。
「見苦しいぞ」
はじめて、中央の黒胴の浪士が錆 (サ) びた声で、
「この期におよんで何をこわがる? 黒の酬いを避け得ると思うか角兵衛」
「な、な、なんと?」
菅笠の下で炯 (カツ) と角兵衛は眼をむき、
「われらを浜部角兵衛と知ってこれへ? …… だ、だれに聞いた? 言え、誰が今宵 (コヨイ) 、柳生屋敷をおれが襲うと汝らに告げた? 誰がじゃ」
刺客はもう答えなかった。屋根から落ちた雪のうずたかいのへ、まるで滑走でもするように、
「曳」
気合もろ共、三人ほとんど同時、太刀よりは身をおどらせて、角兵衛に殺到した。
白刃が一度、二度、交叉 (コウサ) し火花が散った。
にぶい、濡 (ヌ) れ手拭 (テヌグイ) を叩 (タタ) くに似た音、噴水さながらに奔 (フ) き昇る血汐 (チシオ) が梢 (コズエ) の雪を払う音。呻き。渡り廊下の手すりに体でぶつかる音。シューッと蓑の裂ける音、手すりに太刀の喰い込むにぶい音。
鬼気迫る、この静寂 (シジマ) の暗闘に一時、夜空に舞う粉雪までが凍 (イ) てつくかと思われた。
「…… 申せ、だ、だれか汝らに…… 」
角兵衛はあごをさげ、手すりに背を凭 (モタ) らせてそれきり、ズルズルと地面へ沈んだ。雪の大地に尻もちをつく恰好 (カッコウ) で肩から腕の力が抜けていた。抜ける力に比例しておびただしい血が周囲の雪を染めた。
左袈裟 (ヒダリケサ) と、脾腹 (ヒバラ) と、手首と大腿部を角兵衛は負傷していた。このうち左袈裟に浴びた一太刀が致命傷だった。
がっくり項垂 (ウナダ) れて、角兵衛はコトきれていた。そのなげ出した脚のわきに二十前の刺客が、うしろの手すりに二つ折りに身を凭らせてもう一人が、これも瞬時の斬り合いで、相討ちで即死していた。
無疵だったのは稽古着姿の浪士ただ一人。
…… 黒胴をつけたお頭格の武士は、胴をガラ空きにして捨て身の撃ち込みをするためであったろうか。
端然とたたずむ、生き残りの孤影に虚を突かれる。なんという戦い方、必ず斃すために、躊躇なく踏みこめることに怖気を震う。
尾張の柳生家は、初代の兵庫介が新陰流の正統三世を継いだが、大和柳生の育て方には「鳥飼い」と呼ばれる、絶対不敗の信念を植え付ける独特な精神的鍛錬法が存在する。
振り下ろされる刃の下をくぐるということには、それほどの絶対信念がないことには務まらないのであろう。
そうした宗教的ともいえるメンタル面での強靭さにも焦点をあてたのが、津本陽の大作『柳生兵庫介』であった。
「真言不思議、観受すれば無明をのぞく」
新陰流の道統を継ぐ最終段階として、穴山流薙刀の阿多棒庵のもとに参ずるという試練があった。
薙刀は、対剣術としては強いからね。長モノは、多人数相手でも力を発揮する。
長物から小太刀まで、そして無刀捕りの素手体術に極まる総合武術ですね。
> 3
いかな深夜でも、達人同士の斬り合いでも、瞬時に三人が仆れるほどの死闘が、人に気づかれぬわけがない。
おもしろいことに、庭さきの呻きや、鈍い物音に最初に夢を破られ、気づいたのは母屋の奥の__ 現場から一番はなれた__ 病室に臥 (フセ) っていた兵庫の妻女だったという。
_ . _ . _ . _ . _ . _(引用終)
…… わたしの剣豪小説読書歴のなかでも、そのヒタヒタと迫る不気味さと不敵さに、剣戟描写の白眉ともいってよい『柳生稚児帖』の「雪洞」の一節を手入力している時に、これに関連した調べ物をする過程で、信じられないような情報が目に飛び込んできた。
『柳生武藝帳』ですよ♪ その続編たる『柳生石舟斎』がペーパーバックで初出版されたと云ふ。
ʕʘ‿ʘʔ〜マサカ…… Σ(-᷅_-᷄๑) ナンデストー、それってあのマボロシの?
【週刊「新潮」に連載された、当時のページ。挿し絵入りだったんですね】
webサイト「復刊ドットコム」によれぼ、
>「柳生石舟斎」は、週刊新潮(昭和37年~39年、307号~434号)に連載されたものの、以後一度も、単行本として出版されていない幻の作品です。
…… とすれば、60年ぶりの復刊ですよ。生きてるうちに読めないと思っていた。なにやらアタフタしてきた、神の恩寵は知らないうちに与えられているって、そんな氣分になりました。
すぐにAmazonでクリック、全4冊入手が決まった。
武藝者も、忍者や能役者みたいに「芸者」だから、マンガ『カムイ』みたいに、被差別部落を避けては通れないのですな。『柳生石舟斎』は、のっけからその展開だと耳にしてきたので、こりゃ読む機会は永遠にやってこないかも知れないなと、五味康祐の妙なる運命に天を仰ぎましたよ。
それが、現に目の前に、何の飾りもない黒い表紙の『柳生石舟斎』がある。
豊饒な中身と、荘厳な字面、そして格調高い文体。
いつもどおり、たしかな至楽を間違いなくもたらす五味康祐の本が、ここにある。亦、悦ばしからずや。
『柳生武藝帳』は、五回は読んでいる、三回目くらいが一番愉しかったような憶えが…… さて続編『柳生石舟斎』はどうであろうかのう。
四十年、このときを待った。いまのこの氣分、高額の宝くじが当たったら、こんな心持ちになるだろうか。
_________玉の海草