✳日々徒然✳

気儘な独り身備忘録。

【阪神淡路大震災を思い出す】

2021-01-17 05:46:00 | 日記

阪神淡路大震災から26年が経つ。

当時、ワタシは小学生であった。

インフルエンザだか何だか分からないが、高熱を出していた記憶がある。眠っていたところを、大きな洗濯機に放りこまれ、ぶんまわされたかのような衝撃を受けて目を覚まし、身動きもできないまま大声で叫んだような気がする。

電気の傘がふっ飛んできて、隣室で寝ていた両親、特に母親が心配してワタシの名前を叫んでいた。すぐ隣、けれどあまりの揺れに歩くこともできず、ワタシの部屋に来ることができなかったのだ。互いの名を叫ぶしかできなかった。

家のなかのものがたくさん倒れ、電気は点かなかった。水も間もなく出なくなった。

何もできずに、ラジオを点け、明るくなるまで家族3人で寝室でじっとしていた。

 

明るくなってから、ベランダに出て周囲の様子を見る。そのころワタシはマンションの8階に住んでいた。団地だったこともあり、ぱっと見まわしてすぐにそれと分かるような被害はないようだった。ただ、しんとしていた。体の芯が冷えるような静寂があり、その感覚はいまでも覚えている。

 

尼崎と西宮にそれぞれ祖父母が住んでいた。安否確認のために公衆電話に向かったが、大行列ができていた。

尼崎は何ともなかったものの、阪神西宮駅のすぐ近くに住んでいた祖母の古いマンションは半壊、さらにその周囲の木造民家の多くが全壊だった。そういえば西宮の祖父母は、長いこと避難生活を強いられたのだったな、と今これを書きながら様々なことを思い出している。

毎日ポリタンクを持って、隣の中学校に給水しに行った。毎日長蛇の列だった。陸上自衛隊が来てくれていたと思う。ガスボンベで調理をし、節水のために紙皿を使い、夜は小さな余震でもすぐに飛び起きた。無意識のうちにかなりの恐怖とストレスを感じていたのだろうなあ。

今でも地震があると、小さな揺れでも体が硬直して動かなくなる。

小学校もしばらく休校だった。休校が明けても当然ながらすぐには日常は戻ってくることなく、給食にポールウインナーが出てきたことを、鮮明に覚えている。

習い事で芦屋に行っていた。全壊し、ブルーシートがかけられ、花が手向けられた民家の前で、ピースサインをして写真を撮りあう人がいた。「これが東京でなくてよかった」と言った政治家もいたように思う。子ども心に、「道徳とは何か」「人を人たらしめるものとは何か」と考えた。助けあうことも覚えた。

生きているから、あの体験も無駄にせずにすんだのだと思う。

だが、ああいう体験はせずにすむなら、しないほうがいい。

阪神淡路大震災を経験し、東日本大震災を見て、いまコロナ禍のなかにいる。戦後に生まれて幸運だったことは間違いないけれど、これもひとつの戦争といっていいかもしれない。

自然のまえに人は無力なのだから、せめてそうでない理不尽な命の落とし方をせずにすむように、思いやりを持ちつつ生きていけたらいいのにと思いながら、1月17日を過ごす。



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