南風おじさんの4畳半生活

世人悉く春南風を歓ぶ。肖りたく号すが及ぶや否やを知らず。茅屋より世を管見すること60有余、腹膨るる思い止み難く…

鴎外のふるさと

2006年06月26日 | Weblog
森鴎外のふるさとはご存知の「山陰の小京都」といわれる津和野。石見の国(島根県西部)の山中、山口県寄りの盆地の町だ。

鴎外はその遺言で「石見人森林太郎として死せんと欲す」と述べた(遺言は病床で親友・賀古鶴人の聞き書き)。死の床でふるさとの山河が思い出されたのかも知れない。

その鴎外一家が慌ただしく津和野を離れて上京したのが明治6年(1873)の今日6月26日。それ以来、鴎外は一度も津和野に帰らなかった。

当時は交通手段に乏しくて容易には帰れなかったのかなと、好意的に考えることも出来るが、案外深いわけがあるのかも知れない。

鴎外は前妻と別れた後の数年間、福岡・小倉の軍医部長として単身赴任していたこともある。軍医として日露戦役にも行き、広島で長逗留したこともあった。帰ろうと思えばさほどムリな距離ではないはずである。

懐かしい幼馴染が居なかったのか、亡くなるまで頑固なまでに津和野に背を向けていた。生涯で膨大な著書を残しながら、ふるさと津和野について書かれたものはほとんどない。

鴎外にとって、津和野は思い出したくない故郷だったのだろう。鴎外の心の痛みを知る手立てはないが、今の「鴎外のふるさと津和野」という観光宣伝には、鴎外も苦笑しているかも知れない。

実は既に還暦ですが

2006年06月19日 | Weblog
小生、実はもう既に還暦です。「既に」と言ったのは、去年の誕生日で還暦を迎えたからで、今年の10月で61歳になるわけです。

駆け出しの頃、初任地の山形支局で、事故にあった55歳の男を「初老の」と書いたら、同年代の支局長に「55歳で初老はないだろう」と言われたことがあった。

若いときは55歳といえば相当の年代に見えたものだが、いつの間にかそれをはるかに超える歳になってしまったのです。

今年の4月には友人4名から退職の知らせが届きました。教員だった男2名、国家公務員だった男1名、もう1人の大手保険会社の男は子会社に再就職したとのことでした。

悠々自適の生活に入った3名に対して、「これからは生活には困らないのだから、何か自分の特技を生かしてボランティアをやったらどうか」という返事を書いておきました。

我々の後にはあの段階の世代が続いている。彼らが自分の経験と知識を生かしてそれぞれの地域で活動することになれば、素晴らしいと思う。

キュウリの箱買い

2006年06月18日 | Weblog
昨日、ロジャースでキュウリ1箱(何と39本入り)を298円で売っていたので迷わず買ってきました(写真)。キュウリが安くなったら、大量にピクルスにしようと思っていたのです。

この箱売り、実は前日(値段は498円でした)もあったのですが、他のスーパーで5本入りのパックを買ったばかりだったので見送ったのでした。それが298円に値下がりしていたのでつい買ってしまいました。つい最近まで、1本約40円していたことを思うと、ウソみたいな値段ですね。

この39本のうち35本をピクルスにしました。ビンをどうしようか悩んだ末に梅酒用の大ビンで代用しました。それも3リットルビンでは12、3本しか入りません。かなりの大ビン(たぶん8リットル入り)を引っ張り出して間に合わせました。

漬け液には、米酢の1.8リットル入りを買ってきて、果実酒、蜂蜜、みりんなどを調合してつくりました(これでも足りないぐらい)。しばらくはキュウリのピクルスに不自由しません。嬉しいですね。

亡くなった福島好治氏

2006年06月13日 | Weblog
今朝の新聞に「福島好治さんの死亡記事」が掲載されていた。埼玉県警の捜査一課長から上尾警察署長を最後に退官された県警OBである。この人には記者時代にたいへんお世話になったので、亡くなった事に驚いている。

私が埼玉県警の担当になったのは30代の始めのころで、記者として一番の働き盛りだった。毎日、夜遅くまで夜回り(県警幹部の自宅を訪問して“ネタ”を聞き出す因果な仕事)をして、連日帰宅するのは深夜12時を回る頃だった。

それでも仕事が面白くて、辛いと思ったこともなかった(おかげでカミさんからは愛想を尽かされてしまったが)。その夜回りで最も多く訪ねたのが、当時浦和・大間木の待機宿舎(県警では公舎のことをこう呼んでいる)にお住まいだった福島さんだった。

福島さんとの想い出はたくさんある。本当に良くしてくれた。ご自宅では朝日新聞を購読されていたが、当時の朝日のキャップで強引な取材をするK記者を嫌っておられた。その反動もあったのか、読売を大事にしてくれた。

部下からも人望の厚い方で、ご自宅には福島さんを慕って何人もの刑事さんが出入りしていた。私は数人の若い刑事さんを紹介してもらい、個人的な場でご一緒に鍋をつついたりした。仕事を超えて付き合える信頼できる方だった。

亡くなられた事が残念でならない。新聞には享年75才で、しかも私の地元である中央区の病院に入院されていたと書いてあった。

弔電だけでは相済まないと思いながら、取り合えず気持を伝えたくて弔電を打った。今日は福島さんのことが頭から離れない日になった。

浦和駅前の埼玉3偉人の碑

2006年06月11日 | Weblog
仕事の関係で上田知事と年に数回、10人ぐらいで昼食を囲む(全て割り勘です)ことがある。6月定例議会を前にした数日前に1時間ほど話を交わした。

このとき、私が「知事は浦和駅前に埼玉3偉人の碑があるのをご存知ですか?」と聞いたところご存じなかった。それどころか同席していた知事室長、報道長、主幹も誰一人として知っている人はいなかった。

これは無理もないので、碑が置かれている場所が中ノ島(バス停があるロータリーの中)で、それも一番すみっこの人が通らない場所なので、たぶん浦和駅利用者でも99%は知らないだろうと思う。

建てたのは畑知事の時代、だから3偉人には荻野吟子は入っておらず、渋沢栄一、塙保己一、畠山重忠の3人だ。碑には大宮の詩人・宮沢章二氏の埼玉讃歌も併設され、埼玉新聞の呼びかけで作ったことが分かる。

知事との会食の席上、私が、これを「大宮の西口のデッキにでも移設したらどうか」という提案をした。上田知事も理解を示した。

終わった後で、よく考えたら大宮より新都心の方が相応しいかなと思い直して、今度は中央区選出の県会議員・吉田氏に電話をして、「知事とこういう話をしたが、考えたら新都心の方が良いように思うので、ひとつ力になってくれないか」と話しておいた。

吉田氏は「見たことがないので、まず碑を確認してみる」との話だった。こういう話はたぶん反対者はいないので、順調に進むだろうと思う。何でもないことでも、自分の考えを行政に反映させるには、いろいろな人を動かすことが必要ですね。

社交ダンスは衰退?

2006年06月11日 | Weblog
あまり人には言っていないが、もう20年近く(途中3~4年のブランクはあったが)社交ダンスを趣味にしてきた。病気になってから遠ざかっていたダンスに、身体の様子を見ながらまた少しずつ復帰している。

ところで、テレビで芸能人社交ダンスが放映され、またブームがやってくるかのような感じも与えているかも知れないが、自分が見るところ社交ダンスの新しい愛好者が少しも増えない。

今日、小雨の中を大宮に出て、帰りに西口の「チャコット」というダンスファッション店の前を通ったら、一杯の客が入っていて驚いた。

「チャコット」はかつて社交ダンスのファッションが中心で、今はフラメンコ、ジャズダンス、フィットネスなど幅広い衣装を扱っている。若い女性の客が多かったので、社交ダンスの衣装が売れているわけではなさそうだ。

ダンスも多様化している。若い女性たちは男にリードされる形の(従って自分が上手に踊れるかどうか男性の腕前に左右される)社交ダンスに飽き足らないのかも知れない。主導権をとって踊れるフラメンコなどの方が魅力があるのかも知れない。

これから本格的な高齢社会に入る。自分が20年近く趣味として楽しんできた社交ダンスを、高齢者の健康増進のために生かせないかどうか、そういうことを思案している。

若々しく元気な、長期の介護を必要としない高齢者が増えれば、増大する一方の社会保障費の抑制にもなる。何より実際にやってみるとケッコウ楽しい。マラソンやスポーツジムも良いが、楽しくなければ続かないわけで、そういう意味からも高齢者に最適な運動になる。

衰退して欲しくないものだ。