南風おじさんの4畳半生活

世人悉く春南風を歓ぶ。肖りたく号すが及ぶや否やを知らず。茅屋より世を管見すること60有余、腹膨るる思い止み難く…

酢漿草(かたばみ)

2006年04月30日 | Weblog
片喰とも書く。埼京線に添って設けられている小さな公園で「酢漿草(かたばみ)」が咲いているのを見つけた。黄色い可憐な花である。(写真)

酢漿草は以前にも書いたことがあるが、武家の紋章として使用されている。このような小さな可憐な草が、強さを売り物にする武家の家紋に使われているのが面白い。

姫路、若狭の酒井家が剣酢漿草(けんかたばみ)紋である。庄内の酒井家は剣のない酢漿草を家紋にしている。

一説には雑草で繁殖力が強いので、子孫繁栄を意味するめでたい紋だとも言う。

お公家さんにもこの家紋がある。あの冷泉家が三つ葉の酢漿草、西大路家、四条家、油小路家がいずれも四つ葉の酢漿草、清華家の大炊御門家(おおいみかど)が菱に三つ葉酢漿草だった。

葉の形が優美であるから、平安朝の貴族が車の紋に取り入れたと書かれている。

写真に収めたわが可憐な雑草・酢漿草は花壇の外側に咲いていた。花壇の中には“花の上流階級”であるシバザクラが咲き乱れていた。

一眼レフカメラ

2006年04月30日 | Weblog
注文していた一眼レフが到着しました(写真)。

これでコンパクトカメラ3台(オリンパス、パナソニック、富士フィルム製)に待望の一眼レフが加わったことになる。

写真を撮って欲しいと言われることが多い。いつもは300万画素のパナのカメラで撮るのだが、A4ぐらいに伸ばすとやや見劣りがする。

500万画素の富士フィルムのカメラ(S5200)を購入してみたが、画質が気に入らなかった。まだ習熟すればよくなるかも知れないが、良い買い物ではなかった。

一眼は、ペンタックスのDL(レンズ付き)である。この機種の発売は昨年の夏で、もう新しい機種が発売されているというから、デジカメも日進月歩だ。

ネットでかなり安くなっていたので、思い切って購入した。コンパクトデジカメに比べると、ずっしり重くて頼もしい感じがする。

このところプリンタの買い替え、USBメモリ、SDカード、PDA(東芝製Genio)など買い物が多いので小遣いがなくなってしまい、当分は節約の日々になりそう。

本日、喫茶店でガイドブックを見ながら操作方法を調べてきました。合焦速度に不安があったが、思っていたほどではなく、これなら十分使用に耐える。

わがカメラライフも充実してきました。

晶子の詩

2006年04月30日 | Weblog
あまり知られていないが、与謝野晶子は「君死にたもうことなかれ」の他にもいくつか詩を書いている。「男の胸」という20数行の作品(以下に引用)を読むと、女というものは恐ろしいものだという感を深くする。

「名工の鍛えし刀  一尺に満たぬ短き  鋭さをわれは思いぬ
 
 ある時は異国(とつくに)人の  三角の先あるメスを
 われ得まく せちに欲りすれ(切実に欲しい)
 
 いと憎き男の胸に  鋭(と)き白刃 当てなむ刹那
 たらたらとわが袖にさえ  指にさへ散るべき紅き
 血を思ひ  われほくそ笑み こころよく身さへ震ひぬ
 
 その時か 憎き男の  云いがたき 心許さめ
(男の胸に白刃を突き刺し、血飛沫を見たとき、憎き男を許すだろう)
 
 しかは云え(そうは言うが) 突かむとすなる 
 その胸に  夜としなれば  額(ぬか)あてて いとうら安の
 夢に入る  人もわれなり
 
 男はた 愛(いと)しとばかり  その胸に  われかき抱き
 眠ること  いまだ忘れず

 その胸を  今日は貸さずと
 たわぶれに 云うことあらば われいかに 侘(わび)しからまし」(全文)


他の女に気を移す男(山川登美子を忘れなかった鉄幹のことでしょうね)を憎み、殺意さえ抱いている、だが夜は何事もないようにその男の胸に抱かれる。何も知らないのは男ばかり。

怖いですね、ホントに怖いですね。

岡本太郎&岡本一平、かの子

2006年04月30日 | Weblog
岡本太郎の母、かの子は恋多き女だった。煩悩が多すぎるのに悩み、仏教の研究に没頭したところは、瀬戸内寂聴と似ている。

情熱的な(いい言葉がありますね)かの子に夫・一平も悩まされたことだろうが、一平はかの子の自由を尊重し、むしろその奔放な魅力を愛した。

これは言うは安くして、なかなか出来ることではない。簡単に言えば、自分の女房が若い男と遊び回るのを、じっと耐え温かく見守るということだ。

かの子の墓石は観音像のような石の佛像であった。

そういう一平・かの子の夫婦生活を称えた一文を川端康成が書いて、塋域の一角にその碑が立っている。「聖女のように崇めた」「自分も夫婦生活の参考にしたい」というような文章だった。

太郎は、母かの子の溺愛を受けて成長した。芸術は爆発だ!という信念で、激しい情念を表現した作品を多数残した。面白い一家である。
(写真は岡本一平、かの子、太郎の塋域)

名誉霊域

2006年04月30日 | Weblog
多磨霊園は大正12年4月に開設されたとある。関東大震災の直前にオープンしたことになる。正面のメイン道路の両側には「名誉霊域」が設けられている。時節柄、戦死した将官や政治家用に設けたのかも知れない。

前述した東郷平八郎、山本五十六のほかにも、山本の後任連合艦隊司令長官の古賀峯一、元老の西園寺公望、平沼騏一郎(現在の平沼赳夫の養父)、高橋是清、田中義一など錚々たる人物の塋域がある。

名誉霊域の外にも、有名人の墓石は多い。途中で雨がパラついてきたので帰りを急いでいる途中にも、渡辺錠太郎(226事件で暗殺、当時教育総監、陸軍大将)、宇垣一成(陸軍大将、朝鮮総督)らの墓石を見た。

西園寺公は若いときにフランスに遊学、パリでの遊び振りは有名だったが、遊んだだけでなく、自由の空気を吸って「人権、自由、民主主義」というものを肌で感じてきたのだろう。彼が太平洋戦争前に亡くなったのは惜しまれる。

内村鑑三

2006年04月30日 | Weblog
あまりに高名なクリスチャン。札幌農学校の二期生。つまりクラーク博士が去った直後の学生だった。学内には博士の遺風が色濃く残って、二期生にも大きな感化を与えた。

墓石には「I for Japan   Japan for the World  The World for Christ And  All for God」という内村の言葉が彫られている。(写真)

日露戦争に非戦論を掲げて反対したことも、一高の教授時代に教育勅語に敬意を表さずに免職になったことも、すべて愛国的な行為だったことが分かる。

「代表的な日本人」を英文で著し、後にケネディ大統領に「尊敬する人は上杉鷹山」と言わせたのも、鑑三の功績だ。

有名な「余は如何にしてキリスト教徒となりしか」などを読むと、案外冗談の分かる人物だったことも分かる。

大事なのは信仰であり、教会ではないとして「無教会主義」で通したのも彼らしい生涯だった。

吉岡弥生

2006年04月30日 | Weblog
東京女子医大の創設者。塋域にある同大が建てた碑によると、夫の荒太氏も医師で弥生と協力した功労者のようである。

われわれ埼玉県人は、女医といえば日本の女医第1号の荻野吟子を思い浮かべる。弥生は吟子に次ぐ女医第二号だ。しかし医学界では弥生の方がずっと有名。

ついでに言っておくと、女医第1号というのは、あくまで近代医学の国家試験に合格した、という意味である。シーボルトの娘イネ(だったかな)などは吟子よりずっと早くから医師になっている。

もう一つついでに、吟子の「女にも門戸を開け」の訴えを聞き入れたのは、長崎県大村出身の医師で、当時内務省衛生局長の長与専斎(白樺派・長与善郎の父)であった。こういう人物がいて、女医第1号が生れたわけである。

吟子は下谷や本郷で医院を開業した後、青年クリスチャンと結婚して北海道に渡り開拓村で奮闘するが挫折、帰京した。夫の死後は再び本郷で医院を開設、63歳で病没する。

つまり、一人の医師として女として生きた生涯だった。一方の弥生は医学校を創設し、後進を育てた。人を育てるという大事業は社会的な評価が高い。

悲劇の人の方がお芝居にはなりやすいから、小説や芝居では吟子が持て囃される。それだけが救いか。(写真は吉岡弥生の塋域にある碑)

菊池寛

2006年04月30日 | Weblog
言うまでもなく「文芸春秋」の創業者である。

芥川龍之介や久米正雄らと第四次新思潮を形成したが、早くから作家としての自分の力に見切りをつけ、作家を育てる側に回って大成功した。

作品としては「父帰る」「恩讐のかなたに」などが知れれているが、他にも今昔物語にテーマを取ったいくつかの小説や、江戸初期に不幸な最後を遂げた徳川忠直を主人公にした「忠直卿行状記」など佳品が多い。私はわりあい好きな作家である。

菊池寛の奥津城は川端康成の筆で「菊池寛之墓」と書かれているだけ。さっぱりした気持の良い墓石だ。

与謝野鉄幹・晶子

2006年04月29日 | Weblog
鉄幹の歌は知らなくとも、晶子の歌を知らない人はいないだろう。美しい歌を詠む人である。

*乳房おさえ 神秘のとばり そと蹴りぬ ここなる花の 紅ぞ濃き
*春みじかし 何に不滅の 命ぞと 力ある乳を 手に探らせぬ
*罪多き 男こらせと 肌きよく 黒髪長く つくられし我
*やわ肌の 熱き血潮に 触れも見で 寂しからずや 道を説くきみ
*人の子の 恋を求むる 唇に 毒ある蜜を われ塗らむ願い

女の美しさと激しい情念と、セクシーさと嫉妬心と、何より若さの自惚れとナルシシズムと。これが晶子の歌に溢れている。

最も艶やかな情景が浮かぶのは「みだれ髪」の中にある次の歌だ。
*清水へ 祇園をよぎる さくら月夜 こよひ逢う人 みな美しき

塋域は写真の通り、鉄幹と晶子の墓石が並んで瀟洒なたたずまい。歌を刻んだ小さな碑があるが、惜しいかな彫が浅くて判読しにくい。

鉄幹は昭和10年に62歳で亡くなり、晶子は17年に64歳で亡くなった。現在の与謝野大臣は彼らの子孫である。

北原白秋

2006年04月29日 | Weblog
白秋を知らない人はいませんね。「すな山」「あわて床屋」「歌を忘れたカナリア」「この道」「ペチカ」「カラタチの花」「待ちぼうけ」など美しく楽しい詩を数多く残した言葉の魔術師です。

九州・柳川の生まれ、隣家の夫人との情事で社会的制裁を受け、三崎に引っ込んで「城ヶ島の雨」を書いた人としても有名。晩年は熱海で過しました。

塋域は広く堂々としていますが、写真で分かるように緑の生垣に囲まれて良い雰囲気でした。

白秋の作品集を読むたびに、どうしてこういう素晴らしい言葉が次々に出てくるのだろうという不思議な思いにさせられます。ホントに言葉の魔術師ですね。

三島由紀夫

2006年04月29日 | Weblog
昭和45年(1970年)秋、陸上自衛隊の市ヶ谷総監部で檄文を蒔いた後、割腹自殺を図ったことは、まだ覚えておられるでしょう。

小生はそのとき山形支局にいて、半年後に東京に戻ってきた。一周年の時に、楯の会の拠点になっていた護国寺近くの和敬塾に取材に行ったこともある。

朝日新聞に総監室での首を落とした遺体の写真をスクープされ、写真部が悔しがっていたことも記憶している。

三島の作品はそれまで「金閣寺」ぐらいしか読んでいなかった。もともと虚弱体質で、コンプレックスから身体を鍛え、それが過ぎて武張った精神構造になっていったようである。

ノーベル賞候補の筆頭と目されていただけに惜しい人材だった。

その三島の塋域に行ってみた。探すのに苦労した。「平岡家の墓」とあるだけだ。埋葬者の氏名を刻んだ石に7人の氏名が刻まれ、その中央に三島の本名「平岡公威」があった。「彰武院文鑑公威居士、行年45歳」とある。

三島の亡くなる前夜の思い出を書いた(文春文庫)父の梓氏も、母の倭文重さんも共に82才で亡くなられていた。意外だったのは奥さんの瑤子さんも平成7年に59歳で亡くなられていた。

往時茫々、人生無常。鬼才去世して36年、我々も年を取ったわけである。


68円のリンゴ

2006年04月29日 | Weblog
いささかセコイ話で恐縮だが、わが家の近くに安売りで知られるロジャースがあり、ここでたまに1個68円のリンゴを売っている。

普段は98円で売っており、たまに68円になっている。写真の通り、見てくれは高級品とは良い難いけれども、自家消費なのでこれで十分。

98円と68円だから、できれば68円で買いたいわけだが、いつ、どういう場合に安くなるのか分かず、研究(大の男が情けない研究するなというご意見は却下)してみた。

どうやら土日の夜、あらかた大きめのリンゴが売れてしまって、小さめのリンゴだけになった頃、値段を張り替えているらしいのである。

というのは、朝方とか昼間は必ず98円になっており、夜、それも土日に限って68円に値下げしているからだ(土日の夜でも値下げしない時もあった)。

今日も夜の8時頃に行ったら68円になっていましたので、10個買ってきました。これだけ安いと助かりますね。

東郷平八郎

2006年04月29日 | Weblog
世界的な名提督です。対馬沖で戦われた日露戦争・日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破り、日本勝利の重要な戦績を挙げた人ですね。

この人、現役を引退してからも海軍の生き神様として尊崇を集め、隠然とした力を持ち続けました。その結果どうなったか。

第一次大戦の後、欧米各国に厭戦気分が強まり、ワシントン軍縮会議、ロンドン軍縮会議が開かれて海軍力の制限を協議しました。いわゆる5・5・3(補助艦は10・10・7)ですね。

このとき、世界の大勢は軍縮に向かっていたのに、日本だけは犠牲が少なかった(というより火事場泥棒的に儲けた)せいもあり、軍縮より軍備増強の方針を捨てませんでした。

英米など各国の軍縮要求に足並みをそろえず、少しでも“権利”を拡張しようと頑張ったのが新興国・日本でした。この辺から世界の厄介者になったのです。

この日本全権団の強気を後押ししたのが、実は退役した海軍の大ボス・東郷平八郎でした。あのとき日本も世界の軍縮の流れに歩調を合わせていたら、と思うのは私だけでしょうか。

過去に功績のあった人物でも、何時までも大きな顔をして口を挟むのは失敗の元ですね。スポーツ団体でも、大ボスが威張っている団体は良くないです。

数年前の日本水連もそうでした。過去の功労者と老害は紙一重ですね。

多磨霊園の1

2006年04月29日 | Weblog
本日、旧友2人と多磨霊園を3時間ほど歩いてきました。私は2回目でしたが、友人は2人とも初めてだったようです。

広い霊園で、たくさんの有名人が葬られているのでとても回りきれません。山本五十六、東郷平八郎、西園寺公望、岡本太郎、内村鑑三、北原白秋、与謝野晶子・鉄幹、三島由紀夫、吉岡弥生、菊地寛、野村故堂、渡辺錠太郎、宇垣一成らの塋域を見てきました。

これでも、ここに葬られている有名人の10分の1にもなりません。以下に少しご紹介します。

まず山本五十六元帥。長岡出身、日本が誇る名提督で、太平洋戦争開戦から約1年半の連合艦隊司令長官。ラバウル東方で撃墜死。

「やってみせ、言って聞かせてさせて見せ、褒めてやらねば人は動かじ」の名文句は有名。塋域(写真)は東郷平八郎と並んでいました。

戦いに勝つということ

2006年04月28日 | Weblog
太平洋戦争に敗れた日本は、戦後、軍事大国の道を棄て、一貫して平和・経済発展の道を辿った。武力の戦争で負けたが、平和・経済の戦いに大勝利したのである。

戦いに勝つという事は恐ろしいもので、どんなに優れた人物でも慢心が起こる。油断し夜郎自大になり、驕慢になる。

日清、日露に勝ち、第一次大戦で勝ち組になり、その後の満州・中国本土の侵攻作戦でも次々に“赫々たる戦果”を納めた。その結果、日本はすっかり慢心し、夜郎自大になり、破滅の太平洋戦争に突っ込んでいく。

いま、経済で勝利した日本に蔓延しているのは、驕慢になった人心と無責任で自分勝手な風潮のような気がする。殺伐とした事件が多すぎる。

こういう現象は例えばドイツでも同様だ。

文治元年(1862年)の竹内遣欧使節(福沢諭吉、福地源一郎、松木弘安など随行)が見たドイツ(プロシャ)は「家作、衣服、人物等も大いに調い、人物は色白くして鼻高く、丈高く淳穏にして(性格が穏やかで)、また強剛を含めり」と、激賞している。

それから10年後の岩倉遣欧使節が見たドイツは、普仏戦争に勝利した直後であるためか、「人気(人の気性)激昂に、操業(人の振る舞い)粗暴なり、人気の粗卒なるは兵隊学生の跋扈するによる」「欧州の各国にて、春画を公然と販(ひさ)ぐは、此府(ベルリンを指す)あるのみ」とその堕落ぶりにあきれている。

わずか10年でこれほどまでに変わってしまうのである。

我々も、60年前に褌を締めなおして再出発した“初心”を忘れ、運よく経済的勝ち組になったからと言って、夜郎自大になってはいけないと思うのだが。