南風おじさんの4畳半生活

世人悉く春南風を歓ぶ。肖りたく号すが及ぶや否やを知らず。茅屋より世を管見すること60有余、腹膨るる思い止み難く…

杉浦重剛

2007年12月14日 | Weblog
絶版だった岩波文庫の「杉浦重剛座談録」を古書市で入手、面白く読む。
彼の詩に、「衰窮更又迎斯歳」とあった。
う~む、確かにそうだなぁ、う~む。

今日はコムナーレにサークル登録をしに行った。
受け付けてくれて、来週の火曜日にカードが出来るという。

年賀状は南沢君の書を接写してあしらってみよう。
南沢君が急逝して1年半になろうとしている。
宇野君逝き、また南沢君逝く。我も衰窮の身なり。

友人の急死

2006年08月24日 | Weblog
大学時代の友人が急死したと、先ほど、妹さんから電話があった。高校の書道の先生をしている男で、来年定年退職になると言っていた。

まだボーットとして信じられない思いだ。ちょうど1週間前ぐらいだろうか、彼から電話があって、長話をしたばかりだった。こちらが根気が続かないので、後半はぞんざいな受け答えになったかも知れないことが気になっていた。

戸隠の山の土地を買って、老後はここに住むつもりだ、一緒に住まないかと言っていた。一人でその山の下草を刈りに行って、血を吐いて倒れたらしい。発見までに数日かかったとのことだった。

自分も他人のことは言えないが、彼も結婚して一児をもうけながら数年で離婚した。その後はずっと一人暮らしだった。

大学の寮生活で一緒だった。空き部屋を使って、毎日ひたすら書(条幅)を書いていた。当時の彼は書について多くの知識を持ち、多くのことを語った。

志の高い男だった。父親は長野県の幹部職員を退職後に、長野駅前で趣味だった書道用品専門店を開業していた。恵まれた環境の中で、若い頃の彼は目覚しい活躍ぶりだった。私から見ると、まぶしいほどだった。

50歳ぐらいの頃、日展入選や読売書法展大賞などで絶頂期を迎えていた。その後、師の元を去って別の道を模索していた。

1年半ほど前に浦和駅近くの喫茶店で2時間ぐらい話をしたのが、直接会った最後になった。1週間ほど前の電話の声は、今も耳に残っている。

日曜日の葬儀に参列して、彼の最後の顔を見てくる。悲しい。哀悼。

読売新聞によると

2006年08月10日 | Weblog
「歴史問題、永遠に言い続けよ」江沢民氏、会議で指示

 【北京=藤野彰】中国の江沢民・前国家主席(前共産党総書記)が在任中の1998年8月、在外大使ら外交当局者を一堂に集めた会議の席上、「日本に対しては歴史問題を永遠に言い続けなければならない」と指示し、事実上、歴史問題を対日外交圧力の重要カードと位置付けていたことが、中国で10日発売された「江沢民文選」の記述で明らかになった。

 中国は胡錦濤政権に移行した後も一貫して歴史問題を武器に対日圧力をかけ続けており、江氏の指針が現在も継承されているとすれば、歴史問題をめぐる中国の対日姿勢には今後も大きな変化が期待できないことになりそうだ。

 同文選(全3巻)は江氏の論文、演説などを集大成したもので、これまで未公開だった重要文献を多数収録。江氏は同年8月28日に招集した在外使節会議で国際情勢について演説、この中で対日関係に言及し、歴史問題の扱いをめぐる指針を示した。

 それによると、江氏は「日本の軍国主義者は極めて残忍で、(戦時中の)中国の死傷者は3500万人にも上った。戦後も日本の軍国主義はまだ徹底的に清算されていない。軍国主義思想で頭が一杯の連中はなお存在している。我々はずっと警戒しなければならない」と述べ、日本の軍国主義はなお健在との認識を表明した。

 さらに、台湾問題との関連で「日本は台湾を自らの『不沈空母』と見なしている」と批判、「日本に対しては、台湾問題をとことん言い続けるとともに、歴史問題を終始強調し、しかも永遠に言い続けなければならない」と指示した。

 江氏は同会議の3か月後の同年11月に日本を訪問。滞在期間中は歴史問題を再三とりあげ、強硬姿勢を印象付けた。(2006年8月10日19時35分 読売新聞)


↑政治的に日本を貶めるプロパガンダをやっているのだから、反日国家というのは厄介ですね。

新しい原付が届いた

2006年08月10日 | Weblog
先日(8月4日の金曜日)の昼前頃、バイクに乗ろうとマンションのバイク置き場に行くと、わが愛用のホンダのカブが見当たらない。

管理人に聞くと、「朝からなかったので、早くから出かけたのかと思った」とのこと。やはり夜の間に盗まれたのだ。

5、6年前にも、当時住んでいた浦和区高砂の県庁裏の駐輪場に置いていたカブが盗まれたことがあった。当時はカブがよく盗まれていた時期で、最近はあまり被害に逢わなくなったと聞いていたので油断していた。

原付に乗ると、手軽さ便利さに手放せなくなる。自分の場合は車がないので生活上困るのである。

購入したバイク屋さんに電話すると「まず警察へ被害届を」という。どうせ出てこないだから届けは後回しにして、カブの中古があるかどうか聞いてみた。中古はないが新車なら16万ぐらいであるという。

新車も悪くないが、念のため以前見に行ったことがある武蔵浦和のバイク屋へ行って見た。カブはいくつか出ていたが、値段と状態との納得のいくものがない。

土曜日になり電話帳で近くのバイク屋さんを探し電話してみた。カブが1台あるという。早速行って見た。するとカブと並んで感じのいい原付が1台あった。

ススキの「バーディ50」だという。状態もいい。値段も納得のいく価格だ。早速購入手続きを取った。「お渡しできるのは木曜日か金曜日になります」とのことだったが、思いがけず昨日(火曜日)の夕方電話があり、受け取ってきた。

今日は小雨が時折降る中、北浦和まで乗ってきました。

ブログを続けること

2006年08月09日 | Weblog
ブログでもホームページでも同様だが、立ち上げることはやさしくても、続けることが難しい。

なぜ続かないか考えてみる。何回かは“勢い”で書くことができる。それが何回か続くと、もう良いかなという気持になってしまう。

どうしてだろうか。結論を急げば、自分には自己顕示欲というものが希薄らしいのだ。こういうブログは結局、自分を人さまにオープンにすることだ。

そういうことが好きな人には楽しくて仕方がないだろうが、積極的になれない者には苦痛な作業である。どうも自分にはそういう意欲が欠けている。

ここが続かないのは、たぶんそういう理由だろうと思う。各位、どうかご容赦願いたい。

鴎外のふるさと

2006年06月26日 | Weblog
森鴎外のふるさとはご存知の「山陰の小京都」といわれる津和野。石見の国(島根県西部)の山中、山口県寄りの盆地の町だ。

鴎外はその遺言で「石見人森林太郎として死せんと欲す」と述べた(遺言は病床で親友・賀古鶴人の聞き書き)。死の床でふるさとの山河が思い出されたのかも知れない。

その鴎外一家が慌ただしく津和野を離れて上京したのが明治6年(1873)の今日6月26日。それ以来、鴎外は一度も津和野に帰らなかった。

当時は交通手段に乏しくて容易には帰れなかったのかなと、好意的に考えることも出来るが、案外深いわけがあるのかも知れない。

鴎外は前妻と別れた後の数年間、福岡・小倉の軍医部長として単身赴任していたこともある。軍医として日露戦役にも行き、広島で長逗留したこともあった。帰ろうと思えばさほどムリな距離ではないはずである。

懐かしい幼馴染が居なかったのか、亡くなるまで頑固なまでに津和野に背を向けていた。生涯で膨大な著書を残しながら、ふるさと津和野について書かれたものはほとんどない。

鴎外にとって、津和野は思い出したくない故郷だったのだろう。鴎外の心の痛みを知る手立てはないが、今の「鴎外のふるさと津和野」という観光宣伝には、鴎外も苦笑しているかも知れない。

実は既に還暦ですが

2006年06月19日 | Weblog
小生、実はもう既に還暦です。「既に」と言ったのは、去年の誕生日で還暦を迎えたからで、今年の10月で61歳になるわけです。

駆け出しの頃、初任地の山形支局で、事故にあった55歳の男を「初老の」と書いたら、同年代の支局長に「55歳で初老はないだろう」と言われたことがあった。

若いときは55歳といえば相当の年代に見えたものだが、いつの間にかそれをはるかに超える歳になってしまったのです。

今年の4月には友人4名から退職の知らせが届きました。教員だった男2名、国家公務員だった男1名、もう1人の大手保険会社の男は子会社に再就職したとのことでした。

悠々自適の生活に入った3名に対して、「これからは生活には困らないのだから、何か自分の特技を生かしてボランティアをやったらどうか」という返事を書いておきました。

我々の後にはあの段階の世代が続いている。彼らが自分の経験と知識を生かしてそれぞれの地域で活動することになれば、素晴らしいと思う。

キュウリの箱買い

2006年06月18日 | Weblog
昨日、ロジャースでキュウリ1箱(何と39本入り)を298円で売っていたので迷わず買ってきました(写真)。キュウリが安くなったら、大量にピクルスにしようと思っていたのです。

この箱売り、実は前日(値段は498円でした)もあったのですが、他のスーパーで5本入りのパックを買ったばかりだったので見送ったのでした。それが298円に値下がりしていたのでつい買ってしまいました。つい最近まで、1本約40円していたことを思うと、ウソみたいな値段ですね。

この39本のうち35本をピクルスにしました。ビンをどうしようか悩んだ末に梅酒用の大ビンで代用しました。それも3リットルビンでは12、3本しか入りません。かなりの大ビン(たぶん8リットル入り)を引っ張り出して間に合わせました。

漬け液には、米酢の1.8リットル入りを買ってきて、果実酒、蜂蜜、みりんなどを調合してつくりました(これでも足りないぐらい)。しばらくはキュウリのピクルスに不自由しません。嬉しいですね。

亡くなった福島好治氏

2006年06月13日 | Weblog
今朝の新聞に「福島好治さんの死亡記事」が掲載されていた。埼玉県警の捜査一課長から上尾警察署長を最後に退官された県警OBである。この人には記者時代にたいへんお世話になったので、亡くなった事に驚いている。

私が埼玉県警の担当になったのは30代の始めのころで、記者として一番の働き盛りだった。毎日、夜遅くまで夜回り(県警幹部の自宅を訪問して“ネタ”を聞き出す因果な仕事)をして、連日帰宅するのは深夜12時を回る頃だった。

それでも仕事が面白くて、辛いと思ったこともなかった(おかげでカミさんからは愛想を尽かされてしまったが)。その夜回りで最も多く訪ねたのが、当時浦和・大間木の待機宿舎(県警では公舎のことをこう呼んでいる)にお住まいだった福島さんだった。

福島さんとの想い出はたくさんある。本当に良くしてくれた。ご自宅では朝日新聞を購読されていたが、当時の朝日のキャップで強引な取材をするK記者を嫌っておられた。その反動もあったのか、読売を大事にしてくれた。

部下からも人望の厚い方で、ご自宅には福島さんを慕って何人もの刑事さんが出入りしていた。私は数人の若い刑事さんを紹介してもらい、個人的な場でご一緒に鍋をつついたりした。仕事を超えて付き合える信頼できる方だった。

亡くなられた事が残念でならない。新聞には享年75才で、しかも私の地元である中央区の病院に入院されていたと書いてあった。

弔電だけでは相済まないと思いながら、取り合えず気持を伝えたくて弔電を打った。今日は福島さんのことが頭から離れない日になった。

浦和駅前の埼玉3偉人の碑

2006年06月11日 | Weblog
仕事の関係で上田知事と年に数回、10人ぐらいで昼食を囲む(全て割り勘です)ことがある。6月定例議会を前にした数日前に1時間ほど話を交わした。

このとき、私が「知事は浦和駅前に埼玉3偉人の碑があるのをご存知ですか?」と聞いたところご存じなかった。それどころか同席していた知事室長、報道長、主幹も誰一人として知っている人はいなかった。

これは無理もないので、碑が置かれている場所が中ノ島(バス停があるロータリーの中)で、それも一番すみっこの人が通らない場所なので、たぶん浦和駅利用者でも99%は知らないだろうと思う。

建てたのは畑知事の時代、だから3偉人には荻野吟子は入っておらず、渋沢栄一、塙保己一、畠山重忠の3人だ。碑には大宮の詩人・宮沢章二氏の埼玉讃歌も併設され、埼玉新聞の呼びかけで作ったことが分かる。

知事との会食の席上、私が、これを「大宮の西口のデッキにでも移設したらどうか」という提案をした。上田知事も理解を示した。

終わった後で、よく考えたら大宮より新都心の方が相応しいかなと思い直して、今度は中央区選出の県会議員・吉田氏に電話をして、「知事とこういう話をしたが、考えたら新都心の方が良いように思うので、ひとつ力になってくれないか」と話しておいた。

吉田氏は「見たことがないので、まず碑を確認してみる」との話だった。こういう話はたぶん反対者はいないので、順調に進むだろうと思う。何でもないことでも、自分の考えを行政に反映させるには、いろいろな人を動かすことが必要ですね。

社交ダンスは衰退?

2006年06月11日 | Weblog
あまり人には言っていないが、もう20年近く(途中3~4年のブランクはあったが)社交ダンスを趣味にしてきた。病気になってから遠ざかっていたダンスに、身体の様子を見ながらまた少しずつ復帰している。

ところで、テレビで芸能人社交ダンスが放映され、またブームがやってくるかのような感じも与えているかも知れないが、自分が見るところ社交ダンスの新しい愛好者が少しも増えない。

今日、小雨の中を大宮に出て、帰りに西口の「チャコット」というダンスファッション店の前を通ったら、一杯の客が入っていて驚いた。

「チャコット」はかつて社交ダンスのファッションが中心で、今はフラメンコ、ジャズダンス、フィットネスなど幅広い衣装を扱っている。若い女性の客が多かったので、社交ダンスの衣装が売れているわけではなさそうだ。

ダンスも多様化している。若い女性たちは男にリードされる形の(従って自分が上手に踊れるかどうか男性の腕前に左右される)社交ダンスに飽き足らないのかも知れない。主導権をとって踊れるフラメンコなどの方が魅力があるのかも知れない。

これから本格的な高齢社会に入る。自分が20年近く趣味として楽しんできた社交ダンスを、高齢者の健康増進のために生かせないかどうか、そういうことを思案している。

若々しく元気な、長期の介護を必要としない高齢者が増えれば、増大する一方の社会保障費の抑制にもなる。何より実際にやってみるとケッコウ楽しい。マラソンやスポーツジムも良いが、楽しくなければ続かないわけで、そういう意味からも高齢者に最適な運動になる。

衰退して欲しくないものだ。

外国人に参政権問題

2006年05月27日 | Weblog
↓こういう記事が出ると、日本は遅れているように思うかも知れないが、日本の置かれている現状と根本的に違うということを考えないとヤバいですよ。

<韓国>アジア初の外国人参政権 統一地方選で
 【ソウル堀山明子】31日の韓国の統一地方選挙は、アジアで初めて外国人地方参政権が行使される。外国人有権者の3分の1が暮らすソウル市では、野党・ハンナラ党の市長候補、呉世勲(オセフン)氏が25日、華僑協会を訪問。「差別待遇是正に最善を尽くす」と支持を訴えるなど、外国人票田にも熱い視線が注がれている。
 韓国では昨年8月に公選法が改正され、永住権取得後3年を経過した19歳以上の外国人に地方参政権が付与された。法改正は、在日韓国人の地方参政権運動を側面支援し、日本国内で根強い「相互主義」を理由にした反対論を封じる狙いもある。韓国で先行実施したことにより、日本の運動への波及は必至だ。
 中央選管によると、外国人有権者は6725人。内訳は推計で華僑系(台湾籍)が6500人余と最も多く、次いで日本人51人、米国人8人の順。日本人は9割以上が韓国人と結婚した女性だ。
 呉候補の訪問を受けた漢城華僑協会の王文栄副会長(55)は「若い世代の7割は韓国人と結婚している。徴兵以外の義務はすべて果たしており、国籍で線を引く時代ではない」と、民族学校への補助などを訴えた。
 4月15日にはソウル市内の華僑小学校で開かれた外国人有権者説明会には約80人が参加した。韓国人男性と結婚した日本人、志岐裕美子さん(41)=京畿道在住=は「今までは選挙期間中は疎外感があったが、今回の選挙では教育問題に熱心な候補者はだれか夫と相談でき、家庭内の会話が変わった」と喜んでいる。
(毎日新聞) - 5月26日18時8分更新

空を飛べるような気持

2006年05月27日 | Weblog
昔々の、子ども時代の自分の話です。何となく自分が空を飛べるかも知れないという気になることが、たまにあった。

高いところから下を見ているとき、このままフワーッと空を飛んだら気持がいいだろうなと思い、本当に飛べるような気になることがあった。

高所恐怖症の人には分からないかも知れないが、高いところから下を眺めていると、怖いというよりそんな妄想が膨らむことがある。ここから飛び降りたらどうなるんだろうと漠然と思ったりした。

仙台で9歳の小学4年生の女子がマンションから転落したニュースをみて、ふとそんな昔を思った。この子は漠然とした思いを実際にやってみたのだろうか。もしそうだとしても、さほど意外ではない気がする。

9歳になれば危険かどうかは分かるはず、自分で手すりを超えるはずがないと誰もが思うだろうけれども、案外盲点かも知れない。

もちろん、軽々に推測を巡らすよりまずはしっかり捜査すべきだ。それでも大人の常識を超える現象もあるということは想定しておいた方がいい気がする。

靖国問題

2006年05月26日 | Weblog
外国から首相の靖国神社参拝に異議が寄せられるたびに、日本のマスコミは右往左往する。困ったことだ。

靖国には東條英機以下A級戦犯(戦争犯罪人)が合祀されている。これも、個人的には賛同しかねる。とくに、東條英機は日本を破滅の淵に追い込んだ張本人だ。

日本のタメに命を落とした人を祀るのが靖国神社だとすれば、やっぱりA級戦犯だけは分祀して欲しいと思う。国を滅ぼした張本人を、その犠牲になった300万人と一緒に祀るのはどうしても納得出来ない。

東條は、たとえば中野正剛に弾圧を加え自刃に追いやった。もっと航空機を作れと真っ当なことを書いた毎日新聞記者を徴兵し、危険な戦場やって戦死させた。

書けばいろいろある。要するに狭隘な猜疑心の持ち主で、彼のタメに死ななくてもいい優秀な人物が多数死地に追いやられた。

東條の孫がシャシャリ出てきてテレビでもっともらしい話をしていたが、笑止千万だ。東條だけは分祀してもらいたい。

その上で、外国からのこういう不愉快な干渉は断じて排除してもらいたいと思う。まして不当な口出しをする外国に、ヘラヘラ“友好”を求めに出かけるなどという愚かな政治家は総理になってもらいたくない。(写真は中野正剛)

モーツアルトと流行

2006年05月25日 | Weblog
昨日のNHK「ためしてガッテン」で取り上げた、「モーツアルトの音楽が動植物の成長を促進するという話」について、知人の音楽家がこう教えてくれた。

「ボクも見ましたよ。でも、あの議論は可笑しいのです。何故ならば、
あの時代、同じ作曲法で曲を作っていた作曲家がヨーロッパには、もの
凄く沢山いたのです。モーツアルトとそっくりな曲は、それこそ無数に
あります。例えば、J.S.バッハの一番下の息子、クリスチャン・バッハ
の交響曲などは、誰に聴かせても「モーツアルトでしょ?」と言います。
実際にモーツアルトはロンドンまで出かけて、彼に教わっています。有
名なハイドンもほぼ同じ技法です。モーツアルトは、ハイドンに感謝を
捧げる弦楽四重奏曲を沢山書いています。ハイドンセットと言います。

 それが、みんなトニック、ドミナント、サブドミナントを中心にして、
長調の曲中心で、時に短調で書く。作曲技法そのものが、バロックから
抜け出した当時の現代的流行だったのです。では、何故、無数の同工異
曲の作曲家の中で唯一、モーツアルトだけが天才!!(ボクもそう思います)
なのか?それに答えを出さないと、意味がない。ボクはそう思うのです。
モヤシや鶏やお酒に、その区別が出来るのか?(笑)」(M・T氏)

歴史上の事柄について、我々はよくこれと似たような過ちを犯す。例えばクラーク博士の「少年よ大志を抱け(Boys! Be ambitious!)」という言葉だ。

クラーク博士がこのように言ったことは間違いない。だがこれはクラーク博士のオリジナルではないのだ。

当時、日の出の勢いで急成長していたアメリカには進取の気が満ちていた。少年たちのあいだでは、「Be ambitious!」という言葉が流行していた。実際に当時のアメリカの新聞にはよくこの言葉が出てくる。

クラーク博士は、アメリカでよく使われていた元気のいい言葉を使って、札幌農学校の生徒たちを励ましたというわけだ。

現代人は、モーツアルトの曲相を彼だけのオリジナルと考えがちだが、当時流行の作曲技法を使ったものだというのは面白い指摘である。参考になる。