「誰が水を発見したのか知らないが、魚でないことだけは分かる」。人々が「環境」に無自覚でいることを言い表すためにマクルーハンがしばしば用いるフレーズである。日本人にとって魚の水にあたるものは、「間(ま)」であろう。我々は間にどっぷりつかって気づいていないが、間の外にいる西洋の知識人は、この日本独特の空間概念を日本文化を語る時のキーワードとして使う。間はspaceではない。西洋のspaceは、そこに何も無い空っぽの、視覚的偏重がつくり出したユークリッド的空間である。一方、間はspaceではなくspacingすなわち「間隔をとること」に近い。名詞というよりも動詞的である。そこは空っぽではなく相互作用に満たされた聴覚空間である。この空間に対する東西の知覚の違いが端的に現れているものは庭園設計である。ヨーロッパの幾何学的に組織された庭園を訪れたとき、我々はその視覚的な秩序美に圧倒されつつも、日本庭園で感じる「包まれる」ような感覚がないことにやがて物足りなさを感じる。「(西洋の)視覚空間は地を欠いた静的、抽象的な図として構築されている。(東洋の)聴覚空間はその内部で図と地が擦れ合いながら相互に生成変化し合うひとつの動体なのである」(「法則』)。右脳的圧力を強める電子情報環境は、西洋人を再び聴=触覚空間に回帰させつつある。西洋人はもはや視覚的均質性だけに満足できなくなっている。ジャパニーズ・クールへの傾倒はその一例であろう。
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nakazawayutaka_1958 | |
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著書:『哲学者マクルーハン』(講談社選書メチエ)、『マクルーハン・プレイ』(実業之日本社)
訳書:『メディアの法則』(NTT出版)、『ポストメディア論』(共訳/NTT出版) |